Red light, Green light


 宴会場に入ろうと歩いていると、見覚えのある男が扉から姿を現した。
 目的地を目指すようにまっすぐ前を見つめて力強く、しかし足音を消して色素の薄い髪を靡かせる歩き方に、口笛を吹きそうになる。
 空を彷彿とさせる澄んだ蒼い双眸は、いったいどこまで見透かしているんだろう。
 ディーノはマイクのスイッチを入れた。
「ネズミが行ったぞ、恭弥」
 瞼を閉じて返事を待つ。心の中で一、二、三と唱えていると、通信を受信する電子音が鳴った。
『――了解』
 その一言だけで通信が切れる。
 恭弥の声は、笑みを含んだものだった。

   * * *

 なまえは昴の元から逃げるように去り、了平と合流した。
「ごめんね了平」
「いや、大丈夫だ。それより、よかったのか?」
 遠くにいる昴を見ながら少し申し訳なさそうに訊いてくる了平に苦笑する。
「大丈夫。話はもう終わってたから」
「そうか? 相手は名残惜しそうにしていたが」
「一緒にいればいるほど根掘り葉掘り訊かれちゃいそうだから。どこかで抜け出せないかなってタイミング見計らってたの。だから助かった」
「それもそうだな」
 あのまま二人でいればどうなっていたことかと今更になって冷や冷やする。私情を優先することになり、作戦続行が不可能になっていたかも知れない。
 徐々に会場内がざわつき始め、出席者たちはわらわらとステージ周辺に集まっていく。それに伴い警察が慌ただしく動いていた。
「もうすぐ予告の時間?」
「ああ、セレモニー自体がもうすぐ終了になる。これまでキッドが現れていないところを見るに、司会者が終了の合図をするのと同時に姿を現す可能性が高いだろうな。警察の方も警戒は続けていたが、結局この時間までキッドが来ないところを踏まえると、そう考えているのが妥当だろう。
 ……だが、まだ大丈夫だ。お主を一人にはできぬからな」
「そんなに気にしなくてもいいのに。ディーノならもうすぐ来ると思うよ」
 そう固くならなくても、会場内にはディーノの部下が鳴りを潜めている。 キャバッローネの人々は、主に跳ね馬ディーノが作戦に支障をきたさないように、そして万が一の事態になった時のことを含めて各所に配置されているため、緊急時は動くだろう。そんな意味合いも込めて言葉を返すと「そうか?」と首を傾げられる。その顔が少しだけ可愛く思えて「そうだよ」と返事をした。
 しかしまだ不安な部分があるらしく、渋っている了平を見上げる。顔を正面から見た時は気づきにくいが、下から覗き込むように見ると、鼻の頭だけでなく顎にも絆創膏を貼っているのを発見した。
 真新しいそれに目を細める。
「そうだ。ねえ了平」
「ん? なんだ?」
「“雲雀くん”、見た?」
 了平はほんの少し眉を上げた後、斜め上に視線を向けた。髭に触れるように親指と人差し指で顎についた絆創膏を弄る。
 暫しの沈黙が二人の間に走る。
 じっと見つめていると、唇を『へ』の字にした了平は降参と言うように一度瞼を閉じてから、再びなまえに顔を向けた。
「いや? 俺が会場に来た時はいなかったぞ」
 恭弥の姿を見た記憶はないと言った了平に、なまえはゆるく微笑んだ。
「……群れるの嫌いだからね、仕方ないか。ロビーの方が静かだから、もしかしたらそっちにいるのかも」
 肩を落とすと了平は「確かにな」と頷いた。
 先程よりも周囲がそわそわし始めたのを感じ、了平はスーツの袖に隠れた腕時計を確認する。
「む。そろそろ時間だ。俺は持ち場につくぞ」
「うん、がんばってね」
「任せろ!」
 片手でガッツポーズをして了平は足早に担当場所へと向かって行った。
 今回、了平は主催者が募集したシークレットサービスに応募し採用試験を突破して、警察と協力して展示品をキッドに奪われないようにするとともにキッド捕獲に尽力する。採用された中でも了平は一番の腕利きと称され、最もオレンジスピネルに近い場所で警戒にあたる役目を担っていた。それは、こちらとしても非常にありがたい役回りだった。
 ここまで、すべて想定した通りに物事は進んでいた。どんなに小さな可能性でも、起こりそうだと考えられる未来はすべて考慮して作戦や対応の仕方を検討した甲斐がある。
「あ……」
 なまえはゆったりとこちらに歩いてくる人影に気づいた。
「よっ、なまえ。変なのに絡まれなかったか?」
 人影の正体は、片手をポケットに突っ込んでいるディーノだった。
「……おかげさまで」
 こちらがなにをしていたのか知っているのに笑みを浮かべるディーノに、思わず頬を膨らませてしまう。
「そんな顔してるってことは、俺の出した暗号に気づいたな?」
 お疲れさまとでも言うように頭をぽんぽんと力を入れずに叩かれる。そしてそのまま左耳まで手を滑らせると、耳朶を撫でられた。
『貴女のその翡翠色のピアスも、もっと近くで眺めたい』
 ディーノはクラーラとの会話をしながら彼女を執事から遠ざけることに成功したことを通信機で伝えてきたが、もう一つなまえにしかわからないメッセージを送っていた。仕事といえど痕をつけてしまったことを免じて、ディーノは『自分たちの会話を盗み聞きした不届き者がそちらに向かうかもしれない』というのを、クラーラのピアスの色を口にすることで違和感なく知らせたのだった。
