迎え火に巻かれて


 銃口が心臓を狙っていた。それを向けているのは紛れもなく自分である。
 初めて拳銃を手にした時は、ずっしりとくる重さに目を丸くした。まるでその重さが命の重さのようで唾を飲み込んだことを覚えている。
 息を整えて狙いを定め、神経を人差し指に集中し、軽く指先を動かす。すると弾は発砲音を響かせて飛び出し、標的へと一直線に進んでいく。それは一瞬だ。瞬きを一つしている間に、弾は標的へ穴を開ける。
 これまで数え切れないほど、この人差し指に命運を託してきた。銃は片手で持てるものから組み立て式のライフルまで、多種多様に扱ってきた。それでも根本的に行う行為は変わらない。それが情報を与えられ引き金を引いた相手でも、つい最近まで笑いあっていたはずの相手でも――自分自身であっても。
「自殺は諦めろスコッチ」
 ああ、ライに自殺を止められるのはこれで何回目だろう。そして彼はNOCであることを明かし、この場から逃がしてやることくらい造作もないことだと笑うのだ。
 しかし、階段を駆け上がってくる足音にライが気を取られた隙に、引き金を引いた。胸ポケットに入れた携帯電話ごと心臓は撃ち抜かれる。
 ライは呆気にとられた後、すぐに携帯電話の存在に気づいた。そして階段を駆け上がってやってきたバーボンに、まるで自分が殺したとでも言ったような素振りをする。衝撃を受けているバーボンの顔を、俺は他人事のように眺めるしかなかった。
 そこでいつも意識が揺らぐ。ゆっくりと瞼をあげた。いつもあの場面を最後に目を覚ます。
 数回まばたきをすると次第に焦点が合ってくる。見慣れた天井を認めて、大きく息を吐いた。
 骸に救出されてマフィアの仲間入りになってから、だいぶ時間は経っていた。しかし、ピーターパン――以前のコードネームをスコッチ――は、今でも“自殺した”夢を見る。
 頻度は不定期だったが、幾度となく見た夢の内容をすっかり記憶してしまっていた。誰かに演じてみろと言われれば、表情から動作まで全て完璧にこなせてしまえそうである。
「……いつまで見るんだ、いったい」
 ぐっしょりと汗をかいて額に張りついてしまった前髪をかきあげ、ピーターパンはベッドから起き上がった。
 夢に魘されたわけでもなく、悪夢と呼ぶには雰囲気が違うそれを見た後、再び眠りにつくことは出来なかった。汗をかいて喉も乾いており、寝巻きを取りかえて水を飲んだ頃には、頭が冴えてしまっていた。
「贖罪なのか」
 本来、自分が進むべき未来、運命とでも言い表せるものは、夢に見るあの光景だったのではないだろうか。いや、きっとそうに違いない。だって、今の自分の状況の方が可笑しいのだから。
 ピーターパンは毎度のことながら、ベッドに脱いだ寝巻きを放って、適当にTシャツを着込む。
 寝室を後にして、階段を降りてキッチンへと進んだ。間違っても夢の中の幼馴染のようにバタバタと足音を立てないよう細心の注意を払いながら、少し大股で歩く。
 喉が渇いて仕方がなかった。口を開けて寝ていたのか、汗をかいたからか、それともあの夢を見たからか。いずれにせよ、身体は潤いを欲していた。はやくなにか飲まないといけない。突き動かされるようにピーターパンの足は動く。脳がリビングへ急げと全身に指令を出していた。
 しんと静まり返った廊下に、自分の心拍だけが響いている。寝室を出る前に時刻を確認すると深夜の二時過ぎだった。
 キッチンに行くにはリビングを横切る必要がある。キッチンからは料理をしながらリビングを見渡せる設計になっている。食事は基本、六人ほどまで座れる大きなテーブルを活用するが、テレビを近くで見たいと言って犬がリビングのソファに座って食べることもしばしばである。
「ん……?」
 小さな物音が聞こえた。必要はないだろうが念の為気配を消してリビングを覗く。室内は真っ暗だったが、テレビだけが光を放っていた。テレビが一番よく見える、それこそ犬の特等席であるソファに座る、華奢な後ろ姿が目に入る。
――クローム?
