左腕を捧げる


 人生において、いついかなる時も音楽というものは様々な場面でつきまとう。五感のうちの一つである聴覚と密接に関わる音は、生活を送るうえで非常に重要な役割を果たしている。ある時は音に導かれ、時に学び、楽しんだりする反面、騒々しさに眉をひそめ、不吉で不快な音に苦しんだりする。そしてまた、音に救われることもある。
 音楽と戦争は切っても切れない関係だと隼人は考えている。戦時中、武器になる金物等が軍に押収されたのは、日本のみならず世界各国で見られた光景だった。そこにある事が当たり前だった物が消えていき、傍にいて触れられることが唯一の救いだった愛する人が戦地に送られた。それだけではなく、人々は生まれ育った国、肌や瞳の色、血の違いについて、負の感情を社会的に植え付けられる。そうやって人間は、他者を思いやり慈しむ心を、すり減らせていったのだ。
 そのような心を思い出させる一つの要因が、音楽だったといえるだろう。以前の生活とは一変して命の危機にさらされるという極限の精神状態の中で、以前と変わらず存在する音楽に触れることは人々に安らぎを与えたのだろう。音楽とともに想起される懐かしい記憶に思いを馳せ、生きる喜びを全身で感じたのかもしれない。
 隼人は特別、戦争学や軍事学、歴史について細やかに学んではいない。あくまで教養として身につけた程度である。
 学ぶことは嫌いではなかった。特に未確認生物等、未だ解明されていない謎を追い求めるには、様々な知識を得た上での発想が必要となっている。現在の文明は、先人の歩みによって成り立っており、その先人の歩みを現代の人々は書籍や映像、実話を元にした作品で学ぶとができる。
 ピアノを弾く度に思い浮かべることは二つ。
 一つは、隼人が戦争と音楽の関連を学ぶきっかけとなった、とある映画のこと。戦場と化した場所でもピアニストであり続ける、実在した男の話である。それは中学生か高校生の頃、なまえがお気に入りだと言っていたのを耳にして、その足でレンタルショップに駆け込みDVDを借り自宅で鑑賞した。いま振り返れば、なまえが観ているのなら自分も観るべきだという考えと、一生ついていくと決めた十代目ボス綱吉の姉という存在にも関わらず、掴みどころのなかった彼女を理解したい一心での行動だったのかもしれない。
 その映画を観終わった後、ふと頭に浮かんだのは、母のことだった。
 駆け出しのピアニストであった母ラヴィーナは、マフィアのボスであった父に見初められて結婚した。しかし父には既に正妻、そして娘のビアンキがおり、ラヴィーナは愛人という立場にあった。そのことがあってか、交通事故に見せかけ謀殺されたと囁かれていた。後にそれは誤りであり、ラヴィーナは大病を患っており病死であることが判明する。長くは生きられないことを悟っていたラヴィーナは、隼人ら家族から自ら距離を置いていたらしい。母が亡くなったのは、三歳の時。綺麗なピアノ曲を弾く、やさしくて美しい人だった。
『――ピアノはね、右手と左手、そして心で弾くものよ』
 鍵盤の上で上手く指を運べなかったときだっただろうか。苦戦している自分に母が掛けてくれたそれは、後の人生において魔法の言葉となる。
 かすかに覚えている母の声は、ピアノに触れるたび、奏でられる音色の上に乗る。記憶に残っているだけの軽くて飛んでいってしまいそうな声音は、ピアノの音と調和されて隼人にしかできないハーモニーを作り上げた。
 心を置き去りにしてはならない。知識と技術ばかり追い求めてしまう隼人は、特にそこに失念してしまう節があった。
 母の言葉を胸に抱いていたはずなのに、目先のことに捕われて思い出すことさえ忘れてしまったことがあった。けれど、思い出してくれる存在が現れる。それが綱吉であり、彼の姉であるなまえだった。
 戦時下における音楽がそうであったように、俺にとってのなまえはそういう存在だ。
