初春に誓う


 Today is the first day of the rest of your life.(Charles Dederich,1913-1997)

   * * *

 空は絵に描いたような青色で澄みきっている。気持ち良いその光景は、新たな年を迎えるにあたって期待を持たせるような気持ちにさせた。
 心のうちはなんとも言えないあたたかさが灯っているかのよう。それでも凍てつく寒さについ肩を縮めてしまった。吐く息は白く色づき、すぐに透明になって空気に溶けていく。
 一月一日。なまえと秀一は帝丹神社を訪れていた。初詣である。
 米花町には、帝丹神社と米花神社の二つの神社が存在していた。しかし帝丹神社は米花神社と比べて参拝客も少なく、廃れた印象のある、地元民しか知らないような。その様子が少しだけ並盛神社を思い出させる。
「思った通り全然いませんね、人!」
「有名な神社とかじゃなくて良かったのか?」
「うん。米花神社とか、他の神社に行ったらきっと人混みに揉まれちゃっただろうから。こっちの方がのんびりできるから良いかなって」
 ところどころ朱色が剥がれた鳥居を潜りながらゆったりと足を進める。境内は最低限の清掃が行われ、さりげなく正月飾りが花を添えるように取り付けられていた。
「お正月早々、迷子になりたくないですもん」
「俺がなまえの手を離すとでも?」
「違いますよ、迷子になるのは昴さんの方」
「ホォー、それは意外な回答だな」
「昴さん、ふらふらどこか行っちゃうイメージあるから」
「なまえに言わずに消えたりしないさ」
 ごく自然に会話が弾んでいくことになまえの頬は緩んだ。
「本当は、例年だと今頃イタリアにいるんです。“家族”みんなで年明けをお祝いして……まあ、どんちゃん騒ぎ」
 なまえは正月のことを思い出して苦笑いした。『どんちゃん騒ぎ』という言葉が可愛く思えてしまうくらい、血なまぐさいことをしているのが本当のところだ。
「……よかったのか?」
 イタリアに行かなくて。
 言葉にはされなかったけれど、そう続いた気がした。
「だって私が行ったら昴さん、あの家でひとりぼっちになっちゃうでしょう? それに……」
 言葉を切って立ち止まる。手を繋いでいた秀一も自然に歩みを止めた。
 なまえは絡めている指先をもじもじと動かし、一度力を抜いた後にぎゅっと秀一の手を握った。
「……私も、貴方と一緒にいたかったから」
 イタリアに赴かないと決心した時のことを思い出す。風邪を引いて寝込んでいたが、朦朧とした意識の中でもその誓いは強いものだった。むしろ、難しく考えられない状況だったからこそ、心の奥底に仕舞いこんでいた願いに素直に従えたのかもしれない。
 そうでなければ、今頃自分はイタリアで、秀一は工藤邸だ。イタリアに行きボンゴレや縁のある人々と一緒に過ごしていたとしても、心にはぽっかりと穴が空いたような気分で、ファミリーと共に居るのにひとりぼっちだと痛感していただろう。秀一も同様にひとりぼっちで新たな年を迎えていたかもしれない。
――ひとりは、寂しいし。
 想いを自覚して繋がりあった今、ひとりになったことを想像しただけでも、その思いはさらに強く感じられた。
 綱吉たちに後ろめたさが無いといえば嘘になる。彼は彼なりに周囲をよく観察していたから、きっとなまえの出した答えが、どのような経緯を辿るのかも察してしまったかもしれない。
 今回の決断を受けて弟はどう感じ、なにを考えたのだろう。じくりと心臓に重い痛みがのしかかった。
「なまえ」
「……ぅ、わっ!」
 唇を軽く噛んでいると、急に腕を引っ張られなまえは抱きすくめられた。
「昴さ……んぅっ」
 なまえは後頭部と腰に回った大きな手に抗うように距離を空けようとする。しかし努力は虚しく、二人の距離はゼロとなった。
「ちょっ、だっ、だめ! こんなとこじゃっ……!」
 唇が触れ合いながらもなまえはもごもごと言葉を発した。それでも唇を寄せてくる秀一は、まるで飼い主を舐める大型犬のようだった。なまえは次第に笑みを零しはじめてしまう。
 形だけ取り繕った拳でぽかぽかと秀一の胸を叩いていると、名残惜しそうに熱が離れていった。
「もう……神様の前だよ」
「ここじゃなければ……?」
 会話のキャッチボールを成立させず、秀一は悪戯が成功した少年のような表情を浮かべていた。悪びれもしない秀一になにも言えなくなってしまう。
「ふふっ……もう、昴さんったら」
 結局は仕方がないと笑いを返すしかなまえには残されていなかった。秀一が自分に向き合い触れてくれることが嬉しくて、多少行き過ぎた行いをされてしまってもつい許してしまっている。
 一度ぴしゃりと怒らないといけないとは頭ではわかっていた。しかし、秀一からの行為に心を委ねてしまい、なまえはこれまで甘やかしているような反応しかできていなかった。
「嬉しいよ、残ってくれて。……俺もなまえと離れがたかった」
「ひっ……!」
 耳元で囁かれた低い声が身体を甘く駆け巡っていく。最後のおまけのように耳朶を甘噛みされれば、場にそぐわない色づいた声を上げてしまった。まるで赤ん坊に対してあやすように背中を撫でられている感触が、なまえにはからかわれているようにも思えてしまった。
「――もうっ! 怒るよ!」
 甘やかされてはいけないし、流されてもいけない。そして一度はきちんと怒るべきだ。
 なまえはそう覚悟を決めて声を鋭くしたものの、秀一はくつくつと喉を鳴らして笑うだけだった。その声になまえは眉間にしわを寄せる。
 なんだこれ、なにも伝わっていないじゃないか。いや、彼は賢いのだから、伝わっていないということはありえない。こちらの心境まで全て察した上で、あえて秀一はこの反応を示したのだ。
 なまえは悔しくて、未だに楽しそうに笑っている秀一の頬を、親指と人差し指でつまんで力強く引っ張った。

