奇妙な現実


 共同生活が始まって一週間と少しが経過していた。初日からここまでを振り返ると、あっという間だったと素直に思える。
 日々、なまえとの生活は、驚くことばかりである。
 まず、これが大和撫子かと思ってしまうほど、なまえは何もかも完璧だった。
 彼女の作る料理は、毎食美味いのは当たり前だし、バランスが取れているものばかりだった。赤・緑・黄色の仲間という、幼い頃スクールの食育の時間に耳にタコができるほど聞かされたフレーズを思い出す。そのおかげか、時々重く感じるだるかった体が改善されたように感じる。食生活をきちんとすることはここまで効果があるのかと目を丸くした。
 また、なまえはおしとやかでよく小さなことでも気づく。ボタンが解れそうになっていれば縫ってくれたり、料理に至っては昴が好む味付けを数日で熟知していた。
 隣の阿笠博士や小さくなった志保を初め、少年探偵団の子どもたちに好かれるのもわかる。先日2人で阿笠邸を訪れた際、嫉妬に駆られた瞳で志保に睨まれたことは記憶に新しい。彼女への疑いはまだ晴れていないため、きっと牽制の意味も含まれているのだろうが、あの目は絶対に渡さないとでも訴えるような瞳だった。
 一見大和撫子ななまえだが、怒らせるととても恐ろしいことを昴は学んだ。怒鳴り散らすことはなく、ムスッとしたままということもない。まるで母親が息子に注意をする雰囲気で、こちらの心情をすべて見抜いた上で小さい子どもを諭すように語りかけてくるのがなまえの怒り方だった。いや、怒り方と言うより、叱り方と言う方が正しい表現かもしれない。
 若い頃、真純の面倒を見るのを放ったらかしにして遊びに行こうとしていたのが母にバレ、蹴り飛ばされたりしたことが多々あったが、それとは違った怖さがなまえにはあったのだ。
 なまえを怒らせてはいけない。注意されたことは、もう二度と言われないようにしよう。
 それが共同生活を始めて、昴が肝に銘じたことだった。
 秀一の生活習慣は、工藤邸で暮らし始めた頃とは一八〇度変化していた。

   * * * 

「おはよう、昴さん。今日も早起きできましたね。そういえば昨日、昴さんお風呂入ってませんでしたよね? ご飯の前にシャワー浴びますか?」
「…………そう、します」
「っ……シャワー浴びたらきっと目が覚めますよ」
 なまえは笑いを堪えながら、まだ半分眠りの世界にいる昂の背中を押して浴室へ連れて行った。
 昴を脱衣所に押し込むと、一旦昴の部屋に行き、着替えを持って戻った。昴は畳んだ洗濯物をそのままにしておいていたため、下着など目にしなくて済んだ。
「着替え、ここに置いておきますからねー」
 きっとシャワー音であまり聞こえていないだろうと思いつつ声をかけ、書斎を片付けに向かった。
 数十分後、シャワーを浴び終えすっかり眠気が覚めた昴は、棚からバスタオルを取り出し体を粗方拭き終え、下着とスリムパンツを履いた。頭の水気をタオルで拭き取りつつ、シャツを着る前に変声機を付けようと棚に手を伸ばすと、その手はピタリと空中で止まる。
「……?」
 片手で畳んであるシャツの襟を掴み、バサッと広げ、もう片方で置いてあるタオルをどかし、棚を見る。そこには何も置いていなかった。
 ――ない。変声機が。
 試しに他の棚も探してみる。置いてある洗剤や石鹸をどかして奥に入り込んでないかと見てみるが、ない。
 落としたことに気付かず蹴飛ばしてしまった可能性もあると考え、しゃがみこんで洗濯機と壁の間等探してみるが、ない。
 扉を開け、洗面台の方まで探したが、ない。どこを探してもない。
 昴は顎に指を当てて記憶を巻き戻そうとする。
 ――俺はなぜ、シャワーを浴びた……?
 シャワーを浴びる前の記憶がない。ついでに言うならば、思い出せる記憶は、なまえから土産にともらったバーボンが予想以上に美味くて、いつものように書斎で飲みながら本を読んでいた記憶しかない。
「Damn it!」
 まだ乾ききっていない頭をガシガシと掻く。
 このままここで服を着て、部屋まで戻って探すか。いや、なまえに姿を見られれば、そのまま食卓へ導かれてしまうだろう。それを断わろうにも変声機がなければ声さえ出せない。どうする。
 昴が最善の作を導き出そうとしていると、焦りを助長させるかのように、ノック音が鳴った。
「昴さーん、シャワー終わりました? まだ着替えてたりします?」
「っ……」
 思わず舌打ちしそうになってしまう。
 まずい。変声機がない今、このまま声を出せば赤井秀一の声のままだ。沖矢昴ではない。完全に怪しまれる。それどころか、なまえは聡いからきっと何か気付いてしまう。
 悶々と考えを巡らせていると、ノブを回す音が洗面所に響いた。
「あっ……開いてる。開けますよー?」
 洗面台に両手をついて俯いていた昴は顔を上げた。これからどうするか……まだ決まっていないが、このままでは怪しまれる。
 昴はなまえに向き合う。すると、目を疑った。
「これ、昴さんのじゃないですか? 書斎の机の下に落っこちてましたよ」
 なまえが持っていたのは、今まで必死になって探していた変声機だった。
「大事なものなら、ちゃんと定位置に置いておかないと……寿命が縮まっちゃいますよ?」
 なまえは唖然としている昴に近づき、右手を取って変声機をその手に載せる。
 昴が手に乗った変声機を見つめていると、なまえは昴から離れ、扉を開けた。
「昴さん意外と抜けてるところあるんですね。かわいい」
 振り返って楽しそうに笑ったなまえは部屋を出ていった。
 パタンと扉が閉まり足音が遠ざかると、昴は力が抜けたように洗面台に腰を預けた。
「はぁー……」
 変声機を持っていない手で顔を覆う。
 ――ボウヤ、やってしまった……。
 秀一は思わず天を仰いだ。

16,08.22