 なまえがその言葉を受け取ったのが、ちょうどコナンと話している時だった。彼が「婚約者だったんだね、ディーノさん」と言葉を掛けてきたのと同時に、ディーノの声が流れてきたのだ。
 それに驚き、会話に一瞬不自然な間を与えてしまったのは今でも反省してる。すかさずアイスティーを口に流し、驚きを飲み込んで気持ちを切り替えた。
 その後はディーノがつけた痕を利用して言葉巧みに誘い込み、情報を手に入れて緻密に推理を組み立てようとするコナンの思考を邪魔することに成功。そして、ディーノが教えてくれた通り、昴がやって来た。
「上手くできたか?」
「……たぶん」
「突然来られるよりかは予め知ってた方が対処できるかと思ってさ。
 事前に合図を決めておいて正解だったな。最初はそこまでしなくてもと思ってたけど、まさか本当に使う時がくるとはな」
「うん、ありがとう……助かった」
 素直な感想だった。
 もしかしたら昴と話していた時、よそよそしい態度になってしまったかもしれない。いや、確実にそうだったと思う。
 平然を装うために仮面を被りながら話していた。それでも口から心臓が飛び出てしまいそうで、耳のすぐ近くでバクバクと自分の脈が速く打ちつけている音が響いていた。
 昴が来ることを知らなければ完全に挙動不審になっていたのは簡単に想像がつく。だから助かった。
 けれど――。
「ねえ、ディーノ」
「ん? どうした」
「私は……」
 耳の中で引っかかっている言葉。それは、何度も何度も扉を叩くように問いかけてくる。
『――君は、“だれ”だ?』
 以前まで問われてきた意味合いとは確実になにかが違う。口にした彼の様子から超直感が働かなくともすぐにわかった。
 ぎゅっと目を瞑り、ずっと頭の中で木霊している声を軽く頭を振って追い払う。
「ううん。なんでもない」
「そうか? なんかあったら言えよ」
 目尻を柔らかくするディーノを見て、バレているだろうなと自覚する。
 きっとディーノは、今思いつめていたことに気づいて声をかけてくれた。でも首を横に振ったから、なにも訊かずに気づかぬふりをしてくれたのだ。
 ディーノは以前まで聞きたがりで、なんでも手伝うといった姿勢だったのに、ある時を境にその様子があまり見られなくなった。いつからだろうと思い返してみると、米花に住んでから少しずつ過保護的なやりとりが減ってきたような気がする。特にディーノと恭弥にドレスを選んでもらった日は、ビアンキが二人を連れてきた時、絶対になにか訊かれると確信していた。けれどなにも訊かれず普段通りに接されて内心驚いた。ビアンキか恭弥がなにか言ったのかと思ったけれど、本当のところはどうなのかはわからない。
「そっちはどう?」
「バッチリ。元も取れたぜ」
 ニカッと白い歯を見せるディーノは満足げだった。
「あの子は?」
「部屋でお休み中」
「へぇ……遅かったのはお嬢様とお楽しみでもしたから?」
「なんだ嫉妬か?」
「違うよ、もう……」
 せっかくからかってみたのに、からかいを返されてしまい少しだけ頬を膨らました。にやついて顔を覗き込んできたディーノの胸を押して突っぱねる。
 ディーノは悪びれもせずカラカラと笑った。
「わかってるって。いやー、予想はしてたけど本当にボウズがちょこまか後ろ着いてきてさ。最初はさっさと撒こうとしたんだけどちょっと遊んでやろうと思って、クラーラに会う前にタワー館動きまくって撒いてやった」
「それはそれはお疲れ様。でも撒けただけすごいと思うよ。さすがだね、ボス」
「そうかー? ……そういやここに戻って来るとき、『ネズミ』が会場から出ていくのを見たよ」
 ――やっぱり聞いていたか。
 接触はしなかったものの、会場内で零からは一定の距離を保たれ様子を見られていた。
「私が『恭弥くんはきっとロビーとかにいるかも』って話したから。きっとこれから接触するんだろうね」
「アイツ、俺が展示されてるリングの前でボウズたちと話してる時、こっそり聞いてたんだぜ? よくやるよなあ」
 溜息をつきぼそりと「範疇外だろうに」と呟くディーノに失笑してしまった。
「ディーノにだって譲れないもの、あるでしょ?」
「まあ、確かにあるけどさ……。だって恭弥の件はアイツの範囲外のことだろ?」
 ディーノの言う通り、降谷零の公安での仕事は黒の組織での潜入捜査である。風紀財団の動向を追う捜査官は別にいるだろう。
「必死なんだよ」
 どんな手を使っても、なにがなんでも真相を掴み取ろうとする彼の熱意を思い出す。憎い男の顔を張りつけてまで死の真相を暴こうと探る姿勢は、覚悟がなければできることではない。
「俺、アイツ苦手かも」
 背中を丸めて首の後ろに手をやりながら困ったように口角をあげるディーノは、まるで日本人のようだった。
「どこらへんが?」
「幸薄そうなところ」
 視線を落としたディーノは暫くそのまま床を睨みつけていた。言いにくそうに下唇を軽く噛んだ後、ふっと息を吐き出してまっすぐ前を向く。
「――まるで、自分は幸せになっちゃいけないって無意識にでも思ってそうなところ」
 哀しそうに口元をゆるめる姿に目が離せなかった。
 どうしてここまでディーノは彼に対し眉をひそめることが多いのだろう。いや、彼だけではなく、米花で要注意とされている面々にもだ。
