歪んだ旋律


 雪でも降ってきそうなどんよりとした灰色の雲。夏場とは比べ物にならないくらい早い夕暮れが訪れると、辺りはさらに薄暗くなった。しかし、街中には赤と緑、そして白の装飾が溢れかえっていて、普段より活気だっているように思えた。クリスマスシーズンお馴染みの曲が流れている。寒さを忘れさせるようなワクワク感を人々に与えていた。
 それは喫茶ポアロも例外ではなく、扉や窓ガラスには、さりげなくキラキラと光るイルミネーションが灯る。クリスマスツリーが飾られている店内に入ると、小さなサンタクロースのぬいぐるみが迎え入れてくれた。
「ごちそうさまでした!」
「はい、完食ありがとうございます」
 まるで幼い子どもみたいに大きな声で透に伝える。
 透はそれを聞き、客対応のスマイルから少しだけ逸脱したような笑みを浮かべて、綺麗に平らげられた皿を下げた。
「はぁー、やっと食べに来れた……! ポアロのクリスマス限定メニュー!」
 両手と皺をゆるりと合わせてソファに背中を預ける。
 ポアロはクリスマス当日までの二週間、限定メニューとしてイタリアの料理でもあるパスタ・アン・フォルノとパンドーロを提供していた。
 おやつには遅すぎて夕飯には早い、中途半端な時間に来店したなまえのために、透が特別に量を少なくして提供してくれたものだった。それにより値段も少しだけ安くしてくれたのだから有難い。
「もう来てくれないのかと思いましたよ」
「そんなことあるわけないじゃないですか! あれからどんなアレンジになったのか気になってたし、なによりずっと食べたかったです!」
 カウンターの先で食器を洗う透に聞こえるよう、少し声を張り上げた。
「おかげさまで大盛況ですよ」
 ガチャガチャキュッキュッ。透が手元を動かす音に、少しだけ彼の笑い声が加わる。
「それはよかった。これで初対面具合悪くなった時の借りを返せましたね!」
「借りって……まだ気になさってたんですか?」
「だって、あんな初対面だったから……」
「まあ、驚きましたね。なかなかああいった初めましてはないかもしれません」
 透との初対面はいくつになっても忘れないだろう。体調が悪いときにとても親切にしてくれたのはありがたかったが、要注意人物である彼との出会いはもっとさり気ないものであってほしかったのだ。
「でしょう!? だから私、二回目ここに来た時は汚名返上しようとして売上に貢献したんですよ!」
「ああ……だろうなとは思ってましたが」
「うそっ、バレてたんですか!?」
「大丈夫。なまえさんの努力のかいあって、今はもうポアロでは『隠れ食いしん坊』と呼ばれてますよ」
「ひどい! ……当たってるけど」
 か、『隠れ食いしん坊』って……! 思わず顔を覆ってうなだれる。
 美味しいものが食べられるのなら何度も通って食べたくなるものじゃないか。自分以外の人が作ったご飯を食べたくなる時だってあるし、工藤邸以外で食べたくなる気分だってある。
「そこまで落ち込む異名ですかね?」
「……『隠れ』ってついてるとなおさら落ち込みます」
 それに、自分がいないところで自分の話をされているという事実がこそばゆい。自分はそこまで話題に上がる人間だったのだろうか。
 悶々と思考を巡らせていると目の前に珈琲が置かれた。
「サービスです。梓さんや店長には内緒ですよ?」
「わっ……ありがとうございます!」
 ふーっと息を吹きかけて珈琲を冷ましていると透が新たな話題を持ちかけた。
「一時期、ほぼ毎日ここに通ってましたが、またここで仕事でもされますか?」
「うーん……したい気持ちはあるんですけど、今回のは家でやるって決めているんです。それに私は食いしん坊ですから、ずっとポアロに居たら財布の中がスッカラカンになっちゃう」
 わざと『食いしん坊』を強調させると透が苦笑した。
「でも、どうして?」
 またここで仕事をするかどうかなんて訊いてきたんだろう。仕事の話はこれまでしていなかったのに。
「なんだか最近、眠れていないようなので。大きなお仕事でも舞い込んできたのかなあと」
 透は片目を瞑り自分の目の下をとんとんと叩く。
――うそ、隈隠せてなかった!?
