Hide and Seek


 まるで、心臓が握りつぶされたようだった。体の奥底からぶるりと震える。
「よく言うでしょう。“君は知りすぎた”、と」
 誰だこいつ。警備員じゃない。
 警備員だったら、俺が工藤新一だということを知らない。いや、警備員でも、だ。一般人が知っているはずないのに。
 ――この男は誰なんだ? まさか、組織のヤツなのか!?
 ジンにウォッカ、それにベルモットといったように、外国人が多い。日本人がいないということではないだろうが、様々な国籍の人々が入り交じる組織だ。俺が知らないだけで、きっと日本人だって組織の構成員はいることだろう。
「混乱しているようですね。無理もないでしょう。警備員だと思ってた男が、自身の本当の名前を知っていたんですから。
 ああ、ちなみに僕は、君が言う“組織”には所属していません。すぐに最悪の場合を考えられることは認めてあげますが、全てのことにおいて首を突っ込みたがる姿勢には賛同できませんね。虫唾が走る」
 男の言葉は敬語であるのに鋭利なナイフみたいだった。
「まあ、“知りすぎた”と言っても、君にはそれほど重要なことは知られてはいません。まだ」
 ――まだ?
 どういうことだ。今の時点でまだと言うのなら、これから先に知られるということか。それではやはり、屋上ではなにかが行われていて、この男はそれを知っているというのか。
「流石は名探偵と呼ばれてることだけありますね。君の賢さには舌を巻きますよ」
「っ……!」
 まるで考えていることを読んだみたいに男はこちらの思考を言い当てた。
「ですが、ちょろちょろと動かれては迷惑なんです」
 男はゆっくり距離を詰めてくる。
 後退ろうとしたのに体が動かない。目が、逸らせない。
 男が微かに目を見開くと、瞳が揺れ、そして。
 ――なんだ、片目が赤く……!
 男が美しい笑みを浮かべた気がした。
「少しの間、大人しくしていてもらいましょうか」

