さみしがりやのアルバ


 なまえの隣を歩くことに気が引けるようになったのはいつからだろう。
 繋いた手を最後に握り返したのはどのくらい前のことだろうか。
 歩幅がまったく違うのに、歩みを緩めなくなったのはいつだろう。そのため彼女との距離は広がっていき、いつしかあの子は早歩きをするようになっていた。
 そういえば一緒に外出する時に、すらりとした脚を引き立てるようなヒールを履かなくなった。
 こんなはずじゃなかった。自分と彼女にはもっと別の未来があったはずだ。けれど理想的なそれに背を向けて、なまえに気を遣わせる道を選んだのは自分自身なのだ。
 今さらなまえとの関係が、現在そしてこうなる以前よりも良くなるなんて、骸には到底考えられなかった。

   *

 なまえとはよく色々な場所を訪れる。犬や千種、クロームやフランといったメンバーとも一緒に行くこともあるが、大抵はなまえと二人きりでの外出だった。
 行き先は様々で、なまえが場所を決めて持ち掛ける。雑誌に掲載されていたスポットや、編集社の社員から勧められた店等々、名の知れた場所から穴場まで多種多様だった。
 なまえからの誘いを断る理由はなかった。だから彼女と出掛ける。ただそれだけのこと。
 話に応じて、首を縦に振り、予定の日時を決める。当日になったらなまえを迎えに行き、彼女が行きたいと言った場所を訪れて時間いっぱいそこで過ごし、きちんと自宅まで見送る。振り返れば一種の作業にすら思えてしまう。そう捉えてしまうほど、骸はそれをこれまで何度も繰り返してきた。
 なまえとの関係性に変化が訪れても、二人での外出だけは変わらずに存在し続けた。
「それじゃ、約束」
 骸のもとにやってきたなまえ。一緒に出掛ける約束をする時、彼女は必ず直接会ってするようにしていた。
 無防備に差し出された小指に視線が釘漬けになる。『約束を破ったら針千本飲ます』だなんて恐ろしい誓いを軽快な歌で結ばせるこの行為は、なまえによく似ていた。
「仕事とか急用とか、あと疲れて休みたいとかで行かれなくなったら、早めに伝えてね」
 骸がなまえに壁をつくった“あの日”から、彼女は必ず骸の逃げ道を用意するようになった。すべて骸の心境をおもんぱかっての配慮だろう。それでも彼女の綺麗な双眸は真っ直ぐに骸を見つめて心を捉えて離さないでいた。その眼差しに垣間見得る、断られる不安感を必死に隠そうとして。
「……なまえも自分を優先してくださいね」
 骸は『わかりました』と伝えようとして、ギリギリのところで言葉を飲み込んだ。なまえは一瞬だけ眉を下げる。
 やはり彼女はこんな些細なことでも気づいてしまうのだ。自分がたった一言つけ加えていれば、なまえが悲しそうな表情をすることも、胸の奥がひどく締めつけられることもなかったのに。
 なまえは視線を落としてゆったりと首を振り、顔を上げて花が開くように笑みを浮かべた。
「私は大丈夫。だって、むっくんと一緒にいられるほど嬉しいことはないもん」
「っ……」
 そうやって君は、君への想いを凍らせた僕を甘い蜜で溶かそうとするんだ。
 先ほど自業自得で痛んだ胸のそれが解れていき、すぐさま別の痛みが襲った。僕はこの痛みを、なまえと初めて出会った時から、身をもって知っている。
「それじゃ、またね」
「ええ、また」
 手を振って踵を返すなまえは振り返ることもなく去っていく。昔は何度か振り返って、その度に視線が交わり二人して笑い、また手を振ったのだ。
 一つひとつ、なまえは“あの日”を境に振舞い方を変えた。それもこれも、すべて自分のためではない。僕のためだ。それに気づきながらも態度を改めない自分は最低だ。なまえからはどう見えているのだろう。
