君が呼ぶ名前


 その記憶は、時間が経った今でも鮮明に思い出せる。
『無理して変わらなくてもいいよ』
 あの秋の日、並盛中学校の屋上で。夕焼けに染まった、昔とほとんど変わらない並盛町を眺めていた時のこと。
『なまえ、きみはそのままでいいよ。僕もきっと、このままだから』
 どうして彼は気づいたんだろう。「ずっと見てきたから」と言っていたけれど、まさか、まさか言い当てられるなんて思わなかった。恭弥の指摘は、自分ですら無意識に怖れていたことだったのだ。
『いつまでも待ってるよ。なまえが手を伸ばしてくれる、その時まで』
 それでも恭弥は笑うことも叱ることもせず、ただただ認めてくれた。それがどれほど嬉しかったか、きっと彼は気づいてないだろう。
 ずっとずっと、恭弥は待っていてくれたのだろう。そして、その後も恭弥は待っていてくれた。振舞いを変えることなく見守ってくれて、時に力を貸してくれた。恭弥の優しさに触れるたびに胸の奥がくすぐったくて、気を抜いたら涙が出てしまいそうになった。そんな時、いつも恭弥は頭を撫でてくれた。泣き出してしまいそうなことも、もしかしたらその奥にある気持ちでさえ、彼には筒抜けになっていたのかもしれない。
 恭弥への気持ちを自分の中で整理して、長いこと待たせてしまった謝罪とお礼と、自分の気持ちを頭の中で何回も繰り返してから本人へと伝えた。
 手を伸ばした私に目を丸くしたあと、美しく微笑んで手を握ってくれた恭弥を、これから先も忘れることはない。

   * * *

 目尻から冷たいものがすっと耳を濡らした感触で目を覚ました。恭弥の帰りを縁側でくつろぎながら待っていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 枕にしていたはずの腕はいつの間にか目の前に転んでいた。寝返りでも打ったのだろうか。
「こんなところで寝てると風邪ひくよ」
「っ!」
 頭の上から降りかかった声に肩が揺れる。勢いよく顔を向けると着流し姿の恭弥がそこにはいた。そして、腕が目の前にあったのは、恭弥が膝枕をしてくれたからだと気づく。
「おかえり! ごめんね、お迎えできなかった」
「ただいま。遅くなったのは僕だから」
 目を擦るついでに急いで涙の跡を指先で引っ掛け消し去る。バレないようにと思ったけれど、恭弥はこういうことに関しては見過ごしてくれない。
「怖い夢でも見た?」
 少しだけ声を潜めて尋ねてくる恭弥は、いつもスッとした眉が微かに歪な形を描いていた。眉間にできた皺を無くしたくて、なまえはそこへ手を伸ばす。
「違うよ。その逆。恭弥くんと並中の屋上に行った時の夢見たの。……私の宝物」
「宝物?」
 恭弥の伸びた前髪を通り抜けて眉間に触れると、魔法が解けたみたいに眉間は真っ平らになった。
「うん。思い出すとね、嬉しくて泣いちゃいそうになるの」
 指先を離そうとすると恭弥の顔が猫のように手に擦り寄ってくる。好きなようにさせようと力を抜くと恭弥に手を重ねられ、彼の頬を撫でるように動かされた。最後に手のひらに唇を落とされ恭弥の手は離れていく。
「懐かしいね」
「そう? 私、今でも恭弥くんがあのとき言ってくれた言葉、鮮明に思い出せるよ」