 彼女との仲が深まったのは、きっと母のおかげだと隼人は考えている。聡明な彼女との接点など、綱吉を介さない限り無いのだと思っていた。しかし転機は訪れる。なまえがピアノを弾くと知ったことが発端となり、二人で話すようになったのだ。ピアニストの話をしたり、楽譜を探してやったりもしたが、一番多かったのが弾き方を教えてやることだった。
 なまえはピアノを習った経験はなく、独学だった。趣味の範囲内で弾いていると本人は話していたが、それでもなまえの演奏は胸を高鳴らせる。拙いから恥ずかしいと目を伏せつつも渋々聴かせてくれた彼女のピアノには心がこもっていた。一つひとつの音符には意味があり、全てが曲を構成するために必要な存在であるということを理解した上での弾き方は、リズムが危うかったり粒が揃っていなくても、惹き込まれてしまう魅力がある。ピアノに向かうなまえの姿勢は、まるで彼女が他者とコミュニケーションを取る上で気をつけていることを現しているようだった。
 なまえの周りにピアノに詳しい人間は、隼人を除けばビアンキくらいだった。料理の腕は攻撃にもなるため価値を付け難いものだが、ピアノの腕は十二分にある。ビアンキは、作者の意図を正確に見抜き、それを再現できるほどだ。
 だから、ビアンキにも教えを乞うているのかとなまえに訊いたことがある。趣味だといいながらも真摯に音楽に向き合うなまえのことだから、きっと身近にいる経験者には手当り次第に教えて貰っているのかと思っていた。彼女は定めた目標に対して、達成するならば手段を選ばず突き進みそうだったから。
 しかし、なまえの返答は意外なものだった。
『私のピアノの先生は、獄寺くんだけだよ』
 さらに、彼女はビアンキにあまりピアノを聞かせたことがないと続けた。その返事を聞いた瞬間、体に電流が流れたような衝撃を受けた。
――自分だけ。俺だけが、ピアノを弾くなまえと繋がれている。
 なまえのピアノの魅力は自分にしか説明できないだろう。それがたまらないほど嬉しかった。
 その時から、俺だからわかる、俺しか知らないなまえがそこにいる。

 なまえと交際するようになったきっかけは、思い出そうとしてもよくわからなかった。互いにふとした瞬間に目が合うようになり、二人でピアノを弾いたり食事をしたりする時間が増えた。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど、互いの距離は近くなっていく。近くなったら最後、唇が触れていた。どちらが先に動いたかわからない。次第に求め合うのも受け止めるのも、どちらからなのかわからないほど深く、同じ夜に身を委ねた。
 この展開は魔が差したと言うべきだったのか、それとも運命だとでも飾るべきだったのか、未だに答えは出ない。立場も境遇もなにもかも脱ぎ捨てて、まっさらな状態で互いの熱だけ感じたその夜は、脳みそが馬鹿になったようだった。翌朝になって、自分の行いに首が絞まるような思いをしていると、隣で目を覚ましたなまえは肩を震わせて笑っていた。
『“悪いこと”しちゃったみたいだね』
 弟をからかうとはまた別の笑みを浮かべて彼女は言った。古い洋画に出てくるヒロインのように、天真爛漫に振る舞いつつ、大人の色に染まった指先を覗かせていた。
 ここにも、俺しか知らないなまえが生まれた。
 それからというもの、名前がつくようでつかないなまえとの関係が続いた。彼女と夜をともにすることが追加されただけで、それ以外、過ごし方は変わっていない。ただ互いの密度が増したことに、周囲はすぐに気づく。そして、外堀を埋められるように隼人となまえの間には恋人という名称がついた。
『私と隼人、“恋人”さんだって』
 度々そうやってなまえは楽しそうに笑った。肯定も否定もしないなまえに隼人はほんの少しだけ唇を尖らせる。
――そもそもなまえは本当に俺のことを好いてくれてるのか?