 なまえの見送りを済ませ、室内に戻ろうと引き返していると、出入口付近の壁に背を預けているM・Mと、バチリと目が合った。
「骸ちゃん“は”進んだのね」
 ポツリと呟く。普段、尖っている音を発するM・Mの声が、丸みを帯びていた。この状況と文脈からして、自分となまえのことだろう。助詞が『は』ということは、なまえはそうではないということなのだろうか。
 骸からすれば、いつまでも立ち止まっているのは自分の方で、なまえばかりが明るい方へ進んでいく。彼女がこれまで歩いた軌跡が、一歩を踏み出せないでいる骸を手招きするようにあたたかく照らしていた。しかし、骸はなまえと同じ方向へ進んではいけない。
 なまえは、世界一幸せになるべきなのだから。
「……やっぱり、バレてる片想いは不毛ね」
 姿勢を正して去り際に零したM・Mの言葉に、骸は聞こえなかった振りをした。
――ああ、それは誰に対しての言葉なのだろう。

   * * *

 出会った当初、なまえへの興味関心なんて皆無に等しかった。しかし、ボンゴレボス十代目候補の沢田綱吉の姉という価値がどれほどなのかは知っていた。
 彼女を誘拐すれば自ずと沢田綱吉はでてくるだろう。だから学校からの帰り道で待ち伏せをして、攫った。なまえは面白いくらい無抵抗だった。むしろ進んで着いてきたという表現の方が正しい。まるで攫われることを事前に知っていたかのように、すんなりと言うことを聞いてくれた。傷物にしては面倒だから手間が省けて楽だったものの、一般的な反応とは異なる違和感には眉をひそめた覚えがある。
 なまえはひだまりそのものだった。誘拐して黒曜ランドに連れてこなければ、僕と彼女は出逢うことすらなかっただろう。それくらい住む世界が違っていた。
『あなたの人生はあなたのものだよ。なにも知らない私が口出ししていいものじゃない』
 平和な世界で暮らしてきたなまえにとって、マフィア殲滅を目論むこちらの思考など到底理解できないものなのに、彼女は受け止めた。そんなこと言われたのは初めてのことだった。
『でも……目的を達成するためにはきっと怪我もするだろうし、怪我では済まないこともあるかもしれないって考えると……私はあまり、あなたに傷ついてほしくないな』
 それは、封印してしまった『六道骸』と名乗る前の記憶を呼び起こした。世界は綺麗なもので溢れていて、人々はやさしい心を持っており、明日は今日よりも素晴らしい一日になると信じて疑わなかった幼少期。覚えているはずなのに思い出せなくて、思い出すことさえ諦めた記憶は、『六道骸』と反してあたたかいものだった。
 なまえから、それを与えられたのだ。
『だって、あなたはもうたくさん傷ついてきたでしょ?』
 彼女の言葉や声、表情を思い出すだけで涙がでてきてしまいそうになる。
『私はあなたがやることを止めない。でも、これだけは覚えておいて。あなたが傷つくことで悲しむ人は、あなたの近くに必ずいる』
 なまえの存在に心を開いたのは骸だけではなかった。犬や千種、M・Mまでもが、彼女と過ごした日々を今でも大切に心の中に仕舞っている。
 すべてを受け入れ包み込んでくれる優しさの裏になにがあるのか聞き出そうと些か強引な手段にでると、なまえは予想に反してすんなりと教えてくれた。
 前世の記憶があること。そして、未来に起こることが、ある程度わかるということ。
 なまえの告白で、彼女がどうしてここまで他者を受け入れ尊重することに長けているのか、どうして自分へ信頼を寄せてくれるのかを骸は悟った。
『こんなこと、話せる人なんてほとんどいないし、話したとしてもおかしいって思われるだけだから』