 恭弥の唇が触れた箇所に同じようにキスをする。間接キスだなんてもうドキドキする年齢ではないけれど、彼の触れた名残りのある部分にすぐ触れられるという、普段ならできない体験に身体は正直な反応を見せた。そのままチラリと見上げると頬を緩めた恭弥と目が合う。
「そう」
 たった一言。ただそれだけなのに、胸の中がいっぱいになった。
 宝物の中にいる恭弥の微笑みと寸分狂わないそれが、いま目の前にある。鼻の奥がツンとする。
 呼吸をするよりもゆっくりなスピードで恭弥の手が伸ばされて頬に触れる。硬い指の腹と頬がぴったりとくっついて滑るように顎へと指をかけられた。キスをする前に恭弥が必ず行う癖である。
 バクバクと心臓が暴れるのを感じながら、上半身を屈めて近づいてきた顔に瞼を下ろした。
 触れて、離れて、また触れて。一度で終らないのは、互いに唇が離れた時にうまれるわずかな隙間でさえ愛おしいから。最初は触れるだけだったのに、次第に深くなっていき、可愛らしい小鳥のさえずりは姿を消した。
「っ……ふ、ぁ」
 自分から舌を伸ばすと軽く吸われる。熱い舌で根元の方から絡めとられて、身体の中心に電流のような快感が走った。恭弥の着物をぎゅっと握って気持ちよさに耐えようとしてみたけれど、上顎を舌で撫でられて震えあがってしまう。
「んぅッ!?」
 顔を背けようとしたけれどがっしり顎と頭頂部を固定されていて逃げ出すことは不可能だった。無意識のうちに足の指がギュッと丸まくなる。
 離れていた時間を埋めるように、恭弥はこちらの様子などお構いなしで貪るようなキスを繰り広げる。どんどん身体は熱くなっていき唇の割れ目から不規則な吐息が漏れていった。膝枕されたままで投げ出されていた足を、バタバタと音を立てながら曲げたり伸ばしたりと、床を蹴るような動作をして恭弥に限界を伝える。
「っ……久しぶり過ぎて、息の仕方忘れちゃった?」
 名残惜しそうに銀の糸が離れた互いの唇に橋をかけて消えていく。楽しそうに目を細める恭弥は息一つ乱れていなかった。息を整えながら睨み上げる。すると「怒らないでよ」と額に唇を落とされた。
「もう……! 膝枕と羽織、ありがとう」
 恭弥の脚に手をついて起き上がると、寝ているうちに掛けてくれた彼の羽織が肩からずり落ちる。胡坐をかいた恭弥と向き合ったなまえは羽織を返そうと途中まで畳んだが、ぴたりと手を止める。
――どうせなら私も困らせてみたいな。
 頬杖をついて眺めている恭弥に、なまえは笑みを向けてから羽織に袖を通した。
「見て。ぶかぶか」
 羽織の袖口を指先で弄び腕を開いて恭弥に見せると、丸まった目がゆったりと細くなった。それだけでなまえの心臓は大きく音を立ててしまう。
 さっきから恭弥に心模様をころころと変えられてしまっている自分に苦笑しかける。
「返してくれないの?」
「返してほしい?」
 羽織で寝巻きのワンピースを隠すようにして見上げると、恭弥は「へえ」と呟きぺろりと赤い舌で唇を舐めた。
 なにしてるんだ、私。久しぶりに恭弥が帰ってきてくれたことが嬉しくて浮かれてしまった。これではまるで、誘ってるのと一緒じゃないか。野獣みたいな瞳をして熱っぽく見つめられると、流されたくなってしまう。
「っ……だめ」
「どうして?」
 無意識に止めていた息を吐き出して小さく抵抗した。じわじわと逃げ道をなくすように距離をつめて、いじらしく耳元で甘く囁かれる。久しく感じてなかったそれに体の奥がむずがゆくなる。
――違うちがう、まずやることは“コレ”じゃない!
