繋がりの先へ


 運命の人とは、小指に繋がった赤い糸で結ばれている。
 そんなこと、いったい誰が言い始めたのだろう。開店前に仕込みをしている父に聞いても、首を傾げて腕を組み少しの間考えた後、いつの間にか耳にするようになったとだけ話していた。
 俺が初めてその言葉を聞いたのは、確か小学生の時だったと思う。高学年になって、それまで一緒に馬鹿みたいにふざけて笑いあっていた女子が突然大人っぽい振舞いをするようになり、一緒に遊ぶ回数は見る見るうちに減っていって、ふざけている男子を小馬鹿にするような素振りを見せるようになった頃だ。
 家庭科で裁縫道具を使う授業があった。先生が黒板の前で針の使い方を注意するよう、耳にたこができるほど注意をして、いくつかの縫い方を教えてくれた。
 各自裁縫キットから布と糸を出して、先生が見せてくれたように縫い始めようとしたが、俺は玉結びで躓いた。何度やっても上手く結ぶことが出来なくて諦めかけた時、隣の席の女子が丁寧に教えてくれたのだ。
 彼女は裁縫がとても上手で、俺が玉結びひとつに苦戦しているうちに、先生から伝えられていた縫い方すべてをあっという間に終わらせていた。ずっと隣の席だったのに、彼女とまともに話したのはこの授業が初めてだった。
 彼女はいつも静かで大人しくて、俺が普段一緒にいるような、ちょうど斜め前の席にいる声が大きくて活発な女子とは正反対の子だったから、自然と接触も少なかったのである。
「裁縫得意なんだな! すげー! ありがとうな」
 礼を伝えるとすぐにそっぽを向いてしまった彼女の反応に少しばかり不思議に思いつつ、武はやっと縫い始められる現状にやる気がみなぎっていた。
 練習用の布には針を刺す場所がプリントされていて、その通りにやれば簡単に縫い方がマスターできるようになっていた。紐が通る部分も丁寧に描かれていたため、皆あまり苦労せずにどんどん先に進むことが出来る。
「山本ー、まだそんなとこ縫ってるの?」
「いやいや、俺いまから一瞬で終わらせるからな。そういうお前は終わったのか?」
 手は動かしながら、話しかけてきた斜め前の席の女子に返事をする。
「終わったよ。もう女子はほとんど次の布で縫ってるよ」
 その言葉に顔を上げて周囲を見ると、彼女の言う通り、一枚目の布で縫い方の練習をしているのはほぼ男子のみとなっていた。
「ははっ、さすが女子」
「でしょー?」
「続きしなくていいのか?」
「いいの。疲れたから休憩」
 そう言って俺の縫う様子を眺めている彼女はすぐに飽きてしまったのか、俺の隣の席にいる玉結びを教えてくれた女子とお喋りをしていた。
「よっしゃ! 終わった!」
 最後の玉止めは早く終わりたくて多少ぐちゃぐちゃになってしまったけど、まあきちんと縫えているし心配いらないだろう。
 この調子で二枚目もさっさと終わらせてしまおうと袋から新しい布を取り出したところで、声を掛けられた。
「ねえねえ山本、小指だしてよ」
「なんだ? 俺忙しいんだけど」
「全然忙しくないじゃん」
「これ終わらなかったら宿題になるんだろ? それだけは絶対に嫌だから俺はこの時間で終わらせる」
「大丈夫だって。ほんのちょっと、三分くらい……いや、一分くらいだから!」
「痛っ! 言ってるそばから引っ張るなよ! 小指取れたらどーすんだ!」
「そんな簡単に小指なんて取れないってばー」
 彼女は持っていた赤い刺繍糸をささっと俺の小指に結んだ。
「なんだこれ?」
 赤い糸が結ばれた方の手を引き寄せると、今までたるんでいた糸が少しずつピンと張っていった。赤い糸の先を目で辿っていくと、隣の席の女子の小指と繋がっていたのだ。
「ほら見て! 赤い糸!」
「は?」
「山本知らないの? 赤い糸。好きな人とは運命の赤い糸で結ばれてるってやつ」
「そのくらい知ってるよ」
 女子がここ最近話題にしてる内容だ。連日その言葉を聞いていれば興味がなくても頭の中に入ってしまう。
「ああ! こらこら取っちゃダメだって!」
「サキちゃん、やめようよ」
「いいじゃん。二人お似合いだよ? マナちゃんだって嫌じゃないでしょ?」
