Hide and Seek


 スパナと名乗った男に部屋に連れて行かれたコナンは、そこで散々な思いをした。
 どういう経緯で博士が発明したのか教えろ、だの、実際に使ってみろ、だの。抜け出す暇を探せないくらいの勢いで、無理難題を押し付けられる。そして、腕時計型麻酔銃や蝶ネクタイ型変成機、追跡眼鏡や探偵バッジ、キック力増強シューズまで弄られまくった。逃げ出そうとスパナから一瞬でも目を離すと解体しようとするのだ。いい加減にしてくれという言葉を何度も口に出してしまいそうになった。
 しかし、所持している全ての発明品の説明を終えると、スパナは「インスピレーションが浮かんだ」と言ってパソコンに作業に没頭し始めた。その隙にこっそりと抜け出してきたのだ。
 部屋を抜け出して真っ先にエレベーターに向かったが、キッド捕獲のためなのかエレベーターはすべて使用不可となっていた。
「チッ……クソ!」
 エレベーターが使えないのならば階段で行くしかない。
 階段を探したコナンは駆け足で登っていった。
 ――間違いない。キッドはあの男だ。
 スパナに翻弄されながらも、頭の片隅ではずっとキッドの怪盗ショウとも呼べる盗みのトリックを暴き続けていた。そして、一つの真相にたどり着いたのだ。
 会場内、ステージ上での光景を思い出す。最もオレンジスピネルに近い場所に配置されていたのは、あの男だった。あの距離ならば停電の中、指輪を盗むことは容易い。
 でも、そうしたら知人であるあの人は絶対に気づくはずだ。それも一瞬のうちに。
 これまで“直感”と言って様々な場面でフォローに回ったりしていた彼女が、キッドの変装に気づかないわけがない。初期の段階で犯人を見抜いているくらいだ。今回に限って直感が働かないというのは考えられない。
 ならば、わざと気づかないふりをしていたというのか? 一体なんのために。変装したキッドに気づきそれを警察に伝えたらなにか支障が出るとでもいうのか?
 そこまで考えると、ある言葉がふっと頭をよぎった。
『盗品が扱われたなんて知られたら……』
「っ、まさか!」
 ――盗品の件に関係してるとしたら!?
 なんでだ、彼女は一般人だろう。
 いやでも、そう考えれば話は繋がるかもしれない。
 キッドが予告状を寄越したオレンジスピネルが盗品だったとする。彼女はキッドの変装を見抜いていたのに、あえてそのことを口にしなかった。そしてキッドは停電時に変装した状態のまま指輪を盗み、怪盗キッドが現れたように細工を施した。
 それ以降はスパナに連れていかれたため状況はわからないが、おそらくキッドは混乱に乗じて違和感なく会場から抜け出し、外へ向かうはずだ。
 キッドが誰にも邪魔されずに逃げ出せる場所。それはつまり、屋上だ。
 ――急がないと、キッドに逃げられちまう!
 なまえが盗品に関係しているのかどうかは、きっと屋上に行けばわかるだろう。関わっているのならば、わざわざキッドに指輪を盗ませて終わるはずがない。きっとどこかで接触するはずだ。
 こんな時にスケボーがあればいいのに。生憎、相棒は小五郎の車の中で留守番中だった。
「クソッ、まだ屋上に着かねえのか!」
 こういう時に、手足が短くなってしまったことを後悔する。
 あと二階分階段を登れば屋上に差し掛かる。もう少し、もう少しだ。
「これはっ……!?」
 それは、踊り場にあと二段で差し掛かるという場所にあった。
 壁につけられた傷。なにか硬いものが擦れたような跡であることま一目瞭然だった。指でなぞってみると、小さな粒のような、紙切れのようなものが付着する。壁の塗装が剥がれ落ちたもののようだった。まだ新しい。どうやらこの数時間のうちに傷がついたらしい。
 ――なるほど。
 視線は自然と足元へ落ちた。最近できた傷ならば、それを裏付ける物的証拠があるはずだ。
「やっぱり……!」
 自然と口角があがる。
 見つけたものは、壁の傷と合わせて、誰かが階段を通ったことを物語っていた。

