秘密


 夢と現実の狭間で額に小さなぬくもりが降りてきたような気がして意識が浮上した。
 瞼をあげる。ぼんやりと映し出されたのは、ベッドに寝転がるといつも見上げている天井だった。どのくらい眠っていたのだろう。部屋の中は真っ暗で、閉め切られた重いカーテンの向こうが闇に包まれていることを知らせてくれた。
 懐かしい夢を見ていたように思う。それは目覚めた瞬間に忘れてしまったけど、昨夜の胸がいっぱいになるような出来事とは正反対の内容だった気がした。
 上体を起こして周囲を見渡す。大げさに響く衣類の擦れ音が室内の沈黙を破った。眠っていたおかげか、体調は今朝と比べると調子を取り戻しつつあるけれど、首を動かすとだるく感じる。
 ベッドの傍には椅子が置かれていた。キャスター付きのそれは、普段なら机に仕舞われている。なのにどうしてここに置き去りにされているのだろう。
「あ、そっか……」
――夢じゃなかったんだ。
 秀一が目の前の椅子に座っていたのを思い出し、あれは現実だったのだと実感した。それだけで胸は高鳴ってしまう。速くなる心拍は自分しか知らないことだけど恥ずかしく思えてしまい、落ち着きを取り戻してほしくてそっと胸に触れた。
 単純。こんなことで心臓が速くなるだなんて。
「ばかだなあ……」
 身体は正直だ。心よりも素直に状態を表してくれる。それが最善の策に繋がることもあれば、最悪の結果を招くことになることも。
 体調を崩してしまい、秀一が気にかけてくれたことは本当に嬉しかった。しかし、この熱の正体を知っているだけに、後ろめたさがなまえの中に存在している。
 これは風邪ではない。体調管理は充分気をつけていた。しかし、洞察力に優れた同居人が風邪だと思い込んでくれているのは助かった。昨夜クリスマスマーケットへと連れ出してくれたのは彼だから、少なからず責任を感じているのだろうとは察しがつくため、罪悪感を覚えてしまうけれど。
 熱の正体は、ただの知恵熱。それが答えだった。
 理由は簡単。本当は出会ってはいけないのに。そう理解していても、秀一とともに過ごす未来を望む気持ちが、なまえの身体を時間をかけて蝕んでいった。
 なまえが知恵熱をだすのは、今に始まったことではない。昔から考えすぎてしまって体が根を上げることが多く、その度にシャマルは『なるようにしかならないぞ』と肩の力を抜くように助言をしつつ『飲めば楽になるから』と薬をくれた。詳しい薬の効果や副作用は教えてくれなかったが、シャマルの言う通りそれを飲むと身体が楽になる。しかしいつまでも薬に頼りすぎても駄目だからと、少しずつ頭の中で整理をしてうまく切り抜けていく術を模索する練習をしていった。そのかいもあって、薬に世話になるのは久しぶりだった。
「あれ……」
 時刻を確認しようとスマホが置かれているサイドチェストに目を向ける。そこには、自分で置いた薬と、秀一が持ってきてくれた飲料水の他に、眠る前には無かったものがあった。
 昨夜ツリーの前で手放した、秀一にプレゼントしたはずのアルバム。
「どうして……?」
 ざわりと不穏な予感がする。まさか、昨日は仕方なくその場で貰ったが、やはり要らないと突き返されたのだろうか。
 胸がぎゅっと潰される痛みから逃げるように、なまえは下唇を噛みながらアルバムに手を伸ばす。体調不良のうえにショックを抱えた指先はコントロールが効かなくなり、誤って目標物を落としてしまった。
 ページが開かれた状態で床に接触したアルバムは、手作りのカバーを被せられた背表紙が上を向く。のそりと掛け布団から抜け出し、ベッドに腰掛けてアルバムを拾った。
 フォトアルバム特有の硬い表紙を持ち上げると、想像していたよりも重みを感じた。パラパラとページが捲れていく。
「えっ」
 プレゼントした時には、なにもなかったのに。
「これ……」
 脳裏に昨夜の秀一が思い浮かぶ。

『――写真を撮ろう。まずはこの場でツリーを。そうしたら、もう一度マーケットを巡って、屋台の様子を撮ろう。
