13番目の真実


 人間は嫌い。不確かで不安定。妬み、恨み、裏切り。気分と都合次第でころっとすべてを変えてしまうから。
 でも、金は違う。確かに国によって金額の価値はことなるけれど、金塊ともなれば価値は一定。それは変わることはない。そして金があればなんでも手に入る。
 変わらないものは、“物”だけだと思っていた。しかし、彼女――あの黒曜ランドでなまえと出会ってから、人間にも変わらないやつがいるのだと知ったのだ。

   * * *

 貿易仲介業を営むグラツィアーノ社および社長の邸宅は、跳ね馬ディーノことキャバッローネの統括地区にある。
 そこは骸がボンゴレ十代目の霧の守護者を引き受ける条件として提示した、城島犬と柿本千種の保護を目的として与えられた、ボンゴレの管轄にあるマンションからさほど離れていない。立地条件とセキュリティの良さからM・Mもそこで生活をしている。
 M・Mは見慣れてしまった道を欠伸を噛み締めながら歩いていた。目指すのはグラツィアーノ社の近くに建てられた社長の邸宅、つまりクラーラの住まいである。
――平和ボケしそうだわ。
 M・Mはディーノからの依頼で、クラーラと過ごす日々を送っていた。表向きは、日本語を勉強し始めたクラーラのためにディーノが紹介した日本語教師として。だが本来の目的は、クラーラの護衛と彼女の執事関係である。
 骸伝えでその依頼が来た時は、なんでそんな面倒くさいことを自分がやらなければならないんだと憤慨したが、骸の口添えやディーノからの報酬額の高さに渋々首を縦に振ったのだった。
 ディーノがクラーラに護衛をつけた理由は二つある。
 一つは、クラーラの執事を監視のためである。日本での宝石展覧会の夜、綱吉たちの協力もありクラーラの執事の身柄を確保し尋問を行った。その後、執事の処遇についてキャバッローネとボンゴレ間で話し合いが行われた結果、ルドヴィコに人質にされている実妹を必ず救うことと引き換えに、二重スパイとして執事業を続行させることとなった。執事がルドヴィコ側にこちらの情報等を密告せず二重スパイの任を果たしているか、M・Mが目を光らせることとなった。
 二つ目は、仲介人としての役割だ。ルドヴィコは執事を介して、グラツィアーノ社が取扱う商品にドラッグを紛れ込ませている。ドラッグの受け渡しは内密に執事が行っており、場所と日時はルドヴィコから指定されていた。キャバッローネの指示により、執事はルドヴィコから連絡が入った際には必ずM・Mに伝え、それを彼女がキャバッローネに伝えるという連絡網が完成した。
「マリー! 今日も来てくれたのね!」
 メイドたちの恭しい挨拶を目で流し、つかつかと進んだ先の部屋から飛び出してきたのはクラーラだった。
「来てって言ったのはアンタの方でしょ」
「んふふっ、そうだったわ。でも本当に来てくれて嬉しい!」
 M・Mがクラーラの元に通い始めた頃は、高飛車な物言いに目くじらを立てた者も少なくない。しかし、次第にクラーラがM・Mへ懐きだし、信頼を置くようになってから、そのような者はいなくなっていた。むしろ社交的であり、今ではM・Mは顔パスでクラーラに会いに来ている。
「はいはい、お寝坊さんがバレるわよ」
「……? やだっ、まだ寝巻きだったわ! すぐに着替えるから待っていて、マリー!」
 社長令嬢と聞いた時はどれほどの娘かと高みの見物を決め込もうとしたM・Mだが、クラーラはいい意味でも悪い意味でも『社長令嬢』だった。
「マリー様、こちらでお待ちください」
 客間に通されたM・Mはメイド長から紅茶を用意され、素直にソファに腰を下ろした。
 なぜ毎回自分の対応はメイド長がするのかと問いただしたところ、「マリーは大事なお客さんなんだからメイドの中でも一番偉い人が付いて当然でしょ!」とクラーラにぷりぷり怒られてしまった。しかし実際は、大事な大事な一人娘であるクラーラを守るため、長年仕えているメイド長が抜擢されたに過ぎないとM・Mは推察している。
 ここへ来た当初、ディーノからの紹介であったとしても、メイド長の笑顔の下に潜む警戒心がピリピリ伝わってきた。今ではそれもなくなり、メイド長はM・Mの愚痴聞き係としても手腕を発揮している。
「マリー様が来られてから、お嬢様は人が変わったようにご自分でなんでもやろうという姿勢が見られます」
