迷い込んだ路地へと


 ぴかぴか輝く艶のある白米に、ふわりと湯気を立たせる出汁が効いた味噌汁。昨夜の晩ご飯の残りである肉じゃがを電子レンジに入れ、温めている間に漬けてあった野菜を出す。
 朝食の準備が整い一息つき、時計を見ると七時三〇分。
 二十七歳院生(仮)な三十路もそこそこなFBI捜査官が、こうも毎日ぐうたらな生活を送っているのはどうなのだろう。
 なまえは、エプロンを外して椅子にかけてキッチンを出た。きっとまた書斎でバーボン片手に読書でもしてる内に寝落ちしたであろう、寝ぼすけさんを起こしに行くためだ。
 彼、沖矢昴――基、赤井秀一は、FBI時代はどういう生活を送っていたのだろう。古い記憶を思い起こしてみる。確か、車の中で腕を組んでじっとしているような、居眠りをしているような姿があったような気がする。
 FBI捜査官、さらには日本に極秘で来ているともなれば、多忙な事は深く考えなくても察することが出来る。たぶん、食べられる時に食べる、眠れる時に眠るというような生活を送っていたこともあるだろう。それを踏まえれば、沖矢昴としてこの工藤邸で生活している今、悪い言い方をすればだらけた生活、良い言い方をすれば自由に時間を使えていると考えられる。しかし、この隠れ家でのんびりと生活できている、ある意味隠居生活と呼べるこの生活スタイルをずっと続けるというのはいくらなんでも不健康につながりそうだ。
 今の沖矢昴の生活スタイルを例えるならば、遅寝遅起き昼ごはんといったところだろうか。
 目先の道楽に囚われて、同居人がいることを忘れないでいただきたい。なんちゃって。
 なまえは書斎の扉前に到着すると、一応ノックを三回する。たぶんまだ寝ているから聞こえないだろうけど。
「昴さん、入りますよ」
 極力音を立てずに扉を開けて入室する。すると、やっぱり。
「また寝落ち……」
 机の上には、溶けた氷で色が薄くなった、バーボンが少量入ったグラスに、きっと読みかけであろう開いたままの洋書。グラスの下には小さな水溜りができている。机に染みてしまうからグラスを置きっぱなしにするのはやめてほしい。机がカビたらどうしてくれるんだ。今度コースターでも作って使ってもらうしかない。
 なまえは若干呆れつつ、椅子に座ったまま机についた腕を枕にして顔を乗せて眠る昴に視線を移した。
「眼鏡は……今日は外したんだね」
 ほぼ毎日ここで寝落ちする習慣、どうにかならないかな。一昨日、眼鏡が曲がってしまいました……なんて、寝跡がついた顔でシュンとしてるから、思わず噴き出してしまった。これに関しては私は悪くない。ベッドで寝るか眼鏡を外して寝ない昴がいけない。
「昴さん、おはようございます。朝ですよ、おはよー。起きてください」
 書斎のカーテンを開けて朝日が部屋に入るようにする。
「……おはようございます。今、何時ですか?」
「はい、おはようございます。早起きできましたね、七時四十五分ですよ」
「……まだ八時にもなってない」
 時刻を聞いた瞬間に昴は眉間にシワを寄せ前髪を鬱陶しそうにかき上げた。絶対まだ寝れると思っただろ。バレてるぞ。
 まだ半分眠りの世界にいながら目をしょぼしょぼと擦っている姿が弟にそっくりで微笑ましい。昴も、中の人の赤井も、自分よりいくつか年上だ。けれど、リボーンが家庭教師としてやって来る前の綱吉を見ているようで、母性本能がくすぐられる。なんだか放っておけなくてなってしまっている。まるで大きな弟ができたようだ。
 頭をガシガシ掻きながら眼鏡をかける昴が妙に可愛らしく見えて、思わず腕を伸ばして数回頭を撫でた。驚きのあまりピタッと止まってみ見つめてくる昴の顔に、微かに寝跡がついていて、笑いがこみ上げてきそうになった。
 これ以上笑いを耐え切れる自信がないと判断して、昴の頭から手を退ける。机の上に置かれたままの空の瓶とグラスを持った。
「朝ごはん、一緒に食べましょ?」
 顔洗って来てくださいねと付け加えて書斎を出る。後ろから小さく眠い……という呟きが聞こえて口角を上げた。
 なまえが帰国して、ちょうど一週間が経とうとしていた。

