Epilogue


 背中がじんわりと温かかくて瞼を上げる。欠伸をひとつしながら目を擦ると、違和感に気づいた。腰になにか巻きついている。だんだんと覚醒してきた脳みそで、視線の先に見えている手が、自分のものではないことに気づいた。
「んぅー、あれぇ……?」
 どうして自分の手ではなく、秀一の手が見えるのか。頭の下にあるはずの枕がなぜだか硬い。すごく硬い。まさか……。
「うで、まくら?」
 そうだ。そうに違いない。だって、自分の両腕は胸の近くにあるもの。状況をさらに整理していくと、腕枕におまけしてもう片方の腕は腰に絡みついているようだし、後頭部の方から聞こえる寝息は非常に穏やかなものだった。どうやら自分は抱き枕状態である。
 なぜこんなことに。現実逃避をしかける思考はすぐに停止する。
 思い出される昨夜のすべて。一緒にお酒飲んで、全てを言い当てられ、トイレに逃げ込み泣いた後、キッチンに戻ったら再び捕まってそのまま――。
「っ……!!」
 ぼんっと爆発するように顔が赤くなったのがわかった。
『心はただの一人の男として、俺は君に接していたよ、なまえ』
 昨日はうやむやになってしまったような気もするけれど、それってつまり、そういうことなのだろうか?
「ぅ、ぁああ……」
 自覚した途端に情けない声が口から漏れた。
 確実に想いを表現する言葉は互いに使っていない。でも、そうでなくても、もしかしてもしかしなくとも、自分と彼の想いは同じものなのだろうか。そう捉えてしまっても良いのかな。
「……やだ、むりぃ」
 あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆った。
 意識すればするほど心臓が高鳴ってしまう。そして思い出しただけで顔が火照るだなんて身体は非常に正直だった。
 こんな、こんなの、急展開すぎる。ただでさえ昨夜の彼の言葉に心を救われたどころか、自分と同じ気持ちであったことが伝わってきて嬉しさでどうにかなってしまいそうだったのに。
「ちゅー、しちゃった」
 あろうことか、キスまで、してしまった。リビングでは、寸前のところで拒んだのに、キッチンではもう無理だった。
 秀一の唇が合わさったことがあまりにも衝撃的過ぎて呼吸の仕方も忘れてしまったし、無理やり酸素を求めて開けた口から舌が入ってきて、そのまま絡めとられてしまった。極めつけには腰を抜かして秀一に支えられていなければ床に座り込んでしまったかもしれない。
 なまえはそっと唇に触れる。次に思い出すのは、その後のこと。
『君の嫌がることは絶対にしない。だから――今夜は、一緒に寝てくれないか?』
 そう言われてしまえば断ることも出来なかった。なにより、自分がもっと彼と一緒にいたかった。
 彼の熱さにあてられて蕩けてしまった思考の中で、もしかしてキス以上のことをするのかとも考えてしまった。けれど、結局そのまま秀一の部屋にやってきて、抱き締めあって眠りについた。
 よかった。流れで最後までいかなくて、よかった。
 すぐ隣で彼が眠るこの状況で安堵したところでという感じだけれど、想いが通じあって、しかも本当の彼の声で気持ちが聞けて、ぬくもりまで共有し合うことが出来たのだ。これ以上の展開がきてしまったら、今度こそ心臓がもたない。
『ああ――幸せの匂いがする』
 耳の奥で今でも囁くそのことばが、涙がでそうなくらい優しい声だったことを覚えている。
「……んー」
 寝息を立てていることを確認して、なまえはもぞもぞと寝返りを打った。反対側を向いたことで、秀一と向かい合う体勢になる。なんとなく、顔が見たくなってしまった。
 ちょうどなまえの視線のすぐ先には秀一の顎。もちろん沖矢昴の顔である。昨夜取り外されたまま、変声機は首についていなかった。
――変装したまま寝ちゃって、大丈夫なのかな。
 変装マスクの仕組みはよくわからないけれど、常時素肌にくっついていることを考えるとなんだか大変そうだ。肌荒れとかしないのかな。
 そう考えると、なまえはあることを思いつく。秀一が寝ていることを充分に確認してから、好奇心を携えた手をそっと秀一の頬に伸ばした。
――うわ、本物の肌にそっくり……! さすが有希子さん。
 きちんと肌触りを確認したことはなかったため、この隙に顔の至るところをなまえは堪能した。肌は本物の素肌のような感触に感動してしまう。髪の毛も偽物だと言われない限り、実物だと思い込んでしまう出来だった。
 頬と額、耳朶に髪の毛と堪能して、なまえの目に留まったのは唇だった。キスしたことを思い出して再び頬が熱くなるのを自覚しながらも、もう一度起きていないことを確認する。
 そして、秀一の唇に触れた。人差し指と中指でそっと唇を撫でるように触りながらも、暇を持て余していた片手で自分のそれを触る。感触の違いはあまり感じなかった。
――もしかして、変装マスクってとっても薄いのかな?
 秀一の唇に触れたまま、なまえはむにむにと自分の唇を弄る。昨夜噛みすぎたせいか少しだけピリッと痛んだ。これからしばらくの間は以前よりもリップクリームが欠かせなくなりそう。
