Save Me the Waltz


 “前世”の記憶があること。
 綱吉やボンゴレが歩む道を知っていたこと。知っておいて助言をしなかったこと。代わりに、何かできることはと知識や教養を身につけ、自分の存在意義が有益に使われる時に備えた。
 これらについて、自分から打ち明けたのはXANXUSで三人目だった。
 十年後の世界でのXANXUSは、“沢田なまえ”について知っていそうな顔をしていた。そして闘いが終わり、現世へと戻ってきた時、その記憶が関わった人々へ受け継がれたらしい。XANXUSもその一人である。だから、ある程度、“わたし”について気づいているのだろうという確信があった。
 だからこそ、話せたことだった。
「――くだらねえ」
「え……」
「てめぇが誰に縋ってどう生きようと、俺には関係ねぇことだ」
 息が止まった。
 二十数年ずっと心に刻んで生きてきたことを、ただ一言で一蹴され、鼻で笑われた。
「俺は俺のために生きるだけだ」
 潔いほど自分の信念を貫くXANXUSは、なまえにとって眩しいほど輝いて見えた。
 世界が開けた気がした。
 
   * * *

 なまえは出来上がったばかりのケーキをトレーに乗せて、XANXUSの執務室に向かっていた。行く途中ですれ違った隊員に「頑張ってください!」と声を掛けられる。なまえはそれに笑顔で返し、怯まず足を進めていく。
 九月ももうすぐ終わりを告げる。十月に入れば、XANXUSの誕生日は目と鼻の先だ。なまえは、XANXUSの誕生日当日に向けて、チョコレートケーキを練習していた。作るのならば、XANXUSが好む甘さに仕上げたいと考え、ケーキを試作しては本人に味見をしてもらい、意見を仰いでいる。ちなみに今日で四回目だ。
 切り分けてきたケーキが倒れないようトレーを片手で支え、三回ノックをして扉を開けた。
「ザンザス、いま大丈夫?」
 半身を滑らせるように室内に一歩踏み入れて、体で重い扉が閉じないように支える。執務机に足を乗っけて眠っていると思ったが、なまえの予想は外れていた。
 XANXUSはきちんと机に向かい、書類に目を通しており、視線だけチラリとこちらに向けてくる。眼鏡越しに紅色の双眸が真っ直ぐと自分を捉えた。
「味見してほしくって」
「またか」
 書類を机に放って、ついで少々乱暴に眼鏡を外し同じように机に投げた。ガタンと小さく音が鳴るが、XANXUSから発せられる衝撃音を考えたら、それは赤ん坊の泣き声くらい可愛いものだ。
「でも食べてくれるんでしょ?」
「腹が減っただけだ」
 いつもそう言ってるじゃない。そう返そうとしたが照れ隠しで睨まれような気がして、なまえは静かな笑みだけで返す。しかし顔に書かれていたらしく、結局XANXUSからギロリと鋭い視線を頂いた。
「今日はね、前回の反省点を踏まえてうんとビターテイストにしたんだよ」
「毎回言ってるじゃねえか」
「今回は本当に本当」
「ハッどうだかな」
 机にトレーを置かせてもらい、フォークを使ってケーキを一口サイズにする。切り分けている間、XANXUSはじっとケーキを見つめていた。興味のない振りをしつつも、毎回付き合ってくれるXANXUSは優しい。
 なまえはスポンジ部分やクリームが落ちないように注意しながら、XANXUSの口元にフォークを持っていった。XANXUSはしばらくそれを見つめた後、素直に口を開ける。そっとフォークを口の中へ動かすと、XANXUSの口が閉じる。ゆっくりフォークを引き抜いた。
 いつもこの瞬間、緊張してしまう。ケーキを作るたび、今回は絶対に成功するという自信を持って試食してもらっているのに、未だにXANXUSの舌に合うものはできていないのだ。
 今度こそ。いや、まただめかもしれない。でもこれ以上甘くないケーキってもはやケーキとは言えないのではないかな。
 なまえが思考を巡らせていると、XANXUSの逞しい喉がごくんと動いた。
「甘ぇ」
「えぇ……これでも?」
――やっぱり。
 なまえは肩を落とす。
「結構控えめにしたはずなのに」
 XANXUSに持ってくる前に自分で試食もした。ルッスーリアにも相談した。そこまでしてもまだ『甘い』から卒業できないのか。
 もう一度、なまえは食べてみることにした。XANXUSに手に持っていたフォークで、再びケーキを一口サイズに切り分けて、口に運んだ。
 スポンジのやわらかさとしっとりした甘さ控えめのクリームが口の中いっぱいに広がっていく。まろやかな舌触りに、自分で作っておきながらやはり美味しいと少し笑みを浮かべてしまう。
「全然そんなことな……んっ」 
――な、に……?
