愛の讃歌


 初詣から十日ほど経過した。
 カレンダーの日付が一つ歳をとる度に世間の正月ムードは収束していき、徐々に仕事はじめや学校が始まっていった。
 なまえも同様に、三が日が過ぎると本腰を入れて仕事に取り組んでいた。
 二月下旬にはマカデミー賞の発表がある。今年ハリウッドで映画化された工藤優作原作の『緋色の捜査官』は、年末から既に「マカデミー賞受賞の最有力候補ではないか」と各メディアで騒がれていた。その言葉は無意識になまえへプレッシャーを与える。年明けからはさらに聞くようになった。なまえはその言葉に追い込まれるように翻訳を続けていた。
「明けましておめでとうございます、梓さん」
「おめでとうございます、なまえさん。今年もよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくお願いします。また足繁く通わせていただきますね」 
 なまえは工藤邸を飛び出し、珈琲やスイーツを味わいつつ執筆しようと久々にポアロを訪れた。
「やった! なまえさん一時期たくさん来てくれたあと、あんまり来てくれなかったんで寂しかったんですよ?」
「すみません。色々ごたついちゃって……」
「いやだそんな! 謝ってほしかったんじゃないんです!」
「でもこれからはまた顔を出します。ポアロでまた、美味しい珈琲飲みながら仕事しようかなって」
「ありがとうございます! お家だと集中出来ないとかですか?」
 なまえは家を出る前の秀一との会話を思い出す。自然と頬が緩みにやけそうになってしまった。咄嗟に唇を口の中へ隠すように丸める。
「どうしたのなまえさん、変な顔……」
 梓の心配そうな声に返事をしようと思ったが、いま口を開けば今度こそにやけてしまう。
 梓に席へ案内されながら、なまえは必死に頭の中から彼とのやりとりを忘れさろうとする。だがそうする度に、秀一の言葉や温もりを鮮明に思い出してしまい、顔は熱を帯びるばかりだった。

   * * *
 
「――ポアロに?」
「はい、夕方には戻ると思います」
 普段通り朝早くに起きたなまえは、ある程度の家事を済ませ仕事で使うものをまとめた。出掛ける準備は万端である。あとは昴に伝えるだけ。なまえはスリッパを響かせて再びキッチンに戻り、珈琲を飲みながら端末を操作している昴に話し掛けたのだった。
「わかった。……ここでの仕事はしにくいかな?」
「えっ、違うんです! 全然しにくくないです! むしろしやすいというか何というか……」
 首を傾げる秀一に胸が高鳴りつつも、理由を尋ねてくる双眸になまえは縮こまりながら口を開けた。
「その……うちで仕事してると、昴さんに甘えたくなっちゃうから」
 だから自分を律するためにも外で仕事をする。
 仕事で煮詰まった時、すぐにでも秀一の顔を見たくなってしまう。声を聞きたくて、話を聞いてほしくなってしまう。それは、この数日で実感したことだった。
 人を心の底から好きになると、こんなにも弱音を吐きたくなった時に傍にいてほしくなるものなのだと思い知った。
「……甘えてほしいんだがな」
「え?」
 大股で一歩距離を詰めた秀一に抱きしめられる。未だにこういった触れ合いに慣れず、すぐに頬は火照りはじめた。
「行っておいで。帰ってきたら存分に甘やかしてあげよう」
「っ……!」 
 背中をぽんぽんと叩かれ、嬉しさと恥ずかしさと何かが一気に湧いてきてしまい、心臓は限界だった。
 腕を動かして秀一のウエストあたりから指先を抜け出させ、広い背中に腕を回してみたくなる。しかしあと少しで温もりに触れようとした際、指先にはビリビリと緊張が走り、まるで指一本ずつに心臓が宿っているかのように心拍が響いていた。
 緊張をほぐそうと深呼吸気味に息を吸い込む。秀一の香りが胸いっぱいに広がった。また一つ、秀一の欠片を感じ取ってなまえの胸は高鳴ってしまう。
 こんなに忙しなく心臓が音を立てていれば、もしかしたら彼にも伝わっているかもしれない。さらに羞恥心が芽生え、なまえは秀一の背中に触れずに両手をぎゅっと握った。
「昴さんも、甘えたくなったら言って……ください」
 自分ばかり甘やかされている気がする。
 それは駄目だ。駄目というよりも、気が済まない。こちらだって彼を甘やかしたいし、なにかしてあげたいのだ。
「私に出来ることだったらなんでも、したい、です」
 声に出して伝えると、思いはさらに現実味を帯びる。口の中がカラカラに乾いていた。
「例えば、どうやって?」
「えっ、と……」
 質問で返されるとは考えておらず、なまえは思考を巡らせる。すぐに出てくると思った正解は全く導き出せなかった。それどころか、脳内では不穏な疑いが浮かび上がってくる。
――待って、この言葉ダメな気がする。
 自分が口走った言葉は、どうとでも取れてしまう内容なのではないか? どうとでも取れるということは、つまり、秀一が“なまえならできる”と判断したことならば、なんでも行わなければならないんじゃないか?
