道化師の夢と目覚め


 秀一の手によってソファに沈められたなまえは、暴れるどころか声を上げることもできなかった。逸る心臓の音を感じては唇が震えそうになる。一時、彼によって拘束されていた両手は情けなく胸の上に降りてきた後に、電池が切れたようにそこで動きを止めた。力が入らないのに、全身は強張っている。
 こうなってしまった原因である男から、なまえは目を逸らすことができなかった。
「ここに辿り着くまで、長い旅路だったよ。まるで複雑な路地に迷い込み、霞がかった真相の向こう側へとやってきたようだ。……ようやく秘密をたぐり寄せたよ」
 モノローグのような語りに、これから終わりに向かって始まるんだと気づかされた。語り部には、鑑賞者が必要だった。
「宝石展覧会でのいたる所に見え隠れしていた“いびつさ”と“不自然さ”が気になってね、調べていたんだよ。今でも世話になっている、俺の“以前の身分”の上司の力も拝借して。すると、取り寄せた資料を読み込むと、展覧会で展示されていた宝石は盗品であり、本物の宝石と偽物をすり替えたのはヒューストンで行われた宝石見本市だという結論に至った。本物の指輪は裏で高額取引されていたよ。
 また、宝石見本市の裏では鑑定士が殺害されていたり、そいつの自宅が荒らされていたりというのも起きていたみたいだな。
 それに付け加えて、面白い動画を見つけてね。宝石見本市の会場出入り口付近に設置された防犯カメラの映像に、男と一緒に俺のよく知る女が映っていたんだ。なまえ、君だよ」
 ギラギラと野獣のように光る瞳は、こんな状況であっても美しく見えてしまう。
「別の角度から映った映像はその資料には入ってなかったが、自力で調べ続ければ見つかるもんだな。……バッチまでつけて、FBIごっこは楽しかったか?」
 潜めた低い声が響いた。ぞくりと背筋に悪寒が走る。体の芯まで到達したそれは、心拍を嫌な音に変えた。
「そして、展覧会の日にお前の婚約者としてやって来た、ディーノの“不自然さ”と“自然体すぎる”立ち振る舞いが謎解きの鍵にもなったよ。ディーノ……いや、『跳ね馬』がわざわざ腕まくりまでして見せた刺青は、“家長”である証。そして――」
 伸ばされた指先はネックレスのチェーンを辿るように触れてマンダリンガーネットに行き着いたようだった。その粒をそっと掴まれ、裏面を見せびらかすように持ち上げられる。
「このネックレスの裏側に刻まれた刻印」
「ッ……!」
「疑いを確信に変えたのはその“家紋”だが、茨が複雑に絡み合った先になまえがいると薄々勘づいていたよ。
 描かれた“家紋”がわかれば充分だった。君や、君の弟のこともな」
 秀一が“指摘したのは、ボンゴレのシンボルマークだった。“家紋”とは言い得て妙である。
 秀一はネックレスを胸元に戻し笑みを浮かべた。
「まさか、あんなに大物とされる“家”のお嬢さんが、こんなに近くにいるとは考えもしなかったよ。……だが同時に納得もした。君の“家”の力ならば、俺のことなど簡単に調べがついただろう。
 だから空港での初めて出会った時、左手で握手を求めた。俺が左利きだと知っていたから。俺がうっかりしてこのチョーカー型変声機を紛失した時や、有希子さんから変装の指導をされている時も、見て見ぬ振りをした。もしかして、イタリアからの土産だとくれたバーボンも、俺が愛飲していると知っていたからか? ハハッ、何もかもお見通しというわけだ。
 してやられたよ。流石、君の弟は新しい“当主”なだけあるな」
 心地よいはずの低音が背筋を凍らしていく。予想していた以上に、この人に一度捕まえられたら最後なのだということを自らをもって証明していた。
「隠しきれると思っていたか? それとも、バレてもいいと思っていたか?