 突然のことになまえは目を丸くすることしか出来なかった。
 XANXUSに顎を掴まれ上を向かされたと思いきや、いつの間にか立ち上がって隣にいた彼に唇を奪われてしまった。
――なんで? なんで今このタイミングで?
 フォークが手から滑り落ちていく。
「っ、んぅ……ふぁっ」
 貪るように口づけされ続ける。しかし、XANXUSはそれだけに飽き足らず、酸素を追い求めて口を開けたスキを狙い、なまえの口内に舌を滑り込ませた。
「ら、んらっ……も、ゃ……」
 頭がぼうっとしてきた頃には、背伸びをするしかなかった足がぷるぷると震えだした。すると後頭部と腰に回ってきたXANXUSの手に、隙間を埋めるようぐっと引き寄せられる。踵が絨毯に着いた感覚になまえがうっすら目を開けると、XANXUSが長身を屈めていた。
 なまえはその優しさに胸が高鳴るのを感じ、XANXUSの背中にそっと腕を回す。くんと顎を突き出し、絡め取られる一方だった舌を自分からXANXUSのそれに絡めた。
 互いの唾液が混ざり合う音と、互いに体温を求め合うような口づけに、次第になまえの身体は奥の方から甘い波が押し寄せてくる。
「……甘すぎだ」
 呼吸ひとつ崩していないXANXUSは、なまえを解放する。そして、互いの唇を繋ぎ止めておこうとする透明の糸を舌で壊し、そのまま唇を舐めた。
「…………」
――こういうことするためのケーキじゃないのに。
 なまえは息を整えながらXANXUSから目をそらす。日中だというのに、今までしていた行為のせいか、XANXUSがひどく色っぽく目に映ってしまった。熱くなりかけた身体を落ち着かせようと、静かに深呼吸を繰り返す。
 ようやく落ち着いたなまえはXANXUSに向き直りぎょっとした。残っていたケーキを手で掴み食べていたのだ。
「甘いんでしょ? 無理して食べなくてもいいよ?」
「腹の足しになる」 
 甘いと評価しておきながら、大きい口を開けてぱくぱく食べきったXANXUSは、指についたスポンジの欠片やクリームを舐めとった。
 見せつけてるのかな。そう思えてしまうくらい扇情的な風景に、なまえの頬は熱くなり、再び胸が高鳴っていく。
「……食べられるんじゃない」
 頬を膨らませて呟いた言葉は思っていたよりも大きかった。聞こえてるぞとでも言うように、XANXUSはわざとらしくリップ音を響かせて口元から親指を離す。
「俺好みの味になってんなら、カス共の口には合わねえだろ」
 なまえの頬は風船のように萎んでいき、さらに真っ赤となった。
 
  *

 数日後、なまえはルッスーリアとともに、テラスにて紅葉を楽しみながらお茶をしていた。テーブルにはダージリンが注がれたティーカップとチョコレートケーキ。今日は、第五回目となる誕生日ケーキの試食会である。
 なまえはダージリンを飲みながら、ルッスーリアの講評を待った。
「……良いんじゃない? この間よりもだいぶビターな味になってるわ」
「だよね、もうチョコ味どこかに行っちゃったくらいビターだよね……。でもこれでも甘いって言いそう」
「それ本当? 意地悪してるだけじゃないの?」
「んん……」
――そうなのかな。
 いや、まさかそんなことは。XANXUSに限って意地悪とかそんなこと、あるはずがない……とは言い切れないかもしれない。
 XANXUSは基本優しいけれど、その優しさの範囲内で意地悪っぽいことをすることはある。そのため、意地悪なのだとは気づかないだけで、本当は意地悪だらけなのかもしれない。
――えっ、そしたら……えっ、許容範囲内の味なのに、私はずっとビターチョコケーキを研究してたの?
