道化師の夢と目覚め


 冬の澄んだ空気は日に日に透明度を増していた。
 窓を開けると突き刺すような冷気が肌を掠めていく。普段の呼吸よりも少し長めに吸い込むと、体の芯にまでひんやりと溶け込んでいく感覚を覚えた。ゆっくりと吐き出した吐息は色づき、景色に白い花を添えていく。短命なその花はあっという間に消えてなくなってしまった。しかし、目に見えなくても同じ空気なのだから、自分の周りには満映しているはず。
 目に見えないものはいつだって不確かさが伴っていた。言葉や行動では表現しきれない感情は、触れることも出来なければ目にすることも叶わない。表現する術を持ち合わせていないこともあれば、あえて表現することをしないという選択肢も存在する。
 特に人への好意というものは非常にあやふやなものである。想いが目に見えず触ることさえ難しくても、確かにここに存在するのだと確信を得たとき、それは何事にも代えられない喜びになることだろう。
 けれどそれすらも、時が経てばそこに存在することが日常となり、慣れが生じてくる。そうして、“慣れ”はいつしか透明となって消えていくのだ。そしてある日、突然それは色づいたり肌に突き刺すような冷たさをはらんで存在を主張し、現実を突きつけるのだった。

   * * *

 なまえが熱を出してから三日が経過していた。昴の看病のおかげか、はたまたシャマルの薬が効いたのか、翌日にはすっかり調子を取り戻したなまえは、寝込んでいた分の家事に力を入れていた。
 カレンダーの数字は刻々と新たな年の訪れを告げている。クリスマスから大晦日まではあっという間だと理解していたものの、歳を重ねる度にこの数日間が過ぎるスピードが早くなっている気がしてならない。
 綱吉がまだ幼い頃は、クリスマスの終わりを惜しむ様子に耐えかねて、母とともに少しずつクリスマスを正月に模様替えしていったのはいい思い出である。中学生になってリボーンがやって来てからは、彼の監視の元より一層徹底的に、また大々的に大掃除を行ったものだ。あの頃はビアンキやフゥ太、ランボにイーピンなど人手も充分だったため家中隅から隅まで一日で掃除できたが、現在それは難しい。
 邸宅という言葉がぴったりと当てはまるこの家は、一日で掃除を終わらすことなど不可能だ。それゆえに、体調が回復してからなまえが行ったことは、大掃除の各日程を決めて実行に移すことだった。どんなに高く乗り越えなければならない壁であっても、計画的に進めていけば終わる。それは翻訳の仕事に就いてからひしひしと実感して学んできたことだ。
 ボンゴレの恒例行事には参加できなくても、年の瀬の恒例行事には勤しまなければならないのである。
「今日のノルマは、お風呂とトイレ及び洗面所、そして書庫です」
「……病み上がりなのだから今日こそ休んだらどうだ?」
「却下! 昴さん昨日もそうやって大掃除なくそうとしたじゃないですか! やりますよ、昨日のように、徹底的に!」
「いつも綺麗に使ってるじゃないか……」
 なまえはジャージを着込み、髪が邪魔にならないようにお団子にまとめてマスクをつけていた。いつでも大掃除を開始できる準備万端な格好だ。
 それに引き換え昴はというと、なまえのように汚れても良い服装でもなければ、マスクをつけていることもなかった。しかし、指定した時間に玄関前に集合するという約束は律儀に守っているのだから、及第点と言える。
 なまえはマスクを顎まで下ろした。
「世間の勢いに乗って大掃除せずに、いつやるっていうんですか! お家借りてる身なんだからしっかり綺麗にしないと!」
 なまえは家主を思い浮かべる。あの忙しい夫妻のことだから、年末年始に帰国することはあまり考えられない。しかし、だからといって掃除をしないなどということはありえないのだ。この家で暮らしていられるのは彼らの好意があってこそなのだから。
 なまえは明らかに渋い顔をする昴に追い打ちをかけるように声を潜めて呟いた。
「昴さんがたまに手抜いて掃除してるの知ってるんですよ」
「おや、バレてたか」
 呆気からんとする態度になまえの頬は自然と膨らんでしまう。
「ちゃんと見てますよ。お掃除場所も、昴さんも」
「っ!」
「ん? ……あっ」
 息を呑んだ昴に何事かと首を傾げた直後、なまえは自分の失態に気づき声を漏らした。
 なにを口走っているんだ。自覚した瞬間にじわじわと頬が火照り始めるのを思い知る。
 これでは、こんなの、あまりにも……。
