秘密


 なまえの部屋に入ることは初めてではない。夕食の支度ができたと呼びに来たり、それ以外でも、用があったりした時は彼女の部屋へと続く扉をくぐった。
 拳を軽く握って三つ音を鳴らす。
 返事はない。それもそうだ。彼女は今寝ているんだから。返ってこない了承をいつまでも待っていられるはずもなく、秀一は細心の注意を払い入室する。リビングや廊下よりも幾分か高い室内の温度によって眼鏡が曇り気味になりながらも、ゆっくりと扉を閉めた。
 カーテンが引かれ電灯も消されている室内は昼前だというのに薄暗い。
 なまえの部屋は、もともと客間として使われていたらしい。だからなのか、整理整頓が行き届いており、彼女の私物は少なく思えた。なまえの仕事道具であるノートパソコンは机の上でひっそりと息を殺している。
 こんもりと盛り上がるベッドに足を向けた。スリッパが床に触れる音さえ消し去ろうと足を運んでしまうのは、果たしてこれまでの経験からか。それともなまえ色で染まる部屋の空気を雑音で響かせたくないからだろうか。その答えは自分でもわからない。
 ベッドサイドチェストに置かれたスノードームに目が留まった。雪が舞い降りていない小さな世界は時が止まっているように錯覚する。だが、壁掛け時計の時を刻む音と小さな寝息が真実を告げてくれた。
 セミダブルベッドにたどり着くと、優しく縁取られた瞳は閉じられ、鼻先から下は掛け布団によって隠されている。
 なまえは熱を出していた。
 今朝のことだ。いつものように朝食を作る背中に挨拶をすると、彼女の反応が遅れた。最初は調理に集中していたのかと思ったが、振り返ったなまえの顔が少し火照っていた。彼女の前に立つと、ぼうっと見上げてくる瞳には熱っぽさが入り交じっている。
 断りも入れずに秀一はなまえの前髪をかき上げて額を押しつけた。
「っ……昴さん?」
 急に詰められた距離に目を瞑ったなまえがそろりと瞼をあげて様子を伺ってくる。その瞳があまりにも潤んでいたから、自分の奥底に眠る欲が暴れだす前に目を閉じた。
「……熱い」
「え?」
「気づいていないのか? いや、気づいているはずだ」
「……そんなこと」
 気まずそうに視線を逸らすなまえに少なからず後者だということを察する。自分の体調の変化に気づいているなと心の中で呟いて額を離した。
「俺の知っているなまえは、自分や他人の変化に鈍感な子だったかな?」
 前髪を戻して手串で梳かしてやる。滑らかな頬の赤みが増した気がした。
「以前にも話したが、なまえのおかげで、俺も大抵の家事はできるようになった。料理も含めてだ。だから、体調が優れない時や気分が乗らない時、仕事が忙しい時や楽をしたいと思った時、家のことは任せてくれて構わない」
「っ……でも」
「補足しておくが、なにも『なまえが必要ない』という意味じゃない。そんなこと一度も思ったことはないし、むしろその逆だ」
「……えっ?」
――しまった。
 目を見開き見上げてくるなまえから視線を逸らして口元を手で覆い隠す。
「……とにかく、まずは朝食にしよう」
 秀一は無理やり話題を変えて支度を始める。なまえは暫く、触れ合った額に指を這わせ呆然としていた。
 それが、今朝のやりとり。
 いま思い出しても自分の失言に頭を抱えたくなる。あのタイミングで伝える馬鹿がどこにいる。口が滑って咄嗟に口を覆ったが、紛れもなく本心だった。