 たちまち顔を覆いたくなったが、生憎両手はコーヒーカップを包んでいる。指摘された恥ずかしさからなまえはそのまま俯いた。
「大丈夫、ちゃんと隠せてますよ」
「……読心術は事務所を通してからにしてください」
「なまえさんて事務所たくさんありそうですよねえ」
 ああ言えばこう言う。
 そんなやりとりをしているといつの間にか透は向かいの席に座っていた。肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せている。たちまち喫茶ポアロは面接会場に早変わりした。
「……お仕事、舞い込んできたのは本当です」
「おや、そうでしたか。ですが僕はそれ以外に、てっきり貴女はなにか別の用事があったりして、そちらに気を取られている間、達成できなかったノルマを今ひたすらこなしているんじゃないかなあと思ってましたよ」
「……否定はしません」
 にこにこする透を見ないように視線を逸らしながら冷ました珈琲を飲んだ。なんでだろう、味を感じない。
 宝石展覧会のごたごたで『緋色の捜査官』の翻訳は予定通りに進んでいなかった。透の推察通りである。展覧会が終わってからというものの、極力部屋にこもって原著と辞書、文章エディタとひたすら睨めっこ。そんな日々が二日続いていた。
 今日はやっとその苦労が報われ、翻訳作業を始める前に決めたペースに基づいて執筆できそうなくらいに回復した。頑張った自分にご褒美ではないけれど、息抜きとして外に出てきたのだ。
「お疲れさまです。次はどんな作品なんですか?」
「んー、秘密です」
「おや残念。……それは同居人も知らないこと?」
「そうですけど……どうして?」
「いえ、彼にはそういった話もするのかなあと思って」
 透が昴の話を持ち掛けてくるのはこれが初めてかもしれない。
「もう終わった翻訳本の話とかはお話するけど、現在進行形のものはしませんね」
 透に返事をしながら時刻を確認すると、随分長居してしまったようだった。そろそろお暇しよう。
「ごちそうさまでした」
 伝票を渡して立ち上がると、透はレジの方へ歩いていく。忘れ物がないか確認をしてから席を後にした。
 華麗なレジ打ちを眺めていると会計はあっという間に済んだ。財布を仕舞って鞄を持ち直す。
「これから帰って夕食ですか?」
「はい。いつもよりちょっと遅くしてもらうけど」
「さすが……まだお腹に入るとは」
――今日はやけに一言多いな……。
 しかもなんだ、その『さすが』って。まだ『隠れ食いしん坊』の話は続いていたのか。
 久しぶりの絡み方になまえはため息をついた。
「だって昴さん、一人の時は『面倒くさいから』とか『忘れてた』とか言って、夜ご飯食べないんだもん」
 事前に夜は外食で済ませることがわかっていると、夕飯係である昴にその旨を伝えてから家を出ることが多い。そして夜遅くに帰宅してキッチンを見に行くと、夕飯を食べた形跡が一切なかったりする。どうやらごはんを作っても食べないとか、最初から作らずに酒と煙草で代わりに腹を満たすとか、そんなとこらしい。
 せっかく毎日の積み重ねで早起きや毎食きちんと食べることが板についてきたというのに、どうしてまた元に戻るのか。これがリバウンドというやつなのかな。いや違うか、ダイエットじゃないもんな。
 だからなまえは、意地でも帰ってから夕飯を食べなければならないのだった。
「……へえ」
「だから安室さんに量少なめにしてもらってよかったです」
 暫くすると満腹感に身を委ねることになるかもしれないが、遅めの夕飯時になれば再び復活するだろう。なまえは確信めいた予測をした。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ありがとうございます」
「また来ますね」
 背中を向けて店内を後にしようとドアノブを掴む。手に力を込めた時、「ねえ」透の声に足を止めた。
「僕のことも、名前で呼んでみませんか?」
「っ、えっ?」
 驚いて振り向くと、透は無表情でこちらを見つめてきた。
「…………」
 突然、どうしてそんなこと。
 透が明らかに以前と違うように接してくるのは気づいていた。まるで、ポアロによく通っていた頃を懐かしむように、冗談みたいな会話が続いた。
 ――どうすればいいんだろう。
 言われたように、名前で呼べばいいのだろうか。今ここで。
 けれど、それは少し違う気がする。彼が求めているものは、そんなことではない。