 こんな夜更けにテレビを見ているのは千種くらいだと思っていた。けれどピーターパンの予想は外れ、リビングにいたのはクローム髑髏である。
 ピーターパンはつめていた息をゆっくりと吐いてリビングに足を踏み入れた。クロームに話しかけようとも考えたが、それよりも先に本来の目的である喉を潤すために爪先をキッチンに向ける。
 冷蔵庫からビール瓶を取り出してリビングを振り向くと、流れている映像は昔話題になった映画だった。確かあの作品は、警察学校に入る前に流行ったものだ。
 主演女優はデビュー当時から美少女だと話題になり、容姿のみならず演技力でも注目され、有名監督の映画に主演として起用されたことが彼女の名をさらに広めた。
 彼女が出演した映画は必ずヒットする。それは一般人の間でまことしやかに囁かれていた。役によって全く違う人間に見えてしまうほど、彼女の演技力は素晴らしかった。それ故に、主演女優賞等、幾度が受賞している。
 また、彼女は一般人男性と結婚したことでも話題となった記憶がある。結婚を発表した時は周囲の男らで悔しがった思い出がある。自分と結婚できるわけでもないのに、もしかしたら彼女と巡り会いお近づきになれるかもと可能性を抱いていた馬鹿な脳みそに呆れてしまう。しかし、まさか人気絶頂期にあったのにも関わらずそこで結婚の道を選んだ彼女に、世間は衝撃と興奮で沸き立った。彼女は数年演劇の現場から遠のき、妊娠と出産、子育てを経て再び映画の世界に戻ってきたのだ。
「目、悪くなるぞ」
 小言を呟きながらクロームの斜め向かいに座った。首を動かせばクロームの表情もテレビの様子も確認できる位置だ。
 瓶の蓋を開けてやり、クロームの前に置く。
「呑まないか?」
「……うん」
 ケーブルテレビの映画専門チャンネルのロゴが右上にうっすらと映っている。クロームの返事は、小さくしている音量よりも聞こえにくかった。
「懐かしいな……俺くらいの歳の男はみんな、この女優に首ったけだったよ」
 首ったけだなんて表現の仕方、古いか。
 失笑していると、暗がりのなか視界に白いものが浮かんだ。それはゆっくりとビール瓶に手を伸ばすクロームの腕だった。
 ちびちび食べたり飲んだりするクロームが、綺麗な喉を三回大きく動かしてビールを飲んでいる。
――こんな飲み方もするのか。
 瓶口から離れた唇から小さく息が漏れた。年齢に似つかぬミステリアスな雰囲気に色がつく。普段目にする骸のような髪型ではなく、全て髪を下ろしているためか、余計にクロームらしからぬ誰かに見えて仕方がなかった。
――そういや、変な噂もあったな。
 ピーターパンは彼女を特別追いかけてはいなかった。しかし、時の人であるかの女優の噂話は真実であれガセであれ、たちまちお茶の間を騒がせていた。
 六、七年ほど前の話である。その女優と一般人男性との間に生まれた一人娘が、交通事故に遭い死亡したとの話が唐突に浮き出てきたのだ。しかも、その一人娘は家族からの臓器提供があれば助かったかもしれないと。突然一人娘が行方不明になったという噂もあった。
 クロームはテレビを眺めている。映像の光が、白すぎる彼女の頬を照らしていた。その横顔が、映画の中の彼女とリンクする。
――もしかして……。
 ピーターパンは脳内で浮上した疑問にすぐ頭を振ることで掻き消した。
 そんなこと、あるはずがない。今や名の知れた女優とクロームが血縁関係にあるだなんて。
 ピーターパンはクロームに負けず劣らずビール瓶を傾けた。