 以前、なまえが「動物園に行きたい」と言った時、同じようなことを伝えたことがある。しかし、彼女はなにか恐ろしいものから逃げるような表情で必死に食い下がった。思うに、自分のできることが無くなることへの不安を抱いたのだろう。
 自分の居場所を見出していくことに最も直結する行為は、その場その場で自分のできること、即ち役割を見つけることである。役割を果たすことで自分の力を発揮でき、自分らしく振る舞えるようになると、やがてそこが居場所のひとつになっていく。
「……どうしようもないな」
 当時の瞳を揺らして追い詰められたようにそっぽを向いたなまえの反応。それは明らかに言葉足らずな自分がもたらした結果だった。良しと思って話したはずが、こちらの意を反してなまえに伝わり、不安を煽ってしまった。
 なまえと出会ってからの自分に変化を感じたこともあったが、まだまだそれを表にだすことは難しいようだ。
 ベッドで眠るなまえに目を向ける。眉間に少し皺を寄せていた。汗ばんだ額に張りついている前髪をそっとはらってやると、表情が少し和らいだように思える。朝食後に通院を勧めたが、「薬はあるから大丈夫」の一点張りで、愛車であるスバル360の出番はなくなった。
「薬……これか」
 スノードームに隠れるようにして置かれている薬を見つけ手を伸ばす。
 錠剤はプラスチック容器に入っていた。白い蓋でオレンジ色の容器のピルボトルは、アメリカにいた頃よく見かけたものだ。しかし、日本ではあまり見かけたことがない。
 医療機関で処方された薬は、患者名と内服薬の量法等が必ず記載されている紙袋に入れられている。過去に処方された薬をピルボトルに入れ替えたのだろうか。なまえはイタリアでの生活経験もあるから、もしかしたらイタリアにいた頃の名残かもしれない。だが、わざわざボトルに入れ替えるなどといった、ひと手間かかることをするだろうか。それとも知人から薬を分けてもらったか。薬品名も書かれていないため、調べようにも難航しそうだ。
「いや……やめよう」
 秀一は首を振ってピルボトルを元の場所に戻した。これ以上、彼女のことをこそこそと調べたくはなかった。ただでさえ謎が多いのだ。それに……。
「っ、ん……」
「起こしてしまったか」
「あれ……すばるさん?」
「具合はどうだい?」
 机に仕舞われていたキャスター付きの椅子を引き寄せ座る。立ったままでは距離が遠すぎるが、秀一がベッドに腰掛けるのは、二人にはまだ近すぎる距離だった。
「んー、ぼうっとします」
「昼食の時間だから様子を見に来たよ。薬を飲まないといけないだろう?」
「もうそんな時間……?」
 寝起きで舌ったらずな物言いに心がくすぐられる。
「食欲は? 食べられそうか? おかゆを作ってみたんだが……」
「昴さんが?」
「……いや、もしかしたらキッチンに潜む妖精さんかもしれないな」
「妖精さん?」
 驚くなまえに冗談をほのめかすと顔をほころばせた。
「もう、昴さんったら……。おかげでお腹すいてきちゃったかも」
「温めて持ってくるよ」
 なまえの礼を背中に受けて秀一は部屋を出る。足取りは軽かった。
 普段と比べて時間の流れが遅く感じる。同居人が風邪をこじらせているというのに、心配はしているが、心の中は穏やかだった。
 気になることも、調べなければならないことも、解明したいこともある。だが、方法は一つだけではない。幸い時間はたっぷりあった。
――それに、気になったことはなまえ本人に直接訊いてみたい。
 キッチンにたどり着いた秀一は、丁寧に土鍋へと火を掛けた。