 初めて見た時に思わず『大空』と言ってしまった彼の澄んだ蒼い瞳からは、なにも読み取れなかった。
「……なんてね。冗談ですよ」
 肩をすくめる透は息を吐き出すと、少しだけ自嘲的な笑みを浮かべる。
「お気をつけて」
 透の声は、扉が閉まる音に似ていた。

   *

 耳を澄ませば心拍が聞こえてきそうだった。暖房器具とパソコンの起動音が細い線を張ったように微量に響いている。
 カーテンが閉められていない窓からは、運が良ければ雲の切れ間から月が顔を出し、淡く室内を照らしてくれている。
 暗闇の中、ブルーライトの光だけが傍らのグラスに注がれたウィスキーを照らしていた。汗ばむグラスは、氷が溶けて薄くなったウイスキーの存在を主張する。グラスの下に敷いているコースターに染みていった。
 パソコンの画面には複数のブラウザが映し出されていた。
 宝石展覧会の会場となったホテルの警備システム、主催者に雇われたシークレットサービス、展覧会の来場者リスト、展示されていた宝石の一覧、怪盗キッドの予告状の画像、オレンジスピネルに関する情報、盗品疑惑が浮き彫りになった展覧会主催者側の意見。そして、盗品とすり替えられていた本物の宝石を展覧会に戻した怪盗キッドの記事。
 ハッキングした情報からネットニュースまで、ありとあらゆるページで小さな文字の羅列を上から下へ追いかける作業を、もう二日ほど費やしていた。
 脳内に刷り込んだ情報を、展覧会の当日に来賓者の一人として過ごした記憶と照らし合わせ、時には裏づけるようにしていく。
「はあ……」
 溜息をつき、たいして使い物になっていない眼鏡を外して机の上に放り出した。両目を瞑り、さらにその上から片手で視界をシャットダウンする。目元をマッサージをするよう親指と人差し指でくにくにと動かした。
 時刻はもう、深夜一時を回っている。夕食はいつもより遅めだったけれど、さすがに数時間経てば腹も空いてくる。
 秀一はボトルを傾けてグラスにバーボンを注いだ。きちんと見届けていてもグラスすれすれになってからボトルを元の位置に置いてしまうのは、やはり腹が減っているからだろうか。
 それでも夕食はきちんと食べていた。もちろんなまえとともに。以前は彼女が外食で済ませると知ると、急に夕食を作る気が削がれてしまったり、食べる気力すらもわかなくなってしまったりすることが多く、結果、夕食を抜くことが多かった。しかし、いつからかなまえは外食をすると言ってきても必ず一言添えてくるのだ。
「どんなに遅くなっても昴さんの作ったごはんは食べますから! 待っててくださいね!」
 まるで嘘をついたら針千本飲まされそうな剣幕で毎度言うもんだから、秀一には夕飯を作るという選択肢しか残されていなかった。短針が九を通り過ぎても「お腹がすいた」と言って帰ってくるなまえに「食べてきたんだろう?」と、これまた毎度訊いてしまうのも、彼女が夜外食をする時の癖になってしまっている。「昴さんのごはんは別腹ですよ」なんて言いながら席につくなまえに嬉しくなり、しばしば多めに盛り付けてしまったことも。
 なまえはもうとっくに眠っているだろうか。入浴を済ませて寝巻きに着替えたなまえから「おやすみなさい」と挨拶をされたのは、三時間ほど前だったか。
 きっと自室に行ってからも日付が変わるくらいまでは仕事を続けていただろう。最近は今までよりも忙しそうにしている。秀一にはその理由がなんとなく予想できていた。宝石展覧会に出席したために事前に立てた計画が狂ってしまったからだろう。
 ぐっと一気にバーボンを流し込み、喉を鳴らして飲み込んだ分だけ息を吐き出した。空になったグラスに再び注ぐ。
 注ぎ終わりさあもう一杯とグラスを掴もうとした瞬間、バーボンが不自然に揺れた。
 携帯が振動している。誰からの着信か確認し、通話を開始した。
「はい」
『私だ。頼まれていたものを送ったよ』
「助かります」
『今度は何に興味を持ったんだい?』
 電話口でジェイムズが溜息をついた。先程の自分と同じように、彼が目元を弄っている姿が目に浮かぶ。
「プレゼントを貰うためですよ」
『サンタクロースはいい子にしかプレゼントを与えないんじゃなかったかね』
「だからこそこうして“利口”になってるです」
『……ほどほどにしておくことだ。これ以上、君は敵を作らない方がいい』
「上手くやりますよ」
『まあいい。またなにかあったら頼むよ』
「了解」
 プツッと通話が切れた。携帯からマウスに持ち変える。