 なまえは色んなものを吹き飛ばそうとぶんぶんと音が聞こえそうなほど頭を振った。
「ご飯はもう食べた?」
「まだ。なまえは?」
「まだ。今日はハンバーグだよ! でも……ちょっとだけ、我慢できる?」
「ちょっとでいいのかい?」
 左頬をするりと撫でた恭弥の手が首筋を通り、下ろしていた髪をくるくると弄られる。むりやり蓋をした熱を再び呼び覚まそうとする意地悪さに心臓が騒ぎ出した。
 なまえはあからさまに頬を膨らませたが、恭弥は愛おしそうに頬を人差し指でつつく。
「もう! 今日は何月何日か覚えてるの!?」
「うん、忘れないよ。今日は……僕の誕生日だ」
 中学生の時はかろうじて覚えていた自分の誕生日を忘れないと話した恭弥に、なまえは目を丸くした。

 恭弥をそのまま縁側に残してなまえは急いで自室に向かった。置いてあったプレゼントと傍らに置いてあったメモ用紙を掴むと、取り来たときよりも足音を大きく鳴らして恭弥のもとへ戻る。
「はい、お誕生日おめでとう!」
「ありがとう。開けてもいい?」
「もちろん!」
 恭弥はゆっくりとリボンを解き、くるくると指に巻き付けてそれをまとめ上げて机の上に置いた。次に透明のテープで止められた部分をそっと爪でひっかき、摘まめるくらいになるまで剥がす。包装紙が破れないよう気をつけながら丁寧な手つきで粘着部分を取り除いた。
 普段だったら郵便物等々、重要なものでない限り袋や包装をビリビリに引き裂く事の方が多い。
――なんでこんなにドキドキするんだろう。
 ただ恭弥はプレゼントを開けようとしているだけなのに。どうしても煽情的に見えてしまう。プレゼントを喜んでくれるかどうか気になるのに、それ以上に恭弥の手つきに魅了されてそわそわしてしまった。
 箱を開けた恭弥は目を丸くした。
「万年筆……」
「そう!」
 万年筆を箱から取り出してしげしげと眺める恭弥になまえはさらに笑みを深くした。
「ずっと使ってた万年筆、プレゼントしたのって確か私が中学三年の時だったよね? 使い始めてもう十年くらいになるでしょう?」
 恭弥がこれまで仕事で愛用していた万年筆は、なまえが昔プレゼントしたものだった。中学生の買い物としては少しだけ背伸びをしたような値段だった気がする。委員会が財団へと名前を変えたあとも、もっぱらPCでの事務処理が増えたにもかかわらず、恭弥は機会があれば万年筆を使っていた。
 しかしここ一、二年ほどは、書きにくくなったりインクがにじみ過ぎてしまったりと調子が悪くなることが多く、たびたび万年筆を修理に出していた。新調した方がいいのではないか。そんなことを思いながら古くなった万年筆を使い続ける様子を眺めていると、まるで心を読まれたみたいに「僕はこれがいいんだよ」と微笑まれたことがある。
「そうだね。もうそんなに経つのか」
「長い間、大事に使ってくれてありがとう。恭弥くんが万年筆使ってくれてるの見るたびにね、わたし嬉しくって……。気づいてた?」
「うん。ちょっと顔がにやけてたからね」
「うそ!」
「冗談だよ。でも、気づいてた」
 そんなに顔に出やすかったのかと頬に触れてしまう。冗談だと恭弥は返したけど、それでも気づいてたということは、やはり顔がにやけていたのかもしれない。いまさら気にしても仕方がないけど、なんだか恥ずかしい。
 ひんやりとした手で頬の熱を冷ましていると、恭弥は静かに笑った。
「知ってる? 財団に移行してから、誕生日が学校の休みと関係なくなっても僕が自分の誕生日を覚えていられた理由」
「んー……? 草壁くんが五日になったぴったりの時刻にお祝いしてくれるから?」
 あの子ならやりかねない。いやでも、この十年で草壁も草壁なりに恭弥の扱いには慣れただろうから、自分で自らの寿命を縮める行為はさすがにしないか。