   *

 なまえはベッドに腰掛けた状態で、部屋の隅に置かれていたサイドテーブルを活用しておかゆを平らげた。
「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
 満足そうに頬を緩める。どうやらお気に召されたようだ。密かに秀一は胸を撫で下ろす。
「それはよかった。妖精さんに感謝しなければ」
「まだそんなこと言ってるんですか?」
「イギリスには妖精がいるからな」
 なまえの笑いを受け流しつつ無機質さを取り戻しつつある皿を受け取り盆に乗せる。薬を準備するなまえにペットボトルの蓋を緩めたミネラルウォーターを差し出した。
「ありがとうございます」
 ピルボトルから手のひらに場所を移した錠剤がなまえの唇へと飲み込まれていった。白い喉を動かして水で流し込む姿は、床に伏せているのだと理解していても絵になる光景だ。まじまじと見つめてしまう。
「っ……はぁ」
「お疲れさま。……さあ、横になって。もう眠る時間だ」
「もう……? 食べたあとすぐ横になると牛になっちゃうんですよ」
 唇を尖らせるなまえにわざとらしく肩を竦めて見せる。
「それは困るな。君が牛になってしまったら、『隠れ食いしん坊』も一緒にいなくなってしまうかも」
「えっ……!? 昴さんどこでその呼び方を!?」
「さぁ? どこだろうね」
 それこそ妖精さんだったかな。そう付け足すと、なまえは小さく頬を膨らませた。
「もう……今日の昴さん、ジョークばっかり」
「これは失敬。お気に召さなかったかな?」
「いいえ。楽しいです……とっても」
 花が咲くような笑みとは、まさに今のなまえのことを指すのではないだろうか。駄目だな、これ以上は目に毒だ。それも甘美な毒。離れがたくなってしまいそうだ。
 秀一は無理やり話題を変える。
「ああそうだ、頼まれていた件だが……」
「っ! どうでした!? 喜んでくれました?」
「ああ、大盛況だったよ」
 午前中、予期せぬ宅配が届いた。差出人はコナン。一般人ならば気づかないコナンからのメッセージに気づいた秀一は、配達業者にその場で小包の配達を頼んだ。
 業者とやりとりを済ませて、二階からコナンや喫茶店のアルバイトの様子を眺めていると、チャイムの音が気になったとなまえが起床して部屋から出てきたところだった。
 なまえに事の成り行きと推理を話すと、相変わらずだと苦笑したが、すぐに顎に手を当てて考え込む。話を聞くと、どうやらコナンを含め少年探偵団たちは今日、阿笠博士が取り寄せた横浜の有名なケーキ屋のクリスマスケーキを皆で食べるのを楽しみにしていたらしい。しかし業者の配達様子を考えてみると、きっとケーキは目も当てられないほどぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。自ら事件にかかわったのは褒められたことではないが、楽しみにしていたケーキが食べられないのは可哀想だ。だから、自分が昨日の昼に作ったパネトーネを彼らにあげようか。それがなまえの提案だった。
 以前、喫茶ポアロのクリスマス限定メニュー考案に一役買ったというなまえに、自分もそれを食べてみたいと話したことがあった。それを覚えていてくれたなまえは、イヴの前日から準備を始め、昨日焼き上げてくれたのだ。
 なまえ特製のパネトーネをひとり占めできるとばかり思っていたので、彼女の提案には正直に首を縦に振ることはできなかった。パネトーネを食べたのは、今日の朝食後デザートにと味わった、ひと切れ分だけなのたから。だが、「そうだ! 今度作るときは、あの……昴さんが良かったらなんですけど……一緒に作りたいな、って」と両手を握って上目遣いで見つめられてしまえば、余計に首を縦に振るしか俺に残された道はないだろう。