 コツ、コツコツ

 不意に足音が聞こえてきた。これはたぶん、革靴の音。

 コツコツ、コツコツコツ

 背後からだ。それもだんだん近づいてくる。階段を登ってきているのだ。
 ここは隠れる場所などどこにもない。速くなる心拍と近づいてくる足音が重なる。
 コナンは腕時計を握りしめた。

   *

 屋上へ続く重い扉を了平が開けると、ギィッと音が鳴り、風が流れ込んできた。
 屋上に足を踏み入れると、小さな庭園のように緑が溢れていた。中央には泉を模したようなソーラーパネルが置かれている。どうやら緑化運動に力を入れているらしい。
 ソラーパネルを横切り、さらに奥へと進んでいく。すたすたと歩いていると、了平は後ろから着いてきた。
「やはり部屋に戻った方がよかったのではないか? さっきも階段でふらついただろう」
「ううん。ここが良かったの。……ごめんね。あの時、腕時計が壁にぶつかっちゃったよね?」
「大丈夫だ。それより寒くはないか?」
「大丈夫。風に当たりたかったし、それに――」
 言葉を続けようとすると、一際強い風が甲高い音を立てて了平との間を走っていった。なびくスカートの裾と乱れる髪を押さえる。
 それが過ぎると、次第に風は緩やかになっていった。
 スカートと髪に触れていた手を下ろす。
「屋上の方が、“いざという時に逃げやすいでしょ”?」
「ん?」
 眉をひそめてよく聞こえなかったと首を傾げる彼に、頬が緩んだ。仕草一つひとつから了平らしさがにじみ出ている。
「ねえ、“了平”。そろそろいいんじゃない?」
「……なんのことだ?」
 ここまできて白を切るつもりなのだろうか。もう取り繕う必要はないというのに。笑いが込み上げてきてしまう。
「もういいよ」
 なまえは了平との距離をつめた。
 目を丸くしている姿に笑みがこぼれる。少し背伸びをしてさらに詰め寄ると、肩に力が入り身を引こうとした。片手を厚い胸板に置いて支えとして、もう片方で了平の顎に貼ってある絆創膏をそっと撫でた。
 そして次の瞬間、一思いに絆創膏を剥がしたのだった。
「っ! いきなりなにをするのだ!」
 顎に手を当てて痛がる姿に、さらに頬が緩んだ。
 一瞬見えた絆創膏の下の肌には、傷が一つもついていなかったのだ。
「あれれ、顎の傷はどうしたの? 新しくできた弟弟子の修行をみてあげた時につけちゃったやつ。最近できた傷だから、まだ跡が残ってると思ったんだけど。不思議だなあ。それに……」
 なまえは両手を滑らせるように了平の両肩に手を置くと、踵を上げて耳元に唇を寄せた。
「了平は二人っきりのとき、“なまえ”って呼んでくれるんだよ」
 息を呑む音がすぐ傍で聞こえる。
 なまえが囁いた言葉、それが合図だった。
「極限ー!!」
「っ、なに!?」
 大声と共に屋上出入り口の扉が音を立てて開く。
「よくも俺の身ぐるみを剥がしてくれたな! 極限にぷんすこだぞ!」
 そこには、白いTシャツにジャージを穿いた、“了平”そっくりの男が現れた。“了平”のそっくりさんは、ずんずんとこちらに近づいて来る。
 なまえは“了平”に寄せていた体を離し、距離をとって振り返った。
「ちゃんと我慢できたね、了平」
「ああ。無線で状況を聴いていて何度も出ていきたくなったんだがな……極限に耐えてみせたぞ!」
「技をお見舞いするかと思ってひやひやしちゃったよ」
「流石にそんなことはしない。一般人にそれをするのは酷というものだろう」
 からかいの意味も含めて話すと、了平は腕を組んで首を振った。確かに、一般人に技を振るうというのは酷すぎるし、きっと修理代は綱吉が持つことになってしまう。
 中学生の時と比べ、了平は周囲の状況を把握する力や冷静に対応する力が格段に伸びていた。しかし、ボクシングを愛する気持ちや他者に真摯に関わる姿勢は依然として変わらない。だからこそ、事前に黒羽快斗と接触する人間は了平になったのだ。
「本人も来たことだし......もうその顔、剥がしていいよ。怪盗キッド」
 キッドと呼ばれた“了平”は自嘲気味に笑みを漏らした。
「仕組まれていた、ということですか」
「さすが知能指数が四百と言われているだけあるね。話が早くて助かるよ」
「お褒めに預かり光栄です」
 “了平”は目を瞑り肩をすくめる。
「それで? こんな手の込んだことをなさって......」
 言葉を続けながら後ろに数歩下がり距離をとった。
 “了平”が右耳の付け根に左手を持っていき、ぐっと力を入れた。軌跡で弧を描くように腕を大きく左半身の方へ動かす。
「あなた方はいったい――」
 小さく音を立てながら顔が剥がれていく。
「なにが目的なんです?」
 完全に了平の顔が剥がれ、本来の素顔が現れる。幼さの残る整った顔立ちに挑戦的な笑みを浮かべた彼の声は、既に了平のものではなくなっていた。
 そこには、正真正銘の怪盗キッドがいたのである。