 煩わしいことと、仕事の話でもないのに連絡を取ることを嫌がる恭弥は、予想通り顔をくしゃっと歪めた。
「そんなことされたら着拒する」
「やだ草壁くん可哀想すぎる」
 そうは言っても、着拒という制裁だけで済ませてしまう恭弥に少しだけ……いや、かなり成長を感じてしまう。昔は睡眠を邪魔されたというだけで綱吉たちを咬み殺していたことだってあったのに。知らないうちに恭弥も大人の対応ができるようになっていただなんて。
 なまえが両手で口元を押さえて感動していると、プレゼントと一緒に渡されたメモ用紙を引き寄せた恭弥は万年筆のキャップを外した。
「ずっと使ってた万年筆を見る度に、なまえが誕生日にくれたことを思い出してた」
「っ!」
 恭弥はくるくると筆を走らせる。新体操のリボンのように綺麗な軌跡を描いた黒い線が生まれた。
「さっきなまえが話してた、僕の思い出が宝物って言ってたのと、似てる気がする」
「えっ……」
 なにが、なんて。そんなこと考えなくてもすぐにわかる。
 恭弥は、十年もの間ずっと万年筆を大事に使っていてくれた。使うたびに誕生日にプレゼントしてくれた時のことを思い出すくらいには、恭弥の中でその当時の想いではずっと色褪せず心の中で生きていたのだ。
「……うん。書きやすい。高かったんじゃない?」
 丁寧な字で自分となまえの名前を書いた恭弥は満足そうに頷いた。縦書きで当たり前のように隣同士に書かれた達筆な名前。心臓がドキリと音を立てる。
「よかった。その万年筆ならたぶん、きっと……十年以上、壊れないで使えるかなって」
 今度こそ壊れにくいものを買おうと、万年筆の世界では有名らしい老舗の店を訪ねて、試し書きもさせてもらい決めた筆だ。
 恭弥も使いやすいだろうという自信はあったけど、それとは別に気に入ってくれるかどうかという問題も残っていた。実際に彼が試し書きをするまで心のどこかに不安が隠れていたが、この様子だともう心配いらないようだ。
 恭弥に初めて万年筆をプレゼントした当時、まさか彼があんなに古くなるまで、何回も修理に出したりして愛用してくれるとは想像もしていなかった。
「十年以上使ってまた調子が悪くなったら、その時はなまえが選んでよ」
「……! もちろん!」
 十年後も傍にいてと言われているようで、なまえの心臓は何度目かもわからない高鳴りを響かせた。

   *

 時は流れて十月十四日。二十数年前の今日、なまえの運命が決まった日である。生涯を捧げようとした相手、弟の沢田綱吉が産声をあげた日だ。
 今日は綱吉の奇数才の誕生日ということもあり、ボンゴレ本部ではボンゴリアン・バースデー・パーティーが盛大に行われていた。ファミリーをはじめ、同盟ファミリーや縁のある人々も参加し、開始直後から挨拶も早々に会場はお祭り騒ぎとなる。
 なまえも綱吉の姉という立場から、なにかと忙しなく次から次へと挨拶をしたり等していたが、場内の賑やかさがアルコールの匂いに包まれ始めたところで身の危険を感じ、こっそりとテラスへ抜け出した。一望できる裏庭を眺めながら、なまえは会場から最も離れた場所に置かれた椅子に腰かける。
 テラスはしっとりとした秋風に包まれていた。ショールが必要だったかもしれないと腕をさすった。しかし今まで熱気が充満していた会場にいたため、その涼しさが心地よかった。
 会場の方を振り返ると、明るい光と楽しそうな声、そして何かが割れる音一部悲鳴や雄たけびのような声が聞こえてくる。失笑しつつそれらを背中に追いやり再び裏庭に目を向けると、外灯が消され暗闇に染まっていた。自分の座る場所を境に世界が二つに分かれているような感覚に陥りそうになる。
「くたびれた……」