 なまえは前世の記憶があることを他者に伝えたのは骸で二人目だった。彼女の告白を受けたのは自分だけではなかったけれど、骸はその事実に優越感に浸っていた。聞けば、完膚なきまでに打ちのめした雲雀恭弥や、最愛の弟である沢田綱吉ですら、なまえは前世のことを打ち明けていなかったのだから。
『僕たちは、似たもの同士なんですね』
 自身の口から飛び出て言ったその一言が、なまえとの間に見えない確かな絆を結んだきっかけだったのかもしれない。
 それ以降、なまえは前世のことを話すことはなく、骸も話題にあげることはなかった。
 それでも、身体に刻み込まれた六道輪廻を巡った記憶を持つ自分と、前世の記憶が魂に刻み込まれたなまえ。似ているけれど違う境遇にある二人は、自然と惹かれ合っていった。

 忘れもしない“あの日”。それは、なまえがイタリアへ留学する少し前のことで、もう六年ほど前のことになる。骸はなまえのことを考える度に、当時のことを思い出し振り返っては、これが正しかったのだと自分に言い聞かせている。
 その日はなまえと映画を観に行った。作品は、ロマン主義フランス文学の大河小説を原作としたものである。実写映画化の際に参考にされたのは、世界各地でロングラン上演されている同名小説を原作としたミュージカルだ。作中にはミュージカルでも登場した曲が数多く披露されている。出演者は演技力のみならず歌唱力にも優れた配役であり、ミュージカル映画ともいわれていた。
 エンディングにて出演者による大合唱が響き渡り、エンドロールに差し掛かったところで、なまえは静かに泣いていた。普段ならば彼女が泣いていることに気づいた時点でハンカチの一枚でも差し出す骸だったが、この時ばかりはそれすらもできないでいた。
――“あの男”は、“僕”だ。
 激しい衝撃が骸を襲っていた。
 映画の主人公は、看取った女性の願いを叶えるために、女性の娘を引き取って生涯を捧げた。恋愛を知らない主人公にとって娘は、娘であり、姉妹であり、そして母であるといったように、絶対的な存在だった。その娘は、女性が経験するであろう立場を兼ね備えていた。しかし最終的に娘は愛した男と結ばれて疎遠になってしまう。そして主人公は独りになり静かに一生を終えるはずだったが、そこへ娘とその夫が駆けつけ、二人に看取られながら息を引き取った。
 骸は、主人公を自分に、そして娘をなまえに重ね合わせていた。
 骸にとってなまえは、主人公にとっての娘と同じようなものだったのである。なまえは、やさしさを思い出させてくれた。人を思いやる方法はひとつではないのだと。道徳的な道から外れたとしても、骸は骸のままでいいのだと笑ってくれた。それが非人道的な行為の被害者となった骸にとって、どれほど救われたことか。
――僕となまえは似たもの同士なんてものじゃない。
 骸は気づいてしまった。なまえのような存在が自分と似ているだなんて口にしてはいけない。思慮深くて目的のため、優先するもののためなら時に手段を選ばない答えを出すこともある、根は思いやりのある純粋無垢な彼女は、穢れている自分とは決して相容れないのだ。
 なにもかもを受け入れてくれるなまえとの関係は、曖昧でいて心地よかった。だが、その裏側に潜むものを、骸はすべて理解してしまったのだ。
――ならば、僕もあの男のように、彼女が幸せになるようにしなければならない。
「この後、お茶でもどうですか?」
 骸はシートから立ち上がり、涙を拭うなまえに手を差し伸べた。少しだけ赤くなった目を向けてゆるく笑うなまえは骸に手を重ねる。いつもあたたかいはずなのに、触れた彼女の指先はとても冷たく感じた。

 映画館を出た二人は、併設された商業施設内にある店に入った。飲み物とデザートを注文し、頬が溶けていきそうな甘さに二人して舌づつみを打つ。
 話題はデザートから映画の感想へと移った。皿の上が綺麗になる頃には、映画の話も終わりを迎えそうだった。