 気持ちはわからなくはない。それどころか、ディーノが考えていることは大方予想できる。
 でも、ここまで露骨に表さなくても――。
 ――いや、待って。
 とある疑問が頭をよぎった。
 ――これ、本当に降谷零に対してだけの言葉なのかな。
 なぜだか、降谷零に対してだけの言葉ではないと直感的に思えた。彼に対しての言葉だけなら、言いづらそうにしなくてもいいはずだ。本人はここにいないのだから、好き勝手に言えるじゃないか。
 ディーノの姿を踏まえると、降谷零に対しての言葉というよりも。
 ――まるで、親しい人に言いたくても言えないような……。
「もうすぐ二十一時だ! 全員、警戒を怠るな! キッドが来る可能性が高い!」
 中森警部の鋭い声が響き渡った。
 来賓者がざわつき始め、報道陣は再びカメラを構えた。時刻を見計らいステージに登壇した司会者はスタンドマイクの前に立つ。
 ディーノの手が腰に回されぐっと引き寄せられた。
「お前のことは傷ひとつつかないよう護ってみせるぜ」
「そんな大事にならないことを願うよ」
 司会者がセレモニー閉会の言葉を告げようと息を吸った途端。

 すべての光が消滅した。

   *

 風紀財団の活動が活発になっている。
 部下からそのような報告を受けたのは、宝石展覧会の一週間前だった。
 以前、金子重之の件で会議に参加した際、風紀財団の活動が勢力的になっているという話題になったが、聞くところによると今回はそれ以上の活発さが見られるらしい。
 並盛町だけでなく、様々な地域で風紀財団の目撃情報が上がっていた。彼らの出没場所と日付けを地図上に記してみると、並盛から出発して米花を目指すように動いていたことが判明した。
 出現時間は早朝や深夜といった人通りが少ない時間帯だったが、彼らが行っていることは並盛での活動内容とほぼ変わらなかった。それに伴い、ネット上では『風紀財団、他地域に参上』『ついに勢力拡大か!?』『東都は風紀財団の支配下になるんじゃないか』と一部のユーザーが面白おかしく自由に書き込んでおり、話題になっていた。
 一般人による知名度は暴力団よりも風紀財団の方が高いというのが、財団の動向を追っている部下の見解だった。財団は暴力団と同じ分類にしてもいいくらい過激な活動をしていることもある。しかし、雲雀恭弥を筆頭とした風紀指導が並盛町に長期的で安定した平穏をもたらしている。それを評価する者も少なくはないのだ。特に殺人事件の発生率が東都一番ともいえる米花町と比べては、警察組織を囃し立てるような意見も見られていた。
 そんな中、とある防犯カメラにそれは映っていた。
『……が宝石展覧会のセレモニーに出席されるらしいというのは本当ですか?』
『ああ。委員会時代から常々思っていたが……恭さんは本当に突拍子もない行動をなさる』
 映っていたのは、風紀財団に所属していると見られる二人組の男がポロッと口にした言葉。どうやら二人は風紀委員会の時から雲雀恭弥の元にいるようだった。
 文脈から、雲雀恭弥が宝石展覧会のセレモニーに出席することが読み取れた。彼に接触すれば、以前から悩まされていた気持ち悪さから解消されて、曖昧にされたままの銀行強盗事件の謎も、沢田なまえについても決定的ななにかが掴めるんじゃないか。
 そしてやってきた当日。
 事前に主催者側のサーバーをハッキングして来賓者リストを漁ったが、雲雀の名前は見当たらなかった。ホテルスタッフの名前も確認したが、どこにも記載されてなかった。
 しかしそこで意外な人物の名前を発見する。沢田なまえだ。宴会場でも、遠目で彼女が来ていることを確認した。
 なまえは雲雀と交流があるため、なにか情報をこぼすだろうと距離を保ったまま観察していた。すると、傍らの男が発した『婚約者』という言葉を読唇術で見抜く。雲雀が現れるかどうか気にしつつも、注意深く二人を観察した。
 事態が動いたのがその数十分後。令嬢にワインをかけられた男が袖を捲った時だ。
 捲った袖に隠れていたのは、炎をまとった馬や骸骨、太陽に浮かび上がった『C』や『BARACCA』という文字が描かれた刺青。ネクタイを緩めたことで襟元からもそれが覗いていて、どうやら左腕から左半身にかけてあしらわれていることがわかった。
 刺青だなんて初めて見たわけではない。組織の仕事で対面する相手は外国人も多く、これまで様々なものを見てきた。けれど、沢田なまえの婚約者だと名乗ったディーノという男の刺青が、ずっと脳裏にこびり付いて離れなかった。
 どこかで一度見たことがあるんじゃないかと記憶を遡っていると、ホテル側が雇った警備らしき鼻に絆創膏をつけている男と会話をしていたなまえの声が耳に入ってきた。
『……群れるの嫌いだからね。ロビーの方が静かだから、もしかしたらそっちにいるのかもしれないね』
 自然と体は会場を後にしていた。
 このホテルにはロビーがいくつかあるが、静かなところとなると、宴会場から離れている別の階にあるロビーと考えるのが妥当だろう。
 セレモニーが行われている階より下はラウンジやホテルショップ、レストランなとが併設されている。そして上の階には、本日使われていない宴会場がある。さらにその上の階にあるのはサロンや客室だった。また、連絡通路でつながっているタワー館にもロビーはあるが、あちらは客室も本館より多いし、宴会場も使われているため人気は多いだろう。