 その後、再びなまえがベッドに入った後、秀一はサンタとなりささやかなクリスマスプレゼントを届けに阿笠邸へ向かった。受け取った子どもたちは両手を広げて喜び、阿笠には何度も礼を言われた。
「よかったー……。お口に合うといいな」
「合うさ。合わないなんてことはないよ」
「だって、横浜にある有名なケーキと手作りパネトーネじゃあ勝ち目ないですもん……」
「そんなことないさ」
 話しながらベッドに横になったなまえに布団を掛けてやる。
「……でも、そうだといいな」
 やわらかく微笑むなまえから目が離せなくなる前に視線を逸らした。視界にピルボトルが入ってくる。
「薬は足りそうかい?」
「はい、当分は。だから病院に行かなくてもへっちゃらです。一日寝ていれば、明日にはまた元気になります」
「それはすごいな。そんな万能薬をくれたのは……知人の医者、だったか?」
「はい。昴さんも会ったことありますよ。ほら、ずっと前に商店街で……」
 ゆったりと紡がれる言葉は謎を紐解く鍵となり、商店街でなまえに絡んでいた男のことを思い出す。
「シャマルはヤブ医者ですけど、医療に関しては……たぶん、ピカイチです」
 少し誇らしげに「昴さんがもし万が一、大怪我した時は言ってくださいね。シャマル呼びますから」と続けるなまえは、次第に瞼が落ちていった。
「でも、シャマルは基本女の子しか看ないからだめかなぁ……たくさん浮気もしてたって聞くし」
「そうか。なら俺は、怪我しないように気をつけなくちゃな」
「ほんとですよ。昴さんすぐ怪我しちゃいそう。一人で、なんでもしちゃいそうだから……」
 眉を上げた。そこまで君にはお見通しだというのか。
「ほら、もうおやすみ。お姫様」
「……んぅ?」
 とろんとした声を漏らすなまえは既に意識の半分を眠りの世界へと旅立たせているようだった。
――それにしても、あの男がなまえの主治医とはな。
 一見ただのナンパ男にしか見えないが、あの隙のない身のこなしは誰でもできる代物ではないだろうと、頭の片隅で考えた。
 そろそろ薬も効いてくる時間だろう。目を閉じて横になるなまえは、体調を崩しているというのに絵になっていた。
「まるで美女は君みたいだな」
 心の声がボソッと落とされる。
 脳裏に浮かぶのは、宝石展覧会でのレモンイエローのドレスを着たなまえの姿。それは『美女と野獣』を彷彿とさせた。主人公であるベルという名前自体は、フランス語で『美しい』を意味する。人の内面を見抜くことに長けているベルはなまえにどことなく似ている。そうだ、なまえは初めて会った時から沖矢昴ではなく、俺を見つめてくれたではないか。
「……じゃあ、野獣は、昴さんですか? そしたら、魔法が解けたら……」
 だんだん萎んでいくまろやかな声に失笑してしまった。眠気には勝てないか。
 少しの間、続く言葉を待っていたが、なまえの唇は動かなかった。もう眠りに入っているだろう。起さないように退室しようと背中を向ける。
 その時だった。
「魔法が解けたら……王子様になるのかな」
「――っ」
 やわらかい力で心臓をぎゅうっと鷲掴みされた。
 秀一は振り返る。視線の先にいるなまえは既に寝息を立てていた。
「……参ったな」
 左手を首元に伸ばす。指先で触れた冷たいものを外してしまいたくなった。まるで変声機は心が漏れないようにするための鎖だ。この想いを閉じ込めておくには、もう窮屈すぎる。
「真実の愛、か」
 変声機を外せば、君を迎えに行く王子になれるだろうか。
「――おやすみ」
 秀一は、眠りについた姫君の頭をそっと撫でた。