 骸は冷めきった珈琲を飲み込み、甘さを追い出そうとする。
「今度はミュージカルの方も観てみたいなあ。あっ、でも予告の時にやってた映画の方も面白そうだったよね。むっくんならどっちを見たい? 都合が合うならまた一緒に……」
「なまえ」
 口から出て言ったのは想像以上に固い声だった。会話の流れと不釣り合いな声音に、なまえはピタリと動きを止めた。
「そういうことの相手は、僕じゃなくていいんですよ」
「えっ……?」
 なまえの顔から、色が消えた。
「なまえ。君は、僕と一緒にならない方がいい」
「っ……え、あの……むっくん?」
「痛み分けは、もうこりごりなんですよ。僕と君の共通点といえる“以前”の記憶があるというのは、似ているけれどまったく別物だ。
 仲良しこよしはもうやめませんか? 僕はなまえと違う。なまえは前世のことを引きずっているでしょうが、僕は輪廻を巡ったことに対してなにも抱きません。傷の舐め合いは、楽しかったですか?」
 口角を吊り上げて捲し立てるように話せば、なまえの表情がぐしゃりと歪む。華奢な肩が震えていた。テーブルの下に隠れて見えない両拳はきっとスカートに皺をつくっていることだろう。なまえの魅力を引き立てるような、よく似合っている服だったのに。
 そうさせてしまったのは他の誰でもない、自分自身だ。
 骸はなまえが俯いていることをいいことに、意識して吊り上げた眉や口角から力を抜いていた。彼女に嫌味を突きつけている時よりも胸の痛みは強くなっていく。
「……むっくんは、それ、本当に心から思ってること?」
 なまえはゆったりと顔を上げた。
「僕が嘘つきだとでも?」
「だって……っ、ううん。違う、いや、違くないけど……」
「失礼ですね。僕は目的のためなら手段を選ばない。だから君の弟と今でも関わっている。このポジションにいた方が、僕の目的は達成されやすくなるのだから」
 なまえが幸せになれるのなら、手段は選ばない。たとえ自分と関わらなくなったとしてもだ。
「ほんとうに?」
「ええ。何度も言わせないでください」
「……じゃあ、どうしてそんなつらそうな顔をして言うの?」
 なまえの手が頬に触れる。ビクリと肩が震え上がった。柔らかな手のひらの感触に、鼻がツンとしてくる。
 どうしてなまえはこんなにも他者の感情に敏感なんだ。それはきっと、今までそうして生きてきたからだろう。
 突き放したいのに。その覚悟ができていない生半可な気持ちで伝えた言葉の裏を、なまえはすぐに読み取ってしまった。心臓が痛い。
「っ……僕となまえは、住む世界が違うんだ」
 骸は頬に触れるなまえの手を突っぱねた。
 一緒にいれば、きっとこの先もなまえは前世のことについて引きずることになる。それではいけない。なまえはもう十分がんばった。前世から、前世の記憶から解放されていいのだ。
「そんなことない! 違うよ。私はここにいるし、むっくんだってここにいる。同じ世界にいるよ……!」
「賢い君ならわかるでしょう、なまえ。僕と一緒にいたところで、君の未来は開けないんですよ。僕の手は穢れている。この身体に刻まれた過去もそうだ。
 僕には君が眩しすぎる、君は汚れてはいけない、綺麗なままでいればいい。僕といたら、なまえまで穢れてしまう。……だったら、さっさと違う男のもとで家庭でも築いた方がマシだ。平和ボケした生活、君にはそれが合ってる」
 心から溢れ出た主張は支離死滅になってしまった。
 なまえはバンッとテーブルを叩くと勢いよく立ち上がる。
「どうして勝手に私の未来を決めつけるの!? 未来なんてっ、誰にもわからないでしょ!?」
「君はわかっていたじゃないですか。僕が沢田綱吉に負けることも、争奪戦でヴァリアーが負けることも、未来での出来事だって」
