箱庭での景色


 瞼を上げるとぼんやりと自分の手が見える。オパール色に染まった爪は、まるで貝殻の中にいるような着色でお気に入りだった。貝の中は温かく、守られているような安らぎを与えてくれた。
 指先で目尻をそっと擦り起き上がる。枕元に置いた携帯電話を確認すると、設定したアラームの数分前の時刻を表示しており、少しだけ気分が上がる。昨夜なかなか寝付けずに焚いたアロマの香りがかすかに鼻腔をくすぐった。
 チェストの上にあるリモコンで暖房をつけながら、窓際に寄ってカーテンを開ける。森林の隙間から差し込む朝焼けに目を細めた。
 クローゼットを開けて今日の服を決める。手に取ったワンピースの柔らかな肌触りに、頬は自然と緩んだ。
 ドレッサーに座り、化粧を施す。終わった頃に時刻を確認すると出勤時間は迫っていた。染髪料でアッシュグレーに染められた髪は、以前の長さとはおさらばして、ミディアムボブになっていた。くせ毛のような柔らかいパーマがかけられている。
 以前の姿を知る人ならば「誰だかわからなかった」と驚くだろう。日本からはるか遠くのここイタリアであっても、以前の人生である時と同一人物だと気づかれてはならないのである。
 急いで手ぐしで整えた。
「――行ってくるね、志保」
 肌身離さず持ち歩いていた妹の写真に挨拶をする。これがセーラの、毎朝の日課だった。

 初めてボンゴレ本部を訪れた時は目を丸くした。外見は世界遺産にも指定されていそうなお城なのだから。しかし、セーラが勤務している事務所は豪華でもなんでもない、至って一般的なそこそこオシャレな部類に入るオフィスだった。
 なまえのわがままから始まりボンゴレが整えた『童話計画』によって救出されたセーラは現在、ボンゴレの経理部門に所属していた。
 ボンゴレがマフィアだと聞いた時は、メディア作品の印象操作によって植え付けられたイメージが消えなかった。自分は人身売買に利用されたり、ドラッグの検体になるのではないかと考えてしまった。しかし、実際そういったことはボンゴレは全面的に反対・禁止しているらしく、イタリアの中でも大規模なファミリーだというのにひどく人思いの組織だった。これにはどうやら、組織創設の際の歴史が絡んでいるらしい。
「やあセーラ、今日は一段と素敵だね。もしかして僕に会うためかい?」
「それを言うなら今日“も”よ」
「なんだ、ここに来た頃はポカンとして頬染めてたのに。あっという間にイタリア男の文句を熟知してしまうとはね。さすが君は賢い女性だ」
 外で朝食を軽く済ませ出勤したセーラは、今日の仕事内容を確認してからカフェラテを作っていた。そこへやって来た同僚の口説き文句をあしらい、マグカップを手にして席につく。
 配属当初はイタリア語もままならず、日本語や英語での対応しかできなかったが、今では日常会話程度ならマスターできるようになっていた。専門用語がでてくると未だに辞書で意味を引いたり他人に尋ねなければならないが、ボンゴレで働く人々は語学が堪能で、さらに気さくな人が多いため、毎度やさしく教えてくれていた。
「午後のティーブレイク、一緒にどうだい? こんな天気のいい日だ、外へ出ないともったいないよ」
「ごめんなさい、せっかくのお誘いだけれど、今日は先約がいるの」
「先約……? ああ! 今日はセラピーの日だったね」
 それまでに片付けられるものをやっておかないと。小さく「よし」と意気込むと、「わからないことがあれば手伝うよ」と軽く肩を叩かれた。