   * * *

「これからの話をしよう」
 初めて一緒に眠った翌朝、秀一がなまえの要望通りに朝食を用意し、なまえは頬を緩ませて彼の手料理を味わった。カウンターテーブルの上に乗った皿がすべて綺麗になった頃、秀一は珈琲を一口飲んだ後になまえに話しかける。
 そして、なまえと秀一は、今後も二人で共にいるために、三点の約束を交わした。
 一、今まで通り名前は昴で呼ぶこと。赤井秀一の名前は口にしない。
 二、秀一は本当の姿をなまえの前に晒さない。変装したままで接すること。
 三、互いに所属する組織や機関の情報は明かさないこと。
 なまえと赤井が一緒にいることを公にしないためには、彼を秀一と呼ぶことも変装を解くこともできなかった。誰がいつどこで見てるかわからないし、『二人が出会ってしまった』という事実をつくってはならないからだ。
「オメルタは情報漏洩を食い止めるためのものだ。つまり、なまえはなにも話さなければいい。知って損な情報はないだろうが、俺の狩るべき相手は別にいるんでね」
「それは……」
 確かに秀一の言う通りだった。情報漏洩しなければ、例え相容れない立場にいても共にいることは問題がない。言葉遊びの延長線上に設けられた約束は、まるでハリボテのようなものだった。
「いつかは、バレちゃうかも」
「そうしたらまた考えればいい」
「考えられなかったら?」
「その時はその時さ。それまでは、これまでのように、いや、これまで以上に一緒にいられるんだから」
「……そう、だね」
 まるで今後のことについて考えることを放棄しているような物言いにも取れるが、そうではないのだということは、なまえにしっかりと伝わっていた。
 いつかはしなければならない心配だったが、それを今する必要はないのだと秀一は言いたいのだろう。
「ただ……」
 首元も隠さず、さらに変声機すらつけていない喉仏がゆっくりと動いた。
「なまえの目の前に、本来の姿で出られないこと、なまえが俺の本当の名前を呼んでくれないことだけは、どうも寂しいな――」