 告白などなかった。胸の内をさらけ出したこともなかった。自分たちを例えるのなら、ぬるま湯にずっと浸かっているような関係だ。
 言葉にしようとしたことはある。隼人はタイミングを見計らっては胸中をなまえに伝えようと努力した。
 愛していると。この命に変えても守りたいんだと。
 しかしその度になまえは空気を読んでかまったく違う話題を振ってきたり、唇を塞さがれたりした。超直感はこんな時にも使えるものなのか。溜息をつきそうになったのは両の手指を超える。
 だから隼人は未だになまえへ気持ちを伝えられていない。しかし、なまえがそれを嫌がるのなら無理はできなかった。隼人も彼女の弟や守護者たちと同じく、なまえに甘かった。
 なまえが悲しまなければいい。それでいて、俺しか知らないなまえがいればいい。
 そうして過ごしてきたはずなのに、その誓いは徐々に隼人の心を不安と焦燥感で蝕んでいった。
――昔から俺がしつこくしていたから、なまえは慈悲で付き合ってくれてるんじゃないか?
 好きでもないのに付き合っていて、いずれそれがバレて俺が立ち直れないほど傷つくのは目に見えてるはずだ。優しい嘘はつく人だけど、そこまであの人は馬鹿じゃない。
 だから違うだろう。違ってほしい。これまで一緒にいて、不満は言われたことだってない。体の相性だって悪くないはずだ。
――いや待て。女ってのは気持ちよくなくても演技するって聞いたことがあるぞ。
 仕事の一環で訪れた酒場で、隣のテーブルに着いていた女達がそんなことを言っていたのを思い出す。
――もしなまえがそうだったら……。
 いやいや、落ち着け。隼人は頭を振った。不穏な疑いを吹き飛ばしてこれまでなまえと過ごした夜の記憶を辿る。
 勢いでしたことはない。なまえが恥ずかしがったり嫌がったりする様子を見ると熱くなってしまうが、無理はさせたことがない……はずだ。たぶん。それに、拒まれたこともない。それどころか、ついこの間は、他の奴らに対して話すようにしてくれとお願いされたくらいだ。最初は何を言われているのかわからず首を傾げてしまったが、つまり敬語をやめてくれと言われた。そんなことできるはずもない、恐れ多いと普段だったら返すところだったが、なまえの熱をもっと感じたいという煩悩に促され実践してみたら、酷く反応が良くなった。なぜかは分からないが。
 だがそれはあくまで夜のこと。普段はボスの右腕という立場もあって、一緒にいられる時間は少ない。なるべく顔を見に行ったり声を聴いたりしようと心がけてはいるが、連絡できないこともある。
 隼人はプライベート用の携帯を取り出してなまえとのトーク画面を起動させる。最後に連絡したのは五日前だった。けれど時間が合わずになまえとはかれこれ二週間もゆったりとした時間を過ごせていない。
 それ以前はどうだったか。軽い気持ちに突き動かされ、親指で画面をスクロールした。なまえからのメッセージ履歴を眺めているだけで頬は自然と緩んでしまう。文章は脳内でなまえの声に再生され、疲弊した心を癒していった。
 しばらくの間、隼人はズルズルと画面上で親指を動かし、なまえとのこれまでのやりとりを振り返った。右上に小さく表示されている時刻は零時をとうに超している。寝不足が明日の仕事に響くとわかっていても、これは充電であり心の栄養だと言い聞かせてなまえの言葉を読み続けた。
「ア゛?」 
 突然ふと湧き出てきた可能性に、喉に張り付いたような声が漏れた。隼人の親指がピタリ止まる。思考が現実に引き戻された瞬間だった。
――いいやまさか。そんなことは無いだろ。
 隼人は即座にそれを否定する。そうであって欲しくないからだ。
 仮説を検証するがごとく、隼人はこれまでとは逆方向に親指を動かした。古いものから新しいものへ、月日を追うようにメッセージに目を走らせる。なまえとのアプリ越しの会話を遡っていた倍以上のスピードで全てを見返した。