   * * *

 空港からの帰り。昴の車で工藤邸に帰宅したなまえは、荷物を一先ずリビングに運び入れると、パタパタとスリッパの音を立てて浴槽に湯を張りに行った。車を車庫に納め玄関に入った時、ちょうどスキップしながらリビングに戻るなまえの後ろ姿を昴は見かけた。
「そこまで楽しみにしていたのか……」
「あっ昴さん! お土産あるんですよ!」
 昴の呟きは、リビングの扉から顔を出し手招きをするなまえにかき消される。
 呼ばれるがままに、昴はゆっくりとそちらへ足を向けた。
 リビングに入ると、なまえはキャリーケースを開けて買ってきた土産をテーブルに並べていた。キャリーの中身がほとんど土産なことに昴は唖然とする。衣類等が全く見当たらないのだ。
「イタリアでは毎回知り合いの家で過ごしているので、洋服とかは持っていかないんです。おかげでお土産がいっぱい入りました」
「……声に出してましたか?」
「昴さん意外とわかりやすいんですね。顔に書いてありましたよ、洋服見当たらないけどなんでだろうって」
 楽しそうに笑いながら整理をするなまえを昴は観察する。
 彼女の洞察力は予想していた以上に秀でている。うっかりボロが出ないようにしなければならないな、と昴は気を引き締める。しかし、なまえがさもそれが同然のように昴をありのまま認め、詮索する様子を見せないため、まだ出会って数時間しか経過してないのに危機意識が薄れつつある。
 なまえならば大丈夫だと、なぜか無意識に判断を下している自分がいた。
「昴さんにはこれです!」
「ホォー……バーボンですか」
「あっちの友人が、酒をお土産にするなら絶対これがいいと教えてくれたので、バーボンにしました。飲めますか?」
「ええ。最近ハマってるんです。ありがとうございます」
「それはよかった……!」
 安心したように息をつくなまえを視界に入れながら、昴は受け取ったバーボンの瓶を見つめた。どうやらなかなか値打ちがある物のようで、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。
 なまえはペンケースの中から付箋とペンを取り出し、何かを書き込み包装された土産に貼っていった。
「……そちらは?」
「これは阿笠さんと少年探偵団の子と、コナンくんと哀ちゃんと真純ちゃんの分です」
 渡す相手を間違わないようにと名前が書かれ、貼られた付箋紙。しかし、改めて見るとこんなに渡す相手がいるのかと昴は目を丸くした。
「リクエストもらっちゃった分と、私がいいなと思って買ってきたものなんですけど……」
 阿笠にはパスタとパスタソース、少年探偵団の3人にはチョコレートやクッキー等のお菓子、コナンには頼まれた洋書のミステリー本、哀にはバレッタ、真純には腕時計だとなまえは説明した。
 真純とも交流があるのか……。昴は意外な接点に目を細めた。
「しかしこんなに買われて、高かったのでは?」
「大丈夫です。お金あんまり使うことがないので、こういう時に使わないと。それに、お店を回っていると、この商品はあの人が気に入りそうだなとか、あの人がこれを使ってたらきっと似合うだろうなとか色々考えが浮かんできて、ついつい手を伸ばしちゃうんです」
 語られたものは誰しも一度は経験したことがある内容だった。しかし、何故だろう。なまえが話すと、それは当たり前だけれどとても大事なことのように聞こえてくる。
 なまえは今まで秀一が出会ったことのないタイプの人間だった。FBIきっての切れ者だと評価され頼られてきた経験があっても、人付き合いやコミュニケーション力に関しては他の人間と何ら変わらないと自負している。彼女とどう向き合い接していくかが今後の課題だと、昴は頭の中のメモに走り書きをした。
 荷物整理を終えたなまえはさて、と前置きをして昴に向き合った。
「昴さんとこれから生活する上で、色々決めなきゃいけませんね」
 ソファに座り直したなまえに、昴は足を組み彼女の話に耳を傾けた。
「お家ルール……じゃないですけど……。先に決めておいた方がこの先スムーズに生活できると思うんです。干渉してほしくないと言うのなら、それに撤します。家事や掃除等、分担した方がいいと言うのなら分担を決めます。食事の事もありますし。昴さんの意向に従いますよ」
 勝手に当番を組まれるかと思っていたため、なまえの申し出に昴は一瞬戸惑った。まるでこの工藤邸で生活をする権限があるのは沖矢昴で、沢田なまえはあくまでそこにお邪魔する形となった人間とでも言うかのような関係性ではないか。
「どうしてそこまで、こちらに判断を委ねるんです? 先にここで生活をしていたのは貴女だ。貴女に決定権があるのでは?」
 昴に問いかけられ、なまえは口を閉じ、視線を落とした。言っても良いか、言わないべきか。視線を左右に数回揺らし、返す言葉を心に決める。真っ直ぐ昴の顔に向き直し、笑みを浮かべた。
「私より、昴さんの方が何かと忙しそうですから」
 大学院生ですし、となまえは付け加える。今はここまでしか言えないと心の中で呟く。これ以上介入するようなことを言えば、初日で関係性はマイナスからのスタートだ。それは今後の生活に影響を与えかねない。
 一方的に昴の素性を知るなまえは、あらゆる場面で彼に協力したいと思っていた。けれど、考えていた通り、素知らぬ顔をしてさりげなくフォローをするような形が現段階で一番望ましいかもしれない。
 昴は何かを探るような視線を寄越したが、諦めがついたのか暫くすると納得した様に頷いた。
「そうですね……。僕も居候という立場ですし……共同生活を楽しんでみたい気持ちもあります」
 言葉には表さないが、昴が光熱費等のことを指している事になまえは何となく察しがついた。
 上手くいった、と握っていた手の力を緩める。
「わかりました。じゃあ、分担等決めていきましょうか」
 紙とペンを取り出し、可能な限り分けられる分担を書き出そうとしたところで、チャイムが鳴り響いた。
 昴が時計に目を移すと、時刻は十六時を過ぎている。きっとこれは小学校帰りのボウヤだと予想がついた。
「もしかしたらコナンくんかも……」
 なまえが携帯を確認すると、数十分前にコナンから工藤邸に行くといった内容の新着メッセージが届いていた。
「それでは、また夜に決めましょうか」
「そうですね」
 二人は約束をして、コナンを出迎えに玄関へ向かった。
 迎えられたコナンは、頼んでいた洋書をなまえから受け取ると、おやつをご馳走になりつつイタリアでの土産話を昴と共に聞いて過ごした。
 その晩、なまえが作った夕食を食べたながら、家事分担を決めた。
 昴は料理をした経験があまりないということで、当分の間はなまえの担当になる。洗濯物は、洗濯は2人分まとめて行うが、干す時は下着は各々が、それ以外は昴が担当することとなった。掃除やごみ捨ては当番制となり、翌日から分担通りに家事を行うことが決定した。
 昴はこの時、なまえが食事当番になるという本当の意味を知らなかったのだ。
 翌日から、昴は早寝早起きの習慣をつけるよう、毎日のようになまえから言われることとなる。

16,08.20