「あらやだ図星? 先に言っておくわ、ごちそうさま」
「いや、そんなことは! ……どうなんだろう」
「ボスってわかりやすそうで、わかりにくいとこあるわよね」
 ルッスーリアは「まあそこが魅力なんだけど」とダージリンを味わう。
「……野菜ケーキにしちゃおうかな」
 ふつふつと湧き上がってくる少々の怒りと恥ずかしさと、弄ばれていたという事実の真実味に、なまえは反逆を企てようとする。
「なまえはボスに唯一野菜を食べさせられる人間よ。自信持ちなさい」
「じゃあ野菜ケーキにしたら食べてくれるかな?」
「それは保証できないわぁ」
「そんなぁ……」
 一度でいいからXANXUSをぎゃふんと言わせてやりたい。チョコレートケーキで駄目ならば、野菜だと気づかないレベルの美味しさに仕上げたケーキを振る舞うしかないじゃないか。しかし、ルッスーリアの見解では失敗に終わりそうだった。
「……といっても十回中一回くらいしか野菜、食べないよ。どれだけお肉食べてても平気なのすごいよね。私もう体が受けつけなくなってきたから、肉はちょっとだけ食べれば満足できちゃうけど、ザンザスは違うみたい」
「年齢には抗えないわよねー」
「それをね、ザンザスに言ったら『歳だな』って鼻で笑われたんだよ!? XANXUSのほうが年上なのに! おかしくない!?」
 握った両拳をテーブルに叩きつけ訴えるとガチャリと食器が悲鳴を上げた。普段であれば耳障りに感じるが、年上に歳だと言われた心の傷に比べたら可愛いものだ。
 いくら青年期に突入して数年眠らされていたからって、身体年齢はごまかせない。XANXUSは今年で三十歳になる。精神年齢は子どものままじゃないのかと思うことは多々あるが、それを本人に言えば生きて帰って来れないだろう。
 当時なまえは、歳上発言と言うよりも、あれは『ババア臭い』と言われたに等しいと瞬時に理解していた。しかし、売り言葉に買い言葉のように言い返してなどいない。その場でぐっと堪えた自分は偉すぎると内心褒めたたえていたりする。
「……なまえってボスのことホント大好きよねえ」
「え? どの話からそうなるの……?」
「本当のことでしょ?」
「ま、まぁ……そうだけど……」
「なんで今になって照れちゃうのよ。ハッキリしなさい! と言っても、アナタとボスを見ていれば付け入る隙がないってことくらいすぐにわかるわ」
「……そんなに?」
「ええ。お腹いっぱいになっちゃうくらいよ。この間だって、急に夜中起きてきたと思ったら椅子に座ってたボスに抱きついて眠っちゃったじゃない」
「――っ! それは! もう忘れて!」
「忘れないわよ。特にあんな熱烈なキス」
 言葉にならない小さな叫び声をあげてなまえはテーブルに突っ伏した。

 ルッスーリアが話した夜中というのは、つい数日前のことである。その日は夢見が悪く目を覚ましたら、時刻は深夜の二時過ぎを指していた。  
 眠る前はXANXUSが隣で寝そべって書類に目を通しており、これから仕事にも関わらず、眠るのを見届けてくれた。
 今はもうほとんど回復しているが、なまえはヴァリアー本部で暮らし始めてからしばらくして、不眠症に悩まされたことがある。そんな苦しい時期から救いあげてくれたのがXANXUSだった。
 XANXUS自身は救いあげたという実感は無かっただろう。しかしなまえは、唯我独尊を貫いて他者に合わせて行動をしない、自分と正反対であるXANXUSの存在に救われていた。
 XANXUSはなまえが眠りにつけるまで、可能な限り傍らを離れなくなった。そのうち、なまえは宛てがわれた部屋を飛び出し、XANXUSの寝室に転がり込むようになる。けれどXANXUSはそのことに言及せず、「まじないだ」と言っておやすみのキスを落として温もりを分け与えた。毎夜そのようなやりとりをしてきた結果、不眠症は少しずつ改善されていき、回復してからもなまえは、XANXUSが隣にいなければ眠りにつけない体になってしまったのである。