 あまり時間はかからずに、もうこれ以上メッセージが更新されないところで画面は止まる。最新のやりとりは五日前。映し出されているのは、なまえとのトーク画面を開いてまず目に入る会話だった。
「……嘘だろ」
 端末のカバーが小さくミシリと音を立てる。それは隼人の胸の中で鳴ったものとにていた。
 なまえから連絡が来たことは、これまで一度もなかったのだった。

   *

 ボンゴレファミリーは歴史のある、格式高いマフィアである。生まれは自警団だが、ボスが入れ替わり立ち代る中で組織としての色も時代とともに変化を遂げた。現代は、これまでのボンゴレとしてのやり方を一新するという決意を持った十代目ボス沢田綱吉の元、日々様々な場所でファミリーは奮闘している。
 昼夜問わない仕事の他、お祭り好きなボンゴレファミリーは何かと理由をつけて行事を企画し実施していた。伝統という名の元に強制的に参加するしかないそれらは、最終的に血気盛んな者らの集まりであることを主張するように怪我人続出の嵐を辿る。ファミリーの中には、表の世界では生きていけないような者も多い。裏社会に君臨するボンゴレは、そういった――主に戦闘狂と呼ばれる――人々にとっても実力を十分に発揮できる居場所となっていた。
 しかし、とある行事のみボンゴレファミリーは粛々と執り行う。それは、ボンゴレファミリーが結成されたと伝えられている記念の日であった。
 記念の儀式を執り行い、その後現役のボスが誓を立てる。たったそれだけのことであるが、集ったファミリーの間に流れている空気は重々しく神聖なものだった。
 正午に実施された儀式が終われば、再びボンゴレはお祭り好きな顔を出す。本日限りは無礼講と言わんばかりに昼間から酒を飲み交わし、屍のように夜を明かすのだ。
 それは日々、人一倍尽力しているボスや守護者達も同じだった。今日この日だけは、書類の山も任務も忘れて浴びるように酒を飲んでも許される。
「おい獄寺、その辺にしとけよ」 
「うっせ野球バカ。どんだけ飲もうと俺の勝手だろ」
 隣に座る武の忠告を酒とともに喉に流し込んだ。この場に置かれている酒は全て年代ものである。隼人はその味を楽しむどころか水を飲むようにグラスを傾けていた。隣から呆れた溜息が聞こえてくる。
「んだよ、文句あっかよ」
「別に。酒が勿体ねえなと思っただけだ」
 勿体ないもなにも、身体の中に入ってしまえば分解される道筋は同じである。どんな飲み方をしていようと、暴れている連中とは違い他者に迷惑をかけていないのだから関係ないだろう。
 返事をすることさえ億劫になった隼人はグラスを口から離した拍子に武を睨みつけた。「怖くねーぞ」からかうような声がさらに隼人を苛立たせる。
「最近いつにも増してトゲトゲしてんな。なんかあったか?」
「てめぇに関係ね――」
「あるんだよ。お前がそうしてっと仕事に支障が出る」
「ハァ?」
 グラスにとぷとぷと酒を注いでいた手を止める。続きを話せと促すように見上げると、武は大袈裟に肩を落とした。
「気づいてねーのか? お前がそんな様子だと、獄寺への方向がおっかねえってんでお前への報告が俺に来るんだよ。まあ俺もお前に連絡することがあっから別に構わないけどな。部下がみんな噂してっぞ。あの機嫌は絶対プライベートで何かあったんだ……ってな」
「っ」
「ッと! 危ねー」
 指先がグラスを掠め、危うくテーブルに倒れそうになった。武がすかさず手を伸ばして事なきを得たものの、テーブルクロスと彼の右手はアルコールに染まる。
「ナイスキャッチ、だな」
 自画自賛しながらお手拭きでテキパキと濡れた部分を拭き取る武に、隼人は苦虫を噛み潰したような顔をした。 
「大方、当たりってとこかな。最近機嫌悪い理由、なまえさんのことだろ?」
「なっ……」  