 ぼんやり二人のやり取りを聞きながら、ああそういえば、活発な方はサキといって、隣の席の子はマナというんだっけと思い出した。
 嫌じゃないでしょ? と訊かれたマナは顔を赤くして俯いた。
「なにしてんの?」
「見て見て! 赤い糸だよ」
「山本くんとマナちゃん、まさか……!」
「えっ、二人ってそうだったの!」
「山本まじで!?」
 サキの楽しそうな声を聞きつけた男女が机の周りに集まってくる。ケラケラ笑う声にはやし立てるように
 赤い糸を辿って隣を見ると、マナはさらに俯いていた。糸で結ばれていない方の手でスカートをぎゅっと握っている。
 なんだこれ。なんか、ムカムカする。
「二人って本当に運命の赤い糸で結ばれてるんじゃ……」
 武は裁縫箱に入っていた鋏を取り出し、赤い糸を雑に切った。
「あのさ、こういうの、やめね?」
 鋏を裁縫箱にほおり投げると予想していた以上にガタンと箱は鳴った。さっきまで騒ぎ立てていた机を囲んできた男女だけでなく、教室全体が静まり返っている。
「山本くん、どうかしたの?」
 先生が駆けつけてくるが、俺は話す気がなかった。小指に結んである赤い糸を力強く取り払って床に落とす。ちらりと隣を見ると、くしゃりと顔をしかめているマナと一瞬だけ視線があった気がした。
「先生、俺、腹痛いからトイレ」
「あ、山本……」
 引き留めようとするサキと先生の声が聞こえたが、武は振り向かずに教室を出ていった。
 あの場所にいたところで、この胸くそ悪いむしゃくしゃとした気持ち悪さはなくならないことを、武はわかっていたのだ。

   * * *

 所詮それは、思春期につま先を浸り始めた小学生がやることだった。男女の関係に対して敏感になる時期では仕方のないことかもしれない。しかし、武は十年ほどだった今でも、からかわれた時のマナの泣き出しそうな顔が脳裏に焼きついていた。
 今になって分かることだが、きっとマナは自分に好意を持っていた。そして、サキはそれを知っていて、マナに良かれと思って小指に赤い糸を結んだのだろう。
 唐突に始まった昔話。それはきっと、目の前でなまえが縫い物をしているからだ。ぼんやりと縫い物をする彼女の姿を眺めていたら、心の奥にしまい込んでいた思い出がよみがえってきたのだ。
「……それで? マナちゃんとサキちゃんとはその後どうなったの?」
「別に。変わんないよ。トイレで頭冷やしてから教室に戻って、先生にいろいろ聞かれたけど適当に流した。二人……特にサキの方は謝ろうとしてくれたのか、ちらちらこっち見てきたけど、裁縫終わってなかったから縫うのに集中したんだ。でも結局、宿題になっちまったけどな」
「ふうん」
 当時、家に帰ってさっさと宿題を終わらそうとしたけど、一枚目の布より難しい縫い方を練習するものだったから苦戦してしまった。父にやり方を教わろうとしたが、店で寿司を握っていたから聞くに聞けず、店の隅っこで裁縫と格闘していたっけ。結局、玉結びさえまともに出来ない武を、見かねた常連客である近所のおばさんが、笑いながら丁寧に教えてくれた。
「そんな思い出があるからかわかんねーけど、俺、裁縫苦手っぽい。未だに玉結びできねーもん」
「そっか。……で? これはなに?」
 なまえは左手の小指を指切りをするように立てて結ばれた赤い糸を見せてくる。それは武が昔話をしながら、裁縫をするなまえの小指に結んだものだった。
「いやー、思い出したら懐かしくなっちまって。ちょうどそこに赤い糸あったし」
「ボタン取れそうになってたから縫ってるのに……小指いじられるからちょっと縫うの大変だったんだよ?」
 なまえは洗濯した武のワイシャツのボタンが取れかかっていることに気づき、縫っていてくれていた。自分で気づかなかったのかと縫い始める前に訊かれて気づかなかったと返事をしたが、正しくは、気づいていたが面倒臭くてそのままにしていた。きっとなまえにはそんなことすらお見通しだろう。
「悪ぃ悪ぃ。でもほら、俺とお揃い」