   * * *

 中途半端な人生だった。朦朧とした意識の中で、まず初めに頭に浮かんだ言葉である。
――あれ、どうして……?
 意識が覚醒してくる。重たい瞼をゆっくりと上げた。日常では無意識に行っているその動作は、意識して身体を動かそうとしなければならないほど言うことを聞いてくれない。つまり、それだけでひと苦労だった。まだ少しぼやけている視界には、シミ一つ見当たらなさそうな雪みたいな天井が広がっていた。
 体の感覚があまり感じられない。鈍くなっているのだろうか。目を擦ろうとして腕を持ち上げようにも、指先を動かすのでさえもが億劫だった。こんなことでは体を起こしてここはどこなのか探索することは無理に等しい。
 部屋に響くのは機械の音。ドラマでよく聞いたことのあるその音は、心拍のリズムを電子音で知らせていた。
 そこで初めて自分の体が思い通りに動かないことを知る。仕方がないので目を動かして周囲を確認しようとすると、室内の雰囲気とは不釣り合いな声がかかる。
「初めまして、宮野明美さん」
 明美はそこで初めてこの部屋には自分以外の人間がいることに気づいた。
「俺は沢田綱吉。貴方を“引き抜き”した男です」
 こちらが体を動かせないことを配慮し、男は視界に入ってきた。
 幼い印象を覚える面立ちだった。甘そうな髪の色は、太陽の光に当たればキラキラと輝くのだろう。緩やかな弧を描く眉と目尻、唇が、彼の穏やかさを示していた。しかし、やわらかな笑顔の奥深くに芯があるような、凛とした雰囲気は声を形に現したようだった。
「選んでください。ここで治療をやめて人生に終止符を打つか、それとも全く別の人生を歩むか」
 突然なにを言い出すの。
 まだ起き抜けのぼんやりとした脳みそでも、突拍子もないことを言われているのだと理解出来た。
 いったい今は、何月何日の何時何分なのか。あの事件からどのくらい時間が経ってしまったのか。
「目が覚めたのも奇跡に近いことです。あと一歩遅ければ危ない状態でした。……今も危ないに変わりはありませんが」
 そうだ、私は撃ち抜かれたんだ。そのはずなのに、どうしていま生きているの。
「これ以上のお話しは体に悪い。さあ、選んでください。死ぬか、生きるか」
 手を握られる。温かくとても硬い手だった。
「生きたいのなら、手を握って」
 組織を抜け出すために行った強奪事件。最後に送った彼へ送ったメール。小さな探偵へ未来とともに託した鍵(きぼう)。
 ねえ、志保。私はあなたと家族でいられて幸せだったよ。
――生きたい。
「……っ、ぁ……」
 言葉が出なかった。目尻から涙が伝っていく。力を入れることが難しかったが、歯を食いしばって握られた手に、指先に力を込めた。
「――わかりました」
 ふっと力の抜けたような笑みを浮かべた綱吉に涙を拭われる。
「“セーラ”。それが、今日から貴女の名前です」

