道化師の夢と目覚め


 なまえがリビングから出ていってしまった後、華奢な背中を追いかけることもできずに秀一はなまえの残り香を掴んだ。
――ああ、まただ。またなまえは俺の手をすり抜けて行ってしまった。
 初めは、あの朝、ピアノの前で。二度目は宝石展覧会。そして、三度目が今さっきのこと。
 どうして俺は、繋ぎとめておきたい存在ほど掴むことができないんだ。
 洗い物を済ませても蛇口を閉めず、秀一は両手を広げてただ濡らしていた。指先の感覚を失っていくような錯覚に、昂った思考は徐々に客観的なものに変わっていく。
 真実を知りたくて、未来を切り開くために選択してきた人生。この両手で握ったライフルは、己は守れるくせに、数々の尊い存在を助けられずにいた。助ける術を身につけたいのに、培っていくのは自分を守る術ばかりだった。
 盗聴器類を見つけ出す行動も、その一つに挙げられるだろう。もはや癖になってしまっている行為である。工藤邸にやってきた当初、盗聴器が仕掛けられていないかあらゆる場所を確認したが、案の定、盗聴器は一つも出てこなかった。
 なまえの正体を知ってから、可能性は低いと思っていたが念には念を入れて盗聴器類がないかもう一度探した。彼女が寝込んでいたり、大掃除だと言って清掃分担場所を決められていたから行動に移すのに難しことは無かった。だが、やはり想定通り、そういった類のものは一切見つからなかった。
 秀一はその事実に驚きを隠せなかった。現ボス――しかも十代も続く歴史あるファミリーの――姉であるなまえを、翻訳の仕事もあるにせよ、単身この邸宅に住まわせるとは。この米花ともなれば、特に危険が伴うだろう。なまえはなにがあっても乗り越えられる腕っぷしを持っているようには見えなかった。それならば、大丈夫だという絶対的な自信があるのか、はたまた放任主義なのか。どちらにせよ不用心すぎる。彼女の身分を振り返れば、なにかしら仕掛けられているのが妥当である。
――なまえは不思議な女の子だった。
 最初は“できる子”だと思った。しかしその印象はすぐに間違いだと気づく。正しくは、“できる子”を演じていたと言っていいだろう。
 それを確信したのは宝石展覧会でのことだ。旧知の仲である男たちと話していた姿を見て、すべてを悟った。
 なまえの中で、常に主人公は他者だった。そしてなまえは自分自身のことを二の次にして、共にいる人間に自分のできうる限りのことを全て捧げていた。たぶんこれは、本人ですら気づけていないだろう。無意識の行動であるが故に、おそらく原因は根深いのだと察する。
 本当は、彼女自身はもっとゆったりとした時間の流れで過ごしているはずなのだ。だが他者と触れ合う時になると、瞬時に自分の中にある波長を相手にぴったりと合わせていた。そうすることで、相手を主人公に仕立て上げる。そして彼女は相手に合った振舞いをする心地よい存在となり、結果それが新たな顔を覗かせる。
 その様子はまるでしゃぼん玉のようだった。彼女を照らすもの、つまりなまえの隣にいる人物が変わるだけで、彼女本人の色が変わる。
 では、なまえ本来の色は? 彼女自身は一体何色なんだ? のんびりと柔らかい日差しに照らされてゆったりと微笑む姿が良く似合う、読書を愛し、会話の中で他者を満足させることに長け、魔法の手から新たな文章や料理に音楽、ぬくもりをつくりだす彼女自身はいったい何なんだ?
 なまえの正体を知り、ますますそれがわからなくなってしまった。
 しかし今夜、ほぼすべての謎が解かれたと言っていいだろう。やっとなまえ自身の言葉を、素直な気持ちを聞き出せた。
『こんなに楽しくて、毎日きらきらしてて、充実した日々を送れるなんて、初めてだった……』
 震えた声で話す内容に、以前耳にした奈々の話が重なった。それと同時に胸が張り裂けそうなほどの喜びを感じた。なまえも自分と“同じ”だった。なまえと出会って過ごした日々への想いは、彼女が俺と出会って感じた日々と同じだったのだ。
 心が通い合う感覚を覚えた。
『まだ、この時間を、あなたとの関係を、崩したくない』
『私は、まだ、あなたと……っ、一緒に……!』
 瞳を潤ませて伝えてきた言葉に、頭の中は真っ白になった。そして気づけば身体が勝手に動いていて、なまえに。
 唇を拒まれなかった嬉しさと、逃げられてしまった寂しさは天秤にかけることはできない。
 だが、未だにわからないことが一つあった。
『言葉にした瞬間に、全部、この生活が一瞬でなくなっちゃう』
 彼女の話す“言葉にした瞬間”というのは、いったいどの部分を指すのだろう。真意は謎に包まれている。
 一番有力なのは、なまえが口を塞いできた言葉『オメルタ』だった。なまえの様子や彼女の“家”の力を踏まえてみても、オメルタに反していると言っていい行為にもかかわらず、弟はそれを容認して姉を送り出しているという線は強い。しかしそうは言っても、なまえはこちらが予想していた以上に“家”と自分の立場を意識している様子だった。
 秀一はようやっと蛇口を捻り水を止めた。
「……はぁ」
 シンクに両手をついて項垂れる。
 焦がれている胸の痛みを失いたくはない。諦めたくないんだ。
――どうすれば、なまえを繋ぎとめておける?
