聖者になんてなれない


 駐車場に車を停めて人の流れに従うように歩く。するとキラキラとした光が強くなってきた。遠くからクリスマスに馴染み深い曲が聴こえてくる。
 近づけば近づくほど魅力的に感じ取れる光と音楽は心を踊らせた。
 ゲートをくぐる。一歩広場へと踏み入れただけなのに、駐車場からの道すがらとは比べものにならないほどのまばゆい光に目を細めた。
「すごい……!」
「クリスマスマーケットは初めてかい?」
「イタリアのは行ったことあるんですけど、日本のは初めてです!」
 クリスマスマーケットとは、ドイツをはじめヨーロッパ各地でクリスマス・シーズンに行われている中世から続く伝統的な祭りである。十一月からクリスマス当日までの約一カ月ほど開催されている。
 ゲートをくぐって広場の左手後方には大きなクリスマスツリーが飾られ、対になるように右手側後方には特設ステージが設置されていた。
 ぐるりと広場を囲むように作られたログハウス風の屋台が五十店ほど並んでいた。様々な形のクッキーやチョコレート、チキンにドイツの伝統的なクリスマスケーキであるシュトーレンが鼻腔をくすぐる。また、クリスマスツリーに飾るような雑貨や、木工人形にクルミ割り人形、その他雑貨も所狭しに並んでいた。
 マーケット一帯は、LED電球が煌々と輝いている。まるで早くこっちにおいでと手招きしているようだ。
 その灯りに照らされた人々は皆、笑顔だった。腕を組みながらうっとりと身を寄せ合うカップルもいれば、子どもがはぐれないようにとしっかり手をつないだり肩車をする親子子連れ、ゆったりとした足取りで見物する老夫婦。
 それらを眺めているだけでも、なまえの頬は自然と緩む。まるで絵本の中に飛び込んだみたい。日常とは切り離された幻想的な世界が目の前に広がっていた。
 次は自分がキラキラした世界に足を踏み入れる番である。クリスマスマーケットは初めてではないのに、なまえの胸は薄い緊張で覆われた期待でいっぱいだった。
 立ち止まったまま、周囲の屋台や装飾を見渡す。
「昴さん見て、あれ……わっ!」
 目についた雑貨屋を指差して後ろを振り返ろうとすると、突然体が右に傾いた。
「す、昴さん?」
 肩を抱き寄せられる。つまずきそうになって咄嗟に雑貨屋に向いていた指は彼のコートを掴んだ。
 立ち位置を整えて昴を見上げる。
 昴は険しい顔をして斜め後ろに視線を向けていた。なにがあるのか見たかったけれど、それは叶わなかった。
「ぶつかりそうになっていたから、つい」
 こちらに顔を向けた昴は、いつも通りの穏やかな声と表情を取り戻していた。
「ごっ、ごめんなさい。私が周りを見てないから……」
「大丈夫。ここまで人が多いと仕方がないさ」
 人だかりを見つめながら「驚いたよ、まさかここまでとはな……」と昴は感慨深く呟く。少しおかしく思えて吹き出してしまいそうになる。
「あの、ありがとうございます。もう大丈夫です」
「ああ」
 謝罪とともに触れていた昴の手が力が緩められる。くっついていた体を離して昴から小さく二歩離れた。
「…………」
 昴との間に沈黙が訪れる。
 ギクシャクする展開でもないのに、気まずくなってしまった。そう感じているのは自分だけかもしれない。普段ならあまり気にならない彼との静けさも、今日に限っては居心地が悪いものだった。
 なまえは心許なくて胸に手を抱き寄せる。むき出しの手は氷みたいにひやりとしていた。
 部屋を出る前に何回も忘れ物がないか確認したのに、マフラーとともに手袋を忘れてしまったのだ。持ち物の優先順位は上位ではなかったから困ることはないけれど、やはり持ってきた方が利口だった。
――なんだか今日は、だめだ。
 頭の中で描いた今日の自分は、もっといつも通りに振る舞えていたのに。自己嫌悪に陥りそうになってしまう。
 足元を見つめていると、視界にすっと左手が現れた。
「えっ……昴さん?」
「はぐれてしまうのは、もったいないからな」
 呼吸と思考が一瞬停止した。
――もったいないって、なにが?
 心臓がドクリと音を立てた。
 彼の言葉はきっと、はぐれてしまった時に互いを探す時間のことを指しているのだ。それなのに、都合のいいように期待してしまう自分がどこかにいた。そんなこと、あるわけないのに。
 差し出された左手にゆっくりと視線を落とした。
 掌は、持ち主が歩んできたこれまでの道のりを現している。大きくて広い手のひらには、すくい上げてきたものをどれほど乗せてきたのだろう。きっとこの節くれだった指は、これまで日常と非日常の狭間を駆け抜けてきたのだ。
 それが、今はどうだろう。
 赤と緑の装飾、オレンジ色の明かりに灯されたこの場所で、同居人の手を握ろうとしている。そしてその手は居住地に帰れば、包丁を握り、鍋をかき混ぜ、食材に魔法をかけるのだ。
 今になって、初めて彼の左手をまともに見た気がする。
 なまえは右手を持ち上げた。震えそうになる指先に全神経を集中させる。こんなにももたもたしていたら、きっと緊張していることなんて彼にはお見通しだろう。
 それでも意を決してちらりと見上げた昴の表情は、周囲の景色に染まっていた。初めて来た場所で、ここに来なければ一生出会うことがなかったであろう人々の中で、昴は微笑んでいた。辺りは騒然としているのに、一枚絵のように穏やかだ。
 一方、自分は彼と正反対だった。もしかしたら今この場所で笑顔ではないのは、自分だけなのかもしれない。
 なまえは待ち構えている左手に右手を伸ばしながら、火照り始める頬に知らんぷりを決め込んだ。
 差し出された手のひらに、そっと手を重ねる。まるで舞踏会のようだ。
「……冷たいな」
 ぼそりと零された声にかすかに目を見開く。あからさまに表情には出したくなくて、靴の中で指先を丸め耐え忍んだ。
 昴は繋がれていない自身の右手を、なまえの手の上に重ねた。挟み込むように握られた冷えた手は、昴の体温が伝わってきて次第に感覚を取り戻していく。
 再び二人の間には静けさが訪れる。
 しかし、なまえはもう居心地の悪さを感じていなかった。
「さあ、行こうか。なまえ」
 右手が離れ、声が降りそそぐ。
 顔を上げると翡翠色のやさしさに触れた。
 なまえはゆっくりと繋がれた手を握り返す。
「はい」
 やわらかい力で引かれて昴の隣へ移動する。繋がれた手は彼との間に収まった。
 引かれる手につられて、唇は自然と弧を描いていた。