 混乱しそうになる思考を追い払うようになまえはぎゅっと目を瞑った。いけない、今はそんなことをしている場合ではないだろう。やるべきことはただ一つ、目の前のこの男を大掃除に参加させることだ。
 わざとらしく咳払いをして気持ちを切り替える。
「じゃあ、そういうことで昴さんはお風呂とトイレお願いします」
「ちょっと待った。そういうこととはどういうことだ。ここは公平に掃除場所を決めようじゃないか、じゃんけんで」
「そう言って昴さん、お風呂掃除嫌なだけでしょ」
「そ、」
「駄目です。昴さんに書庫任せたら絶対に本読みふけって掃除どころじゃなくなるもん」
「…………」
 押し黙る様子に図星だろうなと予想する。先ほどの失態を思い出しそうになる前に、無言は肯定とみなし話をまとめることにした。
「お掃除、よろしくお願いしますね」
 念押しするように笑顔を心がけると、昴は一瞬唇を尖らせた。
――この顔、ぜったい了承してない。
 家事に関して面倒くさがりなところがあるのは既に把握済みである。共に生活を始めたころは、不慣れなところもあるのかなと考えていたが、その予想はしばらくして呆気なく打ち砕かれたのだった。あらゆる家事において大雑把な部分を確認できてしまったからだ。煮込み料理以外も作れるようになったくらいの時期からは、化けの皮が剥がれたように面倒くさがりな顔が垣間見えるようになった。
 彼が口を開く前に早くこの場を立ち去ろう。なまえがマスクを着けようと手を掛けた、その時だった。
「――じゃんけんポン!」
「っ! ……わあ」
 不意打ちで掛け声を出されても反射的に手を出してしまうのはこれまでの経験の賜物だろう。なまえは唐突に昴が挙げたじゃんけんの合図に、マスクを着けようとした手を咄嗟に昴へ向けた。
「…………」
 じゃんけんの結果は、昴が出したのがパー、なまえはチョキだった。
 昴の眉間に皺が増えたのをなまえはしっかりと視界に入れる。たぶん秀一は、突然じゃんけんを仕掛けられると人はグーをだしてしまう傾向にあることを踏まえてパーを出したのだろう。
「やった! これ勝った人がお掃除場所決める権利があるんですよね? それじゃあさっきのように」
「待て、三回勝負だ」
「だーめー」
 こうしてるうちにも時間はどんどんなくなってしまう。
「そもそも、なぜ分担してやらなければならない? 一人が持ち場を終わらせてまだ掃除をしているもう一人を手伝うのなら、最初から二人がかりで掃除していけばいいんじゃないか?」
「そんなこと言っても決定は決定です。早く始めないと日が暮れちゃう。さ、取り掛かりますよ」
 確かに秀一の意見にも一理ある。しかし、これ以上一緒にいれば、これまで胸の奥深くに隠しておこうとしたものをポロッと零してしまいそうで怖かった。
 彼への想いを自覚したのは随分前だったけれど、きちんと受け止めたのはつい数日前のことである。一度受け止めてしまえば、受け入れるしかなかった。
 秀一に『出会ってはいけない』という葛藤を忘れたわけではない。むしろ、出会う前からずっとずっと抱えていたのだ。一緒にいて仮面の下の『赤井秀一』が垣間見えた時やそれを感じた時、はたして自分はどうすればいいのか。身体も心もきっと反応してしまうに違いない。だめだ、こんなの恥ずかしい。恥ずかしいに決まってる。
 なまえは軽く頭を振って気持ちを切り替える。深呼吸をひとつしてから、秀一に背を向けて書庫へ向かおうとした。けれど、それは叶わなかった。
 後から突然現れた腕が肩に回され、ぐっと引き寄せられてしまった。
「わっ」
 足がもつれて尻餅をつきそうになる。バランスを取ろうにも、胸の上に現れた上腕によって後ろへと誘われ、堅い胸板が背中にぶつかった。
 転倒せずに済んで安堵したものの、後ろを振り向くことも見上げることもできない。今のなまえにできることといえば、少し下を向いたすぐそこにある逞しい腕に視線を向けることが精一杯だった。
 後方でピッと電子音が鳴る。
「ちゃんと見ていてくれないと、サボってしまうかも」
「ッん……!」
 耳から風を送るように注がれた声が、肌の上を駆けずり回った。感覚の逃げ場をなくし、ぎゅっと目を瞑り肩を縮める。
 最悪だ。なんでこのタイミングで変声機を電源を切るの。
 なまえは声を漏らしてしまった情けない下唇を噛む。首をすぼめるとくつくつ喉の奥で笑う音がした。バッと顔を上げると、いつしかの夜くらい近い距離に一瞬呼吸を忘れてしまった。
「いいのか?」
 目が合う。低い声とちぐはぐな顔が楽しそうに笑みを深めていた。