 なまえはそのまま唇を弄りながら、再び変装マスクの質の高さに思考を巡らせ始める。マスクはなにで出来てるんだろう。髪の毛は本物の人の髪で作ってたらちょっと怖いな。でもそうしないとリアリティがでなくなりそう。
 宝石を狙う大怪盗のように、耳の付け根らへんから肌を引っ張ったらマスクが剥がれるのだろうか。それをこの眼で見た時は、顔から剥がれる時のベリベリッと痛そうに鳴った音が耳に残っている。剥がすときに伸びていたようにも見えたから、伸縮性のあるものかな。そうすると、やっぱり厚みがあるものでなくて、とても薄くて元の肌にぴったりと合う造りなのかも。
――それこそ0,01ミリとか、そのくらいすっごく薄くて……。
 この時、考え耽るなまえはまだ気づいていなかった。秀一がとっくの昔に目を覚ましていて、ずっと自分を楽しそうに眺めていることに。
「――おはようのキスはしてくれないのかい?」
「ひゃっ!?」
 驚いて手を引っ込めたが、腰に回っていた腕に引き寄せられてしまう。なまえは昨夜からことごとく逃げることを許されなかった。
「お、起き、起きて……!? いつから!?」
「ハハッ、そんなに驚かなくても。あえて言うなら……内緒、だ」
「うぅ……」
「お触りはもう充分かな? その後なにを考えていたのか気になるな。ずいぶん楽しそうだったが」
 目を細める秀一になまえの顔は一気に熱くなる。
――見ていたんじゃない……! しかも結構前から!
 まさか、私よりも先に目が覚めていて、ずっと狸寝入りをしていたんじゃないだろいな。わざわざ内緒だと笑うところが怪しすぎる。問い詰めても答えてくれないだろうけど、狸寝入りくらいこの人ならきっと朝飯前だ。
「内緒! です!」
 そっちが話さないんだったらこっちだって話してやらないんだから。
 秀一の言葉をそのまま返すと、ぽかんと口を開けたあと、喉を鳴らしてくつくつと笑いだした。
「クッ……そうか、内緒か。それは残念だ」
「……ぜったい残念がってない」
 思いのほか悔しそうな声が自分から出ていくと、腰に回されていた手であやす様にぽんぽんと背中を撫でられた。その優しさがくすぐったくて身をよじると、秀一が身体を寄せてきた。
「……もう少し、このままでも?」
 縋るように抱き締める力が込められて、腕枕をされていたなまえの頭は自然と腕から胸へと誘導された。枕の任務を解かれた秀一の腕はゆっくりとなまえの頭を撫でる。
 心地よいその感触に、再びなまえは眠気の波に襲われた。両手で口元を隠し欠伸をする。
「二度寝してしまおうか」
「このまま寝たら……たぶん、朝ごはん、遅くなっちゃいますよ?」
「たまには構わないよ。なんだったら、今日は俺が作ろう。なにがいい?」
 秀一はなまえの頭を撫で終えて、肘をついて自分の頭の枕にさせた。
「……じゃあ、ずっと前……私が朝寝坊しちゃった時に作ってくれたような朝ごはんが食べたいです」
「朝寝坊……確か作ったのは、スクランブルエッグとトースト、あとサラダにポタージュだったか?」
「うん、そう。ニューヨークの朝って感じのごはん」
「ははっ、なんだそれは」
「だって、なんだかきらきらして……すごく、美味しかったから」
 目を瞑って思い出す。まるで映画の中に出てきそうに見えて、自分が映画の主人公にでもなった気分だった。楽しい思い出だ。思わず頬を緩めてしまうと、そっと頭を撫でられる。その感触が気持ちよくて身体を寄せた。
「腕によりをかけて、今度はもっと美味いものを作ろう」
「やった……! ふふ、楽しみ……。記念に、朝ごはん写真に撮ってもいいですか? そしたらプリントアウトして、アルバムに飾るの」
「――……ああ、たくさん飾ろう。二人で」
 額でリップ音が響きそっと瞼を上げる。じっと見つめてくる秀一と視線が絡み合った。熱を帯びた瞳に心が揺さぶられていく。どうしちゃったんだろう。嬉しいのに泣き出したくなる。
「いいか?」
 秀一の親指が下唇を撫でていった。おかしいな。自分で触った時は痛かったのに、今はまったく気にならない。
「……だめ、じゃない」
 どちらからともなく目を閉じて、顔を寄せ、唇を触れ合わせた。心にあたたかい波が押し寄せて、次第にそれは全身へと巡っていく。
 一度だけ離れていった隙に息をつくと、指の背でくるくると頬を撫でられる。少しだけくすぐったくて、どんな顔をしているのか見たくて瞼を上げた。微笑んでいるのに、さっきよりも欲を孕んだ双眸に射抜かれてしまう。その熱に引き寄せられて、秀一の服を掴んだ。今度は自分からぬくもりを求めた。
「もういっかい……だめ?」
「っ……もちろん、何度でも」
 可愛らしい音を立てて触れる唇に、なまえはもう一度目を瞑った。唇をくっつけたまま起き上がった秀一に肩を押され、背中がベッドに沈む。
 微かな煙草と秀一の香りが鼻腔をくすぐった。でも、その中に今までは感じ取れなかったものを見つける。秀一が言った通りだった。

 本当だ。幸せの匂いがする。

18,02.18