 そして帰ったら、早速プリントアウトして、アルバムに飾ろうと思うんだ。スノードームのオルゴールを聴きながら、な。
 ……どうだい?』

 アルバムには写真が収められていた。一枚いちまいの写真をじっくりと堪能してなまえはページを送る。広場に設置された大きなクリスマスツリー、雑貨やクッキーを販売する屋台の数々。そして、観覧車から撮った夜景。昨夜の出来事のはずなのに、夢物語のようで絵本を見ている気分だった。
 楽しいと思えることは日常生活の中で隠れん坊していて、それは心に余裕がない限り見つけることができない。楽しいと思えたことが一日経っても、数日、数週間、数年経ってもその気持ちが色褪せなければ、本当に心に刻まれたことになる。
「初めてかも……」
 楽しいと思えることに、綱吉たちがでてこなかったのは。
 これまで、楽しいと思えたことには、いつも綱吉たちが登場した。皆で遊んで騒いだり、ゆったりと過ごしたりしていても、綱吉たちがいるのと居ないのでは感じ取り方がまったく違った。
 きっと昨夜のことは、この先ずっと忘れられない思い出になるだろう。言葉に乗せた想いも、言葉にできなかった気持ちも、すべて昨夜の彼に捧げてしまった。
「っ……」
 アルバムを腕の中に閉じ込めて視界を遮断した。抱き寄せたアルバムに込められた指先の力に伴うように、胸は締めつけられていく。唇が動いた。
「――あかい、しゅういち」
 あの夜に呼べなかった名前を紡いだ。それだけで込み上げてきたものが零れそうになる。
「赤井秀一」
 目を瞑っていてよかった。じわりと濡れた瞼にぎゅっと力を込める。
「赤井さん」
 涙が頬に伝ってしまったら、きっと泣きやめないだろうから。
「……秀一さん」
 心臓が痛い。どくどくと血液が駆け巡る。吸い込んだ空気がびりびりと体内を刺激した。息をするのが、怖い。
 彼と一緒に過ごした情景が脳裏に浮かんでは消えていく。振り返れば、これまで様々なことがあった。嬉しかったことや楽しかったことはもちろん、つらかったことさえ、すべて大切な思い出だ。
 閉じていた瞼を上げる。愛おしさで胸が張り裂けてしまいそうで、なまえは体の中に溜まっていた息をたっぷりと吐く。吐き出す時間が長引くほど、身体の中が雑巾のように絞られていくみたいだ。
 ゆるく頭を振って顔を上げるとカレンダーに目が留まる。クリスマスイヴが訪れるまであっという間だったのに、それが昨日となった今日、考えることは、あと数日で年が明けてしまうということ。この時期、昨年まではイタリアにいることが恒例となっていた。それもそのはず、年が明けた一月一日は『ボンゴレ式ファミリー対抗正月合戦』を行う掟がある。毎年ファミリーの意気込みを表明しあって同盟ファミリーが闘う行事が行われるのだ。
――今年は……。
 アルバムを抱く指に力が入る。視線を落として無意識に見つめていたのはスノードームだった。
 スノードームの中にある小さな世界は、雪が降り積もり晴れ渡っていた。実はまだ、スノードームに備えつけられているオルゴールを鳴らしていない。昨夜は日付が変わる頃に帰ってきたし、それから寝る支度をした後に、胸の奥が切ない音を立てていることに気づきながらも秀一に「おやすみなさい」と言って部屋に戻ったのだ。心も体も幸福な疲弊を感じていたのに眠りにつけなくて、一度ベッドから抜け出しスノードームをチェストの上に飾ったのが眠る前の出来事。
 どんな音がするんだろう。奏でられる曲は、やはりクリスマス定番のものだろうか、それとも違うものだろうか。帰ったら一緒に聴いてみたいなと思った気持ちは、昨夜から変わっていない。
 なまえは再びカレンダーを見つめた後、スマホに手を伸ばした。両手で握り、親指二本をつかってゆったりと操作を続ける。目的の番号をタップして、スマホを耳に近づける。
 電子音が消えたのは、三回目のコール音だった。
『はい。綱吉です』
「……もしもし、つっくん?」