 なまえと同じように赤い糸を結んだ小指を立てて見せる。いつの間に結んだんだという顔をしてからすぐに少し頬を膨らまして顔を逸らした。
――やっぱり女の子って、こういうものが好きなんだな。
 そんななまえの姿に武は頬を緩ませる。
 なまえは、特別な関係性らしい行動や言動に、ささやかながらも年相応の普通の女の子らしい反応をしてくれる。『普通の女の子』という表現が適切であるかどうかはわからないけれど、ボンゴレの仕事で見せるような凛とした表情とは違って、よくドラマや映画にでてくるようなごく一般的に恋をする女性が見せるような顔を自分には覗かせる。それが武には嬉しかった。
 ずっとなまえのことは、年上の女性という印象が離れなかった。それが剥がれ落ちて、一人の女の子として見るようになったのはいつだったろうか。

 なまえと出会ったのは、怪我をしてなにもかも投げ出そうと屋上のフェンスを越え、綱吉が助けてくれた後のことだった。
 綱吉の家に足を運ぶようになって、彼が母と暮らしていていることを知った。山本家は反対に、父が男手ひとつで自分を育ててくれたから、家に母がいるという空間はなんだか不思議だった。しかし、沢田家に通い続けると、次第にその空気が身体に馴染み始める。その頃にはもう、少しだけそのやわらかさとあたたかさが眩しく思えた。
 沢田家に居候が増えていくのを楽しそうだなと綱吉の傍で眺めつつ、彼らと関わりを深めていく中で、なまえと出会った。綱吉に姉がいることは、初めて彼の家を訪れた時に聞いていた。けれど、彼女は学校が終わるとすぐにバイトに行っていたため時間が合わず、初対面の時、武は既に綱吉とだいぶ仲良くなっていた。
 身の回りにいる歳上の女性なんて、父の店に来る常連のおばさんや商店街のお婆さんしかいなかった。だから自分と歳の近いなまえの存在に、最初のうちは緊張していたのを今でも覚えている。
 綱吉が姉を大事に思っていたのは、なまえの話を恥ずかしそうにする彼の様子を見て気づいていたし、なまえと言葉を交わすうちに彼女が弟をどれほど大事にしているのかを目のあたりにした。家族の形というものは人それぞれ異なることは知っていたけど、姉弟の姿を見て、改めてそれを思い知ったのだ。
 俺は父との繋がりしかない。父は幼い頃から大きな存在だった。かさついている硬くて大きな手のひらで豪快に頭を撫でてくれて、時にゲンコツを落とされた。家の中は太くて低い声が通っていたし、大きな背中はまさに大黒柱といえる頼もしさがあった。時雨蒼燕流の師として対峙した時は、父の新たな一面を知ったとともに、この強さが今まで自分を守り、ここまで育て上げてくれたのだと思い知った。
 なまえはそんな身近な存在とは正反対だった。自分よりも小さくて薄っぺらくて白い手はすべすべで柔らかくて、冬はハンドクリームに包まれて微かにいい香りがした。弟に振舞うように頭を撫でられた時の手つきは、泣きだしてしまいそうになるほど優しかった。心地よい声音は鼓膜をくすぐり心臓を高鳴らせたし、ずっと聞いていたって飽きなかった。
 なまえを通して、女の人というのはこういうものなんだと知った。男には適わなそうな細い線で描かれた体だけど、男にはないやわらかさがそこにはあって、中学生の俺にとって初めて『異性』を意識させた存在だった。
 昭和を生き、その時代の大衆映画をこよなく愛する父は『男は女を守るもんだ』と酔っ払った時によく口にしていたけど、なまえは決して守られるだけの存在ではなかった。当時、ごっこ遊びの一環だと思っていたマフィアとの闘い。それに巻き込まれていくなまえは、ボンゴレの十代目候補だと言われ慌てたり否定したりする綱吉よりも凛としていた。
 まるで巻き込まれることを知っていたみたいに冷静で、俺たちと敵対関係にあったマフィア相手にでさえ心を開き、心を開かせた。敵である彼らに笑顔を見せて友人のように振る舞うなまえを、武は眺めることしか出来なかった。
 なまえが紡いでいく繋がりは、不思議な絆だった。いや、絆と呼ぶには儚くて、けれど確かな繋がり。特に姉弟のそれは彼女たちにしか入り込めない雰囲気があった。
――じゃあ、俺は?