「何年お前の近くにいると思ってんだ? 獄寺は自分の機嫌くらい自分でコントロールできる男だ。そんなヤツがここまで調子悪そうにするのは、なまえさんのことくらいしかないだろう。そのくらい俺だってわかる。だってツナのことで悩んでんだったら、とっくにツナの方が気づいて今頃獄寺は元通りになってるぜ」
 武の推測に隼人は言葉を失った。ここまで筒抜けになっているとは思ってもみなかった。中学時代、黒曜やヴァリアーとの闘いをマフィアごっこだと話していた野球バカに言い当てられてしまうだなんて。
 隼人は唇を噛んだ。武の言葉を皮切りに、抑えていた不安が再び心を蝕んでいく。
 これまでなまえから連絡をもらったことが一度もないことに気づいてから、隼人は抜け殻にでもなったような気分だった。
 愛想を尽かされているのではないか。俺との関係はただの遊びだったのではないか。肯定も否定もせずにずるずる心地よい関係に陥っていったのは、そういうことだったからなのではないか。
 不安に覆われた思考は都合よく悲劇のストーリーを仕立てあげようとする。本当はそうではないと心の奥底で否定しているのに、冷静に考えれば自分勝手な考えだとわかるのに、それでも隼人は不安を断ち切れなかった。
 ならばいっそ、本人に確かめれば良い。その方が手っ取り早い。
 何度も結論を出し行動に移そうとしたが、ボンゴレファミリー結成の記念式典は目前であり、普段の仕事に加えそれの準備や運営をしなければならなかった。望んで得たボスの右腕という立場を、この時ほど恨んだことは無かった。
 結局、月日はあっという間に過ぎていき、今日までなまえと話すどころか会うことすら叶わなかったのだ。
 ぽつりぽつりと呂律が回らなくなるのを感じながら、隼人は掻い摘んで現状を吐き出した。こんな時じゃなければ弱音など、特にこの男には吐かないだろう。隼人は持ち前のプライドの高さと、右腕という立場に就いても尚、武がライバルであるという認識が抜けていなかった。
 不甲斐ないにもほどがある。
 隼人は思い切り上を向き、グラスに残った酒を一気に飲み干した。そして、グラスを置くフリをして会場の様子を一瞥する。
 なまえはすぐに見つかった。心の底から愛しているんだ。広い会場内でもすぐに見つけられる。美しく着飾った姿は誰よりも輝いて見えて、彼女と話してもいないのに胸が高鳴った。
 これじゃまるで中高生と同じだ。映画やドラマで描かれているような恋愛を見る度にバカバカしいと思っていたのに、自分自身もそれに分類されている。
 別れたわけでもないのになまえが遠い存在に思えてきて仕方がなかった。
「恋してんだな、獄寺」
「ったりめーだ! 心底惚れてる!」
「ハハッ! いつにも増して素直だな。その表情見ればわかるよ」
 いつにも増して踏み込んでくる野球バカにむしゃくしゃする。腹いせのように武の目の前に置かれていた焼酎を分捕ろうと手を伸ばす。「これはやめとけ。焼酎呑めねえだろ」寸前のところで阻止された。 
「うっせえな。さっさと寄越せ野球バカ。俺だってそんくらい呑める」
「もう十分呑んだだろ? きっと獄寺が今怪我したら出血する代わりに酒がでてくるぜ」
「なにバカなこと言ってんだこのバカ」
「野球すら無くなっちまった」
 呑もうとした焼酎を没収される。仕方なく武によってグラスに注がれたものを一気に飲み干した。
「水じゃねえか!」
「獄寺もう水以外禁止な」
 空っぽになったグラスにほらほら飲め飲めと合いの手のように水が波なみ注がれる。隼人は律儀に水を飲み続けた。飲めるのならばこの際なんだっていい。もはや妥協だ。
「なあ獄寺、今日逃したらまた忙しくなんぞ」
「……わかってる」
「なまえさんと話すまでに、酔い覚ましておけよ」
「…………」 
「恋は一人でもできっけど、愛するって二人じゃないとできねーんだからさ」 
 野球バカのくせに、たまにはまともなこと言うじゃねえか。
 隼人は再び注がれた水を飲み干した。身体の中にすうっと冷たい水が通り抜けていく。頭の中でモヤモヤとしていたものがスっと晴れていく気がした。