 秀一はさっそくマウスを操作して添付フォルダを開いた。ざっと目を通し、なるほどと顎を引く。
 これらは、ジェイムズに頼み、FBIから取り寄せてもらったマフィアに関する情報だった。
 きっかけは、秀一も子どもたちの保護者として出席した宝石展覧会。
 盗品だったオレンジスピネルは、アメリカでの宝石見本市の時点で既に本物の指輪と入れ替わっていた。宝石見本市について調べていくと、二つのことがわかった。まず一つ目、会場で殺人が起きたこと。
「グレイブ・アンダーソン……」
 殺されたのは、宝石見本市専属の鑑定士だった。しかし、犯人は未だ捕まっていない。アンダーソンの自宅を捜索したところ、家の中は荒らされ、書類や金品、資産に関わるものはすべて持ち出されていた。強盗殺人の類だと州警察は結論づけたが、FBI内ではそれに関して疑いの目を向けていたらしい。
 続いて捜査報告書のファイルをクリックする。
「……ホォー」
 そして二つ目、裏ルートにて高額で取引された指輪がいくつか見つかったことがわかった。宝石見本市に紛れた盗品の指輪と、裏で売りさばかれた指輪。パズルがかちりとハマるように、これら二つが入れ替わったのだと考えた。
 宝石展覧会でオレンジスピネルを盗んだキッドは、後に主催者側へ指輪を返却していた。しかもその指輪はオレンジスピネルではなく、宝石見本市の時点で入れ替わってしまった本物の指輪だという。その働きは盗品を扱ったという噂を一蹴するほどの効力を持っていた。盗品だったオレンジスピネルについて、キッドは「責任をもって持ち主にお返ししました」と話していた。
 キッドは二つの指輪を本来あるべき場所に戻すためだけに今回盗みを働いたのか? 彼の過去を振り返ると、そういったことをやっていたこともあるらしいが、今回ばかりはキッドの行動を裏付けられる証拠が足りない。
 キッドは変装が得意だと聞く。あの白いマント姿を披露する直前までは変装して盗むことも多いとか。オレンジスピネルが盗まれた時、一番怪しかったのは、指輪を一番近くで守ろうと配置されていた鼻と顎に絆創膏をつけたシークレットサービスだ。指輪が盗まれた後、彼は主催者側の指示により、来賓者の安全確認へと回った。その後は警察がキッドの行方を追い続けていた。カーテン越しにキッド放った白煙が消えた頃、シークレットサービスの男はいなくなっていた。それに、なまえとコナンも。
 コナンが彼ら二人と一緒に会場を抜け出した可能性は薄いと踏んでいた。それは的中していて、帰宅時にコナンから会場を去った後に起きたことを聞いた。彼の推理でもやはりキッドはあのシークレットサービスに変装していたという。そして、なまえがもしかしたらオレンジスピネルが盗品だった件に関与していたかもしれないと。彼はそれを確かめるべく、キッドが居る確率が高い屋上に向かうために、階段を目指したと。
 しかしコナンの記憶はそこまでで、気づいたらロビーのソファーだったという。結果、キッドは取り逃がしなまえのこともわからずじまい。帰宅中のコナンの気分は最悪といった様子だった。
 シークレットサービスの男となまえの関係について、二人の様子を盗み見ていて面識があるということをすぐさま理解した。仲睦まじい様子から、きっと長年の付き合いなのだろう。なまえの婚約者だと名乗ったディーノという男とも親しい仲にあるようだった。
 宝石見本市で鑑定士が殺されたこと、裏で指輪が高額取引されたこと。そして、宝石展覧会で展示された盗品オレンジスピネル。これらの三つの出来事は、指輪という共通点からつながりがあると考えられる。
 そこまで考えを整理して、秀一はテーブルに肘をついて喉を潤した。カランと氷が鳴る。
 導き出した答えと、まだその先に潜む謎。真実にたどり着くまでの道のりは長い。
 まるで現役の捜査官時代に戻ったような気分だ。ありとあらゆる情報をかき集め、必要なものや該当するものをそこから厳選して組み合わせていく。すると、そこから新たな可能性や仮説が浮かんでくる。それらを推理していくことは昔から得意であったから、謎を解き明かしていく困難ですら楽しめるときもあった。
 以前にも似たようなことがあった。そうだ、爆弾製造者である金子重之が銀行強盗事件に関与していた時のことだ。
 金子印の爆弾を所持していたマフィアが次々と謎の襲撃に遭い壊滅的状況に陥った事実。そこから自分はある仮説に至ったことを思い出す。金子印事件の裏にマフィアの影があるのではないか、ということ。