「自分でできることは自分でして当然でしょ。だからキャバッローネの男なんかに惚れるのよ」
 これだから温室育ちは。M・Mは紅茶を味わい、振舞われたフィナンシェを皿から奪い取るように口に放り込む。
「まあまあ。ディーノ様の存在もあってお嬢様が自立に向けて一歩踏み出せたのですから。それに、マリー様もこうして来てくださって……。良いことしかありませんよ」
 結末がわかっている上でこうも上手いこと言えるのだから、このメイドは本当に冷静に物事を見ている。
――可哀想な子。
 自分がディーノの隣に添い遂げられるように、添い遂げられなくても追いつけるようにと努力をしているというのに。彼女に近しい大人は気づいているのだ。クラーラの初恋は絶対に実らないのだと。
 無垢な彼女に慕われているディーノ本人ですらその感情は筒抜けだ。ディーノは乗り気ではないにしろ、彼女の好意を逆手にとり、今回のルドヴィコの件でクラーラを利用するというのだから、本当に食えない男である。――不毛ね。
「マリー、お待たせ! 始めましょう!」
 バタバタと足音を立ててクラーラがやって来る。しっかりと胸に日本語教材と筆記用具を抱いたクラーラのやる気は十分すぎるほどだ。
「課題ちゃんとやったの?」
「もちろん! 今回こそ満点のはずよ」
「……一問目から間違えてるけど」
 驚いて声を上げるクラーラをクスクス笑いながらメイドは静かに退室する。
 既にひらがなをマスターしていたクラーラは、文章の構成と漢字の学習を並行して行なっている。日本語は相手に意味が通じるほどに話すことが出来るが、筆記になるとどうも助詞や副詞等ケアレスミスが多かった。
「送り仮名が違うわ。あと二問目は線が一本多い」
「じゃあこう? あれ、なんか違う……あっ、こうだ!」
「そうそう。はい正解」
 赤ペンで淡々と指摘するM・Mに、クラーラは最初こそM・Mの語気の強さや性格に参りそうになっていたが、それも慣れた今ではめげずに食らいついていた。
 M・Mは間違いを直す彼女を眺めながら、今後についてふと考える。クラーラはこの先、変わってしまうのか。それともこのまま大人になるのだろうか。
 大人になれば、きっと彼女はディーノの正体――キャバッローネファミリーのボスだということ――を知るだろう。その時クラーラは一体なにを思う? 愛する男が人を殺したことがあり、その両手は既に赤黒く染まっていることに恐れおののくのだろうか。ディーノが自分に優しくしてくれたのは、自分を好いていたからではなく、ただ利用するためだと知った時、白雪姫のように血色の良い頬は真っ青になるのだろうか。
 遅かれ早かれ、いつかはそんな道を通るのだろう。そして、ディーノが仕向けた日本語教師の本性を知ったら、きっと……。
「……そうだわ! マリーに見てほしいものがあったの!」
「は? っていうか、まだ休憩時間ですらないんだけど」
「待ってて、すぐ持ってくるわ!」
「ちょっと! 人の話聞きなさいよ!」
 嵐のようにクラーラは部屋を出て行く。自室にあるなにかを持ってくるようだったが、正直いまのワークを終わらせてからにしてほしい。
「……だっるい」
 M・Mはぼすんとソファーに背中を預けた。
 どうして私がこんなことしなければならないんだ。確かに、報酬は普段受け持ってる仕事の二倍以上だった。子守りと執事の監視をするだけで貰えるのならばと腹を括ったが、身体を動かしていないのに心労ですでにクタクタだった。
 帰りたい。シャワーを浴びてマカロンでも食べながら雑誌を捲っていたい。ふかふかのベッドで眠りたい。
 繰り返しコンコンと、控えめにノックされた扉に声を掛けると、監視対象が現れた。
「――失礼致します」
「ああ、アンタね。……報告は?」
 やりとりは必ずクラーラのいない場所で。耳にたこができるほどディーノに言われたことを、M・Mは面倒くさがりながらもしっかりと守っていた。これも報酬のためである。
「……報告は、以上です」
「はい、りょーかい。もう行っていいわよ。跳ね馬から指示が入ったら呼ぶわ」
 片手でひらひらと追い払う仕草をすると、執事はへこへこと頭を下げて退室した。
 執事からの報告ではこれといって新しい情報は得られず、ルドヴィコとキャバッローネ、双方動かぬまま平行線を描いていた。