 静かに溜め息をつき腕を夜空に押しつけるように一つ伸びをした。
 次に身体をかがめて足に手を伸ばす。足首からふくらはぎにかけて、少し力を入れてストッキングの上からぐっぐっと揉んでいく。足がむくんでいそうな明日が簡単に思い浮かび、二つ目の溜め息をついて踵だけパンプスを脱いだ。
 今日は綱吉の誕生日だからと気合を入れて、彼から贈られたパンプスを履いて出席したのだ。
『この靴見た時、なまえの履いてる姿が見たくなったんだ』
 以前、綱吉はそう言って照れくさそうにプレゼントしてくれた。その時のかっこよさといったら。仕事で日本とイタリアを往復するようになってから、綱吉の人たらし度はぐんと向上した気がする。
 プレゼントされたパンプスは、踵部分にサテンのリボンがつき、パンプス全体がレース生地で飾られていてとても可愛らしかった。しかし、あまり履かないピンヒール、そしてその高さに、はやくも足は音をあげてしまった。綱吉に履いている姿を見せて、喜んでんでもらえたからもう良いのだけれど。
――恭弥くん、今頃なにしてるんだろうな……。
 相変わらず恭弥の並盛に滞在する時期は短い。世界中を飛び回ってなにをしているのか、詳しいことはわからないが、個人的な好奇心や興味関心で調べものをしているらしい。それ以外にも、綱吉から回された仕事もこなしているのだから、今ごろ多忙を極めているに違いない。
「……見てほしかったのに」
 パンプスを右足の指に引っ掛けてぷらぷらと揺らすと、重力に従い落ちて行き、呆気なく石畳の地面へと転がってしまった。
 きっとこのパンプスは頻繁に履かないだろう。贈り主のことは大好きだけれど、これを履いたまま長時間過ごせる自信もなければ体力もない。外出時に履くには勿体のないデザインだから、今日のようなパーティーにはもってこいだ。しかし、そういった場に恭弥は来ない。
 好きな人に着飾った姿を見てもらいたいと思っても、恭弥と自分では叶えにくいのだ。決して恭弥のせいではない。ただタイミングが合わないだけ。それなのに、恭弥の性格を言い訳にしようとしている自分がいる。最低だ。
 疲労を抱えた頭ではネガティブな方向にしか物事を考えられなかった。
「……寒くなってきた」
「風邪ひくよ」
 ここにいるはずのない恭弥の声。
――まさか、恋しすぎて幻聴が聞こえるようになった?
 一瞬疑ってしまったなまえだったが、肩に掛けられたジャケットが幻聴ではないことを示していた。
「恭弥くん!?」
 振り返ると、そこにいたのは会いたくて仕方がない男だった。
「どうして? 来ないんだとばっかり……!」
「そのつもりだったんだけどね」
 恭弥はなまえの隣の席に座ろうと椅子を引いたが、ぴたっと止まり彼女の目の前に移動した。
「恭弥くん?」
「ワオ、シンデレラかい? かぼちゃの馬車でも待っていたのかな」
 恭弥はなまえの足元に膝をつくと、倒れたパンプスを拾った。目を白黒させているなまえの足首を掴み自分の脚の上に乗せる。
「それとも僕?」
 上目遣いで見上げてくる恭弥になまえの頬が火照りだす。図星すぎてなにも言えずにいると、そっとパンプスを履かされた。
「これ、弟からの贈り物かい? 僕だったらもっとヒールが太くて低くて歩きやすそうなやつを選ぶけど」
 返事をする間も与えてくれずに恭弥はつらつらと見解を述べる。なにも話していないのにすべて見透かされてしまったようで耳まで熱くなってしまった。
「恭弥くん……会いたかった」
「僕も」
 立ち上がった恭弥に腕を伸ばす。抱っこをせがむような子どもみたいだと笑いそうになると、恭弥も同じように笑みを浮かべていた。擦り寄るように首の後ろに両腕を回してぎゅっと抱きつく。
「ふふっ、本当に恭弥くんだ」
「なあに。僕の偽物でもいた?」