 これまで二人で出かけたことはあったけど、今回は以前と雰囲気が全く違う。
 なまえはそれを肌で感じていた。

   * * *

「クリスマスイヴ、出掛けないか?」
 買い物を忘れて帰ってきた昴の発言に、なまえはぽかんと口を開けてしまった。今思い返してみると、きっと自分は間抜けな顔をしていただろう。
 話の流れを踏まえても、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
 真っ直ぐに見つめてくる翡翠色の瞳に、ドクンと心臓が大きく震えた。
――これは沖矢昴ではない。赤井秀一だ。
 それを悟った瞬間、体の奥から火がついたように肌が熱くなった。マグカップをぎゅっと握る。指先と手のひらが火傷してしまうんじゃないかと思った。しかし、ビリリと痺れるような熱さがあるからこそ、かろうじてまだここで平然を保っていられる気がした。
「……っ、だ」
「ん?」
「だれが? だれ、と……?」
 やっと飛び出した声は少し掠れていた。最初に出てきた言葉になっていない音なんて、裏返ってしまったのだから恥ずかしい。穴に入りたい気分だ。
「君と、俺が、だよ」
「わたしと、あなたが……」
「ああ」
「……クリスマス、イヴに」
「ああ」
 もごもごと言われたことをそのまま繰り返した。けれど、未だに現実味がわかない。それどころか、魔法の呪文でも唱えているようだった。
「イヴの夜、もう予定が?」
 真剣味を帯びた声に息を呑んだ。淹れたての珈琲と同じくらいか、それ以上の熱をおびた瞳でじっと見つめられた。
「……いいえ、特に」
 蚊の鳴くような声で返事をしてしまった。
 本当は、クリスマスの数日前から年明けまでをボンゴレ本部で過ごすことが毎年の恒例となっている。しかし、今年はイタリアで過ごそうという気持ちは起きなかった。
「決まりだな」
 ほっと胸をなでおろし俯いた昴は、少しの間そうした後にバッと顔を上げた。どこか活き活きとした表情は、サンタクロースが実在すると知った時の子どもみたいだ。
 昴は淹れたての珈琲を一気飲みした。
「――楽しみにしている」
 熱がる様子もなくマグカップの中身を空っぽにした彼は決め台詞を唱える。そしてすぐに立ち上がり「買い出しに行ってくる」と背中を向けた。
 風のように去っていった昴の後を追いかけるように、玄関の扉が閉まった音が耳に入った。
「いって、らっしゃい……」
 見送りの挨拶が本人に届かなかったのは初めてかもしれない。ほんのちょっぴり虚しさを感じる。
――クリスマスイヴ。
 舌の上でその言葉を転がした。
 特別な響き。日常から切り離された出来事が起きることを予感させる。
――特別な日には、特別なことを。
 元来、クリスマスイヴはキリストの降誕を祝う祭の前夜を表す。二十四日、そして二十五日の過ごし方は、国によって様々である。
 イタリアでは、二十四日の夜から二十五日にかけて大聖堂でミサが行われる。その日は家族で過ごす日とされているため、市中の店は閉まっていた。日本でいう、正月のイメージが近いだろう。
 しかし日本はというと、クリスマスやクリスマスイヴは、家族で過ごす日というよりも、恋人と過ごす日という認識が一般化されていた。
――こいびと。
「っ……」
 湧いてきた考えを軽く頭を振って吹き飛ばそうとした。しかし一度意識してしまったことは、脳裏に染み付き存在を主張する。
 なまえは目の前の作業に集中しようとする。そうだ、カフェオレをつくっている途中だったんだ。
 出しっぱなしだった牛乳パックはぬるくなっていた。パックを傾けて牛乳を注ぐと、珈琲の色が少しずつ変化していく。牛乳をたっぷりと注ぎ入れた中に、今度はスティックシュガーを投入した。一本目がすべて溶けて消えた頃、いつもカフェオレを作るときはどのくらい砂糖をいれていたのかを忘れてしまっていた。
 どうして彼は私を誘ったんだろう。
 同居人だから? 気を遣ったのだろうか。いいや、そんなことはないだろう。一緒に住んでいるからせっかくの機会だし出掛けるというのはわからなくもないけれど。
 しかし、その行為は気を遣うどころか逆効果だ。こちらは心臓が持たないというのに。
 まさかクリスマスが楽しみということはないだろう。どちらも既にいい歳した大人だ。子どもの頃のような、指折り数えてクリスマスを待ちわびるようなお年頃ではない。
 じゃあ、どうして?
 いくら考えてみてもぐ答えはでてこない。様々な憶測が頭の中を駆け巡る。それを霧散させるようにぐるぐるとマドラーで砂糖が溶けるようにかき混ぜた。
 モヤモヤは晴れないまま、カフェオレを口に運ぶ。
「……甘っ」
 一口飲んで眉を潜める。
 そろりとテーブルの上に視線を向けると、スティックシュガーの抜け殻はいつも使っている量と比べ倍以上の数になっていた。

   *

 それからなまえは苦悩する日々を送ることになる。
 服装や髪型、そして化粧をどうするのか、こんなに悩んだのは初めてかもしれない。普段ならいつもサクサク決められるのに、この時ばかりはいつまでたっても自力で決められなかった。第三者の意見を仰ごうとしてしまったくらいだ。
 真っ先に思い浮かんだのがビアンキだった。ビアンキだったら適格にアドバイスしてくれるという信用と信頼があった。けれど、前回たくさんお世話になったのでまた力を借りるのは気が引けてしまった。思い切ってメッセージアプリを開いてはみたものの、首を横に振っては閉じて文章を打ち込んでは消す。数度にわたってその作業を繰り返した。結局、連絡はしなかった。
――違うから。これは断じて違う。彼に失礼のないように気を遣ってるだけだから!
 そうやって自分に言い聞かせ続け、自力で当日まであれこれ考えながら、己の心の裏側からやってくる羞恥に耐え忍んだ。
 気合が入っているみたいに思われないように。かと言って、いつもと同じだと見られないように。
 仕事の合間を縫っては息抜きと位置づけていろいろ調べてみたり、外に出た時に少しだけ足を伸ばして洋服を見たりもした。
 相手の好みが分かればそれに従ってすぐにコーディネートが考えられるのに。それこそボンゴレやディーノからの頼みで着飾る時は、一緒に行く相手の好みや格好に合わせていた。けれど、さすがに今回は本人に訊くだなんてことできるはずもない。
 最終的に、ショップを渡り歩いた先にいた店員の力を借りて当日着る服を揃えた。
 まるで答えのない問題を解いている気分だった。これでは全く息抜きではないじゃないか。ボンゴレでみんなと作戦を考えている方が楽しいかもしれない。
 処理しきれぬ甘くほろ苦い葛藤を何度吐き出したくなっただろう。