「クソッ……」
 舌打ちをして荒々しくタオルで濡れている両手を拭いた。
 息苦しい。まるで魔法は解けないのだと言い聞かせるように変声機が首に巻きついているみたいだ。
「解けるさ、絶対に」
 笑みを浮かべてシンクを睨みつける。
 秀一は扉から気配を感じて、姿勢を正してその正体を待ち構えた。静かにドアが開き、恐る恐る足を踏み出し入室するなまえに、変声機のスイッチをオンにする。
「ごめんなさい……片付け、させてしまって」
 俯きながらスリッパを引きずって歩いてくる。どちらかといえば軽い音なはずなのに、足取りは重そうだった。
「いや、大丈夫。……飲むかい?」
 昴の声に戻した秀一は、ウォーターサーバーの水をグラスに注ぎ、なまえに差しだした。
「ありがとうございます」
 ゆっくりと両手でグラスを受け取ったなまえは、注がれた水を見て瞳を一瞬揺らしたような気がする。
 グラスを傾けてこくりと小さく動く白い喉は、ガラス細工のように繊細に見えた。視線を上げていくと、飲み終わって空のグラスを見つめる瞳に行きつく。
――泣いたのか。
 普段やわらかい線を描いているなまえの目元は微かに赤くなっており、睫毛が頬に影を落としていた。
 俺はいつも君を泣かせてばかりだな。秀一は微かに眉をひそめた。本当は笑顔が見たいのに。俺が君を笑顔にすることは無理なのだろうか。
 秀一はなまえの頬に左手を伸ばす。涙が通っていったことを証明する少しかさついた肌。親指でそっと触れると、なまえは覚醒したように肩を震え上がらせた。
 まさか触られるとは思っていなかったのだろう。予想していなかった接触に、なまえの両手からは持っていたグラスが滑り落ちる。秀一は咄嗟に右手でグラスを掴み事なきを得た。それをなまえから遠ざけるようにシンクに置いた。
「す、すみません」
 動揺したなまえはもごもごと謝罪を言いながら後ずさる。しかし後ろにはカウンターテーブルにぶつかった。これ以上逃げられなくなってしまったなまえは、困ったように眉をひそめて視線を惑わせている。
「――っ、さっきのことは……忘れてください」
「どの部分のことだ?」
「…………」
 できるかぎりのやさしい声で尋ねる。するとなまえは気まずそうに唇噛んだ。
 ああ、もう皮が剥けているじゃないか。リビングにいた時からずっと噛んでいたから、なまえの唇は少しだけ血が滲んでいた。そうさせてしまったのは紛れもなく自分である。
「君の“家”のことか? それか君が全部知っていたこと? それとも……」
 秀一は一旦ことばを切り、目を閉じて下を向いてからゆっくりと顔を上げなまえを見つめた。
「それ以上言うなと、気持ちを聞かせてくれたことかな?」
 視線を左右に揺らす姿に心臓は悲痛な音を上げる。
「……ぜ、ぜんぶ……です」
「…………」
――全部、だと?