「マフィアか」
 そういえば、『ホームズの弟子』がなまえのことを疑っていたな。
「いや……まさかな」
 脳内でちらつく華奢な姿。いいや違うと、煙をまくように手で追い払う。
 自分のことを『ディーノの虫除けスプレー』だと語ったなまえ。それに嘘はないだろう。実際、ディーノはクラーラという少女に対して婚約者ということを強調してなまえを紹介していた。しかしその後、ディーノは憔悴しきっていたクラ―ラに会いに行っている。引っかかる点が多かったディーノの行動に、なまえの振舞い。注意深くそれらを観察していれば、自然に行っている中に潜んでいる不自然さに気づくのは時間の問題だった。
 あの男は、そしてなまえは、なにが狙いだった。
 きっと、なにかしらの形で今回の騒動に関与している。いや、今回起きていたことの裏で、動いていたというべきだろうか。
 この工藤邸という箱庭で、一番近くにいたはずなのに、一歩外に出てしまえばなまえは見たこともないような表情を見せた。
『――君は、“だれ”だ?』
 どうしてあんなことを尋ねてしまったんだ。きっとなまえを傷つけた。それも、深く。
 馬鹿か俺は。一瞬仮面が外れたように固まったなまえが今でも鮮明に頭の中を占拠する。自分があんなこと言えるような立場ではない。それなのに、口は勝手に動いていた。あの時の自分は、焦燥感に駆られていた。
 頭をぐしゃぐしゃと掻いて煙草に手を伸ばす。箱を振って一本取り出そうとしたが一向に出てくる気配はなく、舌打ちをしてぐしゃりと握りつぶす。灰皿に目を向けると、いつの間にか吸い殻の山ができていた。ああ、後片付けが面倒だ。
 秀一は灰皿を見なかったことにして、まだ見ていないファイルを確認しようとディスプレイに視線を戻した。
「ん? これは……」
 フォルダーに入っていたのは動画だった。左クリックを繰り返して開くと再生が始まる。どうやら宝石見本市の会場内に設置された防犯カメラの映像だった。
 映像は四つのカメラから撮られたものだった。会場出入り口付近と会場内の様子が三か所。秀一が開いた動画は、それらの映像が編集されて一つの画面に収まっているものだった。
 秀一はさして注意するわけでもなく全体を眺めていたが、画面の端に映ったあるものに気づく。
 背もたれに預けていた姿勢を正す。動画を巻き戻して、気になった箇所を拡大した。映像が乱れてしまったのは致し方ない。
 秀一が拡大したのは、見本市の出入り口に設置されたカメラの映像。扉の真上に取り付けられたそれは、入場する者の背中、そして退場する人々の顔を映し出している。床から二メートル半くらいに設置されたカメラだろう。
 入れ替わり入退場をする人々の波が収まった。感じた違和感はこの次に現れる奴らだ。目を細めて画面にかじりつく。
「……来た」
 現れたのは顔半分が前髪で隠れた男。連れがいるらしく、振り返ってなにやら話をしている。会話の内容は、残念ながら収録されていない。
 男が話しかけていた相手が姿を現した。隣にいる男と会話する横顔が映し出される。
 秀一は、我が目を疑った。
「なまえ……?」
 映像に映っているには、同居人である、沢田なまえだった。

 なにかの歯車が、ガチャリと嵌り、動き出した。

   *

 廃工場の一角で空気が裂けるような音がした。発砲音は反響していくつも音が重なったように空気を揺らす。
 人差し指から力を抜き、ゆっくりと腕を下ろした。
 もうびくともしない倒れた体の下から赤い絨毯が広がっていく。きっと一瞬だっただろう。標的は自分が撃たれるなど思ってもみなかったはずだ。
 念のため、手袋をつけたまま男の首筋に触れて心拍を確認した。
「丁寧なことね」
 ベルモットの煙草の匂いが鼻につく。
「見落としがあったらいけませんから」
 ちらりと男の体を見やると、首筋に簡素な刺青が彫られていた。その上から掻きむしった爪痕。刺青を消したくてたまらなかったのだろう。
 刺青はファッションとして愛される他に、その者の帰属先を刺青が表している場合もある。いい例が暴力団やマフィアだ。
――そういえば……。
 零の脳裏にある男の姿が蘇る。
 宝石展覧会でなまえの婚約者だといった、ディーノと呼ばれていた金髪の男。彼の腕から首にかけて、様々な刺青が施されていた。惜しげも無く晒している姿に眉を寄せたのを今でも覚えている。まるで餌を釣るような見せつけ方だった。
――まさか本当に、見せつけるためにやっていた……?