   *

――寂しいのは、私だって……。
 本当は『秀一さん』と呼びたいのに。これから一緒にいる時は、常にこの葛藤を抱えなければならないのかな。
 結んだ約束は、一緒にいるために二人で選び考えた道だ。後悔はしていない。これが最善の策なのだから、受け入れなければならない。
 ただ、二人きりの時、秀一は変声機を切るようになっていた。それが今、自分たちにできる最大限のありのままの姿だったから。顔と声のちぐはぐさには慣れたけれど、本当の姿でいる彼と一緒にいたいという思いは募るばかりである。
 そして、スキンシップも多くなった。手を繋いだり、寄り添ったり、時には抱きしめあったり。恋人同士には特別なことではない。それになまえの場合、ファミリーとそういったことをする機会も多かった。けれど、赤井と行うそれらはなまえにとって、確かに特別な人とする特別な行為だった。
「てっきり、実家には帰ると思っていたよ」
「……うん」
 なまえは一瞬息をするのを忘れてしまう。そして何事も無かったかのように頷いた。
 母に会いたくない、というわけではない。むしろ、秀一と今の関係になってからまず報告したいと思った相手が奈々だった。
 この気持ちに名前をつけるきっかけとなった母との会話は、なまえの背中を優しく押してくれるものだった。それに加えて今までなにも言わずに見守ってくれていたことも、同時に再確認することができた。定期的に連絡を入れて話をすることが、これまで様々な葛藤を抱きつつも自分を育ててくれた母を安心させることに繋がるのではないかと考えていた。
 しかし、年末年始は母も年越しの準備で忙しい。帰省しなくても、電話をするくらいならばと考えたが、なまえはすぐにその術を頭から消去した。
――“あの人”がいるかもしれない。
 彼とはあまり顔を合わせたくない。どんな顔をしたらいいのか、なにを話したらいいのかわからなくなってしまう。それは昔から、それこそ、“前世”のことを思い出してから一向に変わらない苦手意識にも似ている感覚だった。
 あの人――父、家光。綱吉が正式に十代目としてボンゴレで活躍するようになってから、帰ってくる頻度が増えていた。そのため、帰省した時にうっかり再会してしまう確率も上がっているのだ。
 なまえの家光への苦手意識は、綱吉よりも強かった。一見、なまえと家光の関係は、思春期の娘が父親に対する反応とも捉えられる。実際、ボンゴレの中でもそういった認識で現在まで二人の関係を位置づけている者は多い。しかし、一過性である思春期の反応となまえの家光への反応は異なるものだった。
「きっと、忙しいと思うから」
「…………」
 無意識のうちに、秀一と繋いでいる指先に力が入ってしまう。すぐに力を緩めたが、瞬時に指の間を割って絡んでいる太い指先が同じように力を込めた。
 驚いて隣を見上げると、秀一は進行方向に顔を向けていた。
「挨拶はまたの機会にしよう」
「え、は……? 挨拶って?」
 突然の展開に頭がついて行かずに足を止めてしまう。
 挨拶ってなに。誰に挨拶をするの? もしかして、父と母に? どうして?
 なまえの一歩先で足を止めていた秀一は振り返り笑みを浮かべた。
「もちろん、新年の挨拶だよ。娘さんにはお世話になっていると伝えなければ。……おや、なにを想像したのかな?」
「っ……!」
 両親への挨拶だと一瞬でも勘違いしてしまった自分を殴りたい。なまえは一気に頬が熱くなるのを感じた。なにを考えていたんだ私は。穴があれば入りたいし埋まりたい。
 秀一の顔を見ていられず、なまえは俯いた。
 賽銭箱に五円玉を投げ入れ、二礼二拍手一礼。一拍遅れて隣の大きな体が同じ動きをした。それがおかしくて笑いそうになってしまったのは、本人には秘密にしておく。
 参拝後、高齢の神主からお守りをそれぞれ購入し二人は境内を後にした。
「ね、せっかくだから、交換しません?」
「ん?」
「お守り」
 購入したばかりの空色のお守りを秀一に見せた。
「イタリアのね、古い習慣で……ストゥレンネっていうのがあるの」
 ストゥレンネとは、古代ローマ時代に行われていたプレゼント交換の習慣である。大晦日の夜に村の若者が民謡や詩を歌いながら街を歩き、市民たちからお菓子やプレゼントをもらうのだ。現在ではあまり見られなくなり、小さな田舎の村でのみ行われているそうだが、当時とは形が変わってきているようだ。
「新年にプレゼントをもらうと、幸多き年になるんだって」
「ホォー」
「だから、その……だめ、かな?」
 自分でも突拍子のないことだと分かっている。お守りを胸の前で握って恐る恐る秀一を見上げると、新緑のような双眸が光った。
「俺を今以上に、幸せにしてくれるのか?」
 ポケットに手を突っ込んだ秀一の声になまえの心臓は激しい音を立てる。指に紐部分を巻きつけて、握り拳から振り子のようにお守りを下げた。ゆらゆらと緋色の小さな袋が揺れる。
「イタリア語で新年の挨拶はなんて言うんだい?」
「Buon Anno」
「ヴォンナンノ……」
 秀一は口の中で復唱しながらお守りを下げている手をなまえに伸ばしてくる。胸元でお守りを握る両手を大きな手が包み込んだ。
「Buon Anno、なまえ」
「……! Buon Anno、昴さん!」
 挨拶を交わし、秀一の手には空色のお守り、なまえの手には緋色のお守りが握られていた。