 ――“六”。

 最後に見えたのは、赤色に変わった瞳に浮かび上がる漢数字。
 その文字を最後に、コナンの意識は完全に途切れた。

   *

 姿を現した怪盗キッドは、不敵な笑みを浮かべながらこちらの様子を伺っているようだった。
「君が盗んだその指輪、それはビッグジュエルじゃないよ」
 どこに隠れていたのか、姿を現した恭弥が悠然と歩いてきた。
「君が欲しがっているのはこっち」
 恭弥はポケットからルビーの指輪を取り出してキッドに見せた。
「……どういうことですか?」
「今回の宝石展覧会で盗品が扱われたと匿名での通報が入ってね。警察が事情聴取に来てたんだよ」
「その盗品が、今私が持っているこの指輪だと?」
 キッドは胸元からオレンジスピネルの指輪を取り出しこちらに見せるように掲げた。
「その指輪はヒューストンでの宝石見本市に出品される際、恭弥くんが持っている本物の指輪とすり替えられた偽物だよ。証拠は全て私たちが調べたから嘘じゃない」
 訝しげな表情をするキッドに恭弥が口を開いた。
「確認してご覧。さっきも言った通り、それはビッグジュエリーじゃない。ましてや、パンドラなんてものでもないよ」
「っ! なんで!?」
「そんなにパンドラを手に入れたいの? 不老不死にでもなるつもりかい? それとも、父親の死の真相を解き明かしたい?」
「っ……何者なんだ、貴方は」
「言っておくけど、僕は君の父親の死の真相は興味が無いよ、黒羽快斗」
「ッ!」
 キッドは驚愕した。
 恭弥はその様子に気にせず淡々と話を続ける。
「僕はパンドラに興味があったから調べただけ。そうしたら勝手に黒羽盗一と君の情報が出てきただけだよ」
 恭弥が今日キッドに接触したのは、どうやら彼がどこまでパンドラについて把握している上で怪盗キッドとして活動しているのかを確認するためだったらしい。
 恭弥はルビーの指輪をキッドに投げた。
 それをキッドは片手で掴み、目を細めてじっと指輪を観察する。
「……なるほど。このオレンジスピネルも、ルビーも、私が求めている物ではなかったようです」
 そうして残念そうに呟いた。
「ねえ、キッド。お願いがあるの。その本物の指輪、貴方から宝石展覧会に返しておいてくれないかな?」
「なぜ私にその役目を?」
「盗品が扱われたこと、結構広まっちゃってるみたいだから。キッドが本物を取り返して展覧会に戻してくれれば、偽物を取り扱った主催者側よりもキッドに注目が集まるでしょ? ……私たちが欲しかったのはその指輪だけだから」
 キッドはオレンジスピネルを月に照らすよう頭上に掲げた後、こちらに視線を向けた。
「このオレンジスピネル、あなた方にとってよほど価値のあるものなんでしょうか?」
「うん、そうだね。……とっても大事な、宝物なんだ」
 オレンジスピネルのリングは、クィリーノファミリーが存在したという唯一の証であり、クィリーノの青年にとっては唯一ファミリーとの繋がりだろう。
 微かに目を見開いた年相応の表情をするキッドが可愛らしくて笑みがこぼれる。
 その時、唐突に耳の奥で電子音が鳴った。すると、たどたどしい謝罪が聴こえてくる。
「……スパナが失敗したようだな」
 聞き漏らさないよう耳元を押さえた了平が通信内容を要約した。
「充分だよ。あの好奇心の塊を相手にここまでじっとさせておいたなんて。それに、こっちももう終わるしね」
「……名探偵?」
 キッドから零れた小さい言葉に恭弥は目を見張る。
「ワォ。さすがだね。もう少ししたらここにやって来ると思うよ」
「最後の最後で追い詰められたくないでしょ?」
 キッドは少し沈黙した後、ふっと息を吐き出して笑みを浮かべた。
「……わかりました。それではこのオレンジスピネルは貴女にお返しいたします」
 キッドが指輪を持って近づいてくる。返してくれるのだとこちらからも彼に歩み寄った。
 目の前にやってきたキッドに左手をすくい取られる。すると、薬指にはめていたピンクダイヤの指輪をすっと抜かれた。
「だ、だめ! それは!」
 声を挙げるとキッドはすり替えるようにオレンジスピネルのリングを薬指に嵌める。そのまま左手を持ち上げて唇を落とすかのようにリップ音を鳴らした。
「偽りの婚約指輪なんて、貴女には似合いませんよ」
 目を見開く。偽装婚約ということを、彼は見抜いていたのだろうか。
「返して、それは大事な……!」
 マントを翻してキッドは二、三歩下がり、降参のポーズをとるように両腕を上げて手の平を見せた。そこにはピンクダイヤの指輪が見当たらない。
「大切なものは、大事に閉まっておかなければ」
 そうしてキッドは自分のジャケットのポケットをとんとんと指で叩く。
 まさかと思ってドレスのポケットに片手を突っ込むと、指先に硬いものが触れる感触がした。ぎゅっと指でそれを挟みポケットから引き抜くと、それはキッドに取られたピンクダイヤの指輪だった。
「いつの間に……」
 キッド得意げに口角を上げた。
「――それでは、ごきげんよう」
 キッドは消えるように屋上から飛び降りる。次の瞬間、白いハングライダーが現れ遠くに飛んでいった。
 キッドを遠くへ飛ばすように今日一番の強い風が吹く。
 身を縮こませると、後ろから肩にジャケットを掛けられた。驚いて後ろを向くと、シャツにネクタイを締めただけの恭弥が立っていた。
「着て」
「いいの?」
「これからもっと寒くなる」
「ありがとう、恭弥くん」
 礼を言って、くるまるようにジャケットの前部分を引き寄せた。
「聞いてはいたが、本当にキザな男だったなあ」
「すごいよね。……若い子たちに人気があるわけだよ」
 ジャケットに腕を通すと、まだ恭弥のぬくもりが残っているようで温かかった。
「……なまえはあんなのがいいのかい?」
 ――あれ、なんだか不機嫌になってる?
 恭弥に顔を向けると、じっとこちらを見つめてくる瞳と視線が交わった。
 違うという意味を込めて顔の前で手を振った。指先まであった袖が肘近くまでずり落ちる。
「いやいや……それに私もう若くないから、」
 “今の子たちみたいにキャーキャーしないよ”、と続けようとしたら、突然横から了平の唾が飛んできた。
「なにを言っておる! なまえは充分若いだろう!」
「えっ、いや、あの……なんだろう、精神的な意味で……?」
「確かになまえは妙に達観しているところがあるな! この間も茶柱が立っていると喜んでいただろ」
「えっ、それは関係ないよ! 遠回しに年寄り臭いって言ってる! 恭弥くんだって茶柱立ってたらちょっと嬉しくなったりするよね!?」
 了平の勢いに負けないようにしながら恭弥に賛同を促すと、恭弥はこくりと首を縦に振った。
「ほら! 私だけじゃないよ!」
「しかし雲雀も年齢不詳だしなあ」
「私は年齢不詳じゃ、んぅ――っ」
 反論していると突然、了平が手のひらを口に押し付けてきた。なんだと思って眼だけで見上げると、了平と隣にいる恭弥はそれまでと打って変わって真剣な表情を浮かべていた。
 気分を落ち着かせて集中すると、屋上に近づく気配に気づく。誰だろうと考えていると、了平と恭弥は扉を凝視するのをやめてふっと息を吐き出した。
「……来たね」
 恭弥が呟くと、タイミングよく扉が開かれた。