 遠くでピアノの音が鳴っている。
 耳を澄まさなくてもわかる。俺はこの音を知っている。世界に一つだけの音だ。これは、なまえが奏でているピアノだ。
 月明かりが裏庭を照らしている。お祭り騒ぎもただの乱闘パーティーへと変化しかけた頃、隼人はそっと宴会場を抜け出して一度自室に戻り、裏庭へ足を運んだ。宴会場のバルコニーから直接ここへ来ることもできたが、宴会場を通れば絶対に巻き込まれると踏み、人気のない廊下を歩き裏庭まで出てきた。
 なぜこんな時間になまえのピアノが? 深く考えなくても、答えはすぐに導き出せた。宴会場の片隅にはグランドピアノが置かれている。大方、酔った誰かがなまえのピアノを聴きたいとゴネて仕方なく彼女が弾き始めたのだろう。
 なまえが奏でる曲は、以前に隼人が教えたものだった。その時に彼女が難しいと話していたリズムは、今ではどこなのか分からないほど完璧に弾きこなせている。練習を重ねに重ねた結果だ。
「――好きだ」
 転がした言葉はなまえのピアノの音と混ざりあって消えていく。隼人はジャケットのポケットに手を突っ込んだ。切り忘れていた爪がそれに当たり、小さく弾けるような音がした。この爪ではピアノは弾けないなと失笑してしまう。
 しばらくの間、ポケットの中でそれを指先で弄び、溜息をついて手を引っこ抜いた。もう片方のポケットから煙草とライターを取り出す。
 くゆらせた煙草はなまえの演奏に合わせて夜空に消えていく。自身の周りには煙たい空気がまとわりついている。しかし、隼人の頭の中も心も非常にクリアだった。
 空気に溶けていくように曲が終わる。まばらな拍手に便乗して、隼人も煙草を咥えたまま拍手を送った。何度聴いても、なまえのピアノは母の言葉を体現しているような演奏だ。
 拍手を送る最後の一人になり、隼人の両手は空気を響かせることをやめた。携帯用の灰皿に灰を落として口元に戻す。
 ひんやりとした夜の空気と煙草の味が混ざり合う。これを吸い終えたら、きちんと彼女に向き合わなければ。
 そう決意を固めた矢先のことだ。
「――隼人!」
 なまえの声がした。バルコニーを振り返ると、明るい光を背中に浴びながらなまえが走ってくる。明かりから離れて彼女の姿がだんだん闇に紛れていっても、隼人にはしっかりとなまえの表情まで見えていた。
「隼人、こんな所にいたんだ。会場で見当たらなかったから探しちゃった」
 頬と鼻の頭を赤くしたなまえはニコニコ見上げてくる。少し息が上がっていた。
「あのね、さっきピアノ弾いてって言われて、それで断れなくて……。ちゃんと弾けるか不安だったけど、隼人が教えてくれたから、上手く弾けたと思う。練習でずっとつまずいてたところも、間違えずに弾けたの!」
 なまえはまるで空中でピアノを弾いているかのような、小さく指揮を振っているように指先をパタパタ動かしながら語る。なまえの声は心地いい。
――ああ、聴いていたから知ってる。
 一所懸命に伝えてくる姿が愛らしく思えて、隼人は相槌もろくに返さずになまえの話に耳を傾けその様子を見つめていた。
「……隼人? 聞いてる?」
 少しだけ不満そうな声が掛かる。どうやらなまえからは、ぼうっと煙草を吸っているように見えたらしい。
 普段なら弁解するところだが、隼人はふと思い立ち、深く息を吸って煙草の煙をなまえに吹きかけた。
「ん゛っ、ケホッ……いきなり何?」
「ハハッ……可愛い顔」
 なまえを見下ろす。自分の言葉や行動に注目して細やかに反応を示す彼女を見るのは気分が良かった。癖になってしまいそうになる。
 なまえの頬は真っ赤に染まっていた。そういう顔をされると、場所を気にせず噛みついてしまいたくなる。
 隼人は欲を抑えるようにもう一度煙草を味わうと、携帯用灰皿にぐにゃりと押しつけ蓋をした。それをポケットに仕舞う。
「俺のこと、好き?」
「え?」
 夜風に乱された髪を整えるフリをして前髪をかきあげた。