 その後、なまえの努力は彼の笑顔に負けて、掃除場所は分担せずに二人で行うこととなったのだった。
 大掃除は順調に事が進み、今日のノルマである三箇所は時間をかけてピカピカに仕上がった。
 掃除はまず、一番時間がかかると思われた書庫から始まった。開始当初は秀一も率先してハタキを掛けたりしていた。しかし、暫くすると普段は手に取らないような高い棚に鎮座している書籍を脚立に座り読みふけっている姿を見つけた。
 やっぱりという諦めとともに、こうなった秀一は普段通りに話しかけても反応が返ってこないことをなまえは熟知していた。そのため、読書に集中するくらいなら書庫の掃除はしなくていいと声を掛け、洗面所の掃除を一任して書庫から追い出したのだった。
 秀一を洗面所へと追いやってから一人せっせと書庫の掃除を進めていると、掃除が終わったと報告に来た声に誘われて彼お手製のサンドウィッチを食べた。
 休憩を挟んで書庫の掃除を再開した。今度は秀一も一緒に。「やはり一人よりも二人、だろう?」と笑った彼は、今度は本の誘惑に負けることなくいそいそと掃除に励んでいた。
 長かった書庫掃除も無事終了し、おやつを食べながら休憩した後は風呂掃除となった。休憩前に引き続いてそのまま二人がかりで行ったが、風呂掃除も終盤に差し掛かったところで、なまえは誤って思い切りシャワーを被ってしまった。秀一にそのまま入浴を勧められ、本日の大掃除終了に伴いなまえはそのままバスタイムに突入したのだった。
 一日の疲れを労うようにゆったりと浸かってから風呂から上がると、秀一は既に夕食を作り終えていた。そして「せっかくだから」とエプロンを外し、普段とは比べ物にならないくらい早い入浴を済ませていた。たぶん、なまえが秀一と暮らし始めて、彼がこんなに早い時間に風呂に入るのは初めてだった。
 夕食はしっかりと煮込まれたハヤシライスを美味しく頂き、食後になまえが二人分の食器を洗っていると退室していた秀一が戻ってきた。
「ありがとう」
「いえ。美味しいご飯とお掃除手伝ってくれたから」
「手伝い? 二人で住んでいるんだから一緒に掃除をするのは当然だよ」
 冷たい水が少しだけ温くなった気がした。
 泡をすべて流し終え、水道の蛇口を閉める。最後の食器を水切りに静かに置き、洗い物は終了した。
「またそんなこと言って。掃除始める前の昴さんの嫌そうな顔、わたし覚えてますよ」
「それはそれは。記憶力の良いことだ」
「んぅー……昴さん忘れたんですか? 思いっきり眉間に皺寄せてたの」
「いいや、覚えてるさ。特に、なまえを抱き込んだ時の可愛らしい反応とかな」
「ッ!」
 そんなこと言われるとは思いもよらず、バッと秀一を振り返った。胡散臭いほどに爽やかな笑みを浮かべている。
「かっ、は……えっ?」
 徐々に近寄ってくる秀一に次は何をされるのかと睨みを利かせていると「それは逆効果だ」手を伸ばせばすぐに触れられるところで彼は歩みを止めた。目をそらしたら負けだと、勝負をしているわけでもないのにじっと睨み続ける。
 ふっと笑うような吐息が秀一の唇から零れたと思ったら、ぐっと接近してきたそれが耳元に色づいた声を零れ落としていった。
「耳、弱いのかな?」
「ーっ! かっ、からかわないでください!」
 なまえは耳を押さえ後ずさる。
 クリスマスの夜を越えてから、もしくは看病をされてからというもの、秀一のスキンシップに幾度となく翻弄されていた。
――なんなの、午前中といい今といい、この耳攻撃はなんなの!?
 なまえは、もはや胸の高鳴りを通り越して恐ろしささえ感じてしまう。もしかして、なにか悪巧みでもしているのではないのか。まさか、今日がんばって掃除したから明日はやらないとか言いだすのではないだろうな。
「……もう洗い物も終わったので上がりますね。お掃除、お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします。おやすみなさい」
 そうと決まればさっさと逃げてしまうのが勝ちだ。
 なまえはなんだか面倒くさいことが起こりそうな予感を察知し、そそくさと挨拶をしてキッチンを抜け出そうと努めた。しかし秀一はそれを読んでいたのか、片手をポケットに入れ、壁に左半身を寄りかからせて行く手を阻んでくる。
「すまない、からかいすぎたよ」
 その体勢のまま謝る姿に、イタリアにいた時に同じようなことをよくやられた覚えがある。なまえは頭の片隅でふと思い出した。俗に言う『海外版壁ドン』と話題になった姿勢だ。彼の仮面を剥いだ本来の姿で目の前に広がる立ち姿を想像してしまったのは、誰にも言えない秘密である。
「久しぶりに、一緒に飲まないかい?」
「え……」
 真剣な眼差しでなにを言い出すのかと思っていたら、予想を上回る言葉になまえは目を丸くした。
「お疲れ様と、明日もよろしく、という気持ちを込めて」
――ああ、そういえば。
 意識したようにゆっくりと目を閉じた昴は、唇から微笑み浮かべて瞼を上げた。
「君は覚えていないかもしれないが……約束を。それを叶えたいまでのことだよ」
 少し掠れた熱っぽい声は、きっと変声機の不調ではないだろう。
――以前にも似たようなことがあった。
 約束という言葉が耳の奥で引っかかる。火照り始める頬を無視して、冷静になるためになまえは脳内でそんなことを考えた。