 白ニットをウエストインしてモスグリーンのミディ丈スカートを揺らし、素肌は黒タイツで隠した。肌身離さず身につけているマンダリンガーネットが蛍光灯に照らされてキラリと光る。キャメルのダッフルコートを着込んで完成だ。
 何度も全身鏡で変なところはないか確認して、ショルダーバッグを肩にかけて部屋を出た。腕時計を見ると出発予定の時間になって、急いで階段を降りる。
 既に昴は支度を終えて玄関で待っていた。
「遅れてごめんなさい……!」
 きっと彼のことだから表に車を回してあるのだろう。
 パタパタとスリッパを鳴らせてパンプスに履き替える。今夜は歩くだろうと予想して、早々に足が根を上げないように太いヒールのものを選んだ。
「昴さん?」
 靴を履き終えて立ち上がる。身支度が済んだというのに昴はぴくりとも動かない。
「あのー……昴さん?」
「……っ、すまない。行こうか」
 ハッと我に返り、門扉の前に駐車されたスバルへと向かう大きな背中。なまえは慌てて玄関の鍵を閉めて昴を追いかけた。
 恭しく助手席の扉を開けてくれている昴の視線に戸惑いつつ、礼を言って乗り込む。
 シートベルトを締めた頃に運転席についた昴が一呼吸おいた後、こちらに顔を向けた。
「今日は一段と、綺麗だ。……見とれてしまったよ」
 最後に微笑みを残して昴は進行方向を向き、アクセルを踏んだ。
――こんなの、身が持たない。
 なまえはシートベルトを握りしめた。