   * * *

「……ラ、セーラさん」
「っ!」
「大丈夫かい」
「……申し訳ありません。ぼうっとしてしまって」
 そっと胸の下に触れる。傷痕にピリッと痛みが走った気がした。
 綱吉から名前を与えられた後、容態が安定したセーラはイタリアに渡りボンゴレとの密接な関係のある医療機関で数ヶ月療養した。奇跡的な回復を遂げたセーラに担当医は「傷痕を綺麗にすることもできる」と勧めたが、彼女は首を横に振った。セーラは自分を戒める意味も込めて傷痕はそのまま残す道を選んだのだ。
 同僚にはセラピーだと話していたが、実際に行われているのは、ボンゴレ九代目ボス・ティモッテオとの茶飲みである。
「セーラさんも大変だねえ。私の見張りに付き合わされてしまって」
「そんな、見張りだなんて」
「いいや、これは綱吉くんが『隠居したからって誰にも言わずにボンゴレ本部から抜け出すな』って釘を指しているんだろうよ。君みたいに美しい女性を傍におけば私がふらふら出歩かないだろうと踏んでいるに違いない」
 優雅に笑い飛ばしながらエスプレッソを嗜むティモッテオは、現役ボスを退いたとは思えないほど紳士的な男性だった。その佇まいもそうだが、彼は歴代ボスの中でも典型的な穏健派で通ってきたらしい。しかしその決断は神の采配とも謳われ、現役を退いた今であっても彼を讃える人々が多いとか。
「後悔、したことは……ありますか?」
「うん? セーラさんはなにか、とても後悔していることがあるのかな?」
「……はい」
 後悔していることは数え切れないほどあった。もしもあのとき自分が別の言葉を伝えていたら、もしも別の行動していたら、もっと考えて計画を練っていればもしかしたら。怪我が回復して動けるようになってからずっと影のように心にまとわりついていたそれら『もしも』の話。それは時間や昼夜問わずセーラの心を蝕んでいく。
「過去の出来事を思い返して後悔したということは、その時の行いが間違っていたのだと気づいた、とも言えるんじゃないかな」
「っ……」
「しかし、後悔したことが起きていた瞬間、つまりその時点では、それが本当に叶えたいことだったり、熟考した上での最良の選択だったんじゃないかと、私は考えるよ。
 過ちは何年、何十年経っても過ちのままだ。記憶は美化されるが事実は色褪せない。ならば、その後どうするかが今後の課題となるだろうね。日本のことわざには『後悔先に立たず』なんて言葉もあるけれど……。
 私はね、セーラさん、同じ後悔を繰り返さないためにも、自分が今後どうするか、どうしていきたいのかで、人生というキャンバスの色合いは変わっていくと、この歳になって考えるようになったよ」
 ティモッテオは穏やかな笑みを浮かべてカップに口をつける。その姿を見るのはもう両の手指を越える回数になっていた。
 どうして綱吉がティモッテオと定期的に会うようにと機会を設けたのか。今まで謎だったその意図が、セーラは今日、少しだけわかった気がした。
「なあんてね。老ぼれの言うことだ。若い人には少し退屈だったかな」
「そっ、そんなことないです! そのような考え方……私、思いもしなくて」
「しかし、忘れてはならない。後悔には責任がつきまとう。その責任を自分が取れるのかと言われたら、難しいことの方が多いだろう。ましてや、人の生き方や命に関わることは特にね」
 ティモッテオはすっかり冷めてしまったカップを口元に運ぶ。ゆっくりと味わう様子に、この話題はもう終了なのだとセーラは悟った。
 結局、彼は質問の答えをうやむやにした。しかし答えを聞かなくてもセーラはわかっていた。後悔をしたことがない人に、あのような考えは語れない。
 人柄的にも立場的にも、いま目の前にいる男性は、小さいものから大きいものまで様々な後悔をしてきただろう。彼はそれら一つひとつを拾い集めては振り返り、自問自答してポケットに大切に仕舞うのだ。否、後悔に大小の大きさなんてないのかもしれない。大きさには価値が伴ってしまう。自分勝手な行動をした側に、価値をつける資格はないのだから。
 そこでセーラの脳裏を茶髪の男の姿が掠めた。温かい雰囲気をまとう、凛とした彼。ティモッテオの立場を引き続いだ、まだ歳若い日本人。
「デーチモは、どんな方ですか?」
「そういえば、一度しか会ったことがなかったんだったかい?」
「ええ」
 セーラが綱吉と会ったのは、名前をつけられたその日だけだった。それ以降は、彼の右腕や部下たちから「十代目の意向だ」とだけ伝えられ従ってきた。
 現ボスという立場もあってか、綱吉の話は様々なところで耳にするが、未だに彼がどのような人なのか人物像が掴めないでいる。
「そうだね……彼は――やさしい子だよ」
 ゆっくりと瞼を閉じたティモッテオは、子守唄を歌うように囁いた。そして瞼を上げてすっと視線逸らす。その仕草はまるで映画の一場面を見ているかのような気持ちにさせた。
「同じかそれ以上に、彼の姉も……ね。――残酷なほどに」
 最後の言葉はティモッテオがカチャリとカップとソーサーを鳴らした音でセーラの耳には届かなかった。
「……私、まだ会ったことないんです。デーチ、……綱吉さんのお姉さんの、なまえさんに」
 彼に姉がいることは聞いていた。あの病室で意識が朦朧としてる中だったけれど、綱吉は確かに話していた。「姉さんの頼みだから」と。彼女はなにを弟に頼んだのか。つまり、私を助けると言ったのは、綱吉ではなく彼の姉、なまえだということになる。どうして。
 セーラが持っているなまえについての情報は、多いようで少ない。綱吉の四つ年上で、翻訳作家をしていて、今は日本にいるけれど、時々イタリアと日本を行き来している。弟と似た雰囲気で、やさしくて、ボンゴレのために尽力する人。
「いつか……会えるといいなあ」
 するりと言葉が漏れていた。なんとまあ、羽根よりも軽い唇だろう。
 知らないことがまだ沢山あるのだ。イタリア語だって十分に使いこなせるわけでもなければ、こちらの文化や生活習慣にもまだ慣れない。この組織についても、自分の仕事内容についても、目の前の男性や十代目、そしてなまえのことも。
 まだ文章を読むことには苦戦を強いられている。けれど勉強を続けていけば、いつか文章も読めるようになる。なまえの翻訳した本を読めば、どうして私を助けたのかはわからなくても、少しだけ彼女という存在を理解できるかもしれない。根拠のない考えだが、セーラはそんな気がしていた。
「――……そうだね」
 ひだまりのように温かく、控えめな声が返ってくる。
 セーラは短くなった毛先をそっと撫でた。

18,06.09