「それはっ……!」
「それと同じだ。なまえが僕といたらこの先どうなるか、僕にはわかる」
「違う、同じじゃないよ! 全然、違うっ……!」
 なまえは首を振って否定する。彼女の悲痛な声が針となって串刺しにされている気分だった。
「私はっ、もう未来がどうなるとか、どうでもいいの! むっくんと一緒にいたい! ただそれだけ! それだけで、幸せ、なのにっ……! だって……」
 なまえの綺麗な双眸からはボロボロと涙が零れ落ちていく。まるで流星群みたいだ。流れ星は願いを叶えてくれるのだろう。ならば、叶えてくれ。
 ありったけの願いを込めてなまえに伝えたのに、僕の願いは叶うのかどうかもわからない。
「私は、私はずっと! ずっと、むっくんのことが――!」
 続く言葉に向かい合いたくなくて、骸は歯を食いしばりながら静かに瞼を閉じた。

   * * *

 思い返せば今でも“あの日”に飲んだ珈琲の苦さが身体を蝕んでいた。耳の奥でなまえの告白がこだましている。“あの日”を境に、なまえを思い出すと脳裏をよぎるのは笑顔ではなく、傷ついたり寂しそうにしたりする顔だった。
 それでもよかった。彼女に伝えたように自分は穢れているし、そもそも住む世界が違う。弟のためにと生涯を捧げてボンゴレにも尽力しているなまえからすれば、自分が言い放った言葉は心を抉っただろう。傷つけたに違いない。
 自分からなまえを突き放したのも同然だったが、骸は未だに彼女を避けることはできなかった。
 仕事を終えて並盛町の地下に設けられたボンゴレの日本支部に報告に来たが、訪れた時はいつも賑やかな施設内がしんと静まり返っていた。
 この時間ならきっとなまえもいるだろうと心の片隅で期待したが、彼女の姿も見つからずに終わる。都合のいい考えをしている自分に嘲笑った。
「おや……珍しいこともあるんですね。君がここにいるだなんて――雲雀恭弥」
「名前を呼ばないでくれるかい。……小動物の代わりに入院手続きに行ってね」
「沢田綱吉の代わり?」
 綱吉は今イタリアに行っているため、代わりということは理解できるが、彼が入院手続きをしなければならないとは一体どのような意味なのか。
「僕が欲しくても奪えないものを持っているくせして、それを大切にもしないんだね」
「は?」
「沢田綱吉といい君といい、本当に腹が立つ」
「なんですか。会って早々に嫌味ですか」
 出会った途端に攻撃を仕掛けてくる癖は減りつつあるが、こういった言葉を掛けてくることが増えた。
 溜息をつくのを堪え、なんて切り返してやろうかと骸が考えていると、耳に入ってきた言葉で思考はぴたりと止まった。
「なまえは今、病院だよ」
「は……病院?」
「交通事故に遭ってね」

 なまえの入院している病院の名前を聞き出した骸の足は強くアスファルトを蹴っていた。
 思い返せば合点がいった。綱吉はイタリアに向かっているため、きっとその右腕等も付き添っている。なまえの母が入院手続きをする可能性もあったが、並盛を牛耳っている恭弥が行った方が話は早くつくだろう。静まり返った支部内は、彼女の見舞いに訪れているため不在だとすれば、今日の違和感で構成されたパズルは完成した。
――もし、目が覚めていなかったら。
『名は体を表すって言うけれど、あなたは“骸”なんかじゃないよ。あなたは人に優しくすることも、人を傷つけることも知ってる。そんな人が、屍なはずがない。そんな哀しい名前で私は呼びたくないから』
――もうなまえだけの特別な呼び方は聞けないのだろうか。
 骸という言葉は、『死んで魂が抜けた体、しかばね』という意味をもつ。骸という名前は、六道輪廻を巡った記憶を身体に刻まれた後、自分でつけた名前だった。もうエストラーネオファミリーに身を置く前には戻れなかったから、思い出とともに名前も捨てた。