 思い出すに、君は答えを与えるのではなく、俺に解いてみろとでもいいたげな素振りをしていたな。ということは、バレることを望んでいたのかな?」
 嘲笑うように言い放つ姿はまるでピエロのようだった。やわらかいはずなのに、言葉の奥底に宿るねらいは闇に包まれて、それがさらに恐ろしさを助長している。
「しかし……」
 語り部はそこで初めて眉を顰めた。ピエロの仮面があっけなく剥がされる。
「未だにわからないことがある」
 おもむろに左手がソファから持ち上がった。普段なら頼もしい彼の利き手が今は恐ろしいものに思えてぎゅっと目を瞑る。
 びくりと震えたなまえを、左手は見逃さなかった。
「大丈夫」
 安心しろとでもいう声音に、なまえが恐る恐る瞼を上げると、指の背で右頬を撫でられる。壊れ者に触れるような手つきに、ようやく身体は緊張から解放され始めた。
「なぜ、きみは“こちら”へ来ようとしている?」
 目尻を吊り上げようとしているのに、うまくいってないようになまえには見えた。
――なんて顔をしているの。
 悲痛な顔とも受け取れる秀一に、胸の奥が握りつぶされる感覚に陥った。どうして貴方がつらそうな表情を浮かべるの。
「君がどこまで知っているのかは定かではないが、俺に近づいてきたということは概ね“黒いヤツら”のことも知っているのだろう?」
 黒いヤツら。まぎれもなく、彼が以前潜入していた組織のことだった。
「……“こちら側”に来て、なにが目的だ」
 苦しそうに息を短く吐き出した秀一は、内緒話でもできそうなくらいに距離をつめた。逃げようにもこの状況でそれは叶うはずもなく、思わず膝を寄せてしまう。なまえの両脚に割って入る長い片脚を挟んでしまった。
 少しの間、秀一はじっくりとなまえを見つめてから、ゆっくりと一度瞬きをして声を潜めた。
「君たちには、オメル――」
「だめ!」
 なまえは咄嗟に両手を秀一の口に押しつけた。
「……お願いっ、言わないで。それだけは……お願いっ……!」
 秀一がほぼ口に出してしまった言葉。それが、『本当は出逢ってはいけない』の正体だった。
――オメルタ。
 それは、『沈黙の掟』または『血の掟』と呼ばれる、マフィアにおける約定である。何時何時いかなることがあったとしても、自分の属する組織の秘密を守ることが求められ、ファミリーの一員になる時に十の条項を誓約する。
 オメルタに反して秘密を暴露した場合は、ファミリーから激しい制裁が加えられた。例によっては、オメルタを破った本人が突然行方不明になり、拷問を受けた跡が生々しく残り、口には小石が詰められた惨殺体でのちに発見される。また、『ファミリーの仲間の妻に手を出してはいけない』という条項を破った者は、切り取られた一物を口に押し込まれた状態で遺体が発見されることもある。これが所謂『お礼参り』と言われるものである。
 口を塞いだ手にそっと秀一の指先が触れた。指の腹で手の甲を撫でられ、リボンを解くようにゆっくりと口元から手がはがされる。
「……動物園に行った時、野生動物と飼育動物の違いについて話をしてくれただろう。覚えてるか? 例えは上手かったが、なまえの表情を見ていれば、話の対象が動物ではなく人間だということはすぐにわかった」
――覚えている。
 あの日のことは、忘れることなどできないのだから。
 昔受けた授業の話と称しながら、頭の中を埋め尽くしていたのは、ボンゴレに救いだされた人々のことだった。窮地に立たされた時に現れたボンゴレに運命を選ばされ、自身に伸ばされた手を掴んだ彼ら。現在は、名前を変えて偽の経歴を与えられ、それぞれの力が発揮できる場所で暮らしている。
 果たしてそれは、赦されることだったのだろうか。時が経過した今でさえ、答えは出てこない。
「……覚えてる」
 自然と唇から漏れた返答は、吐息と声の中間に存在する音だった。
「なまえの正体に迫る際、この話を思い出したんだ。なぜだかわかるかい?」
 しっとりとした声と視線が降りそそぐ。
 どうして目の前の男は、あの動物園での話から真実を導き出したのか。
「君は言ったな。『いつの間にか名前を与えられて、突然全く違う環境にやってきてしまった動物は、幸せなのか』と」
「ッ……」
――……まさか。
 それだけで、気づいてしまったというの。自分の失態に気づいた途端、なまえは血の気が引いていく感覚を覚える。
――それって、もしかしなくても……。
「証人保護プログラム」
「――っ!」
「まるで証人保護プログラムを思わせる様な話だった。これが謎解きのヒントになったよ。いや、ヒントというよりも、確信を得るために背中を押してくれた……と、言うべきだろうか」
 証人保護プログラムは、その名の通り証言者を保護する目的で設けられたものである。プログラム対象者は、裁判期間中や場合によっては生涯にわたり保護下に置かれ、個人番号やパスワードは一新され完全な別人として生活を送ることとなる。
――私が無意識のうちに真実を与えていた……?