 一部の人間からは『黒曜』と呼ばれている骸一味。それは以前、黒曜町という場所に拠点を置いていたかららしいが、世話になっているボンゴレファミリーの人間とは少し違った働きをしていることに、ピーターパンは気づいていた。そして、骸たちが過去に壮絶な体験をしてきたということも。
「死んだこと、ある?」
「ん……? なんだって?」
「私はある。何回か。死んだこと……死にそうになったこと」
 人体実験に脱獄、幻覚や残虐的な行為、敵対ファミリーとの闘い――。以前の生活であったとしても、そんな過去を持つ人間にはそうそうお目にかかれるものではない。なぜなら、そういった経験をしてきた人間は世界中どこを探しても極一部であり、巡り会う確率もその分、過小なものであるからだ。
「でも、救われてきた。骸様やボスや、みんなに」
 ピーターパンは彼らの過去を断片的にしか聞いていない。それでも今の生活にあまり支障はないし、必要に応じて幻覚等の説明はされてきた。過去が直接、現在の生活にすべて関わっていることではないとピーターパンはこれまでの経験で知っている。しかし、多かれ少なかれ過去に体験したことには、否が応でも影響されてしまうのだ。
 自分よりも年下、まだ青年に足を踏み入れたばかりの、つい最近まで少年や少女と言われていたような括りにいる骸たち。それなのに、大人でさえ耐えられないような経験をしてきた。
 ピーターパンは既に、彼らの世話になり、彼らの年相応な反応や不器用な優しさ持っていることを知っている。だからこそ、力になれないことに歯がゆさを感じていた。
「本当に死んだと思ったのは、もっとずっと前のことかもしれない。――独りだって、気づいたとき」
 映画はクライマックスに突入していた。母親役を演じる女優と、子ども役が抱き合う感動の再会シーンだ。
 クロームの美しいアメジストのような左眼に、映像が映し出される。
「ずっと……ほしかった。あんな風に……見てくれるだけで、救われたのに」
 うわ言のように呟かれたその声に心臓が鷲掴みにされた。
 きっとこれが彼女の願いなのだろう。もう叶いもしない。だからこそ、心の奥深くに仕舞っておいて普段はまったくそのような素振りを見せない。しかし、こうして映画を見ているということは――。
 ピーターパンは静かに息を吸う。
「俺は――俺はここ最近、夢で死んでるよ。自殺するんだ」
「……いたい?」
 舌っ足らずに告げられた言葉は鋭利な刃物のようにピーターパンの心に傷をつけた。
「それがさ、まったく痛くないんだよ。一瞬なんだ。銃で……バンッて。胸を撃ち抜く。それだけ。なのに、俺は“死んだ”のに、意識を保ってその後の様子を見てる」
「へんなの」
「まったく、その通りだよ」
 クロームの顔に笑みが浮かぶ。触れれば壊れてしまいそうな危うさを乗っけていた表情から笑顔を引き出せたことに、ピーターパンは表には出さなかったが喜びを感じていた。
「幼馴染がさ、ショックを受けてるんだ。怒りや悲しみや、いろんな感情を抱えているようで。それなのに、俺は涼しい顔してそれを見下ろしてる。アイツをそうさせたのは、他でもない、俺なのに」
「悲しい?」
「……さあ、どうだろう。よくわからないな。ああ、でも――」
 これだけは言えるだろう。
「――もう一度……“名前”を呼んでほしかった、かな」
 ピーターパンはビールを煽った。
 人は声から忘れていくといっていたのは、どこの誰だっただろうか。それなのに、死者は息を引き取っても聴覚が残っているという。
「名前?」
「そう、名前。本名ってやつ」
「ふうん」
 自分から訊きながら興味ないような返事をして、残り少ないビールを飲み干す様子に苦笑してしまった。
「……私も、呼んでほしかったのかも」