――な、なんでもって……。え、えっちなこと、でも……?
 ぶわっと顔が熱を帯びる。待って、そんなこと言われても困る。困らないけど、いや、うそ。困る、めちゃくちゃ困る。そして恥ずかしい。
 まだそうだと決まってもいないのに、なまえの思考が暴走を始める。
 こんなことを考えてしまうなんて、いったいいつから自分は変態になってしまったのだろう。まさか自分の口から、男性が好む漫画に出てきそうな王道的台詞が飛び出てくるとは思いもしなかった。
 マフィア達とはそういった話題になることも無いことはない。しかし、それはその場での体験を伴わず、言葉遊びのようなゲーム感覚でやっていた。スキンシップが激しかったりしても、それは相手がこちらに好意を向けているからというよりも、信頼が全面にでているものだったから何とも思わずに受け入れていた。
 宝石展覧会の時のディーノの行動だって、作戦の一環みたいなところがあるから出来ることだったりする。
 しかし……。
――待って、そんなこと言われても、ムリだよ! できない!
 なまえの脳内は既にピンク色に染まっており、心とは裏腹に想像は、まだ見ぬ秀一やまだ与えられていない快感まで及んでいた。
「そうだな……」
「すっ、昴さん! 待って違うの! いや、違くないけど! 今のは言葉の綾というやつで……!」
 口には決して出せない、あんなことやこんなこと。確かに年末に自分たちは想いが通じあったけれどキスもしたし、まだ一線は超えていないけれど、それ以上のことだってするような関係になったのは事実だ。
 そうと理解していても、現実に心がまだまだ追いついていない。だからこうやって、わざわざ外出してまで仕事を進めようとしているのだから。
――どうして初詣のときは普通にちゅーできたんだろう。
 空気に酔いしれていたのだろうか。今この場でキスするということになっても、なまえは絶対に無理だという自信があった。こうして抱き締められてるだけでも大変だというのに、キスなんてしたら心臓が爆発してしまう。
「手始めに、抱き締め返してくれると嬉しいかな」
「……ふぇ」
 告げられたお願いに変な声が漏れた。
 あまりにも可愛らしい秀一の発言に、なまえはこれまでとは別の意味で顔を熱くさせた。どれだけ不埒なことを考えていたんだ。こんなの、いやらしい。はしたないにも程がある。
「してくれないのかい?」
「っ……!」
 なまえは反省と謝罪を心の中で唱えつつ、思い切り秀一に抱きついた。
「昴さんっ!」
 笑いながら受け止めてくれた秀一に再びドキドキしてしまう。にやけた顔を見られないように胸に顔を埋ませた。
「何を考えていたのか気になるな」
 機嫌の良さそうな声にヒュッと息を呑む。心臓が縮んだ気がした。

   *

 ポアロでの仕事は順調に進んだ。客足は滞らないものの、皆ゆったりと静かに過ごすため集中が途切れるとこなく、穏やかな時間の中でなまえは仕事をこなしていった。
 キリのいいところに差し掛かり、なまえは休憩がてらパンケーキを注文する。手洗いにトイレへ立とうとして、人ひとり分席をずらし、テーブルとテーブルの間に座った。
 ポアロの来客ベルが鳴ったのは、その時だった。
「よっ、なまえ! やっぱりここだったか!」
「ディーノ!?」
「えっ!? この間のイケメン!」 
 なまえと梓の声に他の客もディーノに注目する。
 ディーノはモッズコートを着込みマフラーに口元を埋めて颯爽と現れた。他の客の視線もかっさらい、軽やかに靴音を鳴らしながら近づいてくる。
「なんでここに!?」
「いやー、なまえに会いに来たんだよ。ドッキリ大成功だなー!」
 ハグの準備は万全とでもいうように、ディーノは両腕を広げて近づいてくる。
――ロマーリオ達は?