「さっさと終わらせてくれないかしら」
 いい加減、子守りだけでは平和ボケしてしまう。これで暗殺の依頼を受け持ってヘマでもしたら跳ね馬のせいにしてやる。それ以上に自分のプライドがゆるさないだろうけども。
 M・Mはとにかく刺激を求めていた。そう、例えるのなら、黒曜ランドでボンゴレと一戦交えた時のような――。
「……そういえば、なまえはどうしてるだろう」
 なまえを手伝うことになったと頬を緩める骸へ、せっかくだからと言伝をしたが、骸と会っていないため彼女の返事はまだ聞いていない。
 沢田なまえ。これまで様々な人間と出会ったなかで、唯一の“変わらない”子。
 なまえは出会った時からそのものをそのまま捉えた。自分本位に解釈などしない。私や骸たちを一切否定することなどなく受容し共感してくれた。
 本質を見抜き、受け入れる。言葉にすれば簡単だが、できる人間はほとんどいないことを、なまえはやってのけた。
――不思議な子。色がない、というよりも、透明みたい。
 それがM・Mが抱いたなまえへの印象だった。
 本質を見抜いて相手のあるがままを受け入れる。たったそれだけのことなのに、人は傲慢で浅はかだから、自分が持っている主観の物差しで相手を測る。基準は自分。自分の『普通』がまかり通らなければすべてが異常。自分の辞書にない言葉は勝手に変換して意味を捉えて、現状を繋いでいく。自分が誤解していることにさえ気づかずに。
 だから、なまえといると心が安らかだった。
『初めまして。沢田なまえです』
 初めて出会ったのは、彼女が骸に連れられてやってきた時のこと。あのボンゴレの、しかも十代目候補といわれている沢田綱吉――噂によれば勉強も運動もできず秀でていることもないという男子中学生――その姉だというのだから、どんな女なのかと蓋を開けてみたら、あまりにも拍子抜けだった。
『男の子ばかりで少し不安だったから、女の子がいてくれて嬉しい。よろしくね』
 最初は、なにを戯れ言をと思った。誘拐されたも同然だというのに、危機感は愚か緊張感まで見受けられなかった。へらへらして、ふわふわしていて、芯がない印象を覚えた。
 でも、そうじゃない。それは一緒に過ごしていてすぐに気づいた。きっと犬や千種もそうだろう。もしかしたら、骸はなまえを黒曜ランドに連れてきたときにはもう見抜いていたかもしれない。
『クラリネットが吹けるの? すごい!』
『ビブラートで攻撃……! リード楽器でビブラートするって、すごく難しいって聞いたことあるよ。M・Mは努力家なんだね』
『M・Mの言う通り、お金は裏切らないよね。いっぱい持ってたら好きなものたくさん買えるし、いざという時なにかの役に立つこともあるし、信用問題にだって関わってくる』
 嫌な顔一つせずに私の話を聞いてくれる彼女に、心の氷は溶けていった。
『……確かに、うつろいやすい人の心よりも、お金のほうが確かなものなのかも』
 目が合っているのに、ここではない遠くを見つめるように呟いたなまえに心臓がドクンと大きく鳴った。
――もしかして、この子も私と同じなのだろうか。
 不確かなものに安らぎを求めているのだろうか。だから、無意識のうちに自分が変化なきものになろうとしているのではないか。そう考えたM・Mはなまえに親近感を覚え始めた。
 なまえとの距離がぐっと近づいた気がしたM・Mは誰にも話したことのない故郷の話をなまえにしたとがある。
『M・Mはフランス生まれなんだ。フランス、いつか行ってみたいなあ。そうだ! 大人になったら、フランス案内してよ、M・M。その頃には私も貯金がたんまりあるはずだから』
 胸が高鳴った。こんな生活をしてきて旅行をする友だちなんて存在いないに等しかったし、故郷と言えるほど過ごしていない場所に憧れを抱かれるのは、胸の奥がくすぐったかった。
 それは、まだ叶えられていない約束。いつ果たすのかはわからないけど、M・Mはこの約束だけは死ぬまでに絶対に果たしてみせると密かに決めていた。
 黒曜ランドでの日々はとても短かったけれど、それでもなまえとの一緒に過ごした日々はM・Mにとってかけがえのないものになったのである。
「……リー、マリー!」
「っ! ああ、戻ってきてたのね……」
「持ってきたわ! これ見て!」
「なあに……手紙?」