 そうだ。ボンゴレが今までやってきた救済措置は、証人保護プログラムとまるで同じようなことじゃないか。
「証人保護プログラムは、『お礼参り』を防ぐためにつくられたからな」
 失念していたわけではない。彼の能力を見誤っていたわけでもないけれど、まさかここまで賢く真実を突き止める姿勢を持ち合わせているとは思わなかった。
「っ、ぁ……」
 奥の歯がガチガチと鳴る。口の中がカラカラに乾いていた。
「……やはり、その様子は知っていたんだね。誓約を」
 さらにぐっと距離を詰めた秀一は、なまえの耳元に唇を寄せる。なまえにしか聴こえないくらいの小さな声で囁いた。

――“警察関係者と交友関係を築いてはいけない”ことを。

 ガツンと鈍器で殴られたみたいだ。
 秀一が指摘したのは、オメルタの条項の一つである。
「俺の正体に気づいて近づいているのならば、この条項は当てはまるはずだ。それなのに、そんな危険を冒してまで……なぜ?」
 頭の中が真っ白になるというのはこういうことなのだろうか。なにも考えられない。
『私は、ボンゴレの沢田なまえなんだから』
 展覧会の夜、リボーンに伝えた言葉が頭の中で鳴り響いた。そうだよ、私は綱吉のために生きるって決めたんだから。
「……さすがですね」
 無理やり口角を両端釣り上げてみた。しかし、語尾に差し掛かる時点で跡形もなく崩れてしまった。
――この人の前では、“ボンゴレの沢田なまえ”でいたくない。
 こみ上げる嗚咽を必死に抑える。
 長年の決意は二十年目にして、ついに崩れてしまった。
「だけど、知っていたことよりも、あなたと出会って、知らなかったことをたくさん知った」
 なにか役に立てればと。そんな考えはただのエゴだけれど、そうして様々な人に協力してもらって米花にやってきて、ついに貴方と出逢った。
 思い返せばこれが初めてだったのだ。自分から、綱吉たちの世界から一歩前に踏み出して、別の世界へとやってきたのは。
「こんなに楽しくて、毎日きらきらしてて、充実した日々を送れるなんて、初めてだった……」
「っ!」
 だから、終わらせたくない。
 できることなら、このまま傍にいさせてほしい。
ーーでも。
「流石は私のホームズさん。全部、当たってたよ。やっぱりすごいね。実感すると、改めて貴方の賢さを思い知った。……でもね、だから、もうおしまいかも」
 震える声を抑える術がわからない。真相に辿り着いてしまったから、終わりにしなければならない。
「……どういうことだ?」
「言葉にした瞬間に、全部、この生活が一瞬で無くなっちゃう……ッ!」
 秀一の顔が歪んだ。いや、違う。自分の視界が歪んでいるんだ。
 赤井秀一は今でこそ『沖矢昴』として生活しているが、本来はFBIの潜入捜査官である。これは明らかにオメルタを反していた。
 今までは、『翻訳家の沢田なまえ』として大学院生の『沖矢昴』と生活してきたから、それを通せば言い逃れできる余地はある。しかし彼の推理により明かされた事実により、この場に対峙しているのは、紛れもなく『赤井秀一』と『ボンゴレファミリーの沢田なまえ』なのだ。
 なまえが秀一の口を塞いだのは、この考えに基づいての行動である。せめて言葉にしなければ、互いに仮面を被った状態でいられたから。しかし結局、秀一はすべてを見抜きすべてを言い当ててしまった。
 ……潮時だった。
――もし、この生活に終わりが来るとしたら、そのとき私はどうするんだろう。
 以前、そんなことを考えたことがある。でも、どうするかなんて、まったく思い浮かばなかった。
 環境の変化に関しては想像に容易い。米花から離れ、並盛とイタリアと行き来しながら生活する。綱吉、彼の守護者やヴァリアー、並盛の皆とまた忙しないけれど充実した日々を送るのだ。
 だけど、そこには彼が、赤井秀一がいない。
――もう貴方と出会う前の自分を忘れてしまった。