 ディーノは部下が傍にいなければ、躓いたり転んだりと“へなちょこ”状態になる。それはまずい。非常にマズい。ここで“へなちょこ”が炸裂されればポアロにも他の客にも迷惑がかかる。
「待って。ディーノ。ステイ。来ないで」 
「なんだよつれねーなー……ア゛ッ」
「えっ」
 あと数歩でなまえの元にたどり着くはずだったディーノは、予想通り”へなちょこ”を炸裂させた。何もないところで躓いたのである。
 なまえはディーノを支えようと慌てて立ち上がった。躓いたディーノはなんとかバランスを取り戻そうと、片足でぴょんぴょん跳んだものの、その努力は実らなかった。バランスを崩したディーノはそのまま前方へ傾いていく。その結果、なまえは再びソファに座ることになった。ディーノに押し倒されたようにソファにのしかかられてしまったのだ。
「っ、重い……!」
「悪ィ……怪我ねえか?」
 顔を上げるとディーノの顔は目と鼻の先だった。『またやってしまった』と言わんばかりにシュンとするディーノに、なまえは少しだけ可愛いと思ってしまう。
「どうしたの、いきなり来て」
 視界を邪魔している乱れた前髪を横に流してやる。こういう時、本当にディーノは年上なのかと疑ってしまう。どちらかと言うとディーノは弟気質の方が持ち合わせている気がする。だからなのか、何かあっても心のどこかでは許せてしまう自分がいた。
「なまえ、頼まれてくれないか」
「また同伴?」
「いや、違ぇ」
 ディーノからの頼まれごとは殆どがパーティー等の同伴役のため、今回もそうなのかと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。
「なまえ、今夜……いや、これから朝までの時間、よかったら俺にくれないか?」
「え」
「忘れられない夜にしてみせるぜ」
「……は?」
 梓の黄色い悲鳴が再び店内に響いた。

 ディーノに連れて来られたのは、米花では名の知れた寿司屋だった。回らない寿司を提供するそこは、大通りから外れた場所に店を構えている。
 開店してまもなかったが、一人の男性を挟んで女性二人がカウンター席で食事をしていた。
 なまえは迷わず座敷席を選んだ。“へなちょこ”状態のディーノがカウンター席に座れば、他の客に迷惑をかけてしまうかもしれないと考えた。
 ディーノが米花を訪れたのは片手に数えるほどしかない。それにもかかわらず、よくこんな穴場を知っているなと目を丸くした。
「やっぱ美味いな!」
「どうして突然お寿司?」
「パンケーキ食っちまったろ? そのお詫び」
 ポアロにやって来たディーノは、頑張った褒美にとなまえが注文してテーブルに置かれたばかりのパンケーキを断りもせずに食べ始め、あろうことか完食してしまった。そして、追加の珈琲とスイーツを注文して、店内の人間に聞かれても構わない仕事の話を披露した。マシンガンのような勢いで話される内容に、適当に相槌をしていると、「じゃ、行くか」となまえは連行されてしまったのだった。
 どうしてこう、いつもいつも突然現れては嵐のように引っ掻き回していくのだろう。綱吉がまだ中学生の頃は、あまりそういったことはしなかったとなまえは記憶している。突然現れることには変わりないが、ディーノは必ず綱吉に助言なり助力なりをしていた。それなのに。
「なぜ……」
 ディーノが気を利かせて頼んでくれたイクラや大トロの握りを睨みつけてしまう。寿司に罪はないが、なまえの心は曇り模様だった。
「食わないのか? 美味いぞ?」
 隣で米粒を口元に付けたままディーノは首を傾げてくる。なまえはそれを一粒ずつ摘んで取っては口に含んだ。
 途端に目を輝かせ、少年のような笑みを浮かべて礼を言ってくるディーノに、気づかれないよう溜息をつく。
――せっかく昴さんに甘やかしてもらうはずだったのに。