   *

 真っ暗闇の中、ふわっと水から浮き上がるような感覚を覚えた。
「――ヤ、……」
 誰かの声が聞こえる。
「……、か……ヤ……」
 誰だろう。だめだ、頭の中がふわふわしている。
 考えようとしても、うまく思考が働かない。
「ボウヤ!」
「ん、う……あれ?」
「大丈夫か。どうした。こんなところで寝ていて」
「寝て……? あれ、ぼく……どうして?」
「いったいなにがあったんだ」
 思い出そうとすると、階段を上っていたところまでの記憶しかない。まるで霧がかかっているようにそれ以降のことが思い出せなかった。
 でも、一つだけ脳裏に焼き付いたものがある。
「あ、か……」
「ん? 赤? 赤がどうしたんだ」
「赤色、が……あれ? なんだろう……」
 昴が訝しげに眉を寄せたのが視線を向けずともわかった。いつの間にか自分の眉間も昴と同じようになっている。
 燃え上がるような赤色が、頭にこびりついて離れなかった。

   * * *

 時刻は既に二十三時を回っていた。
 キッドからリングを奪い返したなまえたち、執事を追い詰めた綱吉たち、そしてディーノやスパナ等、作戦に関わった主要メンバー全員がスウィートルームに集まっていた。
 通信機で随時それぞれの状況は知っていたが、このスイートルームで現状を見守っていたリボーンも立ち合いのもと、改めて全体を通した報告をして情報を共有した。そして、翌日以降のクラーラに関する内容や、今後ルトヴィコファミリーについて議論しなければならないことを確認し、お開きとった。
 報告が終わると、スパナは「続きをする」と言って、部屋へ駆けて行った。報告が始まるギリギリになってスイートルームに来たスパナは、コナンを連れ込んだ部屋に置いてあった自前の機材等を自室として宛がわれている部屋に運び戻している途中だったらしい。
 このスイートルーム以外にも、最上階にある部屋はすべて綱吉たちが借りており、割り当てられた各部屋で各々過ごしながら今日に向けて準備を進めてきたのだ。
 室内では、腹が空いたと言い始めた武と了平がルームサービスを頼むからと食べたいものを聞いて回り、ディーノが挙げられたメニューをまとめていた。遠慮なしに次々とあがる料理名に耳を傾けていると、洋食や和食、デザートまで様々で、最終的にかなりの注文数になっていた。さすが青年が何人もいるだけのことはある。
 メニューを見せてもらいながら食べたいものを伝え終えると、なまえは窓際にいる骸に近寄り話しかけた。
「今日、むっくんがいてくれて本当に助かったよ。まさか来てくれるとは思ってなかった! つっくんは知ってたの?」
 振り返ってソファーに座る綱吉に訊く。どうして教えてくれなかったのかという意味を視線に込めて綱吉の回答を待つ。
 綱吉はくたびれた顔でふにゃりと表情を緩めた。
「作戦のことは一応話しておいたんだ。そしたら興味深そうな顔してたから、もしかしたらって思ってたけど……。助かったよ骸。工藤新一が抜け出しちゃったって、予想してたよりも早くスパナから連絡が入った時はどうしようかと思った」
「君の慌てふためいた通信には失笑しましたよ、沢田綱吉。しかし、僕は君から連絡が入ったから動いたのではありません。その時はすでに先回りしていましたからね」
「なんだよそれ! というか、作戦始まってから土壇場で参加しておいて警備員に憑依するとか用意周到すぎるよ!」
 綱吉の言う通り、骸は今日、セレモニーが始まってから突然ホテルに姿を現し、作戦に参加する意をリボーンに伝えたらしい。そしてリボーンとスパナから通信機一式を受け取ると、これから自分がなにをするのかも伝えずに去って行ったという。
 他と比べ対策が不十分だったと報告の際に反省としても出た意見である、屋上へ続く階段。そこへ警備員として出向き、コナンを引き留めて記憶を改ざんし、気を失ったコナンを宴会場前のロビーのソファーに寝かせておいたらしい。
「僕は僕のルート、やり方でこの作戦に参加したまでですよ」
「さすがむっくん!」