 とうとう涙は溢れて目尻から零れ落ちていく。
「なまえ、詳しく話してくれないか」
 秀一は眉を下げて、できる限りの優しい声音で話しかけた。泣かないでくれと言わんばかりに次々と溢れてくるなまえの涙を掬う。
「わたし……まだ、この時間を、あなたとの関係を、崩したくない」
――だめ。言っちゃ、だめ。
 頭の中で警報が鳴っている。
 しかし、難しいことはもうなにも考えられない。
 そっと触れてくれていた優しさを押しのけて強引に瞼をぬぐった。
「私……私は、まだ、あなたと……っ、一緒に……!」
「っ……なまえッ」
――いっしょに、いたい。
 瞼をぐりぐりと擦っていた手首を捕まれ強く引き剥がされる。そのままソファに縫いつけられてしまった。
「な、に……」
 もがこうとしても上手く力が入らず、結果ゆるく首を横に振ることしか出来なかった。悲痛な表情を浮かべる男の顔が近づいてくる。彼の偽物の髪の毛が頬をくすぐる。翡翠色の瞳がつるんと光った。
 なぜだかわからない。でも、その表情を見つめているだけで呼吸ができなくなるほど胸が苦しくなる。
「俺はッ……――」
 掠れた苦しそうな声。
 熱を帯び始めた視線に、絡め取られてしまいそう。
「なまえ……」
「……ぁ、」
 名前を呼ばれた。それが合図のようなものだったのかもしれない。
 これまでも名前を呼ばれていたはずなのに、この一瞬だけは、永遠に思えた。永遠にしたいと願って、近づく彼の唇に、瞼が自然と閉じていく。

 視界が完全に真っ暗になる寸前、
――“忘れた”の?
 心の奥底、暗闇の中で誰かが尋ねた。

 全身に電流が駆け巡ったかのような激しい衝撃に襲われる目を見開いた。即座に顔を背けて拳を握る。指先は震えていた。手首の拘束はいつの間にか緩くなっており、秀一の手は添えてあるだけの状態だった。なまえは腕を振り払い、すかさず口元を覆った。
 流されてはいけない。
「――はきそう」
「は……? っ、」
 秀一が少しだけ身を引く。その隙になまえは力いっぱい彼の体を押して逃げ出した。名前を呼ぶ声が後から迫り、なまえを捕まえようとした。それをギリギリで避けて、もつれる脚をなんとか踏ん張って走り抜ける。廊下に続く扉を突き放すように思い切り開けて、リビングから出た。

 リビングから逃げ出したなまえはトイレへと駆け込み、勢いよく扉を閉めて後ろ手で鍵をかけた。ドアに背中を預けると次第に力が抜けていき、膝が折れ尻餅をついてへたり込む。
 息が上がっていた。呼吸を繰り返し、次第にその間隔をゆるやかなものに落ち着かせていく。
「……また、嘘ついちゃった」
 自分の声があまりにもくしゃくしゃな声で失笑してしまいそうになる。これまで何度、秀一に嘘を塗り重ねただろう。あの場から逃げるためとしても、嘘は嘘。真実とは逆のことを告げる度に、なまえの心にはずしりと重たいなにかが蓄積されていた。
「だめだよ……」
 顔を寄せてくる秀一に、瞼は自然と落ちていった。目の前にある唇を拒まなかった。拒むことなんてできなかった。
「だって、」
 忘れてない。もう、忘れることなんてできない。
『どうして? セーラに遠慮しているの? それともあの男がまだ彼女を想ってるから?』
 以前ビアンキに助けを求めた際に言われた言葉が頭をよぎる。
「違う、ちがう……ちがうの」
 違う。そんなんじゃない。彼女が未だに彼を愛していたとしても、彼がまだ彼女のことを想っているとしても、この想いを抱くことに関しては遠慮する必要性はないと考えているし、なにより、この気持ちは変わらない。そんなこと関係ない。
 本当のところは、彼女――セーラの存在を思い出せば思い出すほど、自分が秀一に嘘をついていることを自覚するからだ。そのことに気づかされたのは、いつかの夜に秀一が書斎で彼女の名を寝言でこぼした時てある。