   *

 食器洗いを終えた秀一はなまえの話を思い出していた。
『シャマルはヤブ医者ですけど、医療に関しては……たぶん、ピカイチです』
 シャマル。遠い昔にその名を聞いたことがある気がする。
 同姓同名か? いや、違う。焦るな。すぐに判断を下す必要はない。時間はたっぷりあるのだから。思い出せ。
 きちんとした確証が得られるまで、秀一は過去を追い続ける。
――二〇六二。
 そうだ、二〇六二だ。
 とある数字がシャマルという男の存在を紐解いていく。秀一が彼を認知したきっかけはその数字だった。あまりにも突拍子もない数の多さに目を見張ったではないか。
 国際指名手配、通称ドクター・シャマル。イタリア出身の闇医者だ。嘘か真か二〇六二股かけた挙句、某国の王妃に手を出して国際指名手配となった男である。
 しかし、その王妃自らの手によって指名手配は取り下げられていた。極めて異例な措置である。どうやらシャマルは、王妃が誰にも明かしていなかった持病を治すために密会していたというのが真相らしい。それをシャマルが王妃に手を出したと勘違いした者が声を上げ、事が大きくなったという。
『シャマルに会ってからはあんまり病院行かなくなったかも。……すごいんですよ、シャマル。内科とか外科とか、そういうの全部診察できるし、処方してくれるお薬は飲むとすぐに効いちゃうんです』
 自慢の父を紹介するとでも言うようななまえの口振りに目を見張った。
 ドクター・シャマルがなまえの主治医。ここでもイタリアが関わっている。
 なぜここまでなまえの周囲はイタリアで染まるのだろう。知っている限りでも、弟の家庭教師、偽の婚約者、ドクター・シャマル、それにイタリアへの留学経験。留学先がイタリア以外なら、ここまで気になることもなかったかもしれない。昔から他国の人々と交流し留学経験もあるから、さすが接点は多いと考えてそこで思考は終結するだろう。
 なぜ気になるのか。それはきっと、イタリアの裏に潜むマフィアの存在が思考をかすめるからだ。
――もう一度、徹底的に調べてみるか。

   *

 マフィアがすべて悪い存在だとは考えていない。
 彼らは彼らなりの決まりに従っており、結束力がある。歴史を振り返ってみても、マフィアの存在は負の影響のみを与えたとは言い難い。イタリアの場合、マフィアの力は国政にまで及んでいるのだから。過去、マフィア撲滅運動に生涯を捧げた判事と裁判官がいたが、マフィアの手によって暗殺されるという末路を辿っている。まさに『触らぬ神に祟りなし』である。
 マフィアと聞くと思い浮かべる姿は、スーツ姿にハット帽、葉巻を嗜み拳銃を隠し持つ男たちだ。しかしそれはあくまでフィクションの世界で形作られてきたイメージであり、現実とは異なる部分もある。マフィアも人間だ。常にそのような格好をしているとは限らない。そのため、一般人からすれば、ひと目でマフィアを判断することは難しいだろう。だが、彼らは互いの結束を重んじることもあってか、体の一部にその証を示すことがある。日本のヤクザや暴力団のように、刺青を彫ることがあるのだ。
 刺青はファッションの一つとしても好まれているため、刺青を見ただけでマフィアやギャングだと決めつけることは難しい。しかし、一般人には思えない歪さや不自然さというものは、必ず表にでてくる。そう、例えば……。
 宝石展覧会で“まるで見せつけるように”腕まくりをしたディーノのように。
「っ……!」
――そうか。
 刺青を見せつけていたのには意味があるのだとずっと考えていたが……。

