風読み


 なまえが仕事で編集社に行くと昴に伝えて家を空けた日を狙って、コナンは工藤邸を訪れた。
 お互い勧め合った本の内容や感想を語り合うことがまず第一の目的である。昴が用意したレモンパイと紅茶をお供に、鋭い洞察力と感性を持つ者同士で有意義な時間を過ごした。
 小皿とカップが綺麗になり、昴が一度それらを下げて、口直しにと珈琲がコナンに振る舞われる。それは、話が切り替わる合図でもあった。
 これから、第二の目的が始まる。
「で? なまえさんとの共同生活、どう?」
 昴は自分用にと持ってきた珈琲を一口飲む。そして一つ溜息をすると、記憶を巻き戻して話し始めた。
 何分経っただろう。昴の話を聞き終え、コナンは体の中に溜めていた空気を一気に吐き出した。ソファの肘掛に肘をつき、手のひらに顎を乗せて昴を見上げる。
「……なにしてんの昴さん」
「……すまない。迂闊だった」
 ふた回り以上に歳の離れた子どもに呆れられる状況に、秀一はただただ片手を額につけて俯くことしか出来なかった。
 自分でも変声機を紛失しかけたことを思い出す度に、なにをしているんだと呆れ返るほどである。今でもシャワーを浴びるまでのことは思い出せないが、あの味はしっかりと舌が覚えていた。
「あのバーボンは美味かった……」
 一人呟く昴に、コナンは苦笑する。
 ――ハハッ……これだから大人は。
 コナンは、水無怜奈の件で赤井秀一という男を理解したと思っていた。しかし、一見近寄り難く、私生活の影などまるで見えないようなこの人が、まさかこんなに人間らしいことを呟くだなんて。沖矢昴を演じているわけでもなさそうな、個性が感じられる姿にコナンは内心驚いていた。
 先程の発言が、昴としてではなく秀一としての言葉ということくらい、コナンにだって理解できる。仮面を被りつつも素の自分を垣間見せるのは、今話している相手が自分だからということもあるかもしれない。でも、きっとそれだけではないはずだ。
 この人は、工藤邸に住み始めた頃よりも、断然雰囲気がまあるくなっているような、柔らかい感じがする。
 赤井秀一のその変化を脳内で解き明かそうと、探偵としての血が騒ぎだそうとする。けれど、一応プライベートだし流石に無粋かと結論づけ、カップに手を伸ばして珈琲と一緒に好奇心を飲み込んだ。
「それで? なまえさん変声機についてなにか訊いてきたの?」
「いえ、全く。何も無かったかのようにそのままです。だからこちらもそうしているよ」
 足を組み替え珈琲を口に運ぶ姿は、さっきまで自身の失態に落胆していたとは思えないほど元に戻っていた。流石だなとコナンが呆れつつ感心していると、昴は持っていたカップを机に置き、鋭い翡翠色を覗かせた。
「彼女は一体、何者だ?」
 工藤邸を案内されつつコナンからなまえの話を聞いたあの夜、念のためにと昴は沢田なまえの情報をPCを使って調べてみた。しかし、主だった情報は得られず、後日彼女から自己紹介であったように、並盛に実家があり、父親は幼い頃に蒸発し、四歳年下の弟と母親と三人で暮らしていたことと、これまでの学歴しか出てこなかった。
 情報操作された形跡は一切見当たらないただの変哲もないプロフィールに、昴はどこかに穴があるのではないかと数回読み直し確認したが、成果は得られなかった。
 昴の話を聞き、コナンはソファに三角座りをして、合わせた手の指先を口元に触れさせた。
「なまえさん、怖いくらい勘が鋭いんだ。考えていることを見通してくるのは当たり前だし、隠し事をしていても、まるで知っているかのように、いざと言う時助けてくれる。それも、偶然を装って、知らないふりをするみたいにね」
 コナンはなまえに助けられたことを思い出す。振り返れば、なかなか証拠が見当たらない時、焦って周りに目が向かない時、なまえはいつも助けてくれた。
 事件を解決に向かわせるために、発見した証拠やヒントになりうるものを、小学生を演じながら大人に伝えるコナン。なまえも必要に応じてコナンを手助けしたが、なまえの立ち回り方は、コナンのそれとは似ているようで全く違っていた。自分の行動はわざとらしさ満載であることは自覚済みだが、彼女のそれは常に、するりと通り抜ける風のように穏やかなのだ。
 静かに話を聞く昴に、コナンは続きを話し始めた。
「それに、本人は推理とかは苦手だって言ってるんだけど、事件に遭遇してから犯人が捕まるまでの間……ずっと、その場で話を聞きつつ容疑者の中の、とある一人の動向を確認しているように見えることがあるんだ。近づき過ぎないように、一定の距離を保っているようにも見える。そして最終的に、なまえさんがそうしていた相手が犯人だった。まるで、最初から犯人がわかっていたみたいにね」
「……勘が鋭い、だけじゃないでしょうね」
「でも本人は勘だって言うんだ。“昔から直感が優れてる”ってね。でも、絶対あれは勘だけじゃないと思う。勘だけだったら、優作おじさんの作品を指摘したり、執筆していた時の状態を言い当てたりとかしないよ」
 なまえにはなにかある。でもそれがなんなのかがわからない。
 近くにいても実態が掴めないなまえは、まるで水や霧のようだった。
「まるでミステリー小説にでてくるキーパーソンですね。彼女は」
 昴は残りの珈琲を飲み干すと、未だに眉間に皺を寄せて考えを巡らすコナンに、敢えて楽しそうにこれまで聞いた話の感想を打ち明けた。
 場違いな声のトーンに、コナンはじろりと昴を見上げた。
「……他人事だと思ってる?」
「まさか。これから解き明かしていけるのかと思うと、ワクワクするよ」
「ワクワクって……赤井さん似合わな……」
 ボソッと口の中でぼやき、すっかりぬるくなった珈琲を飲み干した。
 コナンが一息つきカップを置いたところで、タイミング良くノック音が響き渡る。昴が返事をすると、扉が開きなまえが現れた。
「昴さんただいま。コナンくんいらっしゃい」
 おかえりと揃って挨拶する昴とコナンになまえは笑みを深めると、空になった珈琲と傍らに積まれた分厚い本に視線を移した。
 なまえは二人が何をしていたのかを把握すると、再び二人に向き合った。
「今から夕飯作るんだけど、コナンくん食べて行く?」
「うん! 久しぶりになまえさんの仕事の話聞きたい!」
「おっけー。じゃあ毛利さんには連絡しておいてね。昴さん、夕飯はビーフシチューにしようと思ってるんですけど、良いですか?」
 二つ返事で了承すると、満足するようになまえは頷いた。するとそれを眺めていたコナンが夕食の手伝いを名乗り出て、流れで昴も共に作ることになった。
 先にキッチンに向かうなまえを追いかけるコナンの背中を眺めながら、昴はふむ、と顎に触れる。
「そこまで疑っていながらも慕うのは……」
 きっと、彼女の人間性に惹かれているんだろう。
 ――存外、彼も子どもだな。
 推理する時の凛々しさや、友だちといる時の保護者のような振舞いとは全く違った眼差しをなまえに向けるコナンの様子に、頬が緩むのがわかった。
 ――まあ、その気持ちはわからんでもないな。
 人のことは言えないなと、昴はトレーに珈琲を飲んだカップを乗せ、二人の後を追った。

16,08.23