「ううん。そうじゃなくて。そうじゃないんだけど……」
 なんだか嬉しくて。そう続くはずだった言葉は不意打ちのキスによってもみ消された。頬を撫でなかったのにどうして。ぽかんとしていると「似合ってるよ」と微笑まれ冷めたはずの顔の熱が再びぶり返した。
「ボスの誕生日くらい顔だせって色んなところから電話やメールがひっきりなしに届いてね。ちょうどいいから全員まとめて咬み殺そうと思って来たんだ。……まあ、それはオマケで、やることがあってね」
「オマケ……事情?」
 姿勢を戻した恭弥にじっと見つめられ心臓が高鳴った。
「だって、なまえが一年のうちで一番大切にしている日……それが今日、弟の誕生日、でしょ?」
「……!」
「だと思った。だから今日、言おうと決めてたんだ」
 左手を取られ硬い親指の腹で薬指をそっと撫でられる。
「っ……」
 熱を孕んだ瞳と意味深いふれあいに息を呑む。恭弥はポケットからだしたものをなまえの左手薬指に嵌めた。背後から聞こえていた喧騒が一気に遠くへ消えた気がした。
 指輪の中心にはめ込まれた石。一見、澄んだ真夜中の空を思わせるような色なのに、少し角度を変えるだけで深い複雑な青色から紫色へと変わる。紫は、恭弥くんの色だ。
「ねえなまえ、結婚しよう」
 言葉を失った。
 いつも恭弥は突然だ。中学生の頃からそうだった。
 なまえはこれまでのことを振り返る。恭弥は突然なまえの前に現れて、接触する回数が増えていき、いつの間にか一緒にいるようになっていた。
「……恭弥くん、あの時のこと覚えてる?」
「あの時?」
「恭弥くんが、応接室でキスしてきた時のこと」
 中学三年生の秋だった。日常になった応接室での風紀委員会の手伝い。その日は珍しく恭弥もソファに座り、並んで書類整理をしていた。兆しなんてなにもなかった。突然キスをされ、頭の中が真っ白になったかのように固まっていると、ただ一言「ごめん」と呟いて恭弥は退室した。
 それから恭弥には避けられ、委員会の手伝いも草壁経由で必要ないと言われ、疎遠になったままなまえは並盛中学校を卒業した。
「あの時……どうして『ごめん』って言ったの?」
 恭弥と再び顔を突き合わせて話すようになったのは、骸たちとの抗争が終わったあとのことだった。その後、つかの間に訪れた日常やヴァリアーとの指輪争奪戦、未来での闘いを経て、少しずつ恭弥との仲は元に戻っていった。
「私、恭弥くんとの仲が元に戻るまでの間、ずっと寂しかった。喧嘩して離れたわけじゃないのに、なんだかギスギスした空気があって……。ねえ、あの『ごめん』には、どんな意味が込められてたの?」
「…………」
「やっぱり、忘れちゃった……?」
「忘れてない」
「そっか。……私ね、あれがファーストキスだったんだよ」
 左手に添えられている恭弥の手を握り真っ直ぐに双眸を見つめた。恭弥のそれがぐらりと揺れる。
「初めてだったの。恭弥くんが」
「……無意識だったんだ。この僕が、無意識に行動するなんてね。ありえないと思った。混乱もしたし、苛立ちもした。なまえと離れてしまって、柄にもなく後悔したよ。なまえとの空間がとても心地よかったからね」
 恭弥の左手が頬を撫でていく。
「もうあの時のように、僕はなまえと離れたくない」
 苦笑するように「答えになってるかな?」と少し肩をすくめる恭弥に胸の奥が熱くなって、あっという間に込み上げたものが目尻から頬に流れた。
「私も恭弥く……恭くんと、離れたくない」
「……やっと、呼んでくれたね」
 次々と流れていくなまえの涙を恭弥は拭う。今まで見たこともないほど綺麗で嬉しそうな顔をする恭弥に、なまえは涙を止める術を失った。
「――ずっとその呼び方が欲しくてたまらなかった」

18,05.05