『うん。久しぶりなまえ……って言っても、宝石展覧会以来だからそんなに時間は経ってないか』
 笑い声を転がす綱吉につられて握っていた拳からは力が抜ける。
 以前は毎日同じ屋根の下で生活していたというのに、今では顔を合わせる機会がめっきり減ってしまっていた。その事実が、彼が中学生で、私が高校生ではないことを突きつける。あれからもう六年だ。その期間はあまりにも長いようで短かった。
「確かに、そうだね。……元気? 怪我とかしてない?」
『残念なことにね。おかげで最強の家庭教師様が、“あれはどうした、これはどうした”ってすごくって』
「年末だしね……でもつっくん、ちゃんとお仕事してるんでしょ? 頑張ってて偉いね」
『ありがとう。そういうなまえは……どこか体調悪いの? 風邪でもひいた?』
「……さすがつっくん。でも、大したことないよ。大丈夫」
『そっか、よかった』
 ゆったりとしたテンポで交わされていた会話はそこで一旦休符を向かえる。訪れた静寂が、伝えなければならないときが近づいていることを悟らせた。次第に心臓は大きな音を立てていく。
「あの……つっくん」
『ん? なあに?』
 涙が出そうなほど優しい声音に手が震えた。
「っ、私……」
 喉でなにかが遮っているかのように、そのさきの言葉が口から出てこない。
『俺ね、そろそろ電話してくるんじゃないかって思ってたよ』
「っ……」
 息を呑む。まるで最初からわかってたとでも言うような口ぶりだ。
――つっくんは、気づいていたのかな。
「ごめん、つっくん。あの――」
 マンダリンガーネットに触れる。このネックレスは、米花に住み着くことになる前日に綱吉がくれたものだ。指先が熱く感じる。
 オレンジ色がきらりと光った。
「私……お正月は、こっちで過ごすよ」
 胸に抱くアルバムを掴む指先に力が入る。
 しばらくの間、時が止まったかのように一切の音が消える。聞こえるのは、ドキドキと騒ぐ心拍と、ズキンズキンと心を締めつける正体不明の音。
 その静寂を破ったのは、電話越しにいる綱吉の、ふっと息を吐いたように笑う音だった。

   *

 通話が終了した携帯の画面は、数十秒後には省エネモードが設定されているため真っ暗になった。口を閉じると持ち上がっていた頬と口角が元に戻っていく。
 背中を勢いよく背もたれに着地させると口から出ていった空気は重苦しい溜息となる。ギシリと鳴った椅子に負荷をかけるように体を預けた。
「……だから嫌だったんだ」
 ぐしゃりと前髪を掴むと、より一層その感情は心に刻まれる。
 通話中に気配を消して入室していたリボーンがなにかを言いたげに見つめてくるが、今はそこまで気が回らない。ここでなまえに話したジョークを咎めてこないのが不幸中の幸いだ。
 のそりと首を動かしてリボーンに目を向けた。おかしいな、もうとっくに成人した男の姿なのに、赤ん坊の時を彷彿とさせるような眼差しだ。
 もう何年も彼の視線は浴び続けてきたんだ。言葉がなくてもなにを言いたいのかは伝わってくる。読心術をつかわなくったって。
「気づいてた……知ってたよ、最初から。あの男が、俺の大事なものを横から掻っ攫っていくこと」
 声に出してみた言葉はとてつもなく痛かった。自分の中で抱いていた思いが形となって第三者に伝わる恐怖。外在化することにより形があやふやだったものは、より明確に、そして直接的にメッセージ性が強調される。
 リボーンは肯定も否定もしなかった。
「それは、超直感か?」
――わかってるくせに。
「違う」
 即座に否定した言葉は刺があった。でも、どうか許してほしい。ボスが座る椅子に座っているからといって、今の心がそれに相応しいとは限らないのだから。
「俺が、なまえの弟だからだよ」
 リボーンの瞳はいつだって確信めいた光を放っている。わかっているなら訊かなければいいのに。俺が今の言葉を声に乗せて自分自身に聞かせる機会をわざわざつくったのだろうか。とんだ家庭教師だ。