 そういうところが霧っぽいなと感激していると、手袋を引き抜いた骸の手に頬をそっと撫でられた。
「クフフ……僕はきみのためならどんなことだってしますよ、なまえ」
「ありがとう。私もむっくんのためならなんだってできちゃうよ」
「本当ですか? なまえにそう言って頂けるなんて、これほど嬉しいことはありませんね」
 そうやって二人してにこにこしていると、ギスギスとした視線が骸に突き刺さっていることに気がつく。眼だけを動かしてその視線の持ち主を探すと、眉間に皺を寄せた恭弥が骸を睨みつけていた。
「…………」
「おやおや、母親を取られて駄々をこねる子どもですか? 雲雀恭弥。なまえは君の母親ではないですよ」
「……殺す」
 恭弥がすくっと立ち上がりトンファーを川えると、綱吉が恭弥と骸の間に飛んできた。
「ああもう! やめてくださいよ! この部屋高いんだから! 修繕費どうなると思ってんですか! 雲雀さんと骸はなんでいっつもこうなんだ……なまえからもなんか言ってよ!」
「二人とも相変わらず仲良いねー」
「この状況でなんでその言葉が出てくるの!? 火に油注いでどうするのさ!」
 慌てながらも突っ込みは欠かさない綱吉に、余計に頬が緩んでしまう。毎度のことながら、骸が恭弥をからかって、それが気に食わない恭弥が反撃しようとしているようにしか見えない。
 恭弥はしかめっ面をしてなまえに顔を向けた。
「よくない」
「残念ですねえ」
 骸の言葉を聞くと恭弥はキッと睨みつけて背中を向けた。スタスタと離れていき、一人がけのソファーに腰を下ろして眉間に皺を寄せたまま腕を組んで目を瞑った。
「もう……恭弥くん、拗ねちゃったよ」
「おやおや。仕方が無いですねえ」
 からかいすぎだと咎めると、骸は呆れたように笑い、ルームサービスを注文しているディーノとその隣にいる武のもとへ向かう。そこで一言、二言会話を交えていた。骸の話を聞き、ディーノや武は笑いながら指でオーケーサインをつくったり頷いたりしている。
 何食わぬ顔で戻ってきた骸は、「そういえば」と話を振ってきた。
「なまえ、M・Mから言伝を預っていますよ。『私があげたもの、ちゃんと使ってるんでしょうね』と」
「エッ」
 M・Mとは、綱吉と骸が闘っていた時に知り合った、骸の仲間である女の子のことである。「金がすべて」「男は金」だと豪語しており、当時は資金目的で骸に協力していた。そのため綱吉たちとは敵対関係にあったが、骸が綱吉の霧の守護者になったことがきっかけとなったのか、現在まで交流が続いている。
 M・Mが話したのは、以前「買ったけどサイズが合わなかったから、なまえちゃんにあげるわ」と押し付けられるように貰ったワインレッドの下着のことだった。
 未だに着用していないそれは、あろうことか“勝負下着”と称され他人に見られてしまったのだ。M・Mには悪いが、それ以来、絶対に見つからないように奥深くで眠ってもらっている。
「『なまえのことだから使ってないだろうけど』、とも言ってましたよ」
「……はい、その通りです」
「いったいなにを貰ったんです?」
 首を傾げて訊いてくる骸に、うっと言葉が詰まる。なるべく隠し事はしたくないけれど、こればかりはさすがに恥ずかしくて言えない。
「……秘密」
 たっぷり時間を掛けた割にはひどく簡素な返答になってしまった。普段だったらうまく言い訳できるはずなのに。
 骸はきょとんとした後「そうですか」と笑い、なにも訊いてくることはなかった。
「ピーター・パンは元気?」
「ああ、彼ですか。元気ですよ。そうですね……最近は髭を剃りました」
 久々に会えたためここで会話を終わらせてしまうのは少し寂しいと思い話を振る。すると、骸は思い返すように顎に指をあてて考え込んだ後、ピーター・パンの近況を教えてくれた。
「髭?」
「ええ。以前久しく泥酔した日がありましてね……。その時に、酔った勢いでクロームに頬擦りをしたら、『痛い。ジョリジョリする。近づかないで』と、言われましてね」
「……わあ」
「クロームもその時の事はうろ覚えらしいですか……。それからというもの、あの男は髭の手入れに力を入れてますよ」