 形の良い唇が少しだけ笑う。
 映画はエンディングを迎えている。灯篭流しの場面だった。灯篭に火を灯し川へと流した女優は、涙を流しながら笑っていた。
――やっぱり、クロームの母親は……。
「じゃあ、俺が呼んであげようか?」
 なにを言っているんだ。
 言葉が出てきた後にピーターパンは後悔する。勝手に口走っていた。
「その代わりに、俺の“名前”も呼んでくれるかい?」
「……ピーターの、名前?」
「ああ。俺の名は、ヒ――」
 パチンっと突然視界が明るくなった。
 ゼロから百の世界へと彩度が変わり、適応できずに目を細めてしばたかせる。
 電気をつけた張本人は、わざとらしく足音を鳴らして歩み寄ってくる。救い出してくれた日といい、今といい、派手な登場だ。
 ピーターパンは彼に気づかれないよう溜息をついた。
「夜更かしですか」
「骸様……!」
「なんだ、骸も起きたのか」
「これだけうるさければ目が覚めますよ」
 なにが“これだけうるさければ”だ。テレビの音量は最小限に聞こえる程度、会話だって秘密の話をするかのような声量でしていたというのに。それが聞こえるだなんてどんな地獄耳なんだ。
 しかしクロームはこの矛盾に気づいていないようだ。
「すみません骸様、私……」
 片手で顔を覆いながら立ち上がろうとするクロームを骸は手で制した。
「さあ、もう寝なさい」
 骸がクロームの両目を瞑るよう片手をかざすと、たちまち力をなくしたようにクロームの身体が傾いた。まるで魔法かなにかを使ったような光景だったが、骸が来る前からクロームも限界が近かった。普段しないような飲み方をしたのが大きく影響したのだろう。
 ピーターパンは受け止めようと咄嗟に立ち上がったが、骸がクロームを抱きとめる。暫くして寝息が聞こえ、胸を撫で下ろして再びソファに座った。
「お前も早く眠りなさい」
「あ、ああ……悪かったな。クロームを付き合わせちゃって」
「……まあ、たまには思い出にふけることも必要なんじゃないですか」
 それは“六道骸”らしからぬ発言だった。骸ならこんなことは言わないはずだ。それとも俺は、未だ出会っていなかった骸の一面と、いま対峙しているのだろうか。
「お前も……骸も、思い出にふけることはあるのか?」
「…………」
 ピタリと、ほんの一瞬だけ、骸が動きを止めた。まばたきをしている間くらいのその一瞬が、なぜだか一分ほどの長さに体感できてしまった。あまり飲んだ覚えはないが、酒が回っているのだろうか。
「……そうだ。いいことを教えてあげましょう」
 骸はクロームを軽々と抱き上げて振り返った。恐ろしいほど綺麗な笑みだった。
「諸説ありますが、夢占いにおいて自分が死ぬ夢は、幸運が訪れることを暗示しているんですよ。目標や願いが現実のものとなる吉夢です。良かったですね」
 息をするのを忘れてしまった。
 なぜ、なぜお前がそれを知っているんだ。
「っ……お前、どこから……」
「――さあ?」
 楽しそうに笑みを深める姿は余計に頭を混乱させた。それじゃあ、最初からあの夢を見ていることを知っていたというのか。しかし夢の話をしたのは今夜のクロームとの会話が初めてだ。そうだというのならば、骸は最初からクロームとの会話を聞いて……?
「ちょ、おい、待て! 骸! まだ話は――」
「Shh……Buona notte, sogni d'oro」
 唇の前に人差し指を置いて囁く骸は美術品のように見えた。おまけに彼の声が耳の奥でチョコレートのように溶けていく。
 胃がキュッと縮まった気がした。喉の奥でビールの味が蘇る。
 俺はまた、潤いを欲していた。

18,08.13