 結局なまえは今夜、ディーノとホテルに泊まることになってしまった。秀一には電話で連絡済みである。相手はディーノだと伝えると少しの間沈黙が走ったけれど、外泊を許してくれた。
「……甘やかされたい」
「今夜たっぷり甘やかしてやっから待ってろよー」
「もうディーノからのはお腹いっぱいだから遠慮する……」
 今お腹いっぱいにしたいのは、ディーノからのそれではなく、秀一からのものだ。甘やかされる具体的な内容は思い浮かばないが、二人でゆったりと出来たらいいとなまえは考えていた。
――いやいや、今はディーノといるんだから、秀一さんのことは考えないようにしないと。
 心の中だけで呼ぶことが許された名前を紡ぎながら、なまえはくすぶる想いに蓋をしようとする。しかし、音に出してはならない名前を胸の内で呼ぶ度に、なまえは頬が火照りそうになってしまった。
 好きな人ってすごい。どうして名前を呼ぶだけで、姿を思い浮かべるだけで、平然といられなくしちゃうんだろう。
 秀一と想いが通じあっていると互いに確認してから、なぜだか以前よりも苦しさが増した。それはただ苦しいだけではなくて、甘くてやわらかくて、満たされているのに求めてしまうような苦しさ。自分と秀一は両想いの状態であると理解しているのに、心はいつまでも片想いしているように秀一を求めてしまう。
――こんなこと初めて。
 これまで様々な経験をしてきた。平凡な生活を送っていたら決して体験できないだろう経験。それらから得られた教訓や考え方も踏まえて、今後これ以上、壮大であり壮絶な経験はしないであろうとすら思っていた。
 しかし、まだ経験していないことがあった。
――これから、“終わり”が訪れてしまうその時まで、どれほど一緒に過ごせるんだろう。
「――なまえ!」
「っ、ごめん。ぼーっとしてた」
「珍しいな。……食べないならそれ、俺が食っちゃうぞ」
「だめ、だめ。これは私の」
 綺麗に箸を操りイクラに狙いを定めるディーノが届かないよう皿を引き寄せる。たいして悔しそうにないディーノの舌打ちを流しながら、なまえはイクラを口に運んだ。
「竹寿司が恋しくなってくるな」
「確かに。……それで、ディーノはどうして今日来たの?」
「ああ。色々と進展があってさ。電話で伝えても良かったんだが、やっぱ会って話したいなと思って」
「内容が内容だもんね」
 だとしても、泊まらなくて良いんじゃないかな。
 口から飛び出してしまいそうな言葉を、口に放り込んだ大トロとともに飲み込んだ。とろけるような味わいに不満は飛び散り、自然と頬が緩む。
「“マリー”も会いたがってたぜ」 
「本当? 嬉しいなあ。私も会いたいって伝えておいて。
 ……それにしても、家庭教師兼用心棒だなんて、よくOKしてくれたね、“マリー”」
「それなりの額を提示したからな。……それと、預かってきた物があるんだ」
「なあに?」
 話の流れから“マリー”――M・Mから預かったものだと考えたが、なまえの予想は外れた。
「クラーラ嬢からだ」
「クラーラ?」
 ディーノから渡されたのは白い封筒だった。宛名には自分の名、裏に小さくクラーラの名前が書かれている。それらはイタリア語ではなく、日本語で書かれていた。
「日本語で謝罪の手紙を書きたいって、”マリー”に頼んだんだと」
「謝罪って……展覧会の時の?」
「ああ」
 再び封筒に視線を落とす。緊張して書いた様子が伝わる宛名に触れると、指に馴染むような手触りがした。
「……悪いことしちゃったね」
 宝石展覧会での目的は、キッドが狙った指輪を回収することと、クラーラの執事を捕えることだった。標的であった執事を動揺させ一人にさせるために、なまえとディーノはクラーラの気持ちを逆手にとって誘導するように癇癪を起させたり、懐に潜り込み信頼を得たりした。彼女は一方的に巻き込まれただけで、いわば被害者である。
「中、見ないのか?」