   *

 場所をリビングに移した二人はテーブルにつまみになるものを広げ、ソファに並んで座り並々と注がれたグラスを鳴らした。
 昴はバーボン。なまえは、彼がなまえのために用意した甘口のフルーツワイン。酒の得意でないなまえに合わせて度数が低めのものを選び抜き、購入してきたらしい。
 呑まずにじっと見つめてくる秀一に耐えきれなくなったなまえは逃げるようにグラスを傾けた。ボトルを開ける前に話を聞いていたように、酒というよりもまるでぶどうジュースのような味わいに、自然と頬は緩んだ。
「美味しい! やっぱり昴さんの判断はさずがです」
「お気に召してくれたのならよかったよ」
「んふふ、今日はいっぱい飲んじゃおう」
「病み上がりなのだから程々にしておかないとだめだぞ」
「今夜だけ特別に『良薬は口に甘し』にします」
「おや、あの錠剤は苦かったのか?」
「もう……ものの例えですよ」
 テンポの良い会話は二人から自然と笑顔を引き出した。共通の趣味でもあり話題が豊富な書籍の話やウイスキーをはじめとした話、沢田家での大掃除事情等、会話は尽きることがなく和やかな雰囲気のなか交わされていった。
 口調がゆったりとなってきたことに気づき、先にグラスを置いたのはなまえだった。これ以上飲んでしまうと明日に支障が出るからと謝ると、「自分のペースでいいんだよ」と微笑まれドキリと胸が高鳴ってしまう。
「こんなにゆったりと年末を過ごせるのは久しぶりだよ」
「今まで忙しかったんですか?」
 深くは考えずにするっと口からでていった質問。まさかこの言葉が引き金になるなんて、この時のなまえは想像もしていなかった。
 静かにグラスを置いた秀一の唇が、片方へ歪んでつり上がったように見えた。
「ああ。年末は特に、犯罪が増えるからな」
「……え?」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「特に子どもや女性を狙った犯罪や、金品目的の強盗、空き巣といった犯罪が目立つ。クリスマスから大晦日にかけては金が動くから、それも少なからず関係しているんだろう。下っ端の頃はよく凶悪犯罪や殺人事件の対応をしたものだよ」
――まさか。
「っ……!」
 目の前の男が音もなくただただ静かに笑った気がした。
「君は――」

 ドサッ

「す、ばる、さん……?」
――なにこれ、なんで突然押し倒されてるの?
 胸を手で押すびくともしない。抜け出そうと試みたが、胸に触れた手首を片手でひとまとまりにされてしまう。倒されたことでソファの上にのし上げられた両足の間に膝が割って入ってくる。
――逃げられない。
「やっ、なに……!? 昴さん、どうしたの、どいて……」
「“本当は貴方に出会ってはいけない”」
「っ!?」
 ふわふわとした意識が一気に覚醒する。身体がピシリと凍ってしまったように動かなくなった。胸を押していた手から力が抜ける。真っ直ぐと見下ろしてくる双眸から目が離せない。手首を捕まえていた武骨な手が離れていき、首元を覆っていたセーターのネック部分を下ろし、黒い機械の中心を押した。
 手首を掴んでいた昴の手がゆっくり離れ、変声機のスイッチを押した。無骨な手が顔を挟み込むように両耳の隣でソファに沈む。
「答え合わせをしようじゃないか。――なまえのホームズとして」

(つづく)