   *

 コナンがごくりと唾を飲み込んだ時、階段を登ってきて現れたのは警備員の格好をした男だった。
「ボウヤ! どうしたんだい、ここは立ち入り禁止だよ」
 警備員は駆け寄ってくると、身を屈めて目線の高さを近づけさせた。
「ねえ、屋上って立入禁止なの?」
「ああ。危ないからね。スタッフでもあまりここには来ないんだ。……さあ、君もはやく戻ろう。保護者の方も心配する」
 警備員が手をつなごうと腕を伸ばしてくる。
 今、捕まるわけにはいかない。あと少しで屋上にたどり着けるのだ。
 コナンは後ろに下がって警備員と距離をとった。
「ちょっと待って! スタッフでもあまりここに来ないのに、どうして屋上に続いている階段に登った跡があるの?」
「え? どういうことだい?」
「ほら、見てよここ。この壁の部分、なにか硬いものが掠った跡だよ。触ると剥がれた塗装が指につくんだ。最近、きっとここ数時間のうちについた傷だよ」
 触れて見せてみると、警備員は倣うように壁の傷に指を這わせ確認した。
「本当だ。確かに新しい傷みたいだね」
「でしょ? きっと、誰かが上に行ったんだ。ほら見てあそこ。階段の埃が舞って隅に寄ってる。一人が歩いてもここまで埃は済に寄らない。誰か、それも数人がここを通って埃が動いたんだよ。スタッフでもあまり来ないなら、壁に傷もつかないし、埃も隅に寄らないよね」
 屋上へ続く階段は、普段スタッフさえ通ることがない。ということは、ホテルに泊まる客ですら怪しい。この非常時に屋上を利用しようとするのは、キッドしかいない。
「すごいなボウヤ、まるで探偵みたいだ!」
 警備員は舌を巻いたとでも言うように顔をほころばせた。
「それで、君は屋上に行ったのが誰かというのも検討がついているのかい?」
「それは……」
 言っていいのだろうか。
 言えばあとは警察に任せようとこの場を強制的に離れてしまうんじゃないだろうか。
 ここまで来たのに、あと一歩のところで手が届かず終わるのか?
 舌打ちをしそうになっていると、警備員は聞き慣れない笑い声をあげた。
「ああ、言わなくてもいいよ。わかってるから」
「えっ……それ、どういうこと!?」
 警備員は屈めていた体を元に戻して見下ろしてきた。その瞳は、先ほど話を聞いてくれていた時に宿っていた光は失われている。
 鼻から上とその下の表情がまるでバラバラだ。唇は笑みを浮かべているのに、眼は全くと言っていいほど微笑んでいなかった。
「こういうことわざを知っていますか? “好奇心は猫を殺す”。君なら知っているでしょう。ねえ、江戸川コナン。……いいえ――工藤新一」
「ッ!?」
 警備員の口調が変わった途端、一瞬で空気が冷たくなった。そして、薄い唇から自分の名前が出ると、周囲の空気が鋭く肌に突き刺さった。
 そうだ、これはまるで、あの時と同じ。盗聴機でディーノとなまえの会話を盗み聞いた時、彼から放たれたもの――殺気だ。
「クッフフフ……」
 男は、怪しげな笑みを浮かべていた。

(つづく)

17,06.25