 そうすると、人が近づかず、かつ静かなロビーがあるのは一つだけ。
 人目を避けるために階段で一つ上の階へ上がると、予想した通りロビーは静寂に包まれていた。先程までいた場所とは打って変わって自分の呼吸しか聞こえてこない空間に、別次元にいるかのような感覚に陥りそうになる。
 体を慣らすように少しだけ歩き回る。
 装飾や壁紙は各階で異なっているらしい。赤色や金色といった暖かみのある色合いを使っていたセレモニーが行われている宴会場やロビーとは反対に、この階のロビーは青色や銀色が目立つ造りだった。きっと扉の向こう側にある宴会場の中も似た色合いをしているだろう。
 気分を落ち着かせる効果があるという青色に囲まれ、身体の中で一段と大きく響いている心臓が鎮まっていく感覚を覚える。しかし、このあと近いうちに訪れる展開を意識しただけで、再び身体は正直に反応する。
 ――来る。いや、来ないか? そんなはずは無い。ヤツは、雲雀恭弥は、必ずやって来る。
 呪文のように心の中で唱えたその時。
 ピンと張り詰めた空気は壊された。
「やあ」
 勢いよく後ろを振り向く。
 一メートルほど離れた場所に設置されたロビーチェアを挟んだ向こう側に、壁際に立ち肩を預けて腕を組む男がいた。
「君かい? 僕の周りをちょろちょろと嗅ぎ回るネズミは」
 ――気配を感じなかった。
 声を聞いたのは初めてだった。どんなに調べても、遠くからの写真でしか雲雀恭弥を撮影したものは見つからなかったから。
 週刊誌の中には暴力団関係者等の薄暗い要注意人物を取り上げる雑誌もあるが、風紀財団だけは一度もそれらに掲載されたことはない。数年前に隠密に取材しようと財団の者を尾行したり隠し撮りしたりした記者がいたが、身の毛もよだつような制裁を受けて病院送りとなったらしい。それ以来、報道関係者は風紀財団の話題を一切取り上げなくなったのだ。
「なんのことですか?」
「知ってるよ。君、『チヨダ』だろう」
「ッ……!」
 『チヨダ』。それは公安の別称だった。かつてはサクラ、四係とも呼ばれていたが、現在はゼロと呼ばれることが多い。『ゼロから出発しよう』『存在しない組織であれ』という意味が込められ、『ゼロ』というコードネームに改名されたのだ。
「『チヨダ』に目をつけられていることは以前から知っていたけど、まさか本当に僕に会うために今日ここにやってくるなんてね。驚いたよ」
 ギリッと奥歯が鳴った。
 どうやら取り繕うとするのは無駄らしい。さっさと話を進めた方がいいだろう。
 大きく肩を落とし前を向くと、口角は自然と引き上がった。
「そちらこそ、顔を利かせるのは『自治区』だけにしておけば良いのでは?」
 ――ああ、これじゃ『バーボン』じゃないか。今は違うのに。
「ていと銀行米花支店で起きた銀行強盗事件の数週間前から、裏でなにやら動き回っていたそうですね。まるで、なにかを探しているようだと耳にしました。
 そして銀行強盗事件の当日、杯戸町のショッピングモールの防犯カメラに風紀財団の者が映っているのを確認しました。ショッピングモールの通路に置かれた植木鉢を弄っていたようですが、なにかついていましたか? 例えば……金子印の爆弾とか」
 心の奥底に沈めた『探り屋バーボン』と呼ばれている部分が浮き上がってくる。今はバーボンとしてここにいるのではないのに。
 それなのに体は、そんなことはつゆ知らずと言うように、口からどんどん言葉が続いていく。止まらない。
「植木鉢に取りつけられていた爆弾を、財団が回収したのでは?
 銀行強盗事件から数日後、精神崩壊状態で金子重之は発見された。しかし、一旦警察病院に運ばれたものの、医療刑務所に収容されました。
 金子は強盗犯のメンバーに加わるはずだった。それなのに当日現れたのは金子ではなく全く別の女。だが、金子印は杯土町ショッピングモールに設置され、銀行で使用されるはずだった金子印は女が盗み逃走しています。そして今も女は行方不明」
 ――なんだこれ。心と体のバランスが取れていない。まるで仮面と本心が切り離されたみたいだ。
「教えていただけませんか。貴方たち風紀財団が、なぜ金子重之に関与しているのか。銀行強盗が起こる前、探し回っていたのは金子重之の居場所や動向ではないですか? また、行方不明の女というのも、風紀財団の人間なのでは?」
 長距離を全力で走った後のように息が上がりそうになる。
 会った時から微動だにせず黙っていた雲雀は、いつの間にか目を閉じていた。
「そこまでわかってるなら検討がつくんじゃない?」
 そう言い切ると息を吐き出して鬱陶しそうに瞼を上げる。
「最後だけ丸投げにするの? 笑えるね」
「っ……今月に入ってから、風紀財団の活動は身に余るものがある。並盛町だけではなく、他の地域でも財団の者が『風紀指導』をしていると報告されています。それも、米花を目指すように。
 目的はいったいなんだ。東都全域を支配下に置く気ですか。それとも、『自治区』以外は荒れているとでも言いたいのか」
 舌はどんどんは回るのに、頭の中はぐちゃぐちゃだった。条件反射のように言葉がとめどなくあふれていく。
 雲雀はなにを考えているのか読み取れない瞳をして、表情を全く変化させず口を開いた。
「だから?」
 ――だから、だと?