 そこで、忘れていたことを思い出したのだ。
――私は、彼に真実を告げずにいる。
 本当は、彼女は生きているのに。
 宮野明美が生存していることを伝えることにより、赤井秀一を少しでも楽にさせてやることができたかもしれないのだ。
 大切な人には幸せでいてほしい。それなのに自分は、彼が彼女の名を零して自分の置かれている状況と現実を思い出した際、気づいてしまったのだ。自分が赤井秀一という男にどれだけ惹かれていたのか。
 幸せにできるかもしれない術を持っているのに、それを実行に移すことも出来ず、のうのうと彼と生活をともにしてきた。
「っ……」
 下唇を噛むと喉の奥でなにかが軋んだ。
――でも、真実は伝えられない。
 遺された人々に生存を伝えれば苦しみや悲しみから解放される。深く考えなくても容易に思い浮かぶ結末だ。そして保護下にある彼らと縁のある人々を呼び出す場と機会を設ければ、感動的な再会場面の完成。物語はハッピーエンドで幕を閉じる。
 しかし、そんなこと、できるはずもないのだ。救済した人々の中には組織に追われていた者もいる。いくら口酸っぱく内密にと約束し存命していることを告白しようとも、人間は完璧ではない。どこかで口を滑らせ情報が漏れてしまう可能性がゼロだと断言できないだろう。
 だから、なまえは絶対に双方を再会させないと決めていた。これはボンゴレ十代目ファミリーを筆頭に、救い出された人々と関わるすべての人間が周知し徹底している事項である。
 『una fiaba piano(ウーナ・フィアーバ・ピアーノ)』、通称『童話計画』。それがボンゴレ幹部でしか知り得ない、この救済措置の名前である。計画名の由来は、救済者の新しい名前にあった。救済された彼らは、童話に出てくる登場人物にの名前を与えられている。それは『本来ならば存在しない人物』ということを示していたのだ。
 新たな名前と経歴を与えられ、場合によっては容姿も変えて、それまでの人生では決して出会わなかった人々と暮らしている彼らの生活はまるでおとぎ話である。
 おとぎの国の住人は、現実世界とは別の次元で生きているのだから。
――このまま生きていることを告げずに、彼の傍に居続ける。
 そんなこと可能なのだろうか。ビアンキは、綱吉やリボーンはオメルタに背く行為だということを承知の上で私を送り出したのだと話していた。しかし実態は酷くあやふやなものである。
――それとも、なにも伝えず潔く姿をくらますか。
 止まったはずの涙がまたぽたぽたと落ちていく。強く唇を噛んでみても涙は止まらなかった。
『なまえちゃんは沖矢くんのこと、とっても好きなのね』
『人を愛することは悪いことじゃない。むしろ、とっても素敵なことよ』
『俺ね、そろそろ電話してくるんじゃないかって思ってたよ』
 お母さん、ビアンキ、綱吉。
『なまえ』
 ……秀一さん。
――どうすればいいの?
 見守ってくれる人がいる。背中を押してくれる人がいる。自分の好きにしていいと笑ってくれる人がいる。
 なまえは膝を抱えて額を擦りつけた。目尻がピリピリと痛んだ。涙を拭う時に強く擦りすぎたみたいだ。頭がぼうっとする。
 これから、どうしよう。
――私は“誰”?
「……たすけてっ」
 口から漏れた言葉は誰に向けてのことばなのだろう。唇を噛んだ代償に目からぼろぼろ涙が零れ落ちてきて、声を押し殺してひたすら泣いた。
 離れたくない。一緒にいたい。彼の未来を傍にいて見守りたい。自分に出来ることはなんだってしてあげたい。喜びや悲しみを共有したい。もう一度手を繋いで、隙間がなくなってしまうほど抱き締めてほしい。あたたかさを感じたい。触れてほしい。叶うのなら、いつか本来の姿で、本当の声で話す貴方を見たい。
 やはり、胸の内に留めておくなんて、どだい無理な話だったのである。

 どうしようもなく、赤井秀一という男が愛しかった。

(つづく)