「下書きなんだけど、文法的とか誤字脱字とか、漢字の間違いがないか見てほしくて」
「ふうん、まあいいわよ。それにしても今どき手紙って……っ!」
 M・Mはたいして興味も示さずに淡々と文章に目を走らせていたが、誰に宛てた手紙なのかに気づき小さく息を呑んだ。
「……ねえ、マリーはディーノ様の婚約者さん、知ってる?」
「ええ、知ってるわ。というか、婚約者じゃないんでしょ?」
「あっ、そ、そうよね。婚約者じゃなかったのよね……」
「なまえがどうかした?」
「その……謝りたくて」
 クラーラは宝石展覧会の時、激昴してワインをなまえに向けて掛けようとしてしまったことを話した。
「せっかくだから、日本語でお手紙を書きたいの。そうしたら……お友達になれるかしら」
 ペンを握りしめるクラーラをM・Mは見て見ぬふりをして、誰にも気づかれないようにため息をつく。
 未来は明るいものだと信じてやまない少女が、M・Mには眩しかった。

   *

 室内がオレンジ色に染まる頃、クラーラの家を後にしたM・Mは帰路についたが、なにをする気にもなれずに直帰した。ディーノから与えられた携帯電話で今日の報告を済ませ、重いため息とともにそれをベッドに放り投げる。重力に従って背中からベッドへ寝転んだ。
 捕まって、退屈な日々に飽き飽きして脱獄して、金を稼ぎ欲しいものを買う。金があればなんだって手に入れることができた。その一連の流れに、生きている心地を覚えていたのだ。
 骸に協力して黒曜ランドにいた当時は、お金さえ貰えればいいと思ってた。骸はそれまでの雇い主よりも羽振りがよかったから。骸は良き仕事のパートナー。それ以上でも以下でもない。
 でも時間が経った今、あの頃の自分は、骸に対してそれだけではなかったのだと自覚している。
 骸に惹かれていた。突拍子もないような夢を大真面目に語る姿にカリスマ性を感じていたし、彼ならそれを実現出来るのではないかと思えてしまった。骸について行けば面白いものが見られるかもしれない。
 彼の近くにいる女は自分だけだと思っていたのに、何処の馬の骨ともわからぬクローム髑髏が骸にとっての特別であったことに、衝撃と怒りを覚えた。あんな弱気で声も小さくて優柔不断で、戦闘においては盾になることしかできなさそうな女が、骸と唯一精神世界をともにできる。腹が立った。
 でも、あるとき気づいた。骸の特別なのはクローム髑髏だけではないのだと。クローム髑髏の特別は、犬や千種への特別と似たようなものだった。
 本当の骸の特別は、なまえだった。彼女への特別が、唯一の“特別”だった。
『なまえは僕と似ている』
 いつだったか、犬か千種からなまえについて訊かれた骸がそう返していた。その時は二人に共通点などありもしないと考えていた。しかし、それは今や覆されている。二人は限りなく似ている部分が存在していた。
 M・Mの脳裏には黒曜ランドで互いに惹かれあっていたなまえと骸の姿が今でも焼きついている。初めてそれを目撃した時、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうほど二人は優しくてやわらかい空気に包まれていた。その時の骸は、脱獄犯やマフィア壊滅を目論んでいるとは到底思えないような、ただの大人びた少年にしか見えなかったのだ。
 なまえにしか向けられない表情が自分に向けられる未来を、心のどこかで期待している自分がいた。だけど、きっとそんな未来は来ない。クローム髑髏に向ける表情とはまた違ったそれを、私は決して手に入れることが出来ない。
 こんな想いを、恋愛だなんて絶対に呼ばせない。
 クローム髑髏に対して「骸の一番は私よ」と啖呵をきったことがある。だが、それは自分よりも遥かに劣っているクローム髑髏が、骸の特別枠に入っていることを許せなかったから。
――だって、バレている片想いは不毛だもの。
 似ているはずなのに、同じ道を寄り添って進むとばかり思っていたのに、彼と彼女は別々の道を進んだ。それはきっと“彼女”の想いが彼にバレていたから。そして、似ていると話した彼自身が変わりはじめたからだろう。M・Mはそう考察していた。
――エポニーヌなんて、真っ平ごめんだわ。
 愛だの情だの目に見えないものなんて、いつかは儚く散って消えてしまうのだ。

18,06.09