 ルッスーリアが指摘した夜のことは、その習慣がまいた種だとなまえは自覚していた。
 目が覚めた時のベッドの冷たさと、XANXUSが隣にいないという喪失感で、なまえは不安に駆られた。夢見が悪かったこともあり、なまえは涙がこみ上げてきてきてしまいそうなほどにXANXUSの温もりを求めてしまう。
 なまえは寝巻き姿で裸足のまま寝室を飛び出した。向かう先は、ヴァリアー幹部がいるであろう部屋である。そこは、出発する前に暗殺計画等の最終確認をするための集合場所として使用されていた。退室する直前に確認した時刻に見間違えがなければ、まだ幹部達は任務に赴いていないはずだ。だからそこへ行けば、XANXUSがいる。
――ザンザス、ザンザス、助けて。
 ヴァリアー本部で生活するまでは、なまえの心の精神安定剤的存在はもっぱら綱吉で、その次に骸や恭弥と名前が挙げられたが、今ではそれもXANXUSただ一人となっていた。
 ペタペタと足音が鳴るのも気にせずなまえは裸足で廊下を駆けていき、目的の部屋へ到着した。頭の中で思い浮かぶことはXANXUSの姿だけ。マナーも礼儀もなにもかもを忘れて、なまえはノックもせずにその扉を開けた。
「ざっ、ざん、ざす……!」
 汗で額に張り付く前髪も息が上がっていることも気にならなかった。室内にいる幹部達の目が自分に注がれなまえはそこで初めて自分の浅はかな行動を思い知る。まるで、はじめて一人きりでおつかいをしに店を訪れたようだった。
「う゛ぉ゛お゛い゛、どうしたァ゛!?」
「シシッ、なーになまえ。なまえも殺しに行くの?」
「ム、就寝時間はとっくに過ぎているぞ」
「アラなまえ、こんな時間に起きたら美容に悪いわよ」
 幹部達から掛けられた言葉に返事をする余裕もなく、なまえは口の中で小さくXANXUSの名前を呼び続ける。
「ざ、ザンザスは……?」
「ボスならいつものところにいるじゃないの、ほら」
 ルッスーリアが指を差した方に目を向けた。探し人はすぐに見つかる。専用の豪華な椅子にふんぞり返って座り、腕を組んで目を伏せていた。
「ざ――」
「うるせぇ」
 名前を呼びかけようとすると、遮られるように言葉が被せられる。静かに瞼を上げたXANXUSの視線がなまえと重なり合った。ぶっきらぼうで温かみのない文句のような言葉であっても、なまえを安心させるのには十分すぎるくらいだった。
「なまえどーしたの。ボスに言い残し? それともセンパイ弄り?」
「う゛お゛ぉ゛い゛、どういう意味だぁ゛」
「なまえ、その格好で寝室から飛んできたの? ダメじゃない、いくら本部だからっていっても、女の子なんだから」
「……妖艶だ」
「キッモ、なまえ見んなオッサン」
「なぬっ!?」
「っ……ごめん。あの……邪魔して、ごめんなさい。……戻るね」
 幹部たちの反応で、なまえの頭は次第に冷静になり、自身の突拍子もない行動を客観的に判断できるようになっていった。
 なにをしているんだ。目が覚めたときにXANXUSが隣にいなかっただけで、任務に赴く前の、彼らの大事な時間をぶち壊した。
「なまえ」
 XANXUSに名前を呼ばれただけで、なまえは魔法に掛けられたように動けなくなる。振り返ると頬杖をつくXANXUSの瞳に真っ直ぐ射抜かれた。
「来い」
「ッ……」
 なまえはXANXUSに向かって歩き出す。脳に直接命令が下されたみたいだった。一歩一歩近づいていく度に、視界は少しずつ揺らいでいく。
 手を伸ばせばXANXUSに触れられるところにまで距離をつめて足を止めた。冷たくなったベッドで目覚めた時に感じた不安は、いつの間にか無くなっていた。
「……っ!」
 伸びてきた大きな手に、なまえは手首を掴まれ力強く引っ張られた。このままだとXANXUSにぶつかってしまう。なまえはぎゅっと目を瞑った。