 超直感なんてものがなくたって、弟ならわかる。ずっとなまえを見てきたんだ。泣き虫だった俺の手をやわらかく握って隣を歩いてくれていた幼少期。それなのに、気づけば振り返らないとなまえの姿を見ることはできなくなってしまったのだ。俺や皆にただただ微笑み続けたなまえに何度胸が軋んだだろう。
「あーあー! 弱ったなあー! なまえいないと全然勝敗つかないんだよなー!」
 辛気臭さを吹っ飛ばすためにわざとらしく大きな声を上げてみたけれど、自分以外の人間がその話題を受け取り返してくれることもなく、ただただ虚しさだけが増していった。
 ボンゴレのはじまりは自警団である。地域の人々との交流を大切にしていたからなのか、それとも単なるお祭り好きなのかはわからないが、なにかにつけてボンゴレはイベントを開催するのだ。その一つが『ボンゴレ式ファミリー対抗正月合戦』である。これはもはや習慣というよりも掟になっており、毎年の恒例行事だった。
 同盟ファミリーが集まることに問題はない。だが、血祭りになるのはどうにかならないものかと綱吉は正月が近づくたびに頭を悩ませている。今年欠席が確実になったなまえは闘いに参加することはないが、毎年彼女の存在は欠かせないものとなっていた。なまえは、血の気の多いマフィアたちを穏便に戦闘の終息へと向かわせる術をもっている。この技量は彼女の右に出る者はそうそういないだろう。そしてなにより、なまえがいる方がマフィアたちがこちらの話に耳を傾けてくれる。昨年は、ヴァリアーがルール説明を無視して先手必勝と突然攻撃を仕掛けてきたりもした。今回だってやりかねない。
 綱吉は数日後の地獄絵図を思い浮かべながら、なまえの言葉を一瞬忘れようとするために目の前の書類にかじりつき万年筆を走らせる。上質な紙に刻まれた自分の名は笑ってしまうほど歪んでいた。乱暴にペン先を離したことが一目瞭然だった。
「ツナ」
「なあに? そういえば用事でもあった? 追加の書類?」
「……いや、なんでもねぇ」
 リボーンに顔を向けることなく忙しいオーラを全力で醸し出すと、彼はくるりと背中を向けて扉に歩き出す。
「……とうとう姉離れの時期か」
 リボーンが退室する。ボソリと呟いた言葉を俺は拾うことが出来なかった。
「なにしに来たんだアイツ……」
 小言の一つや二つ零されると思っていたが、予想は裏切られた。呆気にとられた後、再び綱吉は書類に筆を走らせる。
 自分のサインが雑になってくるのをひしひしと感じながら次に引き寄せた書類は、スパナからのものだ。宝石展覧会で使用したワイアレス通信機と連動しているマイク、そしてコンタクトディスプレイに関する講評をしてほしいとのことだった。
「やば……」
 うっかりしていた。展覧会後すぐに書いてほしいと頼まれたものだったが忘れてしまっていた。スパナは普段マイペースだが、発明品にかかわることだと期日はしっかり守る。もしかしたら今頃、俺からの講評がないことにやきもきしてるかもしれない。
 綱吉は宝石展覧会の夜を思い出しながら再び書類に向き直った。頭の中で思い浮かぶ言葉を文章にしてペン先を握る。さらさらとペンが走る音だけが響く空間で、綱吉の脳裏に浮かんだのは、展覧会で聞こえたとある言葉だった。
『――まるで、自分は自分が幸せになっちゃいけないって無意識にでも思ってそうなとこ』
 当時、室内で待機中、耳に飛び込んできた会話に目を丸くしたのを覚えている。話の流れでは、このディーノの言葉は降谷零を指していた。しかし、本当はなまえを指しているということに綱吉はすぐに気がついた。
 なまえはいつも、自分より他者を優先した。他者の中でも、特に俺や、俺の友人。もう少し視野を広げると、ボンゴレの関係者や、一度拳を交えたけれど交流が続く者達。
 なまえ本人が自分のことを言われていると気づいたのかは定かではない。だが綱吉は、確かにディーノの言う通りだと思った。だから俺は、なまえが『助けたい人がいる』と言った時、そして米花に行くことを決めた時に、姉の背中を押すことしか出来なかった。