「昔から、俺が十代目にずっとついてきて、だからアンタは俺にお慈悲をくれるんじゃあねぇのか?」
「隼人? 突然どうしたの……? 酔ってる?」
 困惑するなまえを鼻で笑った。そうだよな、その反応が妥当なところだ。
「今じゃボンゴレの“女神サマ”だもんな」
 そして俺は今では守護者の一人であり、十代目の右腕だ。もう出会った当時の、中学生と高校生ではない。
『恋は一人でもできっけど、愛するって二人じゃないとできねーんだからさ』
 武の言葉が思い出される。
 本当にその通りだ。めそめそとなまえとの関係について悩んでる俺は、思い返せば片想いでもしているみたいだった。
――俺は恋がしたいんじゃない。なまえと、ちゃんと愛しあいたいんだ。
 ポケットに手を突っ込む。指先が触れたのはなまえへ贈ろうと購入した指輪だ。
「隼人、本当にどうしたの? 酔ってるなら中に戻ろう?」
 既に酔いは覚めてるが、隼人はあえて否定しなかった。なまえが酔ってると思ってくれるのなら、これからしようと考えていることについて、いざと言う時『酔っ払いの戯言だ』と逃げ道となる。
 きちんと話をしなければ、伝えなければと、指輪まで用意して決意したというのに。逃げ道をつくってしまうだなんて、バカにも程がある。これは任務じゃないのだから、逃げ道を確保する必要などないのだ。
 不安が拭いきれていない証拠だった。いっそのこと、本当に酒の力を借りて勢いで行うべきだっただろうか。
「目、瞑って」
「えっ? なに急に」
「ほら、目、瞑れ」
 震える声に気づかれないよう、少し強い口調で同じ言葉を掛ける。なまえは渋々といった様子で従った。
「手ぇ出せ」
 おずおずと差し出された右手。綺麗な手だ。どこも怪我などしていない、汚れてもいない優しい手。
 隼人はなまえの手を眺めながら軽く首を横に振った。
 いいや、酒の力を借りるなんて、絶対に後悔する。
 深呼吸を一つして、これまでポケットの中で握っていた指輪を取り出した。なまえの手のひらに置き、落とさないよう彼女の指を包むように手を重ねて握らせる。
「隼人……?」
「好きだ」
「っ……」
「好き、大好きだ。これ以上思い浮かぶ言葉がねえってくらい――愛してる」 
 目を見開いたなまえのもう片方の手が、隼人の手に触れた。離れがたくて手を引けなかった隼人のそれがピクリと反応する。たったそれだけでなまえの指先はさらに握りこまれた。
「ちゃんと、伝えたかった。いつもタイミング悪かったり、話そらされたりしちまうから」
「そ、れは……」
「一緒にいれないことの方が多い。話すどころか連絡さえできねぇ日の方が沢山ある。……もう、愛想つかされてるかもしれねぇって可能性も存在してるって思ってる。正直、思いたくないけどな」
「違っ……! 私、そんなこと一度も!」
「不安にさせることだって多いだろ。互いにファミリーでそれなりのポジションに居んだ。周りの目だってある。それに、なまえは昔から男に好かれてたし、俺じゃねぇ別のヤツを選ぶ権利だって」
「隼人! 待って、私の話も聞いて――」
「それでも!」
 遮るように声を荒らげる。ビクリとなまえの体が震えた。怯えさせたいわけじゃないのにどうも上手くいかない。伝えなければならないことを一気に吐き出したこの口は、エンジンが掛かったように止まってはくれなかった。
「それでも……この先も、俺が傍にいるのを許してくれるのなら……つけて」
 口から飛び出たのは、まるで幼児が泣きじゃくる寸前に出しそうな声だった。唇の端が歪みそうになる。
 顔を見られていたくなくて、唇をなまえの額に押しつけた。ぎゅっと目を瞑り、必死に平然を装って唇を離す。
「……キスする時は目瞑るもんだって、教えてくれたのはアンタだぜ?」
 見上げてくるなまえの瞳はキラキラと揺れていた。月光のせいか、だなんて適当に答えを出す。それが正解でないことなど最初から気づいていたけど、どうでもよかった。