 では、誰に。そしてなにが目的で。
 ディーノの場合だと、彼の刺青がなにかを表しているということは明らかだった。先ほどの考えを踏まえれば、彼は裏社会の者であるという答えが一番に導き出される。
――では、なまえは?
 仮定の話で進めていくが。ディーノが裏社会の人間ならば、だとしたら沢田なまえという女は何者なのか。
 ずっと彼女のことが気にかかっていた。
 それに、夕刻に彼女が訪れた時の自分はなんだ。まるでなまえがポアロに通い続けてきた時のような会話を繰り広げた。自分の心がどこかにいっているみたいだった。それは彼女も気づいていただろう。気づいていて、甘んじてそれを飲み込んだ。
 わからない、なまえが。彼女はいったいどうして自分をここまで狂わせる。
 なまえと話していると、張り詰めた緊張を解きたくなる。自分が自分じゃなくなっていく感覚に陥る。彼女と接していると、知らない自分が生まれてしまいそうな恐怖さえ湧いてきそうだった。
 零はぎゅっと目を瞑り、なまえのことを頭の片隅に追いやった。
「まあいいわ。戻りましょう」
 ベルモットの声にバーボンは立ち上がる。
 あとは協力者でもある後片付け専門の者が上手くこの場を偽装する手筈だ。必要な情報が入れてあるUSBも手に入れた。もうここに用はない。目撃者が出る前に姿を眩ませなければ。
「バーボン。行くわよ」
 ベルモットが少し張り上げた声が倉庫にこだまする。
 零は暗記した答えが合っているか確認するように、最後にじっと男の刺青を見つめてから踵を返した。
「……すみません」
 倉庫の出入り口に背中を預けて待ちわびているベルモットの元に向かう顔つきは、既にバーボンに戻っていた。
「刺青には気をつけることね」
 刺青を気にしていたことがバレたのか。ベルモットの言葉に一瞬息を飲んだが、すぐさま悟られないよう口角を上げた。
「珍しいですね。貴女が僕に忠告なんて。どんな風の吹き回しです?」
「あら失礼ね。鎖を繋いでおかないと、探り屋バーボンはどこまでも貪欲に調べ抜きそうだから」
 ベルモットは最後に大きく吸った息を吹き出すと、携帯用の灰皿に煙草を押し付けた。それを懐に仕舞うと、疲れたと言わんばかりの溜め息をついて車へ歩き出す。
「刺青は、持つべき者と持たざる者を表す」
「持つべき者……?」
 ベルモットに追いつき、車の鍵を開けた後、助手席の扉を引っ張ってベルモットを乗せた。彼女がシートベルトを締めているうちに反対側へと周り、運転席に腰を落ち着けエンジンを掛ける。
 ベルモットはしばらく口を閉ざしていた。車は首都高に入る。時折テールランプに染まる横顔からは、感情が読みとれない。
「そしてそれは、踏み入れてはならぬ領域をも主張する」
「……!」
 長い沈黙の後に、ベルモットは突然話を再開させた。
 踏み入れてはならぬ領域。心の中で復唱する。それは魔法の呪文のように、とある光景を思い出させた。
 炎をまとった馬や骸骨、太陽に浮かび上がった『C』や『BARACCA』という文字。それらは、あの男、ディーノの刺青。
 まさか、あれは――。
「――その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」
 ベルモットの赤い唇がオレンジ色の光に染まり、怪しく光っていた。

17,08.17