 俺と彼女はどんな絆で結ばれているのだろう。俺は、彼女にとってどんな存在なのか。仲間? 弟の友人? それとも……。
 一度抱いた疑問は、なにをしていたって心の中に居続けた。しかし、それも長くは続かない。武の逸る気持ちは前へ前へと突き進んでいった。
――欲しい。
 なまえとの繋がりが、特別な繋がりがほしい。
 それを自覚した頃には、既に彼女を求めて手を伸ばしかけていた気がする。
 一人で眠る夜、なまえは今なにをしているのかと、そんなことばかり考えていた。夢の中にまで彼女はでてきて翻弄してきたりもした。
 そんな矢先のことだった。十年後の世界で、父との繋がりが失われてしまった未来を味わった。
 たった一つの特別な繋がりが無くなってしまった。最初は信じられるはずもなく、頭の中では否定ばかりしていた。
 そんな武を救ったのはなまえの存在だった。なまえがまだこの世界に生きていること。白蘭のもとにいることが判明しても、彼女が生きていてくれるだけで喜びを感じた。
 ああ、俺はまだなまえを感じることが出来るんだ。この繋がりは失わなかったんだと酷く安堵したのを覚えている。この時、自身の中で勝手に、なまえとは特別な繋がりがあると信じていたのかもしれない。
 しかし同時に、未来で初めてなまえを縛りつけていたものの存在を垣間見た。リボーンと白蘭、骸とユニは知っていたらしく、意味深げな発言をしていた。それは綱吉や雲雀でさえ知らなかったことだったようだ。なまえを苦しめている何かのすべてを理解することは難しかったけれど、彼女は、うんと昔の繋がりに苦しめられているのだと、勉強のできない頭でなんとなく察した。
 そして未来から現代に帰ってきて、父の顔を見た時、胸の底からなにかが込み上げてくるのを感じた。武は剛を力の限り抱きしめると、その脚でなまえのもとへと駆けだした。
 繋がりは、すぐに消えてなくなってしまいそうなほど儚くて尊い。だけど、すべての繋がりを一生大事にしなくてもいい。すべて大事にしておくなんて無理なんだ。
――だから、自分にとって心地よくて本当に大切な繋がりだけ、大事にしていけばいい。
 武は沢田家に到着すると、驚く綱吉や奈々たちの声に振り向かず、風のようになまえの部屋を目指した。勢いよくドアを開け、突然やって来た武に、ベッドに座っていたなまえは目を丸くする。
「俺、なまえさんのことが好きだ」
 息を呑んだなまえは零れ落ちそうなほど瞳を覗かせた。
「俺さ、いろんな繋がり方があっていいと思うんだ。なまえさんが、十年後の世界で白蘭が話してた、ずっと昔の繋がり? みたいなものが忘れられないっていうなら、俺は別に構わないよ」
 なまえが抱える『なにか』が、映画やドラマでありがちな、主人公の好きになった人が「忘れられない人がいる」と話しているのとは、次元が違うってことくらいわかってる。
「だって、なまえさんは人との繋がりを大切にする人だってこと、俺知ってるからさ」
 近くて遠いところから、ずっとなまえが他者を尊重する姿を見てきた。
 彼女の負担になりたいわけじゃない。だけど、彼女が疲れた時に寄りかかって胸を貸してやれるくらいの存在にはなりたい。もしも叶うのなら、自分と同じような繋がりを、なまえも俺に求めていると、信じたい。
「俺、どんななまえさんも好きだよ。一所懸命なところも、みんなに何かしてやろうとするところも。ずっと傍で眺めてたいなって思うし、なまえさんが頑張ってたり誰かのために何かしてると、俺も頑張らなきゃとか、何かできることはないかなって思ったりもする。でもっ……」
 ゆらゆらと瞳を揺らせて見上げてくるなまえに言葉がつまってしまう。
――ここでやめちゃだめだ。全部、思っていることを言うんだ。
 武は強く拳を握り、口の中がカラカラになっているのを感じながらも話を続けた。
「でも、“ずっと昔の繋がり”を引きずるなまえさんは、見ていてつらい。なまえさんも、本当はつらいんじゃないか?」
 くしゃりと顔を歪ませるなまえに、それが図星だと悟る。
