1812(序)


 イタリア南部、深く茂る森林地帯の奥深くにボンゴレ本部はあった。まるでおとぎ話に出てくる城のような造りをする建築物は、ボンゴレファミリー初代ボスであるジョットの時代から存在しており、厳かな佇まいはファミリーの長い歴史と伝統を伝えている。
 ディーノとロマーリオを始めとした部下を乗せた黒塗りの車体が、見かけによらずトラップが仕掛けられている豪勢な門から闇夜に紛れていったことを確認し、綱吉と十代目右腕である隼人は本部内へと再び戻ってきたのだった。
 ボス専用の執務室のドアを開けた綱吉はまず初めにネクタイを緩める。次にジャケットを脱ぐだろうと予想して、思わず受け取ろうと手が伸びそうになる。しかし隼人は無意識の行動を意識化することでぐっと堪えた。
 だめだ。いい加減、そろそろ学習しなければ。
 これまでジャケットを受け取ろうと何度も隼人は綱吉に手を伸ばした。けれどその度に決まって綱吉は「獄寺君はそんなことしなくていいんだよ」と笑うのだ。
「遅くまでお疲れさま、獄寺君。今日もいろいろありがとう。助かったよ」
「お疲れ様です十代目! そんな、当然のことをしたまでです!」
 力を入れてそう言うと、綱吉は小さく声を上げて笑った。
 ああ、俺の好きな、肩の力が抜けるような笑みだ。しかし、あたたかな笑顔にはうっすらと隈が見て取れる。
 ここのところ、綱吉はルドヴィコファミリーの件や、年始に行なわれる恒例のボンゴレ行事の準備に追われていた。それ以外にもやらなければならないことは沢山あるというのに、加えて彼は、夜な夜な一人で“なにか”をしているようだった。
「もう大丈夫。特に急を要する案件はないし、上がっていいよ」
「いえ! 十代目がまだお仕事をなさるのなら、右腕としてお手伝いいたします!」
「……なにかあった時は一番に獄寺君を呼ぶから。だからいまはもう休んで」
「しかし……」
「俺のお願い、聞いてくれないの?」
「うっ……。わ、わかりました」
 首を傾げてそんなこと言われたら、従うしかないじゃないか。
 この人も少しだけ、彼の姉であるなまえに似てきた気がする。こう言えば俺が逆らえないというのをいつの間にか綱吉は学習してしまっていた。
「十代目もはやく休んでくださいね」
「うん、ありがとう。Buona notte, sogni d'oro」
 滑らかなイタリア語の挨拶に一礼して扉を閉めた。ネイティヴさながらの流暢な発音に慣れてしまった自分の耳だけれど、イタリア語を習得するために努力に努力を重ねた綱吉の勇姿をずっと見てきたために未だに感動で密かに胸が震えてしまう。
 十代目がボスに就任してからというもの、仕事の時はボスらしい顔つきをするようになったと、中学生の綱吉の様子をる付き合いの長い者たちからは度々そう噂されるようになっていた。それが頼もしくもあり、時々ふと虚しくなる時もある。
「はぁ……」
 執務室を後にした隼人は自室に戻る気分にならず、当てもなく本部内を歩き回った。階段を下りて一階までやってくると、隼人は中庭に足を向ける。
 中庭を囲む本部の一階部分は、全て身の丈の倍以上の長さを誇る太い円柱が規則的に建てられていた。石造りの柱頭には繊細な彫刻が掘られており、中庭に面するアーケードとなっている。日本とは異なり室内も土足が基本である文化のため、中庭へはそのまま出られる造りとなっていた。
 中庭には大きな噴水の他に、様々な植物が植えられていた。そして中央には桜の樹がそびえ立っている。世辞にもまだ大きいといえないそれは、綱吉が正式に十代目のボスに就任した際に、お祝いにとなまえが埋めたものだった。
 恭弥は以前シャマルによってサクラクラ病に罹ってしまったため桜を植えると聞いて渋い顔をしたものの、なまえが発案したことを知ると快く手伝っていたのには目を丸くした。相変わらずヤツは昔と変わらず、もしくはそれ以上になまえにご執心だった。
 中庭以外にも、ボンゴレ本部内の庭には銀杏や楓といった日本でよく見られていた樹が植えられていた。それは日本を離れてイタリアでも仕事をすることになる綱吉への、なまえのささやかな心遣いだった。
 見事なまでに大輪の花を咲かせて桃色の絨毯を生みだす頃には、綱吉の執務室からも拝むことができるくらいに桜は成長しているだろう。きっとその頃には、綱吉も皆も、今よりももっと強くてやさしいファミリーになっているんじゃないか。
 当時そう話しながら植えた桜の苗木を見つめるなまえは、所々を土で汚しながらも涙がでそうになるほど優しい表情を浮かべていた。