 質問には答えないどころか、肯定も否定もしないただ問いただす様子にカッとなった。話が噛み合っていない。
 雲雀は片手を持ち上げた。手を口の前に持っていく。咄嗟に身構えて動向を注視していると、彼がしたのは、あろうことか欠伸だった。
 ――馬鹿にしているのか……!?
 ゆったりと口を閉じて両目を瞬かせると、雲雀はこてんと首傾げる。
「君、暇なの?」
「なっ……!」
 壁から離れた雲雀はゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。
「随分情報をかき集めたんだろうけど、潜入捜査してるのにそんなことしてる暇があるんだって言ってるんだよ。『チヨダ』の中にも国内の暴力団や組織を監視してるやつだっているだろう。別に、君がやらなくてもいいんじゃないの」
 雲雀はこちらから二メートルほどの距離をあけてて立ち止まった。
「それなりの腕があるらしいから、どんなものかと思っていたけど……残念だよ」
 雲雀は期待はずれだと肩を落とす。
「いいことを教えてあげようか。僕が今日ここに出席すると情報を流すよう指示したのは、僕自身だよ。君が上手いこと引っかかってくれて安心した。
 君が僕に言いたいことがあったように、僕も君に言いたいことがあったんだ。君、チヨダの中でもそれなりの立場なんだろう? いい加減ネズミのように周りを走り回るのをやめるよう、部下に伝えておいてくれないかい。迷惑だ」
 溜息をついた雲雀は背中を向けようとした。
「目的は果たせたかい? 僕はもう言いたいことを言ったから、なにもないならこれで失礼するよ」
「っ、待て!」
 慌てて呼び止める。
 振り返った雲雀は口をへの字にさせて眉間に皺を寄せていた。
「なに」
「お前はっ――」
 続く言葉が見つからなかった。
 自分の心拍が聴こえるくらい、辺りの騒音がかき消されていた。
 ――俺は今、なにを言おうとしていた?
 じっと黙っていた雲雀が息を吸う音が聞こえた。
「早くしてくれないか。スケジュールが詰まっているんだ」
 頭が重い。体の中をなにかがぐるぐると巡っている。おかしい。なんで冷静を保てないんだ。なぜこんなに混乱しているんだ。落ち着け。俺は今日のためにここまで……。
「目的は僕だろう? これ以上付き合うのは遠慮させてもらうよ」
「まだ話は――」
「……それとも、なまえ?」
「ッ!」
 目を鋭くさせる雲雀にこめかみから冷や汗がたらりと流れる。
「ワォ、図星みたいだね」
 雲雀が好戦的な表情を浮かべた瞬間、空気が変わった。
 針山が肌に刺さったように空気が痛い。呼吸でさえ喉がヒリヒリとする。
「彼女に危害を加えるなら……」
 一歩一歩、絨毯を踏みしめて近づいてくる。
 後退ろうとしたのに、足が縫いつけられたみたいに動かなかった。鋭い瞳に目がそらせない。
 雲雀が指先で自身の袖に触れたかのように見えた次の瞬間、大きく腕を動かした。
「――咬み殺すよ」
 ぶわっと風にもよく似た空気が圧のように身体を押した。
 圧迫感に眼だけをそろりと動かすと、首元にはトンファーが添えられていた。唾も飲み込めない状況にただただ身体は硬直してしまう。
 髪の毛の一本一本まで空気がビリビリとしているのを感じた。それは、表の世界で生きているならば絶対に感じないもの。組織の仕事でもここまでのものを味わったことはない。
 紛れもなく、雲雀恭弥からかもしだされているそれは、殺気だった。
「……ッ」
 心臓が震えた。
 雲雀はつまらなそうに息を吐き出すと、音も立てずに離れ、背を向けて歩き出した。
 トンファーが添えられた首元に触れて呼吸を整える。
「ああそうだ。一つ、訊きたいことがあるんだけど」
 思い出したように声を漏らした雲雀は立ち止まり顔だけ振り返った。
「いま僕と話していたのは、いったいどの『顔』をつけた君なんだい?」
 今まで辛うじて口角をあげていたのが、なにも感じていないような表情を浮かべて淡々と言い放つ。
「……まあいいや。それじゃあ、くれぐれも君の部下によろしくと伝えておいてくれないかい。頼んだよ」
 雲雀はそれだけ言い残し、肩で風を切るように去っていった。
「は、……」
 雲雀が完全にいなくなったのを確認し、ふらふらとした足取りで後退りをする。背中が壁にぶつかると、どっと緊張が抜けてその場に座り込んだ。
 右手を目の高さまで持ち上げると、面白いくらい震えていた。
「……ふ、ははっ」
 力のない笑いが口からこぼれていく。
 ――どの『顔』、か。
 指摘された言葉を思い出す。
 自分ですらわからなくなっていた。降谷零としてここに来たはずなのに、バーボンのような振る舞いをしていることに気づいた。内心慌てて直そうとすれば今度は安室透のような口調になってしまう。彼ら二人が交互に顔を出してきて、いつしか降谷零として話しているのか、バーボンや安室透として話してしまっているのか自分自身でも区別がつかなくなっていた。
 右手で両目を覆い、真っ暗な天井を見上げる。
「なんだっていうんだ……本当」
 自分から漏れた声はひどく情けないものだった。
 結局、わかったことは、雲雀恭弥を敵に回すと厄介だということ。そして、彼が沢田なまえを特別に想っていること。
 たったのそれだけだった。