「だったらもう、それ、断ち切っちまおうぜ」
 武はなまえの目の前まで歩いていくと、膝をついて震えている白い手を握った。少し目線の高いところにあるなまえを見上げると、今にも泣き出しそうなのを必死になって堪えている。
「なまえさんが自分で断ち切れないのなら、俺が手伝う。……だからもう、一人で抱え込まなくたっていいんだ」
 大粒の涙をぼろぼろと零すなまえの握っていた手を離して腕を伸ばすと、すがりつくように抱きつかれた。力を入れずにポンポンと背中を撫でるように叩くと、背中に回った腕にぎゅっと力が入れられる。
「……なまえさんがつらくならなくなる手伝い、俺がしてもいい?」
 本当はなまえが抱えるものを背負わせてほしかった。だけど絶対、自分よりも他人を優先する彼女は背負わせてくれない。だから敢えて『手伝う』という言葉を使った。
「なあ、なまえ」
 小さな嗚咽が耳のすぐ側で聴こえ、肩が濡れていく。その様子がなまえの答えでもあった。だけどきちんと言葉で聞きたくて、自分を求めてほしくて武は急かすように名前を呼んだ。
「……武っ、……手伝って」
「――ああ、お安い御用だ」
 これ以上ないほどの喜びで胸が締めつけられるのを感じながら、武はなまえを抱きしめた。

 思い返せば一か八かの告白だった気がする。未来から帰ってきた勢いで告白したのも同然だったし、まさかなまえが頷いてくれるなんて思いもしなかったから。
 時間が経つにつれてあれは夢だったのではないか、自分が伝えたことは告白のようで告白ではない気がして、武は後日再びなまえに自分の気持ちを打ち明けた。そしてなまえに再度頷かれ、夢だけど夢ではなかったと実感したのだった。
 なまえの小指と自分のそれを結んだ赤い糸は、昔を思い出しながら弄っていたら、自分の小指から解けてしまった。どうやら結び目が緩かったらしい。なまえの指にだけ残った赤い糸に少しだけ残念に思ってしまう。やっぱり玉結びができないから解けてしまったのだろうか。
「はい、できた。他のところも時間経ったら取れそうだなって思ったボタンはやっておいたよ」
「サンキュ」
 シャツを受け取った武は、着ていたTシャツを脱ぎ捨てて洗濯洗剤の香りに頬を緩めながらシャツを羽織った。
「呼び出し?」
「ああ。って言っても、報告書持って行って少し話し合うだけだ」
「あっ。待って、アイロンまだかけてない!」
「いいよいいよ、会議ってほどのもんじゃないし。長居する予定はないから」
 獄寺あたりには「アイロンくらい掛けろ」と目くじらを立てられるかもしれないが、なまえがボタンを縫ってくれたことを話せばきっと大人しくなるだろうと予想する。決して惚気ではないのだが、なまえとの間に起きたことを話すと、獄寺は大人しくなるのだ。なぜか拳を握りながら恥ずかしそうにワナワナと震えているけれど。「なまえと山本はあいかわらずだね」と笑う綱吉とは大違いだ。
 未だに納得がいかないのか頬を膨らませているなまえの表情が愛らしくて、両手で頬を挟むように顔を包む。するとプシュッと変な音を立ててなまえの頬は萎んだ。笑いながら手を離すと、なまえは恥ずかしいと自分で両頬を手で隠すように押さえる。
「さっきさ、思い出してたんだ。なまえのこと、どうして好きになったんだろうって」
「へっ!? な、なにっ、いきなり……」
 自分の言葉にころころと表情を変えるなまえに胸の奥があたたかくなるのを実感した。
「なまえは俺にとって初めての歳が近い『年上の女の人』で、中学生の俺にとって初めての『異性』だったんだよ」
「っ……!」
「ははっ、今日はなんだか俺、“思い出振り返りデー”らしい」
 頬を赤く染めるなまえに笑みを深めると、小指に未だ結ばれている赤い糸が目に留まる。
 『運命の赤い糸』が本当にあるのなら、俺となまえはどうなのだろう。出会う前から赤い糸で結ばれていたのだろうか、それとも。
 武はなまえの小指から垂れる赤い糸を引っ張った。俯いていたなまえは首を傾げて武を見上げる。