 名前など、ただの個人を特定する記号に過ぎないのだ。そこに価値を見出さなくても、自分の価値は自分の行いで証明することだって可能である。
『だからあなたのこと、“むっくん”って呼んでもいい?』
――僕をそう呼んでくれるのは、なまえしかいないというのに。
「なまえっ!」
 病院に着いた骸は、恭弥の名前を出して看護師から部屋を聞き出し病棟を駆け抜けた。
「あ、むっくん!」
「……は?」
 ベッドに座りながらノートパソコンを操作していた。傍らに辞書が置かれている。仕事中だと見受けられた。
「おかえりなさい! 任務終わるの早かったね」
 病室に着くこの瞬間まで想像していたのは、包帯が巻かれて人工呼吸器に繋がれたなまえの姿。患者衣を着たなまえの姿はエストラーネオファミリーにいた子どもたちを脳裏に蘇らせていたのに。
「ん……? どうしたの?」
「事故に、遭ったと……」
「事故って! そんな大げさなものじゃないよ。ただの接触。しかも接触しかけただけ。自転車とぶつかりそうになって、避けようとしたらつまづいて転んで、頭打っちゃった。何針か縫ったくらいだよ。……あれ? “だけ”ってレベルじゃないかな?」
 冗談のような声で話された内容は、残念なことに冗談ではないらしい。
 骸は両手で顔を覆い、その場に蹲った。
「えっ、む、むっくん……?」
――あの男っ……!
「大丈夫? どこか怪我でもしてた?」
「……本当に、大したことないんですね?」
「うん。明日にはもう退院できるよ」
 恭弥はこうなることを見越して、わざとあのような言い方をしたのだ。絶対そうだ。そうに決まってる。
「むっくん、大丈夫……?」
 なまえの手が心配そうに伸びてくる。なまえの声音は次第に骸の苛立ちを鎮めていった。
 骸は目の前に降りてきた手を捕まえて、甲に額を押しつける。
「――よかった」
 唇の隙間から漏れたような、か細い音だった。
 温かい、血が通ったなまえの手。もう自分が握る手は冷たくなりかけているものだとばかり考えていた。
 骸は擦り寄せたなまえの手から額を離し、彼女の爪先に音もなく唇を落とした。安堵の息をつき、ふと顔を上げると頬を赤く染めているなまえがいた。
「なまえ?」
「や……待って、いま見ちゃダメ」
 解放されたがってむずむず動く手を逃がさないように握ると小さな悲鳴が上がった。
「は……?」
「その……心配してくれたんだなあって思ったら……なんだか、嬉しくて」
「っ……」
 込めていた力を緩めて手を離すと、なまえは胸元に手繰り寄せるようにその手を抱きしめた。
 その様子に胸の奥がむず痒くなり、骸は気を紛らわすように立ち上がった。なまえの無事は確認した。もうここに居座る理由はない。踵を返そうとなまえに別れを告げる言葉を探していると、水滴が落ちるようになまえの声が響いた。
「……やっぱり私、むっくんのことが好き」
「っ!」
 なまえの言葉は魔法だ。簡単に身体を動けなくする。
「昔むっくんが言った通り、私は最初、むっくんが輪廻転生した記憶があるのを知っていて勝手に親近感わいてた。むっくんだったら私の気持ちわかってくれるかなって、どこか期待してたのかもしれない。でも……でも、怪我してほしくないとか、楽しいこと沢山してほしいとか、もう傷ついてほしくないとか……幸せになってほしいって思ったのは、本心だから」
 なまえの手が再び伸びてくる。腕を掴まれたら絶対にこの場から逃げられない。そう頭では理解しているのに、やはり身体は動かなかった。
 ゆるく袖を掴まれる。逸る心臓の音が耳のそばで聞こえた気がした。
「だから、むっくんが今が一番幸せなら……私はなにも要らない」