「それは……っ」
「なまえ、大丈夫です。ここに彼はいないのだから声に出して笑っても」
「っ、ふふっ……なにそれ、面白すぎるっ……!」
 “じわじわくる”とは、まさにこのことを言うのだろうか。
 ピーター・パンのチャームポイントである無精髭が、酔っていたとはいえクロームの一言で消え去った。
「クロームもあの男を気に入っているようですしね。なんでもできるので、良い雑用係になってますよ」
「確かになんでもできるよね、彼。でも、髭……剃っちゃうなんて……っ」
 いい加減、口元を押さえて笑いを抑えようと試みるけれど、それは難しかった。どうしてもクロームに言われてショックを受けるピーター・パンの姿を想像してしまう。
「それにしてもなまえ、がんばりましたね」
「ん?」
「演技を磨きましたね、流石です」
「本当!?」
 不意打ちの言葉に、思わず胸の前で両手を組んで握って骸に詰め寄ってしまう。
 一呼吸見つめられる。突然、骸は笑いを吹き出した。
「――ふはっ」
「え? なに? なんか変だった?」
「いえ、変ではなくて……充分可愛らしいなと思って」
 骸の言っていることがわからず首を傾げていると、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「けれど、階段でふらついて怪盗キッドに支えられたでしょう。その時に腕時計が壁を傷つけたらしく、工藤新一が気づいていましたよ」
「えっ! 嘘!」
「残念ながら本当です」
「こ、こわ……怖い……」
 骸は視線で皆がいるソファーに座ろうと促した。
「……もうハイヒールは履かない。今決めた」
「残念ですね、せっかく似合っていたのに」
「……そうやってむっくんは私を甘やかすんだ」
 既にソファーでは、恭弥と了平、それに隼人が寛いでいた。空いている二人掛けのソファーに骸とともに腰を下ろす。
 恭弥が向かいの席に座っている了平に話しかけた。
「ねえ、あの男は最近どう?」
「あの男? 誰のことだ? もしかして、弟弟子のカールのことか!? 俺のこの傷はカールがつけたものでな! ヤツは将来有望だぞ!」
 カールというのは、ルドヴィコファミリー唯一の生き残りである青年のことだった。驚異的な回復力で体を動かせるようになったカールは、もっと強くなりたいと、ちょうどその時ボンゴレ本部を訪れていたコロネロに弟子入りした。すると既にルドヴィコの話を耳にしていたコロネロは快く聞き入れ、そして自分の手が空いていない時は、兄弟子である了平に稽古をつけてもらうよう伝えたらしい。
 カールの決意に感激した了平は、時間ができると積極的に様子を見に行きつつ、稽古をつけている。了平の顎の傷は、稽古中にカールがつけたものだった。その時のことを了平は「懇親の一撃だった」と、カールの成長ぶりを嬉しそうに語る。
「違う。君がリングを回収した時、怪我させたやつのことだよ」
「怪我させた……? おお! ヘンゼルか! もう怪我も完治して本格的に復帰したらしいぞ!」
 恭弥は了平の返事を聞くと眉を上げた。
「へえ。ちょうど身体が鈍ってたところなんだ。相手してもらおうかな」
 骸が空いているソファに腰を落ち着ける。
「おやおや、ご老体ですか。さすがは年齢非公開なだけありますね」
「……その前にこいつをなんとかしよう」
「テメーらここでやんじゃねえ! やるなら外でやれ! 十代目のお名前で部屋借りてんだぞ!」
「そうだそうだ! それにやるなら俺も混ぜろ!」
「っんでテメエまでやる気になるんだ芝生頭!」
 再び骸が恭弥をからかうように言葉を掛けたことにより、隼人の怒号が飛び、了平が嬉々として仲間に入ろうと宣言した。綱吉が別室にいるため、“この場をなんとかしなければ、自分は右腕失格である”という意識が強いらしい隼人の唾が飛ぶ。
 骸と肩を並べてその様子を見守っていると、丁度いいタイミングで隼人の助っ人が登場した。
「恭弥! うどん届いたぜー! 伸びる前に食べちまえよ! あとハンバーグもあるぞ!」