「ここではね。落ち着いたら見る。一所懸命書いてくれたみたいだし、ちゃんと向き合わないと失礼でしょ?」
「なまえのそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
 なまえはディーノの言葉に微笑みで返し、手紙をそっと鞄にしまった。
「ディーノは? 元気だった?」
「ああ。年明け恒例のパーティーにもちゃんと出席したぜ。今年はいつにも増して白熱してたわ」
「そっか。大変だったね」
「なまえは久々に、ゆったり過ごせたか?」
「……うん」
「そか、ならよかった」
 ディーノに返事をしながらもなまえの心境は複雑だった。
 秀一との関係や、彼と“秘密”を共有していることは、誰にも知られてはならないのである。それが自分のことを心配してくれる相手であってもだ。 
 嘘をつくことは慣れている。隠し事をすることも。この世界に生まれてきてからはずっと隠し事をしてきたようなものだ。しかし、それはあくまでも自分自身のみのこと。今回は、秀一というまるで共犯者のような存在が絡んでいる。秀一との関係や生活を訊かれたとき、ヘマをしてしまわないように気をつけなければならない。
――できるかな?
 否、やらなければならない。まだ、これからも、一緒にいたいから。 
「……ん? どうしたなまえ、めちゃくちゃ変な顔になってるぞ?」
 オメルタに反している行為について、綻びが垣間見えてバレてしまう可能性があるのは、圧倒的に自分である。自分が親しくしているマフィアたちはそう簡単に騙せない。
 そうはわかっていても、なまえは数週間前に秀一とようやく想いが繋がっていることを確認できたばかり。秀一のことを考えれば様々なことを思い出してしまうし、顔にも出てしまう。きっとここに誰もいなければ、にやけてしまったに違いない。
「……だいじょうぶ」
 なまえは必死に口内を噛んで緩む頬を思い切り膨らませた。かなり変な顔をしている自覚はあるから、緑茶が注がれた湯呑みで自分の顔なんて絶対に覗かない。
「ハハッ、ワサビでもつけすぎたかー?」
「……んん゛」
――前途多難だ。
 こんなことならもっとポーカフェイスができるように訓練しておくべきだった。いや、今からでも遅くないのかな。
 いずれにせよ、秀一と関係のないときに彼のことを思い出さなければいい話なのだが、それはまだなまえには難しい問題である。
 なまえの様子を楽しそうに眺めながら緑茶を啜ったディーノは、湯呑みを置くと唇を引き締めてから声を発した。
「……例の件、動きがあったんだ」
「っ!」
 紡がれた言語は日本語ではなく、イタリア語だった。やはり座敷であったとしても細心の注意を払うらしい。
「それで?」
 なまえも同じようにイタリア語で聞き返す。しかしディーノは口を閉ざしたままだった。
 静寂が二人を包み込む。こういったときのことを、フランス語では確か『天使が通る』と表した。蛍光灯の光を浴びる目の前の金髪は神聖なものの遣いのように一本一本がキラキラと輝いている。
 きっと幼児期は天使と称されるくらいに可愛かっただろう。今でもその面影は残っていそうだが、ディーノは出会った頃に比べると格段に男性としての魅力が増した。ディーノは服装や髪型を変えただけで雰囲気がガラリと変わる。マフィアでなければきっと世界的に話題となるモデルになっていたに違いない。
 ディーノが敵だと認識した相手に直接手を下すところを、綱吉らと比べてあまり見たことがなかった。仕事のためであっても親しい人々が他者を故意に傷つけているところは、望んで見たいとは思わない。
 ついにルドヴィコに制裁を加えたのだろうか。そうでなければ、ここまで黙り込む必要はない。しかし、それだとわざわざホテルを取り話を聞かせるという手順は踏まなくても済むだろう。
「……それがさー、面倒なことになっちまってよー」
「えっ」