 二人は静かな住宅街をゆったりと歩いていた。やはり人気のない帝丹神社を初詣の場所に選んで正解である。帰路に着くまでの間、二人は知人にまったく出会っていなかった。
 このような時に出会う確率の高い、小さな名探偵たちに出会ってしまったら最後、事件に巻き込まれてしまうのがオチである。正月早々に殺人事件には遭遇したくないし、現場に長時間拘束されてしまうのも避けたかった。
――いや、待って。最後の最後まで油断しちゃだめだ。
 進行方向を見据えると右手側に大きな屋敷がそびえ立っている。工藤邸はもう目と鼻の先だった。しかし、気を抜いてはならない。修学旅行だって家に帰るまでだと耳にタコができるまで聞かされたのだ。まだなにかが、それこそ門扉や玄関を開けた瞬間に予期せぬ出来事が起こるかもしれない。それだけは回避しなければならない。
 なまえの両拳に力が入る。隣から秀一の視線が向けられている気配がする。しかしそれには気にもとめず、繋がれていない方の手は小さくガッツポーズを維持していた。
「ん……?」
「どうしたの昴さん?」
「門になにか貼られていないか?」
 秀一の言葉に目を凝らして工藤邸の門扉を見ると、彼の言うようになにかが貼られていた。
「まさか、正月早々面倒ごと……!?」
 なまえはぞっとして秀一から手を離し、貼り紙へ駆けて行く。
「えっと、“帰って来たら博士のところへ!”……?」
「なんだった?」
「昴さん、これ」
「ん、イタズラか?」
「でもこれ、哀ちゃんの字……ですよね?」
 小学一年生とは思えないバランスのとれた筆跡は哀のものだった。博士の字は少し癖が強く、哀とは反対に筆圧が強い。
 米花には事件がつきもので、さらにその事件の犯人を探り当てるには暗号を解かねばならない。しかし二人へと投げかけられた謎は良心的なものであったが、それゆえに真意は解読不可能なものだった。
「なにかあるならスマホに連絡くれればいいのに」
「まあ、とりあえず行ってみよう。行けばわかるさ」
 なまえと秀一は工藤邸に入らず、阿笠の家を訪れた。インターホンを鳴らして名乗ると「鍵は空いているから上がって」と哀の声がする。
 二人は顔を見合わせてから門扉を潜り、玄関を開けた。
「お邪魔しまーす……」
 玄関には靴が数足並んでいるだけで、哀と阿笠は奥のリビングにいるようだった。不思議に思っていると、秀一はさっさと靴を脱いでスリッパに履き替えている。そのあまりにも手馴れている動作に、なまえ少年探偵団を思い出してしまった。
 慌てて靴を脱ぎスリッパを引っ掛けて秀一を追いかける。
「哀ちゃん? 阿笠さん?」
 住人の名を呼びリビングへ顔を出すと、そこにはこの場には絶対にいないはずの人がいた。
「おっ、お母さんっ!?」
「あら! なまえちゃん、昴くんおかえりなさーい! そして、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
「ただいま……じゃなくて! どうしてお母さんがここに!?」
「だってなまえちゃん、お正月は毎年おしるこ食べてるでしょう?」
――答えになってない……!
 なぜこの米花に、並盛にいるはずの母がいるのだ。いったいどうやってここに来たのだろうか。
 見慣れたエプロンを身につけた奈々は、キッチンで鍋をかき混ぜていた。匂いから察するに、汁粉を作ったのだ。哀と阿笠はソファで寛ぎながらお椀を傾けている。
「つっくんがね、なまえちゃんは今年イタリアに行かないって言うし、それにお父さんが帰ってくるのは明日だし、もちろんつっくん達はイタリアに行っちゃったんだけどね。ビアンキちゃんやイーピンちゃんは並盛に残るって言ってくれたり、山本さんが竹寿司にでもって誘ってくれたんだけど、せっかくだからなまえちゃんに会いに行こうって思ったの!」
「でも、だからって……どうやってここまで……」
「ちょうどビアンキちゃんが米花デパートの福袋を買いに行こうかなって話しててね。車出してくれたの。今頃イーピンちゃんとデパートで戦ってる頃よ。
 それにしても、久しぶりに会えて嬉しいわぁ」