 君は与えるだけ僕に与えてくれるのに、僕はなにも返せないというのか。それでもいいと彼女ば言ったも同然だった。自分のことを二の次にするなまえの悪い癖である。
「――って、思い込もうとしてたんだけどね、やっぱり無理だったみたい」
「は……」
「ねえ、むっくん。苦しませてごめん。でも、言わずにはいられないの。私、やっぱりね、むっくんのことが好き。大好き。一緒にいたい」
「なまえ……」
 なまえの双眸からぼろぼろ零れていく涙は、“あの日”見たものよりも美しく思えた。
「むっくんとずっと一緒にいたい。もっと近くに……となりに」
「っ……なまえ」
「お願い、傍にいてっ……!」
 頬を濡らしながら真っ直ぐに見上げてくるなまえの瞳から目を逸らせなかった。
――なまえは、僕にとってのコゼットだった。
 前世の記憶に縛られたなまえの生きがいは、弟の存在を生きる意味にしたことで命を繋いでいた。前世の知識を活かして綱吉を支えることで、彼女の自尊感情は保たれていたのである。しかしそれは非常に危ういことだった。綱吉はいつまでも、なまえが乞い願う弟でいてくれる保証はどこにもないのだ。
 そんな時に現れた、似た境遇を持つ自分に惹かれたのもわからなくなかった。骸も同じように、自分の意と反して前世の記憶を持ったままいつの間にか転生という形でこの世に存在していたなまえに、自分と似たものを感じていたのだから。
 未来は変わってしまうが、過去はいつまでも過去のままである。なまえは六道骸という似た境遇を持つ、“変わらない”男を視線の先に置くことで、心の安定を図っていたのだと骸は考察していた。神でもなければ崇拝ですらないけれど、変わらず在り続ける不確かな存在。
 しかし、いつまでも変わらないものなどなかった。人間は変わり続ける生き物だ。骸はそれを実体験で熟知していたから、なまえの気持ちに背を向けた。
――けれど……。
「全く、なまえは本当にわがままですね。敵いません」
「ッ……」
 袖を掴んでいる指がビクリと動き服の皺を増やした。
「――待っていてくれますか。僕が歩み寄れるまで」
「え……?」
 なまえの隣にいる勇気が僕にはまだ足りない。考えに考えて出した結論を覆すのは簡単なことではない。自分が離れることが彼女の幸せに繋がるのだと、ずっと自分に言い聞かせてたのだから。
「時間が……かかるかどうかは、僕自身わかりません。ですが、君が待っていてくれるというのなら……」
 なまえがずっと僕のことを想っていてくれる。それを彼女が長い年月をかけて証明してくれた。
 無意識に不確かなものを求めて骸を選んだなまえが、骸の不確かなものになった瞬間だった。
「その時は、僕から言わせてください。……君の未来を貰います」
――さようならだ、“僕(ジャン・バルジャン)”。
 言い終えて口角を引き上げる。意識していないと唇が震えてしまいそうだった。ああ、胸が締めつけられているようだ。僕はこの痛みを、知っている。
 夢を見ていたこともある。なまえがいて、犬や千種、クロームたちも一緒にいる空間がこの先も続いたら、『六道骸』になる以前よりも、とても温かい日々が訪れるだろう。
「ほんと……?」
「ええ」
「むっくんが……言ってくれるのを、待ってる時は……? 一緒にいられない?」
「いいえ。君の近くに……傍に、います」
「……うそじゃない?」
「僕が嘘つきとでも?」
「……うん」
「クッハハ! そうでしたね。……しかし、今回は嘘じゃありません。なんなら、約束でもしますか?」
 小指を立ててなまえの前にだすと、きょとんとした顔で数回瞬きをしたなまえは、ゆっくりと口角を上げて目尻を下げた。
「うん、指切りする」
 それは、僕の愛してやまない、愛しい笑顔だった。

18,06.09