 大きくため息をついたディーノはへにゃりと笑った。言語も日本語に戻り、畳や障子に馴染んでいる。
「……溜めておいてそれ?」
「やー、ここで話そうと思ったんだけどさ」
 ディーノはちらりと後ろに視線を送った。釣られるようになまえもそちらに目を向ける。
 ディーノは襖に背を向ける形で座っていた。障子の向こうにはカウンター席があり、入店時にいた男女三名と店主がいる。
「……なにかあった?」
「あるとすれば、これから、かもな」
「どういうこと?」
「なにも感じなかったか?」
 ディーノが感じたという対象は、きっとこの店にいる自分たち以外の四名だろう。
「うーん……特に? 強いて言えば、珍しい組み合わせだなって」 
 カウンター席にいたのは、男性一人に女性二人。この性別比が反対だったのなら、あまり違和感を覚えなかっただろう。そして、彼らの間に流れている空気がやわらかく楽しげなものだったなら。しかし、三人がまとっていた空気はそれとは反対に、重苦しく張りつめたものだった。そして今も、楽しげな会話が障子の向こうから聞こえてくることはなく、たまに男が追加注文をする声しか届いてこない。
「座敷に上がる前、三人の後ろを通った時に、女の首元に痣が見えた。あれは自然につくものでも、ましてや、情事でついたものでもない。
 それにあの男の高圧的な態度。女を侍らせているのとはまた違った振る舞いだ。片方の女は怯えたようにすら見える」
 入店してから座敷に上がるまでの、ほんの一分程度でそこまで見極められるだなんて。鮮やかなほどの洞察力に、さすがはキャバッローネのボスだとなまえは溜息をつく。
 しかし、ディーノの語ったことが本当だとしたのならは、導き出された答えはきっと――。
「ボスの見解は?」
「なまえが思いついた言葉とたぶん同じだ――彼女たちはあの男に虐げられている」
 ディーノはごく自然に緑茶を飲む素振りをしながら、努めて声を潜めた。
 言われた通り、なまえも同じ予想をしていた。
 あれは、虐げられた女性二人と、彼女らを心身ともに傷つけ服従させている男だ。どのように傷つけられているのかは不明だが、首に痣があったという話からするに、それなりに痛めつけられているのだろう。
 なまえは同じ女性として心を痛めながらも、男の心理に頭を悩ませていた。
 警察のことは詳しく知らないが、通報されれば警察による事情聴取が行われるだろう。そこで彼女達の口から事実が伝えられれば、男は今の生活を維持できなくなる。外出すれば人目につき、通報されるリスクも高まるのではないか。それなのに、わざわざ女性らを引き連れて、寿司屋にやって来ている。
「……待って。ディーノさっき、“何があるとすればこれから起きる”って、そんな感じの事言ってなかった?」
「そういやそんなこと言ったな」 
「それってつまり、どういうことなの……?」
「一人の女は完全に怯え切っていたが、もう一人は恐ろしいほど気が静かだった。嵐の前の静けさとでもいうのかな。……“危ない”ぞ」
「まっ、まさか……」
「目を見ていないから断言できないが、もしかしたらもしかするかもな」
 殺人を。
 吐息のようなディーノの声に心臓が大きな音を立てた。
――絶望した。
 ここは米花といえど、裏社会とは違う理で社会が動いている世界だ。この町にいると感覚が狂いそうになるか、事件に巻き込まるということは一般人として生きているなら、人生において滅多にないだろう。
 しかし、米花町はそれが当てはまらない地域である。なまえも工藤邸で暮らしてから、これまでに数回ほど事件に巻き込まれた。その際はコナンを始め推理力に長けた者が鮮やかに事件を解決していたが、今日は違う。そういった者もいなければ、ここにはディーノがいる。
 この場で殺人事件が起きたとする。通報により警察が到着する。この場、または警察署に連れて行かれ、職務質問や当時の過ごし方を訊かれる。
――ディーノはどうなる?