 “ディーノがマフィアなら”、すべて説明がつく。

 宝石展覧会の会場となったホテルの警備システム、主催者に雇われたシークレットサービス、展覧会の来場者リスト、展示されていた宝石の一覧、怪盗キッドの予告状の画像、オレンジスピネルに関する情報、盗品疑惑が浮き彫りになった展覧会主催者側の意見、盗品とすり替えられていた本物の宝石を展覧会に戻した怪盗キッドの記事。頭の中ではこれまで調べた全ての情報がパズルのように埋め尽くされていく。
 さらに、この騒動の中心にあるオレンジスピネルの指輪は、アメリカでの宝石見本市が関係している。見本市で鑑定士が殺されたことと、裏で指輪が高額取引されたことには関連があるとFBIは判断していた。ジェイムズに頼み、FBIから取り寄せてもらった資料を見た秀一も同意見だ。
 この謎を解く鍵であるパズルはもうすぐ完成される。残るピースは二つ。その一つがディーノの存在だ。
 刺青を見せつけた以外にも、ディーノには不自然さがあった。
 展覧会当日、時刻が二十一時に差し掛かる時のことだ。中森警部が警戒するよう呼びかけて報道陣がカメラを構える中、ステージに司会が登壇した。来賓者はざわついていた。会場内は緊迫した空気の下で、数十秒後には怪盗キッドが現れるという期待と興奮が渦巻いていた。近くにいた少年探偵団や女子高生も、そしてコナンでさえ固唾を呑んでその時を待っていた。
 しかし、一組だけ異質な存在がいたのだ。それがディーノとなまえだった。二人はあの空間で“自然体すぎた”。ディーノに腰を抱き寄せられなまえと彼の距離は埋められた。その手つきは強引なものではなく、エスコートするような優雅さとやわらかさ。それが緊張感とは正反対の印象を強くした。顔を近づけて話す姿はまるで内緒話をしているかのよう。周りの喧騒に目もくれず、遠い先を見ているかのような眼差し。場違いな佇まいは、騒然とした会場内の雰囲気に飲み込まれ、存在感さえ薄くなっていた。キッドが施した白煙が止んだ頃には、ディーノ、そしてなまえと『了平』と呼ばれていたシークレットサービスはいなくなっていた。それに気づいた者は、あの会場内にどれほどいただろう。
 また、偽の婚約者としてなまえを紹介したのにも関わらず、クラーラと密会する姿。少女と二人きりの時はまるでハニートラップのように心を許し、見事懐柔に成功していた。
 秀一はパソコンでディーノについて調べる一方、別のウィンドウでは、ディーノが個人的に関わりを持った少女、クラーラについて調べていた。
 クラーラは、イタリアにある貿易仲介業を営むグラツィアーノ社のひとり娘ということがわかった。以前から面識がある様子から、ディーノの居住地か活動範囲がグラツィアーノ本社付近および一帯と重なるのではないかという仮説が浮かび上がる。グラツィアーノ社の社長とその周辺を洗えば、きっと自然とディーノとの接点やディーノについての情報はでてくるだろう。
 ディーノにシャマル、そして以前ていと銀行で起きた金子印事件、その裏で起こっていたマフィア間の抗争、壊滅状態に陥ったファミリー。それらすべてがイタリアに潜む深い闇の中にある気がしてならない。
――もし万が一、なまえがその中へ身を投じているのだとしたら。
 可能性がゼロとは言いきれない。むしろ、あると考えていたほうが良いのかもしれない。
「…………」
 無音の溜息をついた秀一は、閉じていたタブの上でカーソルを動かし、フォルダを開く。数回マウスを操作して印刷アイコンをクリックした。
 それまで静かにしていたプリンターが命を吹き込まれたように動き出す。あらかじめセットしておいた写真用紙が吸い込まれた。
 特有の鳴き声を上げるプリンターから産み落とされたのは、昨夜撮った写真の数々だ。イルミネーションで光るマーケットの景色やクリスマスツリー、観覧車からの夜景の写真を一枚ずつ振り返る。我ながらよく撮れているのではないかと少しだけ胸を張れる出来栄えだ。