――結ぶのが下手くそで解けたって、解けるたびに結び直せばいいんだもんな。
 糸を引っ張る手はそのままに、武はもう片方の手をなまえの頭に伸ばし、撫でるように後頭部へと触れて引き寄せた。頭頂部に唇を落として髪を撫でる。
「行ってくる」
 赤い糸に触れながら「気をつけてね、行ってらっしゃい」と手を振って微笑むなまえに心臓が高鳴りつつ、武はジャケットを羽織り部屋を後にした。

   *

 それから数日後。
 澄み渡る青空の下、武はなまえを連れて河川敷にあるグラウンドを訪れていた。
「久しぶりにキャッチボールしたくなってさ。だいじょーぶ、本気で投げないって」
「本当? 本当に? 私、死ぬ気でキャッチボールするとかできないよ?」
「心配すんなって。ツナとかなら本気だしちまうかもしれないけど、なまえの綺麗な手、怪我させたくねえし。なまえがグローブ構えたところめがけて、かるーく山なりのボール投げるからさ。なまえは好きなように投げ返していいぜ。ちゃんと受け止める」
 最初から離れすぎてもやりにくいため、まずは二メートルほど距離を取って始めることにする。グローブを胸の前で構えてもらい、手本を示すように山なりのボールをグローブ目掛けて投げる。
 パンッと気持ちの良い音を響かせながらグローブに吸い込まれるように収まったボールになまえは目を輝かせた。
「取れた!」
「さすがなまえ、いい感じだな!」
「すごい……! ちがう、武が上手いんだよ!」
「ははっ、サンキュ。ほら、なまえも投げてみろって」
「……笑わない?」
「笑う? どうして。ほら、投げて」
 グローブを構えて笑うと、なまえはおずおずと身体を動かし、腕を大きく動かしてボールを投げた――はずだった。
「あっ」
 しかしボールはなまえの思い描いた軌跡を辿らずに、ボトンッと野暮ったい音を立てて彼女からさほど離れていない地面めがけて落下していった。
「……っふ、はははっ!」
「っ……! 笑わないって言った!」
「悪ぃ悪ぃ。いやーっ……だって、こんなっ……手からボールが、離れないなんて……!」
 笑いすぎて腹が痛くなりそうだ。ボールがこちらまで届かずに真っ逆さまに落ちてしまったのは、手からボールを離すタイミングを誤り、さらにボールが手から離れた時に指先でかけてしまった回転が原因だった。
「次こそちゃんと投げられるから!」
 ボールを拾いに行ったなまえが定位置に戻り真っ赤な顔で意気込む姿は微笑ましくて、武はついつい頬を緩めてしまう。
 なまえは容量の良さと器用さから、なんでも出来そうに見えてしまうが、一つひとつ見ていくと上手く出来ないこともそれなりに存在していた。その一つが運動、特に球技である。本人に言わせれば「ボールと仲良くできない」らしく、コントロールが苦手なようだった。それなのにバッティングセンターに行くと、結構いい成績を残せるのだから、本当にボールとの相性が合わないらしい。
「意気込むのはいいことだけど、意気込んでガチガチに身体に力入るとまた落ちるぞ?」
「確かに! そうだよね……リラックス、リラックス……」
「“こちょこちょ”するか? 力抜けるぜ?」
「しません!」
「しませんかー、残念だなー」
 以前、一緒に夜更かしをした翌朝、なかなか起きないなまえをイタズラ気分でくすぐったところ、面白いほど敏感に反応を見せたことがあった。それからというもの、武はなまえの不意を狙ってくすぐっては、夜更かしを思い出すような声を上げてしまうなまえに怒られるのだった。
 冗談半分、本気半分だったのだが、こうも即答で否定されてしまうと少しだけ寂しい。
「よっし! もう一回だ!」
 武は仕切り直しの意味も込めてグローブに拳を叩きつけ、なまえのボールを待ち構えた。

 しばらくキャッチボールを続けていると、見る見るうちにそれらしいボールが投げられるようになっていった。飲み込みが早いのは元来の洞察力の高さや賢さからくるのかもしれない。だけど、それだけではなさそうだ。
――もしかして、身体動かしてないのが原因だったのか?