   *

『面白いものが見られるから、一緒にこない?』
 そうなまえに誘われて首を傾げたのは当たり前だと思う。だって、宝石展覧会のセレモニーだなんて自分にまったく縁がないものだから。
 正一も協力したという、宝石見本市の一件。あとから聞いた話だったが、なまえの勘の鋭さが事件解決の糸口になったらしい。追っていたリングが日本で開かれる宝石展覧会に展示されるということで、アメリカでのリング回収後、ボンゴレ内は慌ただしく動いていた。
 つくづく思うが、あの姉弟の超直感にはいつも驚かされる。特になまえのそれは、まるで本当に未来が見えているんじゃないかと何度も疑ってしまうほどだ。
 正一も関わったらしいから少しだけ興味があったけど、慣れない場所に行くくらいなら正一から話を聞いた方がはやい。それになまえの言う『面白いもの』というのも、具体性に欠けていてあまり関心は引かれない。そういった理由からセレモニーに出席する話は断ろうとした。
 でもなまえのことだから、きっとこちらが断るとわかっていると確信していた。それにも関わらず、最初に情報すべてを教えるわけでもなく、少しずつヒントを出すみたいに話を進めていくんだがら、心の隅っこでタチが悪いと思わずにはいられないのだ。
 断ろうとした時だって、口を開こうとした瞬間、彼女は笑った。
『乗り気じゃないかもしれないけど、もしかしたらインスピレーションが湧くかもしれないよ。この日はね――』
 続いたなまえの言葉はすごく魅力的で、いつの間にか首を縦に振った。
 今日着ているものは、普段はあまり着ない、見るからに高そうなスーツ。これはなまえたちが用意してくれたものだった。受け取った時は堅苦しそうで唇を尖らせたけれど、少し動いてみたら体にフィットして動きやすかった。まあ、作業着には劣るけれど。
 なにかあった時のためにと特注で作ったという説明に、なるほどと頷いたけど、いざ当日そんなことが起きたら面倒だなというのが正直なところだった。
 インスピレーションは、新しいものから刺激を受けることが多い。この『新しいもの』というのは、初めて見るものや聞くもの、触れるもの、そして今まで出会ったことのないようなものである。また、今まで親しんできたものでも、新しい視点からそれを見つめた時に再発見したことも『新しいもの』に含まれる。
『きっと、気に入ると思うよ』
 ――うん、俺もそう思う。
 あらかじめ設定しておいた生体反応がコンタクトディスプレイに映し出され、脳裏に浮かんだなまえに返事をした。
 このコンタクトディスプレイは、元々は十年後の自分が綱吉に提供した技術だった。一見するとコンタクトレンズにしか見えないが、装着したヘッドフォンと音声で連動しており、オペレーションシステムが視覚的情報や状況を音声で知らせてくれたり、戦闘時にサポートしてくれたりする。現在のものは、それを元に改良を加えさらにパワーアップさせたのだ。
 もちろん自信作の一つとも言えるこれは、今回はワイヤレスの通信機とマイクに連動している。実は、通信機は発信機としての役割も担っていて、通信機を持っている各自の居場所も把握が可能だった。キッドが放った白煙の中ではなにも見えなくなるが、このコンタクトディスプレイはそんなもの敵じゃない。煙が充満するこの室内のどこに目当ての人物がいるのかなんてことは、すぐにわかってしまうのだ。
 今回作戦に参加する自分を含めた作戦実行主要メンバーの“九名”は、全員コンタクトディスプレイを両眼につけて、通信機とマイクを忍ばせている。こういう場で使ってもらえると、利用者の感想から改善点が浮き彫りになったり、もっとこうしたいという欲がでてきたりするので大変ありがたい。
 そして今日は、それらに加えて新たな知見にも触れられるのだ。正直、わくわくしていて気を抜くと頬がゆるみそうだった。
 気を引き締めて、コンタクトディスプレイに提示されている生体反応に向けて息を殺しながら足を運ぶ。本当は今すぐにでも走りだしてすぐさま触ってみたいけど、こういうのはドッキリ企画のように相手を驚かして隙をつくるほうが面白いとなまえが教えてくれた。
 眼鏡の縁に指を這わせてレンズを見つめている標的の背中は、警察よりも頼もしく見えた。
 確か、発信機から二〇キロ以内なら居場所を特定できるんだっけ。充電式で盗聴機能もついている。跳ね馬ディーノのスーツにつけた発信機はシールのようになっていた。きっといつも肌身離さず持ち歩いているんだろう。
 そうこうしているうちに標的の背中はもう目の前というところまできた。
 そのまま背後から忍び寄り、顔を覗いた。
「へー、これが追跡眼鏡ね」
「!?」
 驚きながらも逃げようとする細い腕を捕まえて、両肩をがしりと掴む。目と鼻の先まで顔を近づかせ、眼鏡を観察した。
「……うん、よくできてる。さすが阿笠博士の発明品だ」
「お、お兄さん、阿笠博士のこと知ってるの!?」
 頭の中はキッド一色だっただろうに、博士の名前を出した瞬間目の色を変えた。
 ――よし、掴みはオッケーかな。
「ウチ、ロボット工学専攻してるからね。阿笠博士の発明品はどれも面白いからよく知ってる。学会で知り合ってからメールでやりとりしてるんだ。そのベルトと蝶ネクタイも、発明品だろう?」