 初めて彼女が“身内”以外の人間に対して関心を持ち、自らなにかしてあげたいと行動に移そうとした。それがどれほど嬉しくて、どれほど切なかったことか。
「おや、なまえは今年欠席ですか」
「っ! ……盗み聞きだぞ、骸」
 気配を消して近づくのが決まりだと言わんばかりに現れた。
「君がいつまでたっても応えてくれないから勝手に入ってきましたよ。ノックの意味、ご存じですか?」
 どうしてこの男は一言多いような話し方をするんだろう。丁寧な物言いをしているはずなのに、なぜだかこの男の言葉は癪に障るときがある。
「残念ですねえ」
 大げさに肩をすくめる骸に、綱吉の眉間に刻まれた皺はさらに濃くなった。
「他人事だと思ってるだろ」
「もちろん。僕は幹事でもなんでもないですし。なまえと食事を共にするために参加しているだけですから」
「……来年から当番制にしてやる」
 骸のマフィアを憎む姿勢は、出会った当初から変わらないどころか、さらに酷くなっていると思う時もある。けれど、数々の死線をくぐり抜けた現在、ファミリーで集まらなければならない時には渋々といった様子だが参加してくれるようになっていた。
「それで? 僕を呼び出したのは?」
「はあ……わかってるくせに」
 絵になるような緩やかな曲線を描く唇に溜息をつき、綱吉は机に置いてある資料に手を伸ばす。
「ルドヴィコの件だけど」
 綱吉は、クラーラの執事であり、ルドヴィコファミリー関係者とされた執事の調査報告書を骸に渡した。
 受け取った骸は紙のファイルを開き、イタリア語の文書に目を通す。
「……妹を人質にされて仕方なく、ですか」
 記載された情報は、男の家族構成と生育歴、そしてルドヴィコとの関係についてだった。
「妹とはひと月に一度の、しかも電話での接触だけらしい。それも一分ほど、時間制限つきのね。解放してほしいのならこちらの指示通りに働け、と。
 あの令嬢から話を聞いたディーノさんにも確認してみたけど、やっぱりグラツィアーノ社内がきな臭くなったのは、執事が令嬢家に雇われてからみたいだ。令嬢もはっきりしたことはわからなくても、“以前とは違う、何かが変わった”という違和感を覚えていたらしい」
「貿易仲介業の陰に隠れて薬を横流し……ねぇ」
「グラツィアーノが関わっている取引先、とそのまた得意先もすべて洗ってもらったよ。そこに書いてある通り、商品の詳細を見てみると、これまでと比べて量が増えている物がいくつかある。あと、薬が流れていることに気づいていると考えられる企業も数社……。この数字が増えるのも時間の問題だ」
 汚らわしいものを見るように顔を顰める骸に、こいつは案外正直ものだと心の片隅で零す。
「薬の受け取りはルドヴィコから毎回、指定された日時に執り行われる。次回の受け取り日、キャバッローネが現場を抑える」
「それまでは様子見ですか?」
「事実上、あくまでルドヴィコの活動区域はキャバッローネが治める領地内だからね。まずは見守ることしか出来ないよ」
 不安がないといえば嘘になる。いくら凄腕の兄弟子であっても、怪我をしないとは限らないし、現場を押さえた結果、現状がどう転ぶかわからない。
 綱吉は深く息を吐きながら背もたれに体重をかけた。
「ヴァリアーもなんだか動いてるみたいだし……XANXUSは教えてくれないけど」
 自分から訊きに行かなければならないのかと思うと気が重くなる。
――生きて帰れるかな……。
 XANXUSは絶対に、今なにを考えていて、今後どう動くのかなんてことは教えてくれないだろう。過去に訪れた十年後の未来では『十代目ファミリーを支持する』と言ってくれたこともあるが、現代に戻ってきた今、相変わらずヴァリアーはその名の通り独立姿勢を貫いている。
「ヴァリアーも相変わらずだ」
 嘲笑にも似た笑みを浮かべた骸に、綱吉は口元でへらりと笑うことしか出来なかった。その笑みには『お前もな』という意味合いが込められている。