 カッと頭に血が上った。
 俺がどれほど舞い上がったのか、君は知らないのか。
 見下ろしながら襟元を緩める。変声機に手を掛けて力に任せて首から剥がし、床に放り投げた。変声機は唸るように床に叩きつけられる。
「なぜ?」
 口から出た声は随分と冷たく、内心目を見開く。
 ビクリと大きくなまえの細い肩が震え上がった。
「……だめなんです。だめなの。だって、本当は会っちゃいけないのに、こんな……こんなの」
 震える指先を胸に抱くように身を縮こまるなまえに胸が痛む。しかし、今は慰めるような行動を取ってはいけないと自分を律した。ここで甘やかすようなことをしてしまえば、今後一切、俺はなまえの本音を聞くことができないかもしれない。
「こんなの……“わがまま”がすぎる」
 耳をそばだててなければ聞こえないくらい小さな声だった。いつも気丈に振る舞うなまえが駄々をこねるように同じ言葉を繰り返す様子に、なにかが背中に這いずる感覚を覚える。
――邪魔だな。
 度が入っていない眼鏡なんて、ものを見るのに遮るだけだ。眼鏡を外して尻ポケットに強引に突っ込む。小さく軋む音がしたが、そんなことはどうだっていい。関係ない。
「君は本当に、俺に忘れてほしいのか?」
「っ、それは……」
 瞳が大きく揺れる。腕の中から抜け出せないか探ってるなまえの両足の間に、ぐっと片足を割り込ませる。逃げないようカウンターテーブルに両手を付いてなまえを閉じ込めた。
 なまえは丸めていた背中を伸ばし、そのまま反るように距離を取ろうと努める。しかしむなしくも、秀一の左手がなまえの顎を捕まえた。
「忘れないさ」
「えっ……」
「俺は絶対、忘れない」
 見開かれた双眸にゆるゆると波が押し寄せる。
「どう、して……?」
――愚問だな。
 驚いているなまえに自然と頬は緩んだ。
「お前はどうなんだ、なまえ」
 視線を惑わせながら俯くなまえに、ここまで来てもまだ言いよどむのかと軽く溜息をつく。心は決まっているはずだ。俺はもちろん、きっとなまえだって。
 男は女をリードする生き物だ。幼少の頃、大人にそう言われ育ってきたことをふと思い出す。どうしようもなくお国柄な教えだと嘲笑したこともあったが、今になって言葉の重みと、教えのありがたみを身に染みて感じることになろうとは。
「“つかなくていい嘘はつくな”。俺にそう言ったのは、君だよ。なまえ」
 あのピアノの前で向かい合って、なまえは変声機のスイッチを切り、沖矢昴の仮面の奥にいた秀一に語った。そうして続けられた言葉も含め、俺がどれほど救われたのか。君は気づいていないだろう。
 くしゃりと顔をしかめるなまえの瞳から涙が零れ落ちそうになった。泣き出しそうになるのを必死に堪えながらも、だんだん肩を動かしてまで息をするなまえの様子に、どれほどの葛藤を抱えていたのかを秀一は感じ取る。しかし逆に考えれば、これほど葛藤するということは、彼女の答えは既に出ているに等しかった。
 秀一は口角を抑えようと必死に引き締めようとする。
「さっきの話は、俺と君の……二人だけの秘密だ」
――“言葉にした瞬間になくなる”のなら、“言葉にしなければいい”。
 それが秀一の答えだった。
 信じられないものを見るようになまえは驚愕する。大きな瞳はこみ上げている涙で艶がかった。
――すべてはあの夜、すでになまえが見せていたじゃないか。
「イヴの夜、君が俺のことを『沖矢昴』だと言ってくれただろう。その通り、体は『沖矢昴』だ。これから先、きっと君と接する俺は『沖矢昴』の姿を保ち続けるだろう」
 なまえと共にいることができない『赤井秀一』ならば、仮面をかぶり続けようじゃないか。
「だから、なまえが出会っていたのは『沖矢昴』だ。君が交流関係を持ってはならない男では無い」
 なまえが出会っていたのはあくまで『沖矢昴』であり、FBIの赤井秀一ではない。そもそも、赤井秀一は来葉峠で“死んだ”のだ。この工藤邸で、沢田なまえと暮らしてきたのは、『沖矢昴』だ。
「……だが、心はただの一人の男として、俺は君に接していたよ、なまえ」
 いつの間にか自分が誰なのかわからなくなる時があった。沖矢昴のはずなのに、心の奥から赤井秀一が顔を出す。なまえと過ごせば過ごすほど、沖矢昴はいなくなり、赤井秀一が……ただ目の前にいる女ともっと一緒にいたいと願う男が、心に住みついていた。
「なまえ、俺に接していた……君は“だれ”だ?」
 口から出たのは、展覧会でなまえを傷つけてしまった言葉。まさか、またこの言葉を伝えるなんて、ついさっきまで思いもよらなかった。
 しかし、今回は彼女を傷つけない自信があった。これは魔法の言葉である。
 これでもかというほど見開いたなまえの目からぼろぼろと涙が頬に伝っていく。見上げてくる震えている唇が、音を乗せずに語った。