 クリスマスマーケットでしか見られない夜景を、マーケット最終日になまえの隣で一緒に見たい。それが彼女を誘おうと思ったきっかけだった。だが、胸の内に秘めていたその思いを伝えるかどうか迷っていた。
 なまえは宝石展覧会から帰ってきてから仕事に打ち込んでいたし、なにより、自分は展覧会で彼女を傷つけたのだ。身勝手な理由でなまえを外に連れ出してもいいわけないだろう。そんな自分の背中を押してくれたのが奈々だった。
 いま思い返すと、なまえの了承も聞かずに半ば強引に約束を取り付けてしまった。しかし、それでも彼女は来てくれた。いつもよりも一層綺麗になって、少し緊張して。
 出会った時からなまえはこちらに合わせてくれていたから、マーケットに行った時はうんと彼女の好きにさせてやろう。約束を取り付けた時からそう決めていた。けれどそれが仇となったのか、彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。呼びかけにも応じず、ただひたすら前を向いて歩くなまえの少し膨らんだ頬と赤く染まる耳に、口元を緩めずにはいられなかった。
 ツリーの前で渡されたクリスマスプレゼントに、胸が詰まるほどの喜びを感じた。沖矢昴でいる立場上、形に残るものはなまえとの思い出でさえ最小限に抑えるように心がけていた。だがなまえの手作りカバーが掛けられたフォトアルバムを受け取った時、まるで『形に残してもいい』のだと言ってくれたようだった。君も俺と同じ気持ちでいてくれたら、どんなに喜ばしいことだろう。
 ありったけの気持ちを込めて、作り物ではない本来の声で伝えた感謝の言葉。その後に垣間見えたなまえの泣き顔が、今でも脳裏に焼き付いている。
――君は聡明で、鋭い洞察力があって柔軟な考えを持つ割に、頑固だから。
 随分前にピアノの前で変声機のスイッチを切ったなまえの言葉が胸に刻まれている。今なら俺も同じことが言える。ずっと君のことを見てきたんだ。俺だって、君の顔を見れば、嘘をつかれたり、なにか隠し事をされていることくらい、すぐにわかる。
 だから、イヴの夜はその頑固さにヒビを入れてみようとカマをかけた。
『これは俺の……いや、なんなら今日一日、“沖矢昴”からのお願いだと思ってくれていい』
『なまえ、今、きみの目の前にいる男の名前は?』
 そして、彼女の反応を見て確信した。
 なまえは――あの子は、『赤井秀一』を知っている。知り得た上で、『沖矢昴』と出会い、生活していた。
 すると、すべて辻褄が合う。共同生活を始めた頃からこちらに譲歩するような振る舞い方も、変声機を見ても何も言わないどころか、首元が隠れるように服を見繕ってくれたことも、全部納得がいった。居心地が良すぎるほどの空間は、すべて彼女のやさしさでつくられていたのだ。
――ならば、なぜ俺に近づいた? 『本当は出会ってはならない』のに。
 思いにふけっていると、数十枚あった写真は一枚を残してすべてアルバムに入れ終えていた。考えはやめずに手を動かしていたらしい。
 表紙に戻り、改めて写真を眺めてはページを捲る。写真の隅に映るなまえは撮られたことに気づいていなかっただろう。
 なまえの頑固さにヒビを入れるようにカマをかけた詫びとして、なまえの視界を遮った。答えを出しやすくするために。だが、本当は涙を拭ってやりたかった。けれど、なまえが勇気を振り絞って沖矢昴の名前を呼んだから。俺があそこで涙を拭ってしまえば、せっかくなまえが頑張って引いた一線を超えてしまうことに繋がりそうだった。
 印刷された最後の一枚である、観覧車の中で夜景に目を輝かせるなまえを撮った写真。それを一番後ろに閉じ込めて、アルバムは完成した。