 なぜそんな表情を浮かべたのか。きっと掌の中にあるものの正体に気づいたのだろう。
 なまえが何か言いたげな様子に見て見ぬふりをして背を向けた。会場の光が漏れている明るい方へ歩き出す。
 後にも先にも戻れないスタートラインに自分で立ってしまった。過去に誰かが指摘していたなまえの最大の弱点であり、克服すら難しい根深いもの――変化――だと知っていながら突きつけてしまった。
――きっともう、“終わり”だ。
 精一杯に振り絞った勇気の代償は、張り裂けそうな胸の痛みと、目尻から零れ落ちた水滴だった。

   * * *

 最終的に、全ては考えすぎだったというのが結末だった。こういうのを若気の至りと呼ぶのだろうか。それは隼人はもちろん、なまえにも当てはまることである。
 あの夜、裏庭になまえを残して部屋へ戻ろうとした隼人は、後ろから走ってきた彼女に抱きつかれてそのまま地面に倒れ込んだ。
『私だってちゃんと隼人のこと好きだよ! 好きでもない人と沿い続けたり、ましてや抱かれるだなんて無理だから!』
『最近は隼人すごく忙しそうで、連絡とかしたら邪魔しちゃうかなとか、私と話す時間とかあったらまず休んでほしいなって思っちゃって、全然連絡できなかった。それに、隼人が気づいて連絡くれたりしたから、そこに甘えてた部分もあったのかもしれない。ごめんなさい……』
『それと、あの……隼人がせっかく気持ち聞かせてくれようとしたのに、話逸らしちゃったりしたのも、ごめん。その……えっちとか、も、してるのに……改めて気持ち聞くっていうのが、意識したらすごく恥ずかしくなっちゃって』
 自分が語ったことの倍以上に喋り倒すなまえに、隼人は呆然とするしかできなかった。話をしなかったために行き違っていたことが判明されて安堵する反面、やはり自分はなまえが好きなのだと、このとき隼人は実感した。
――なんだこの可愛い生き物は。この人が俺の彼女? 俺この人と本当に付き合ってんのか? 俺こんな人にプロポーズまがいのことしちまったのか?
 突然色々なことが起きて隼人の脳内は忙しなく動いていた。
 話をまとめると、どうやらこれから先もなまえと一緒にいていいらしい。それだけでも蓄積された不安が払拭されたのに、加えてなまえからの気持ちを聞くことが出来たことで、隼人は再び涙を零しそうになってしまった。
『だから、これ……隼人に、嵌めてほしいな……?』
 そう差し出してきた掌に転がっていた指輪は、今ではなまえの左手の薬指に嵌められしっくりと馴染んでいる。また、揃いの指輪は隼人の左手薬指に嵌っていた。
 隼人は裏庭でのことを思い出してながら、久々にピアノに指を滑らせる。
 当時から数年が経過していた。綱吉は十代目ボスとしての手腕を発揮し、改めてボンゴレファミリーの名を裏社会に刻んでいる。隼人自身もそんなボスを最も近い場所で支え続け、今ではボスの右腕兼守護者として、そして、ボスの姉であるなまえの夫として名を馳せている。
 しかし、なまえは当時とあまり変わらない。それどころか可愛さも美しさも増すばかりだった。
「隼人、ここにいたんだ」
「おう、おかえり」
 噂をすればなんとやら。朝から外出していたなまえが帰ってきた。
「ただいま。探しちゃったよ。隼人のピアノ、久しぶりだね」
「ああ、たまには初心にかえらなきゃな」
 ピアノは右手と左手、そして心で弾くものだ。
 幼い頃、母から受け継いだ魔法の呪文は、心に刻まれている。それはピアノに限らず、俺の人生にも言えることだった。
――この右腕は綱吉に捧げた。
 なまえときちんと向き合って話をしなかった結果、心を置き去りにしかけた。もうあんなことは二度と経験したくない。
「隼人、あのね……」
 傍らに立ったなまえに左腕を取られ、手を彼女の腹に添えられた。そこへ重ねるようになまえの左手が触れる。二つの指輪がキラリと光った。
――ならば左腕は、なまえに捧げよう。

18,10.29