 鍋から美味しそうな匂いとともに、ほわほわな笑顔で言われてしまえばなにも返せなくなってしまう。
 元旦の日には母特製の汁粉を食べる。沢田家で正月恒例となっている行事だった。
 奈々と綱吉となまえの三人だった頃は、一般的な鍋のサイズで汁粉は作られていた。しかしリボーンが来てから居候もどんどん増えていき、正月の挨拶だと隼人や武が来訪してきたりして、いつの間にか鍋のサイズは小学校の家庭科室にありそうな大きな金色の鍋を二つになった。毎年のように奈々は丹精込めて汁粉を作っていたのだ。
 なまえは奈々に教わって汁粉を作っていたことも多々ある。けれど、自分一人で作ってみると母が作り上げる汁粉の味はしなかった。なにかが違うと何度も母の作り方を研究し、何度も挑戦してみても、結果は変わらなかった。
 居候の誰しもが「ママンのお汁粉を食べなければ新しい年は迎えられない」と考えている。それはなまえも同様だった。今年はイタリアにも行かず実家にも帰らないと決め、心のどこかで奈々の汁粉を食べられないことを悔やんでいたのも事実だった。だから、衝撃は未だに残っているけれど、奈々が米花に来てこうして汁粉を振舞ってくれることが嬉しい。
――でも……。
「奈々さん、お久しぶりです。明けましておめでとうございます」
「昴くん、久しぶりね。明けましておめでとう。今年もなまえちゃんをよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「え、えっ? なんで? 二人とも……知り合い、だったの……?」
「んふふ、実はクリスマス前にね。ばったり会ってお茶したのよ」
「あの時は、ありがとうございました」
「そんな、こちらこそありがとう。とっても楽しかったわ」
――な、なんでこんなに仲良くなってるの……!?
 秀一と奈々はすでに顔見知りだった。いや、顔見知りというよりも知人、知人というよりも、友人と呼んだ方がぴったり来るような雰囲気が二人には漂っている。
「また機会があったら行きましょう?」
「ええ、ぜひ」
「……ええぇ」
 クリスマスの前に一緒にお茶をしたからといっても、ここまで和やかな仲になるものなのだろうか。嫉妬心はない。しかし、大切な人と大切な人が自分の知らぬ間に親睦を深めていた事実に、少しだけ疎外感を感じてしまっていた。
「なまえちゃんそんな顔しないの。大丈夫、なまえちゃんとの生活はどうですかっていうお話をしただけよ?」
「……そんな顔ってどんな顔?」
「ふふっ、自分だけ仲間外れにされたーって顔よ」
「しっ、してなっ……! してないよ!」
「ちょうどなまえさんのご両親に挨拶ができればって話していたところだったんです。それがこうして叶えられてよかった」
「あらあらそんな、もう話がそこまで飛躍していたのね……!」
「ちっ、違うから! 新年の挨拶だから! 昴さんもなんでそんな言い方するの!」
 くすくす笑う奈々と喉の奥を鳴らして笑う秀一に挟まれてしまえば、なまえには為す術もない。母と彼のことだから、きっとこちらの心情は筒抜けなのだとそこで気づき、なまえは熱くなる頬を隠すように俯いた。
 外に出ればしっかり者だと謳われるなまえも、奈々の前では一人の娘と早変わりしてしまう。そこに言葉巧みな秀一が加われば、なまえが一番可愛がられる立場にかることは自然な流れだった。
「沢田さん、お代わりもらってもいいかのぉ?」
「もちろんですよ阿笠さん。哀ちゃんはお代わりする?」
「……頂きます」
「はぁい。あっ、お椀持ってきてくれてありがとう。ちょっと待っててね」
――お母さんのママンパワーに哀ちゃんが照れてる……!
 いつにも増してニコニコしている阿笠と、クールビューティーのクールな面が引っ込んだ可愛らしい哀の様子に、目を丸くせずにはいられなかった。
「どうしてこんなに違和感なくお母さん馴染んでるの……!?」
 思わず手で両頬を挟むように触れれば、心からの“なまえの叫び”の完成である。
「さあ、僕らもいただきましょう」
「そうよ。二人ともはやく手洗いうがいしてきなさい」
 汁粉の匂いと母の声音がふわりと混ざり合った。