   *

 なまえの手は昴と固く結ばれていた。
 屋台に近づこうとすればするほど人の流れは激しくなる。はぐれないように、そして足元に気をつけるようにと、なまえの手に力が込められた。遠慮がちに指先で握り返しつつも、気を抜けば震えてしまいそうだった。
 なまえは空いている手でショルダーバッグにそっと触れる。爪先がイルミネーションを浴びてつるりと光った。
――いつ、渡そうかな。
 バッグの中に入っているのは、本日の持ち物の中で優先順位が一番にくるもの。この日のために準備してきた。手の込んだものではないが、日頃の感謝と言葉にできない気持ちを詰め込んだ。
 そろりと隣を見上げると、物珍しそうに屋台を見物している。これまで昴とは出掛けることがあっても、賑やかなところへは自ら近寄っていかない傾向があるように思えた。事件現場は別だけど。そういたことから、彼は賑やかな場所よりも静けさが似合う。
――赤井さんはどうなのかな。
 それは沖矢昴の姿をした彼の印象だ。本来の姿ではどうなのだろう。アメリカではどのような生活を送っていたのだろうか。
 ある程度のプロフィールや経歴は紙の上で知っている。しかし、生活習慣や趣味趣向、過ごし方は、本人と一緒にいなければわからない。
 沖矢昴の姿でも少しだけ垣間見得る部分はあるけれど、容姿のおかげでそれが彼本来のものなのか、それとも大学院生のものなのか判断は難しい。
 一緒に過ごしてきたはずなのに、様々なことを知っているようで、私は彼のことをなにも知らないのだ。それを思い知らされる。
「ほー……まるで縁日だな」
「縁日?」
「ほら、あれだよ」
 昴が顎をくいっと動かして教えてくれたのは、屋台の奥にダーツの的が掛けられた店だった。手前には様々な雑貨やお菓子が並べられている。どうやらそれが景品らしい。
「ほんとうだ……。なんだか射的みたいですね」
「見てみようか」
 昴の言葉に頷き屋台へと足を向ける。
 ダーツボードには点数が表記されている。昴によると、一般的に見られる盤面よりも簡略化されているらしい。よく見かけるボードはここにあるものと比べると、もっと複雑な作りをしているとか。子どもが挑戦することを考えてわかりやすくしているのだろうと考えを口にしていた。
 遊び方を確認すると、ダーツを投げるのは全三回。その合計点数とボーダーラインである基準点を比較して、貰える景品が変わってくる。景品は点数ごとに固めて置かれており、獲得点数の対象景品であれば、数ある景品の中から好きな物を選んで良いというシステムだった。
 なまえの目についたのはスノードーム。店頭でよく見かける手のひらサイズのスノードームよりも大きかった。
「スノードームか……」
 後ろからそっと覗き込まれてぴくりと肩が跳ね上がった。
「オルゴールがついてるんですって。どんな曲なんだろう……」
 ドームの中にはクリスマスツリーやサンタ、そして観覧車が閉じ込められている。なぜだかそれが無償に気になった。誰も触れていないだろうそれは、真っ白な雪が積もっているだけの静かな世界を見せていた。
 スノードームは一番点数が高い景品の塊の一角に置かれている。獲得するには、ボードの中心に二回ダーツを当てなければならない。
「試してみるかい?」
「……やってみます!」
 早速、小銭と引き換えにダーツを三本、上機嫌な店員から受け取る。
 親指と人差し指で矢を挟み、中指を添えた。矢が地面と並行になるように腕を上げ、数回手首を前後に動かして投げるシミュレーションをする。そして、肩に手の甲が触れるくらい腕を大きく動かしてダーツを投げた。