   *

 ノックをしようと拳を手前に引き寄せ手首を動かす。第二関節が扉に触れる寸前で手を止めて、ドアノブを掴む。細心の注意を払いドアノブを回し扉を開けた。
 なまえが『喉が乾燥するから』と暖房をつけずに眠りに入ったため、室内はひんやりとしている。そっとベッドに近づくと、なまえは布団にくるまっていた。
 秀一はしばらくの間なまえを見つめ、ベッドサイドチェストに持ってきたアルバムを置いた。手作りのカバーが掛けられたままの表紙を撫で、指でトントンとやさしく小突く。
 顔を上げて時計を見やると、普段なら夕食の準備に取り掛かっている時間だった。
「んん……」
「っ!」
 秀一はなまえを振り返る。起こしてしまったかと少し肝を冷やしたが、こちらに背中を向けて丸くなって寝ていたなまえが、寝返りを打っただけだった。
 眉を寄せて眠り続ける頬に秀一は左手を伸ばす。触れた頬は温かくて柔らかい。滑らかな感触に、ほっと息を撫で下ろす。心なしかなまえの表情が和らいだ気がした。
 熱は下がっただろうか。頬から手を離し、前髪を掻き分けて額にくっつける。感覚的でしかないが、朝食前に額で触れた時よりも熱っぽさは感じない。秀一はぬくもりに別れを伝え、名残惜しく左手を離した。
 寝返りを打って乱れた布団が目に留まった。首元まで温かくしていたほうがいいだろう。掛け直してやろうと手を伸ばす。
「ん……?」
 ラウンドネックの寝巻きからキラリとなにかが光った。ベッドに腰掛けて顔を近づけてる。
 輝きの正体は、なまえが肌身離さずに身につけているマンダリンガーネットのネックレスだった。
 それをじっくり見たことは無い。なまえの無防備な首元に顔を近づけるだなんて、今の彼女との関係では起こりえないことだ。指先を伸ばし、柔らかな髪を慎重に払いのける。首筋から鎖骨にかけてが露になった。見つめれば見つめるほどに惹き込まれそうになる。
 秀一は一度目を閉じてゆっくりと瞼を上げた。
 マンダリンガーネットの輝きは色褪せない。それどころか、より一層眩しさは増していく気がした。常日頃から肌身離さず身につけているネックレスは、もはやなまえの体の一部になっているのではないかと考えてしまう。
 秀一はなまえの胴に乗っかるように手を置き、さらに顔を首元に近づけた。ギシリとベッドが音を上げる。なまえが目を覚ます素振りはない。きめ細やかな肌の上に乗っかっているネックレスは、目と鼻の先だ。
 マンダリンガーネットは四ミリほどの大きさだった。ネックレスの造りはシンプルで、石はシルバーの六本爪によってしっかりと固定されている。
 秀一はのそりと腕を動かして、何気なくそれを爪先でつついた。
 オレンジ色が、ころんと転がった。
「ッ!」
 秀一は身体を離し、すぐさま視界を邪魔する眼鏡を外した。そしてまた顔を近づける。目を細めて現れたネックレスの裏側を注視した。
「これは……!」
 ネックレスの裏面には、紋様が描かれていた。アサリと、それから生えた翼、二丁のライフル。それらの中央に一つの弾丸。かなり小さいが、確実に刻まれているそのマーク。
「まさかっ……!」
――なまえの正体は。
 いつか動物園での彼女の話が頭をよぎった。
『いつの間にか名前を与えられて、突然まったく違う環境にやってきてしまった動物は……幸せなのかな』
『……じゃあ、残された家族は? 群れで行動していた一匹が突然いなくなったとして、その群れの動物たちは悲しまずに生きていくんですか?』
――『残された』ではなく、『遺された』、だ。
 なまえは野生動物と飼育動物に焦点を当てたが、「過去に囚われる生き物は人間しかいない」と話した時の反応から、動物というのは例え話で本当は人間のことを指しているのだという予想は的中した。
 彼女はきっとただ嘆いていたのだろう。しかし、それはこの謎を解く鍵となり、なまえが隠す真実を物語っていた。
 そして、ネックレスの裏側に刻まれた家紋。
――ああ、繋がった。
 だからなまえはあれほど頑なに……。
『 ――本当は私、貴方と会ってはいけないんです 』
 ずっと胸に引っかかっていたなまえの言葉がすうっと心の中に溶けていく。
 それは、知らない方がよかったことなのか。それとも知るべきことだったのか。
 背筋をなにかが駆け上がった。微かに肌を震わせたそれは脳の中に直接入り込み、ビリビリと電流を流す様に思考を刺激する。
「ハハッ……」
 秀一は左手で口元を隠した。口角は持ち上がり、唇は歪な形を描いている。

「――してやられたよ、なまえ」

 すべての謎が、解けたのだ。

(つづく)

17,12.23