 あの時よりも、桜の樹は幹や枝が太くなっているがまだまだ成長途中である。俺たちのように。
 植物も人も、成長も早い。だからこそ一瞬いっしゅんを大切にしなければならない。しかし、俺は昔よりも成長できているのだろうか。日々を掛け替えのないものと扱い、過ごせているのだろうか。
「うぅ……また言いくるめられてしまった……」
 否、できていないだろう。大きく息を吐き出して両手で顔を覆う。
 右腕としてこれはどうなんだ。右腕を抜きにしても、大切な人が明らかに無理をしているというのに。強引にでもそれをやめさせ、まずは休めと伝えられない。
 最近の綱吉は一人で考え耽っていたり、なにか閃いたのかと思えば、急用がない限りは入ってこないようにと声を掛けて執務室に籠ることが多くなった。執務室の片隅にはご自分で集めたのか、歴史書や各国の法典等、多種多様に揃っており、山積みになっていた。やらなければならない仕事は欠かさずに片付けるため、一見なにも問題にすることはないのかもしれないが、彼に近しい場所にいる者は皆気づいている。
 綱吉が“なにか”をしている様子が見受けられ始めたのは、彼の姉であるなまえが年末年始は米花に残るという言伝を、綱吉が皆に伝えてきた少し前だった気がする。
「……っつーことはやっぱり、なまえさん関係のことか?」
 中学生の頃から共にいて、綱吉がどれほどなまえを慕っているのかをずっと見てきた。家族だからこそ、大切な人だからこそ彼女をマフィアの闘いに巻き込みたくない。そう思い苦悩していた姿を幾度となく見てきたし、その想いが強いために、今よりも幼かった彼がなまえに強く当たってしまったことも知っている。
 しかし、なまえが米花に行くのを決めたとき、綱吉は変わった。大空の気質を感じさせる瞳からは、見守ることを決めた意思が見受けられた。
 なまえの“わがまま”を叶えてやるように働きかける綱吉だったが、本当に心から、なまえのためになにかしてやりたいと思えているのだろうか。隼人の目には、綱吉はそう映っていなかった。綱吉がまだなまえを心配するがゆえに、本当はなまえが率先して動くのではなくて自分が動いてどうにかしてやりたいという気持ちが伺えた。そこには迷いが見て取れた。
 綱吉はなまえが米花に行ってから表には出さなかったものの、ずっと悩み苦しんでいたのだ。理想とする自分と、それに反する現実の自分に。
『なまえが参加しないのは、なんとなくわかってたよ』
 仕方ないように笑う綱吉の顔が忘れられない。本当はなにか言葉を掛けてやるべきだったのに、自分と来たらなにを伝えたら良いのかわからずにただただ拳を握った。
 こんな時、あの野球バカならば気の利いた声を掛けたのだろうか。時間を削ってまで誰にも言わずに“なにか”を進める綱吉に、自分たちも頼れと言うだろうか。
「ああーー! クッソ!」
 他人と比べてどうするんだ。俺は俺なのだから、比べたところでどうしようもないじゃないか。
 だが、なぜ綱吉はあれほど頑なに隠したがるのだろう。誰にも自分のしていることを伝えないのは、なにか後ろめたいことがあるからだ。彼は根がとても優しいから、皆に迷惑を掛けまいとでも考えているのだろうか。
 迷惑なんて、そんなこと絶対にないのに。それよりも、頼りにされていないようで情けなくなる。
「十代目……」
「ツナはまだ執務室か」
「ッ! リボーンさん……!」
 声に振り向くとリボーンが立っていた。気配を感じなかった。これが仕事中だったら、確実に致命傷を負わされていた。
「……はい、俺がふがいないばっかりに今日も十代目を止められず……!」
「いつまで経ってもバカツナだな」
 重くため息をつき夜空を見上げるリボーンの表情は、深く被ったハットの影でわからなかった。
「リボーンさんは十代目がなにをしているのかご存じなんですか?」
 家庭教師だった縁から今でも綱吉やボンゴレの傍に居り、なにかと厳しいアドバイスや仕置きをしてくれている。また、この人は恐ろしいほど他者の心を読み取る才に長けていた。それならば、綱吉がなにをしているのか知っているのではないか。そんな仮説を立てるのは、幼い頃から思考実験を繰り返してきた自分にとっては容易いことだった。
 リボーンは少しの間こちらをじっと見つめてきた後、片方につり上がった口角が薄い唇を歪めた。
「――お前も、いずれわかるさ」
 笑っているはずなのに、愉しそうな声なのに。哀愁漂う雰囲気を醸し出しているように思えてしまうのは、きっと満月の魔力なのかもしれない。

18,02.18