「おっ、骸のチョコケーキとアップルパイも届いたみたいだぜ!」
 玄関扉からディーノと武がルームサービスが届いたと報告をして、恭弥と骸の関心を食べ物に向かせる。
「私、つっくんとリボーン呼んでくるね」
 ピタリと止まった恭弥を尻目に、骸に声を掛けてまだ別室にいる綱吉とリボーンを呼びに行く。
 きっと奥の部屋だろうと推測してそこへ向かうと、少しだけ開いた扉から疲れた顔でネクタイ緩めてる綱吉を見つけた。
 声を掛けようと思ったが、少しピリピリとした空気に気配を殺して様子を見守ることにする。
 綱吉は、ベッドに腰掛けるとカーテンを閉めていない窓の外を見つめた。
「どーすんだツナ。あの執事、情報だけ抜きだして返すつもりか? それとも、二重スパイにでも仕立て上げるつもりか?」
 リボーンの姿は扉の隙間からは見えなかったが、一緒にいることは予想していた。
 近くの壁に背中を預けて会話を盗み聞く。
「…………」
「まさかあの執事、パニックを起こしてすぐ気絶しちまうとはな。情報を吐かせるのは明日になるだろうが……どちらにせよ、いずれルドヴィコと対立するかもしれねーぞ」
「表面化してないだけで対立してるだろ、実際。あんなことしておいて、受け入れられるわけがない」
「……まあ、幸いなことにクラーラの滞在は明後日までだ。明日は観光でもするんだろう。昼間クラーラはディーノに任せるとして、その間にどうするか決めて動くんだな」
「…………」
「なにを迷ってるんだか俺は知ったこっちゃねーが……いいか、ツナ。お前はヒーローにはなれねーんだ。それはもう充分理解してるだろ」
「……ああ、わかってる」
「だったらどうするのかも、お前がしたいことも、もう明確になりつつあるんだろ?」
「俺は……」
 綱吉は言葉を切る。
「俺は、この両手が届く範囲にいる人は守りたいんだ」
「じゃあその通りに動いてみろ」
 その声だけで、リボーンがニヤリと笑ったことがわかった。
 リボーンはふーっと息を吐きだす。コツコツと音を鳴らして歩き出した。
 扉が開かれ、出てきたリボーンと目が合った。
 パタンと扉を閉めると、リボーンはチラリと視線を送ってくる。無言で歩き出したリボーンに着いていくと、隣の個室に入っていった。
 個室には壁沿いに執務机がある他、丸テーブルを挟むように一人がけのソファーが二つ置かれていた。窓は薄いレースのカーテンが掛かっていて、その隙間から夜景が覗いていた。
「盗み聞きが上手くなったもんだな」
「これもリボーン先生の教育の賜物だよ」
 リボーンの後頭部を見上げて伝えると、彼はゆっくりと振り返る。真っ直ぐにこちらを見つめ、たっぷりと時間を掛けて息を吸った。
「良かったのか?」
「なにが?」
「ディーノがあんな大胆に刺青見せちまったから、もしかしたら気づいた奴がいるかもしらねえぞ」
 突然言い放たれた可能性に、少しだけ開いていた唇は静かに結ばれた。
「…………」
「工藤新一はわからないとしても、降谷や赤井は――」
「いいの」
 リボーンの言葉を遮るように声を出した。
 窓際に寄り、カーテンを少しだけ開けて夜景を眺めた。眼下に広がる外の世界は、まだ灯っている建物の明かりが星のように見えた。まるで雲の上から見下ろしている気分に陥る。
 後ろを向いてリボーンに向き直った。
「私は、ボンゴレの沢田なまえなんだから」
 窓際に腰を預け、両手を体の横に置いて目を瞑る。
「……いいんだよ、もう」
 自分に言い聞かせているようだった。
 ――もう、この想いは、胸に仕舞っておく。
 彼と動物園に行った時は、いろいろなことが起きて気持ちが揺らぎ泣いてしまったけれど。もう、大丈夫。
 この作戦に参加したことで、決意は固まった。そうだ、最初からこの気持ちは胸に留めておくと決めていたじゃないか。
 ゆっくりと瞼を上げてリボーンを見据える。ぴくりと眉を一瞬動かしたリボーンに、もう一度同じ言葉を心の中で唱えて頬を緩めた。

 哀しそうに笑みを浮かべるなまえを、気配を消した綱吉がじっと見つめていた。

17,06.25