 ヴァリアーに限らず、綱吉から見れば『相変わらず』なのは骸も同様だった。マフィアを憎む姿勢も、自分たちボンゴレに対するやりとりも、クロームたちに対するわかりずらい優しさも、そして――。
「……あの、さ」
 戸惑いの色を孕んだ綱吉の声に骸は首を傾げる。言葉を待つその仕草に、綱吉は問いかけた。
「骸はさ……どうなの?」
「なにがですか? 言葉足らずでなにが言いたいのかわかりません」
 唇の端を上げて見下ろされる。ああ、この顔さっきも見たぞ。綱吉は唇を尖らせた。
「……わかってるくせに」
「おやおや。心を読まないで頂きたいですねえ。親しき仲にも礼儀あり、ですよ」
「なにが“親しき仲にも”、だよ」
「クッフフ……」
 骸に彼女のことを面と向かって訊くのは、今日が初めてのことだった。触れてはいけないような話題に介入している気がして、綱吉は骸から見えない様に手を隠し緊張を握る。
「相変わらず姉離れができませんね、沢田綱吉」
「……なんとでも言えよ」
 なんとでも言えばいい。きっと、誰にもわからない。わかってほしくない。俺がどれだけなまえのことを大切に思っているか。
「なまえが帰ってこないということは、年末年始もそのまま米花で過ごすんですね。あの男と一緒に」
 骸はそこで一旦言葉を切ると、口笛を吹くように軽やかな声を漏らした。その声はまるで初代霧の守護者であるD・スペードのようだった。
「いいじゃないですか」
 一瞬、骸が何を言ったのかわからず、言葉を失った。
「僕は、彼女のすべてを受け入れます」
「っ! どうして……!?」
 骸がなまえに特別な感情を抱いているのは知っていた。それも骸がまだ黒曜中の制服を着ていた頃に遡る。最初はなまえを利用しようと誘拐したけれど、骸と対峙した時、明らかになまえを見つめる瞳だけは違っていた。そして、骸が復讐者――法で裁けぬ者を裁くマフィア界の番人――に連れていかれる際、涙を流しながら骸を見つめていたのはなまえだ。この時から、二人の間には誰にも入り込めない絆が生まれていた。
 なまえはもとから、他者との関わりが非常に上手い人だった。それはもはや一種の才能とさえ思えるほどに。誰かが言っていた。なまえは、相手の懐に入り、心だけでなく相手の運命まで狂わせてしまいそうだと。
 骸となまえは、誰にも触れられない深い深い部分で通じあっている。それがなんなのか、俺にはまだわからない。十年後の世界へ行ったとき、なまえが抱えている“なにか”の片鱗を見たが、それっきり。白蘭や骸、リボーンとユニは詳しいことを知っているようだったけど、誰もがその話題に踏み入れてはいけないと判断していた。
 だからなのか。『すべてを受け入れる』と言えるのは。家族でありファミリーである大切な彼女が、ぽっと出の男の元へ行ってしまうことについて、なにも抱かないのだろうか。
「おや? そんなに驚くことですか? 僕がなまえに執着してるとでも?」
「違うのか」
「クッフフ……」
 窓に近づく骸を追って綱吉はくるっと椅子の向きを変える。
 骸は静かに窓を開けた。冷たい風を迎え入れる。中学の時よりも長くなった後ろ髪がふわりと揺れる。骸は笑みを浮かべてゆっくりと振り返った。

「なまえは、僕のコゼットだからですよ」

 綱吉の頭に浮かんだのは二人の男。
――お前は、どっち?
 一人はマリウス・ポンメルシー。そしてもう一人は、ジャン・バルジャン。どちらも、ロマン主義のフランス文学である大河小説にでてくる登場人物の名前だ。もちろんコゼットも、その作品に出てくる名前だった。
 はたして骸はどちらなのだろう。
――もし、後者だとしたら。
 件の小説が実写映画化したものを、綱吉は機会に恵まれて度々観賞したことがある。しかし、ラストシーンは感涙にむせぶため、一度もエンドロールまで見届けられたことはなかったのだ。

 綱吉はこのとき初めて、この男を美しいと思ってしまった。

17,12.31