「あっ! ……あぁー」
 ダーツは一番外側の枠に突き刺さった。意気込んで投げたのにこの結果というのは少し恥ずかしい。
「……よし、二回目」
 気を取り直してもう一度。二投目で真ん中に当てなければスノードームは手に入らない。そう考えると自然に力が入ってしまう。
 ダーツをぎゅっと摘んだ。腕を持ち上げて、ボードに狙いを定める。
 その時だった。
「姿勢を正すんだ」
「っ!」
 後方で見物していた昴が音もなくすぐ後ろまでやってきて、耳元で囁いた。
「無駄な力は入れるな。ダーツを真ん中に当てるイメージを強く持つんだ」
「ん、うぅ……はい……」
 真剣な助言なのに変な声が漏れてしまった。こんな体勢ではイメージなんて想像できるわけないじゃないか。
 体にはまだ力が入っていたようだ。両肩にぽんと手を置かれ、まるで力を抜けというように数回やさしく叩かれる。その通りに意識しようとしても、ぴったりと後ろにくっついている感触が恥ずかしくて少し身じろぎしてしまう。
 そんなことをしているうちに、右肩に置かれた手がゆっくりと動きだした。昴の手は、肩から二の腕、肘を通り越してダーツを持つ右手に到達する。触れるか触れないかギリギリのところで円を描くように数回手の甲を撫でられ、包み込まれた。
「えっ、あ、あの、昴さん……!?」
 そして左肩に置かれた武骨な手は腰に添えられる。
「少し足を開くといい。肩幅くらいに……そうだ。そうして両足でしっかりと立って重心を少しだけつま先に置くんだ。……ほら、また力が入ってるぞ」
「っ、はぅ……」
 耳元の指南通りに足を開いて重心を移動させる。
 少し顔の向きを変えればぶつかってしまいそう。集中していないと思われないためにじっとボードを見つめていたけれど、息遣いがすぐ傍で聞こえてきてぎゅっと目を瞑ってしまった。
 すると、暴れている心臓の音が体内で響いていることをより一層感じてしまい、やむを得ず瞼をあげる。
「投げる時は紙飛行機を飛ばすような感覚だ。……いくぞ」
 重ねられている昴の手が、同じようにダーツを掴む。エスコートされるように昴の動きに合わせて腕を動かし、矢を投げた。
 真っ直ぐに盤面の中心へと向かったダーツは、気持ちの良い音を響かせて狙っていた場所に突き刺さる。
「当たった!」
 小さくガッツポーズをするのと見守っていた店員が口笛を吹いたのはほぼ同時だった。
「すごい! ねえ昴さ……っ」
 振り返ると目と鼻の先に昴の顔があり息を呑む。昴はなにも言わずに微笑んでいた。
 目が、逸らせない。
 周囲の喧騒が遠くに感じた。世界から切り離されてしまったように感じる。
 白い吐息が互いの口から出ていくのを何回見送っただろう。
「――あと一投だ」
「っ……はい」
 最後の矢を握る。
 彼の掠れた声によって現実に引き戻された。
 慌ててもう一度肩幅に足を開き、腕を上げて構える。
「また力が入っている。アシスタントが必要かな?」
「……今度は自分一人で投げます!」
「ほー、お手並み拝見といこうじゃないか」
 昴は腕を組んで離れていく。密着していないため緊張は解れたけれど、胸に穴が空いた気分だった。
 今日は本当に、自分が自分じゃないみたいだ。彼の一挙手一投足に反応してしまう自分が恨めしい。
 なまえはボードの中心を目掛けて最後のダーツを投げる。

 本当はいけないとわかっているのに。
 それでも心は、彼の温もりをもっと傍で感じていたいと望んでいた。

(つづく)

17,10.08