 ディーノの身分は言わずもがな、ボンゴレに次ぐ力をもつと謳われる、キャバッローネファミリーのボスである。彼のことだから、表舞台に立たなければならない時のため、カバーである身分を持っているだろう。しかし本当にそれで警察の目を掻い潜ることができるのだろうか。
「……出よう! 今すぐに! ここから出よう!? お勘定!」
「どうしたんだよ、急に」
「だって! ほら、だってさ! ……ああでも、放っておくのもダメだよね。なにか出来ること……。でも、ここで出来ることって言っても……」
 不確定要素が多い中で、もしも本当に彼女らが男に手を掛けようとしているのなら、自分たちはどう動けばいいのか。
「なまえはあの女たちにどうなってほしい?」
「……殺意があるかもしれないと言っても、被害者は彼女たちかもしれないから、加害者にはなってほしくない。あの男の行動がして、彼女たちがこれ以上苦しまないようにしてほしい」
「つまり、なにか助けになりたってことでいいんだな?」
「できるの?」
「現場を押さえることが出来れば、かな」
「未然に防ぐことは……できない?」
「ここは『米花』なんだろう? ずっと前、恭弥が部下に調べさせた内容によれば、容疑者は妙に細工をするって結果が統計的にでてるらしいじゃないか」
――恭弥くん、いつの間に……。
「ってことは、だ。その場に行けば?」
「っ! 未然に防げる!」
「その通り」
 絡まっていた糸が解けていくようにディーノが考えを整理してまとめる。
 未然に防ぐための方法は導き出せたけれど、細工をしている場に赴くのはそう簡単に出来ることではないのではないか。
「ん?」
 ディーノがおもむろにポケットから携帯電話を取り出した。どうやら着信らしい。
 なまえは立ち上がるディーノを見上げた。
「ここで出てもいいよ?」
「いや、“未然に防ぐ”ためにちょっくら店の中、歩き回ってみる」
 なるほどとなまえは小さく呟いた。偶然を装って出会ってしまえば言い逃れをすることはしにくいだろう。それに、相手はディーノだ。女性の扱いはとびきり上手い。
「男は女に優しくするもんだってこと、骨の髄に染み渡るくらい教えてやろうぜ」
 ディーノの少しだけ不敵な笑みになまえも口元だけ笑って返す。正直なところ、頼もしさ半分、不安が半分だった。
――“へなちょこ”にならないことを祈ろう。
 ディーノは障子を開けて振り返る。
「安心しろ。なまえには、何があっても、指一本傷つけさせねえよ。……ッ! いってぇ!」
「お客さん大丈夫ですか!?」
「うわ……」
 障子に足の小指をぶつけたディーノが蹲る。カウンターの向こうにいた店主と、彼の心配する声を聞いて例の男女が振り返った。
「大丈夫……すみません大声出して」
 ディーノがへらっと笑い謝ると、店主は「お気をつけて」と言い、男は興味無さげに前に向き直る。女性もその動作に釣られるように前を向いた。
 しかし、女性は一人だけだった。
「ビンゴ」
 ディーノの視線に招かれ、なまえが心配する素振りをして駆け寄る。ディーノは耳元で、首元に痣のあった怯えた様子を見せていた女性がいないこと、今座っている女性は静かな方だということを伝えてきた。
「大人しくしてろよ?」
「気をつけてね」 
 犬の頭を撫でるように、ディーノの手によって髪の毛がかき乱される。ディーノは腰を上げて靴を履き、座敷を出て行った。
 なまえは障子を閉めて自席に戻る。 
 さて、自分はこれからどう動くべきなのだろう。ディーノが帰ってくるまでこのまま待つしかできないとは理解しているが、自分だけなにも出来ない現状になまえは複雑な気持ちになった。