「なっ、そこまで知って……!?」
「発想がおもしろいよね、追跡眼鏡。盗聴機能もついてる優れもの。まるでスパイ映画だ。でも――」
 こっちだって負けてない。
 小さな名探偵の大きな瞳に映った自分は、ギラギラとした眼をしていた。
「――ウチはその上をいく」
「その上……?」
 コンタクトディスプレイに目の前にいる少年とは違った、新しい反応が示される。
 それと関連して、ジジッと耳元で通信機が鳴り、次の作戦に移行する旨が伝えられた。察しが良いらしい小さな探偵に気づかれないように、追跡眼鏡を凝視する姿勢を決め込んで通信を聞き届ける。
 ――やっぱりなまえはすごいな。
 想定通りの動きをする標的や作戦が滞りなく進んでいくことを告げた通信は電子音を鳴らして切れた。作戦立案者たちの手腕に舌を巻く。
 なまえが言うには、ウチの役目は重要らしい。
「ちょっと見せてくれない? すごいな……解体したくなる。でもここじゃよく見えないな。少しやりにくいし……」
「お、お兄さん眼鏡返して! 僕それがないと見えない!」
「この眼鏡、度が入ってないのに? そうだ、部屋をとってあるんだ。そっちに行こう」
「えっちょ、ま、待って!」
 追跡眼鏡を観察しつつ、空いている手の人差し指を立ててコナンの唇に当てる。
「大丈夫、悪いようにはしないから。あっでも解体中にインスピレーション湧いてきて改造しちゃったらごめん。なるべくそうならないように気をつけるけど」
「わっ!? 待ってお兄さんどこ行く気!? キッド見失っちゃ――んぅ!?」
「ちょっと静かにしててね。誘拐犯になった気分だから。キッドなら警察とシークレットサービスがなんとかするよ」
 コナンの口を覆って周囲の注意を引かないようにする。騒然としていても小さな子どもの声は耳に入りやすいから注意しないといけない。
「あっそれと、ウチのことは『お兄さん』じゃなくて『スパナ』って呼んで。ちなみに漢字で書くと……まあ、これは後でもいいか」
 警察らのバタバタと慌てる足音や怒号を聞きながらコナンを脇に抱え上げ、まだ白煙がはびこる室内を誰にも見つからないように進んでいった。

   * * *

 見事“無事に”キッドがクィリーノファミリーのリングを盗んだことを通信で確認し、ほっと胸をなでおろす。
 スパナの方も上手く江戸川コナンを宴会場から遠ざけて事前にとっておいた部屋に連れ込み、キッド追跡を阻止することに成功した。通信機から聴こえてくるスパナの楽しそうな声とコナンの慌て様は頬を緩めてしまいそうになる。警備システムの技術提供に、学会を機に阿笠博士の知り合いになっただなんて、上手い嘘をスパナも考えたものだ。
 最もらしい嘘をついてすぐに発明品に目を向けてしまえば、あの工藤新一といえどスパナを止めるのは難しい。彼の発明品にかける情熱は、身をもって体感したからよくわかる。
 クラーラの執事を案内していたベルボーイは、医務室に到着すると扉をノックして入室した。
「失礼します。クラーラ様の執事の方をお連れしました」
「ありがとうございます。彼女は今、奥のベッドでお休みになられてますよ」
 出入り口からは死角となっているため、医師の声のみ聞こえてきた。今手が放せないため代わりに案内してもらえないかと言う医師に「わかりました」と返す。
「クラーラ様はあちらでお休みになられています」
 手を添えてベッドの位置を伝えると、執事は案内された通りに奥に進んでいく。ベッドの前につくと、小さな声でクラーラに一言断りを入れてカーテンを開けた。
「お嬢様――っ!? お嬢様!? どちらにいらっしゃるんですか!?」
 執事は焦ったように他のベッドのカーテンも開けてクラーラを探す。しかし、クラーラどころか医務室を利用している病人は一人も見当たらなかった。
「どういうことだ !? どこにもいないじゃないか!」
「どうもこうも、まんまと引っかかるそっちがいけねーんだろ」
 奥から医師がやって来る。
「お前は確か……スモーキンボム!」
 白衣を着て医師に成りすました隼人が、取り外した眼鏡を胸ポケットにしまいながら姿を現した。
 執事は隼人の正体に驚くもすぐに顔を険しくし、医務室から抜け出そうと出入口に向かった。
 ――無駄だよ。
 そう心の中でつぶやき、被っていた帽子を脱いで軽く頭を振る。ぺしゃんこになっていた髪の毛が復活するみたいにふわりと揺れた。
「無駄だぜ。その扉は外から野球馬鹿が鍵かけたからな」
「クソッ……ぐっ!? 離せ!」
 隼人が後ろから執事を足で突き飛ばし、床にうつ伏せにさせた。胸元から銃を取り出そうとした腕をすかさず掴んで背中に回させ、起き上がらないようのしかかった。
「血相変えてルドヴィコの奴らに連絡してたらしいじゃねえか。跳ね馬の刺青とその婚約者がつけてたピンクダイヤでこっちの目論見に気づいたか?」
「スモーキンボムということは……っ! おいおい勘弁してくれ……。お前達は――」
「ボンゴレとクィリーノファミリーは先代の頃から親交があった」
 一歩前に出て言葉を遮るように口を開くと、執事はサッと顔を青くした。
 クィリーノファミリーのボスとは十代目就任当初、九代目も交えて一度だけ面会したことがある。
「クィリーノは小規模だったが、情に満ちた懐の広いファミリーだった。