   *

 おやつの時間を過ぎた頃、阿笠宅でのちょっとした汁粉パーティーはお開きとなった。奈々は汁粉の他にも阿笠の家にあった食材でまとめて作り置きを調理してくれた。なまえは阿笠らとそれを半分ずつ分け合い、数回分の食事で母の味に頬を緩ませることができることになった。
 ビアンキとイーピンとは米花デパートで合流するという約束だったらしく、せっかくだからと秀一が車で送ると言い出した。奈々は断ったが、なまえの脳裏には『母が犯罪に巻き込まれてしまう可能性はゼロではない』という方程式が瞬時に浮かび、秀一の言葉に被せるように母の背中を押した。
 米花デパートへと到着し、ここでお別れかと思いきや「ちょっと待っててください」と秀一は返事を聞かずに車を出て行ってしまった。呆気にとられてしまったが、奈々がシートに背中を預けたままにこりとするのでなまえは同じように待つことにした。
「よかったわね、なまえちゃん」
「えっ?」
「とっても素敵な人と巡り会えたのね」
「っ!」
 奈々の言葉に息を呑む。彼女の言った人物が誰を指しているのかすぐに察しがついた。
「なまえちゃんが自分で決断してそう行動したんだもの。誰も悪いだなんて言わないわ。母さんも、とっても嬉しい」
「お母さん……」
 やはり母には叶わない。なにも言っていないのに、すべて伝わっているだなんて。言わなくても感じ取って、受け入れてくれる。昔からそうだった。
「仲良くね。楽しんで」
――いつか私も、お母さんのようになれるかな。
「……うん、ありがとう」
「でも定期的に連絡してくれないのは心配だわ」
「うっ……ごめんなさい。善処します」
「冗談よ、半分ね」
「半分って……あっ、帰ってきた」
 柔らかい奈々の笑い声に逃げるように車窓からデパートを眺める。すると、秀一が大股で戻ってくるのが見えた。片手には紙袋を下げている。
 なまえは視線で奈々を促し車外へ出た。
「すみません。お待たせしました」
「昴さん急に出て行っちゃってどうしたの?」
「なにか奈々さんにお礼ができればと思ってね。……これ、受け取ってください」
「あら、そんな……いいのに」
 秀一は奈々に紙袋を手渡した。袋には米花デパート内にあるマカロンの人気店のロゴマークが描かれている。
「古代ローマの慣習です。新年にプレゼントをもらうと幸多き年になる、と」
「っ! それって……」
 なまえの呟きに秀一は片目を瞑る。なまえの胸にじんわりとあたたかいものが広がっていった。
「あなたには、感謝してもしきれません」
「それは私もよ、昴くん」
 それは不思議な光景だった。まるで夢を見ている心地がした。出会うことも許されなかったはずなのに、今ではこうして秀一が母と笑い合っている。
 大切な人同士が同じ空間にいることが、こんなにも愛おしく思える日が来るなんて。綱吉たちと一緒にいた時とは同じようで違った感覚のそれを、自分はいつまで味わうことが出来るのだろう。
「今日は本当にありがとう。楽しかったわ。またね」
「またね、お母さん。気をつけてね」
「お元気で。また」
 奈々は二人に手を振ってデパートの中に消えていく。なまえは母の姿が見えなくなるまで手を振った。
 しばらくの間、なまえと秀一はなにも話さずに車にもたれていた。夕陽が夜空を連れてきて、吐く息は白さを増していく。
 先ほどまで胸の中はあたたかいもので満たされていたのに、今は穴が空いてしまったかのように虚しさで染められていく。
 帰宅を促す音楽が放送で流れた。
「帰ろうか」
「……うん」
 車に掛けていた体重を元に戻して車に乗ろうとする。けれどそれは叶わなかった。肩に腕を回されて厚い胸に引き寄せられる。
「さあ、帰ろう」
「うん」
 新たな年が、始まった。

18,07.27