 近頃、なまえは翻訳の仕事がまた入ったとかで精力的にパソコンに向かっていた。今日は息抜きで外へ連れ出したが、声を掛けなければずっと家に閉じこもっていたかもしれない。食事の支度をしてくれるからといっても、それでは身体に悪い。それに……。
「なまえー、今日からちょくちょくキャッチボールしに来ねぇ?」
「え? どうして?」
 胸の前に構えられたグローブに綺麗に収まったボールを掴んだまま、なまえは首を傾げた。
「最近、ずっと仕事ばっかだろ? あんまり動かないと身体にも悪いんじゃないかと思って」
「えぇー? そうかなー。でもそれなりに動いては……いるよ!」
 返事をしながら投げられたボールは、数十分前のボールとは別物のように山なりに飛んだ。身長の高い自分を超えていきそうになったボールを軽くジャンプしてキャッチする。
「まあ確かに、夜更かしして運動してるもんな」
「っ……! その運動じゃなくて!」
 後ろに二歩下がってからなまえに向けて軽く投げると、戸惑いながらも落とさずにしっかりとボールを受け止めた。
「えっ、違ったのか? てっきり俺との運動だと思ったんだけど」
「……武の見てないところで“ながら運動”とかしてるもん」
 少し強めに投げられたボールをグローブて包み込む。なまえが投げたボールには、彼女の表情と声以上に感情が乗っていた。
「まあ、運動不足解消っていうのは建前なんだけど」
 ボールを投げ返さずにグローブに軽く叩きつける。少しの間、指先でボールを弄ってから武はようやく顔を上げた。
「俺さ、いつか父親になるなら、今みたいにさ、こうやってキャッチボールすんのが夢だったんだわ。小さい頃、親父とキャッチボールしたの、すっげー楽しくてさ」
 男手一つで育ててくれた父。店を切盛りしながらも、時間の合間を縫って一緒に遊んでくれた。幼い頃はもっとキャッチボールがしたいと駄々をこねてしまったけど、大人になってみて、父がどれほど忙しい中、疲れた顔も見せず自分に構ってくれたかを実感する。
「……それ、なまえと叶えたいんだ」
「えっ……」
「俺、母さんとの思い出、ほとんど無いんだ。あるんだろうけど、覚えとなくてさ。……でも、三歳くらいだったかな、手繋いで、一緒に歩いたことだけ……それだけはなんでだか、鮮明に覚えてる。握ってくれた手があったかくて、いい匂いがして、すごく安心できた」
 父は母のことを語らない。でも、俺はそれでいいと思ってる。周りと自分の家庭を比べても寂しくなかったと言えば嘘になるけれど、父は俺に大事なことをたくさん教えてくれた。
「だからさ、なまえ、俺と……」
 そんな父の姿を見て『もしも自分が家庭を持ったら』なんてことを考えるようになったのは、きっとなまえと一緒にいるようになってからだと思う。なまえとこれから先、ずっと一緒にいられるのなら、もしも自分たちが親となって、子どもを育てられるのだとしたら。頭の中に浮かんだ数々の空想は、涙が出そうなほどあたたかいものだった。
「俺と、家族にならないか?」
「っ……!」
 背中から殴られてるんじゃないかと思うくらい心臓はバクバクと鳴っていた。指先で弄っていたボールが汗で滑り落ちそうになる。
 なまえを見つめていると段々と瞳は揺らいでいき、俺まで鼻がツンとした。
「私で……いいの?」
「俺は、家族になるならなまえがいい。なまえじゃなきゃダメなんだ」
 なまえの震える声につられないように一言ずつしっかりと声に出して、真っ直ぐなまえを見つめた。
――俺となまえの繋がりは、この先いったいどんなものになるのだろう。
 仲間たちとの繋がりとは違い、さらに姉と弟の繋がりとは違う、特別な、俺だけの彼女との繋がり。
 駆け出したなまえを見て、グローブとボールを足元に置く。
 両腕を広げて飛び込んでくる幸せを受け止めた。

18,04.24