 そんな彼らが謎の襲撃に遭い、一人の若者を残してファミリーは全滅。受け継がれたリングも盗まれてしまった」
 当時クィリーノのボスは、幹部とその若者を連れて、人懐こい笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。そわそわと落ち着かない様子の若者が目に留まり、彼も幹部なのかと小声で訊くと、ボスはこっそり教えてくれた。
『ここだけの話にしてくださいよ? 実は……継がせるならアイツがいいと思ってるんです』
 「今日はその第一歩、社会勉強の一環として連れてきた」と人差し指で照れくさそうに鼻の下を触れたクィリーノのボスに、彼らのさらに明るい未来を感じた。
 窓の向こうにあるボンゴレ本部の庭園で、ボスが戻ってくるのを待ちつつクィリーノの幹部たちに可愛がられている若者の光景が、今でも目に焼きついている。裏社会に身を置く彼らにも、涙がでるほど優しい世界がそこにはあったのだ。
 それなのに。
「貴様がルドヴィコと繋がっていること、そして、グラツィアーノ社が薬を扱ったことにに関与していることはすべて調べがついている」
 襲撃時、ファミリーを守ろうと立ち向かっていた人々がどんな葛藤を抱き散っていったのか。若者がどんな思いで命からがらリングを屋敷から運び出したのか。目の前の男にそんなことを問いただしたって、なに一つ知らないと言われるだけだろう。
 ポケットから取り出したものを手に装着する。
 執事は震えあがった。
「そのグローブは……! なぜお前がっ!?」
 ふつふつと腹の底からなにかが燃え上がるように身体中を駆け巡る。それなのに脳みそはひどく冷静だった。事前に練った作戦と通信機越しに聴こえてくる報告から、推測される現状を照らし合わせたものが頭の中でこと細かくジオラマのように再現されている。
 未だ作戦を変更しなければならない事態は起きていなかった。これに関しては、作戦を立案した人々の手腕に流石としか言いようがない。
 ――やっぱり、なまえはすごい。俺の自慢だ。
 彼女はきっと、一連の事件に関して、俺と同じ気持ちになっただろう。基本的にボンゴレに関わる人々とそれ以外の人々を分別しているところがあるなまえも、クィリーノ襲撃事件の詳細を聞いた時には心を痛め、力になりたいという気持ちを強くしたという。
 また、そんななまえの意を汲んだ恭弥が、なにかと気にかけたり協力したりする姿勢が見られたと、アメリカでリングを回収した数日後に正一が教えてくれた。
 恭弥が積極的に今回の作戦に関わっているのも、キッドや降谷といった接触したい人物がいる他に、少なからずなまえの希望を叶えてあげたいという気持ちがあるからだ。あの人は見ているこっちが照れくさくなってしまうくらいなまえを大切に思っている。それも、実の弟である俺が嫉妬してしまうくらいに。
 恭弥だけじゃない。ディーノにスパナ、隼人や武、それに“アイツ”も。この作戦に関わっているすべての人が、なにかしら感じ考えることがあり、自分の意思で今日参加している。
 一人ひとりの思いは決して目に見えないけれど、それは視線や仕草といった行動、そして言葉から垣間見えるのだ。だからこそ、人と関わるという行為はかけがえのないことであると同時にとても難しい。血が繋がっていても、互いがとても仲がいいと思っていても所詮は他人である。すれ違うこともあれば衝突することもある。関係がこじれた結果、縁が切れてしまうことだってあるし、最悪の場合、憎悪を向ける対象にだってなりうるのだ。
 これまで様々な人と出会い、対話し、時に衝突を繰り返してきたけど、未だにどうすれば良い関係を築けるのか、維持できるのかについてはわからなかった。ある日ぽつりとそんな独り言を拾った家庭教師は「そういうもんだ」と含みのある笑みを浮かべていたっけ。
 そんな俺とは正反対に、なまえは非常にその能力が秀でていた。それも、本当に自分と血が繋がっているのか疑ってしまうほどに。でも、なまえは俺よりも母さんに似ているところがあるし、気質ということもあるかもしれない。もしかしたら、まだ母さんのお腹の中にいるとき、なまえが俺の分まで取っていっちゃったのかも。
 とにもかくにも、俺はまだまだ未熟だから、尚更のこと伸ばされた手はなにがなんでも握り返したい。
 瞼を閉じれば、今でも悲痛な助けを求めてきたクィリーノの若者の顔が鮮明に思い浮かぶ。
『お願いします、助けてください……! 貴方しか、……ボスもファミリーも、もう……っ』
 幸い、俺には助けを求める声が聞こえる。話を聞くことができる。
 そしてこの両拳は、誰かのために、力になれることだってできる。
『――俺、もう貴方にしか、頼れないんです……! 助けてください!』
 俺一人ではできることが少ないけど、誰かと力を合わせれば、仲間と協力すれば、叶えられる願いだってあるんだ。
 だから――。
「知っていることは、すべて話してもらう」
 優しい世界になるように。
 人のあたたかさに気づき、それを尊ぶことができる世界になるように。
「くそっ……ボンゴレデーチモ……!」
 ――この腐った世界をぶっ壊すためにも。
 忌々しく睨みつけてくる執事を、綱吉は凍てつく瞳で見下ろした。

17,06.01