『ずるい』
 そう言葉を読み取った秀一は目を細める。それだけで心は満たされた。
「……っ、」
「うん?」
 こんなことはただの言葉遊びだと重々理解している。だが、言葉遊びで救える心がここに二つあるのだから、運命に逆らって興じるしかないのだ。
「――なんでもない……ただの、沢田なまえ」
 べっこう飴のような瞳が真っ直ぐと見つめてきた。双眸に溜まる涙が夕焼けに照らされた海のように美しい。
 対峙する彼女の様子と、たった今の返事。その全てがなまえの返事だった。
 秀一はなまえとぐっと距離をつめる。
「すばる、さん……? えっ、ま……んぅっ」
 目を瞑らずに表情を確認すると、大きく見開かれた瞳から流れ星のように涙が頬を伝っていく。
 心地よいやわらかさに気をよくして味わうように唇を啄む。なまえはぎゅっと目を閉じた。
 彼女の本心を覆うヴェールを一枚ずつ丁寧に捲っていこうと思ったが、やめだ。なまえの考えや想いに触れた今、止められるわけがない。つくづく俺は関係を保つことに長けていないようだ。頑なに本心を包むヴェールを全て脱がしたら、いったいどんな表情が見れるのか、想像しただけでぞくぞくと躰が疼いた。
 身をよじらせて抜け出そうとするなまえを逃がさないよう、後頭部と腰に腕を回す。貪るようにぬくもりを求めた。呼吸が苦しくなり口を開けた隙に、すかさず舌をねじ込む。おろおろしているなまえの舌を捕まえるように絡めとった。
 もっと深く口づければ、さらになまえの奥深くの一番やわらかくて温かいところまでいけるのではないか。そんな空想が頭にちらつき、なまえに唇をくっつけたまま失笑した。
 息苦しくなったなまえが弱々しい力で胸を叩いてくる。もともとなかった抵抗が一切消え去り、好き勝手させてくれていたから限界がきてしまったのだろう。名残惜しかったが、最後に下唇を啄みわざとらしくリップ音を鳴らして離してやる。ちゃんと謝罪の気持ちも込めたのだから誉めてほしい。
 するとなまえはガクンと膝から崩れ落ちそうになり、腰に回した腕に力を入れ引き寄せる。腰が抜けてしまったのか、力なく胸にもたれ掛かってきた。
「っ……どう、して」
 肩で息をしながら伏せていた視線を見上げてる姿は今まで目にしたことのないくらい艶やかで、思わず舌舐めずりをしてしまう。
――叶うのなら、本当の名を呼んで欲しかったけれど、今は。
 そっとなまえの額に自分のそれを触れ合わせた。
「過失の割合はフィフティーフィフティー。……推測することは得意だろう? 当ててごらん、なまえ」
 笑いかけると、目を合わせていることに耐えられないというようになまえは俯いた。ボソボソと「いじわる」と小さな声で呟いたのが微かに耳に入る。後頭部を撫でてやると、胸に顔を埋められた。
 自分の行動がきっかけとなって彼女の新しい一面を見ることができたことに、秀一は喜びを感じていた。
――俺は関係を繋ぐことには長けているが、関係を保ち続けることはすこぶる苦手だった。
 心安らぐなまえとの関係を、自分から保つことをやめた。この先に足を踏み入れてみたら、なにが待ち受けているのか。まだ出会ったこともないような表情を、彼女の傍で見たくて。
 腕の中のぬくもりを、一瞬でも逃がさないよう力を込める。
 考えなければいけないことも、やらなければならないことも沢山ある。けれど、今だけは――。
「なあ、なまえ」
「ぅん……?」
「俺の考えはあの時と変わらない。『一人じゃなければ、幸せに繋がる道は開けているんじゃないかと思う』と」
「……動物園で、言ってくれたこと」
「ああ。だから、一人で抱え込まなくていい。一緒に暮らし始めてから、数え切れないほど俺はなまえに救われてきた。今度は俺が、なまえの力になる番だ」
「っ! それで……いいの?」
「もちろん。……ハハッ、まるで共犯者だな」
 ボソリと言葉を落とすと、そっと背中に回してきた両腕が力を込めた。
 焦がれていたぬくもりが腕の中にあることに、秀一はそっと目を伏せる。

 君の隣で見る景色は、すべてが輝いて見えた。しかし、まだ君の隣で見てみたい景色がある。感じてみたいものがある。
 心地よい君の隣にいたら、俺はどこまで行けるんだろうか。

 視界に入る、繋ぎとめておきたい存在。柔らかな感触。力を込めたらすぐに壊れてしまいそうだ。
 やっと歩み寄れた。歩み寄ることを許された。あの時伸ばして掴めなかった君の手が、体が、今はこの腕の中にある。自身の胸は張り裂けそうなほど痛む喜びを抱えていた。
 息をたっぷりと吸うと、なまえの香りがビリビリと肺の内側を刺激し、次第にとろけては優しくくすぐっていく。
 それは紛れもなく、幸せの匂いだった。

18,02.18