 いま自分がなにも出来ないのは、圧倒的な経験の差に起因するとなまえは考えている。
 ディーノはファミリーのボスであり、少年時代から様々な経験をしてきている。当時風紀委員長だった恭弥の師匠となり、稽古をつけていたくらい戦闘力はある。
 一方、自分はファミリーに所属しているといっても、戦闘においては護身術程度の実践力しか兼ね備えていない。そして、人を殺そうとする場面や人の命が尽きる瞬間に、あまり立ち会ったことはなかった。
 ディーノはきっとそれらの経験がある。そして、自ら手に掛けることだって。
「……難しいなぁ」 
 綱吉のために、ボンゴレのためにとイタリア語を学び、あらゆる知識を身につけてきた。それでもまだ、できないことは数え切れないほど沢山ある。
 これから綱吉やボンゴレのために出来ることは何なんだろう。
 なまえは湯のみの中に残った冷めきっている緑茶を飲み干した。
「…………」
 空っぽの容器に自分の顔が映ることなどないが、見なくても今の自分が情けない顔をしていることくらいわかる。
「へいらっしゃい!」
 ガラリと店扉が引かれた音と店主の声になまえの意識は現実に引き戻された。
「おおっ、久しぶりですね毛利さん!」
――ん?
「いやぁ大将、お久しぶりですなあ!」
「お父さん知り合いなの?」
「最近来れてなかったけどな、昔からの付き合いでな」
「昔からいうと、もしかして毛利先生がまだ刑事だったころからですか?」
「ああ、まあな」
――んん?
「座敷の方でも構わねぇすか、大将」
「ええ、もちろん」
「お寿司なんて久しぶりだね、コナンくん」
「うん! 楽しみ!」
――んんん?
 待って。よく知ってる声がするぞ。おかしいな。
 幻聴かと何度も疑ったがどうやら現実に起きていることらしい。どうしてこんなタイミング悪く彼らが来店してしまうのか。なまえはバクバクと音を立てる心臓を落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。しかしなまえの努力虚しく、元凶たちの声はこちらに近づいてきているのか次第に大きくなってくる。
 座敷は衝立で隔たれているが、立ち上がれば隣の座敷の様子も見渡せるようになっている。つまり、なまえはコナン達から逃げることも隠れることも出来ないのだ。なまえは今ここにいないディーノを恨んだ。
 隣の座敷に続く襖が気持ちの良い音を鳴らして開けられた。
「あれ? なまえさん?」
「これはこれは! なまえ先生じゃないですかァ!」
「蘭ちゃん、毛利さん。それにコナンくんに安室さんまで……」
「こんばんは、なまえさん」
「おや、こんなところで会うなんて偶然ですね」
「こんばんは。……本当に」
――絶対事件が起こるフラグだ……!
「よかったらなまえ先生も一緒に食べませんか!」
「えっ」
「ちょっとお父さん!」
 小五郎の言葉になまえは数秒固まってしまった。コナンと透から様子を伺う視線が突き刺さっている。
「っ、連れがいるんですが、ちょっと今席を外しているので……帰ってきたら彼にも聞いてみますね」
 平常心、ポーカフェイス、にこやかに。まるで俳句でも詠んでいるかのようになまえは気をつけることを心に刻んだ。
 ここには江戸川コナン基、工藤新一に加え、安室透もいるのだ。一瞬でも隙を見せたら目をつけられてしまうし、最悪の場合、突っ込まれて言葉巧みに追い込まれてしまう。
――ディーノ帰ってきて……! うそ、帰ってこないで! いやいや、やっぱり帰ってきて! もうお店出よう!?
 なまえの頭の中は大混乱をきたしていた。
 喧騒に隠れ、恐ろしいほど静かに波乱の幕が開けていく。

(つづく)

18,11.27