 しかしXANXUSはそのような失態など起こさず、倒れ込んできたなまえの腰に片手を回して抱き上げた。なまえはよく知った体温に瞼をあげる。膝の上に向かい合わせになるように座らされたなまえは、XANXUSにすっぽりと抱きかかえられていた。
 経緯を見守っていた幹部の声が後ろの方で響いている。けれど、それらはなまえの耳に入って来なかった。
 求めていたXANXUSのぬくもりに、ようやく巡り会うことが出来た。安心感からなまえの瞳からぽろぽろと涙が零れていく。
「ザン、ザス……」
「いい加減泣きやめ」
 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹にやさしく親指で涙を拭われる。それが余計になまえの心を揺さぶり、どんどん涙が溢れてきた。
「ごめん、ごめっ……安心しちゃって」
 すぐ泣き止むからとぐりぐり目を擦る。だが努力むなしく、目尻がヒリヒリと痛むだけだった。
 さっさとこの場から去らなければならない。XANXUSにお礼と謝罪をして、膝の上から退いて、スクアーロ達にも謝って寝室に戻らなければ。
 頭では自分が取らなければならない行動を理解していても、ここから退室してあの暗くて長い廊下を歩き、寝室の大きな冷たいベッドに入らなければいけないことを想像しただけで、なまえはぶるりと身体が震えてしまいそうになった。
 XANXUSの胸に添えている手には力が込められてしまい、彼の服に皺ができる。なまえは気づいてすぐに力を抜いたが、XANXUSは見逃してはくれなかった。
「なまえ」
「? ……ひぁっ」
 両瞼に額、そして両頬にキスが降ってくる。なまえにしか聴こえないくらい小さな音を響かせながら肌にくっつき、離れていった。そして、最後にXANXUSの厚い唇は、なまえのそれを食らった。
「んむ……っ、ふ……」
 貪るような口付けになまえの思考は次第に蕩けていく。XANXUSのキスは、まじないのそれではなく、長い夜の始まりを告げる空気を孕んでいた。腹の奥底に燻る感覚を認め、どうにかなってしまう前に離してほしくて硬い胸板を叩く。しかしXANXUSはビクともしない。このままだと、別の意味で眠れなくなってしまう。目尻にじわりと涙が滲んだ。
「っぷは! も……ざ、んざす……」
 やっと解放され、なまえはXANXUSを睨んだ。澄んだ瞳に映った自分はまったく怖くなかったけれど、呼吸を整えながら気持ちを伝える術をこれしか知らない。
 XANXUSは、ほんの一瞬だけ口角をゆるやかに上げた。
「ッ……!」
 心臓を鷲掴みされたかのような衝撃が胸に走る。すうっと頬を伝って流れていった涙を拭った。
 後頭部をゆっくりと撫でまわしていた大きな手に導かれる。なまえはXANXUSの肩に顔を埋める体勢になった。
「ザンザ……っ」
 顔を上げようと名前を呼ぶと、ぽんぽんと頭を撫でられた。これはいつも就寝前に、おまじないのキスの後にXANXUSがしてくれる行為である。
 日頃の慣れのためか、なまえは気持ちよさに襲われる。撫でられているうちに、次第に瞼は閉じていき、眠りに落ちた。
 だからなまえはその後、物見の見物をしていた幹部らに、XANXUSが発した言葉を聞いていなかったのだ。

 テラスに吹き込む穏やかな風が、ルッスーリアの楽しげな声を運んでいく。
「――なまえがボスの腕の中で寝ちゃった後、ボスなんて言ったと思う? “こいつはキスすりゃ泣き止んで寝る”って言ったよ」
「っ!? えっ、う、うそ!? 嘘だよね!?」
「嘘じゃないわ、事実よ事実。もー、なまえに直接聞かせてあげたかったわ。録音しておけばよかった」
「はぅ……」
 時が経ってから真実を知るというのは、こんなにも心にくるものだったのか。なまえは火照る両頬を抑え、うんうんと唸る。それが今できる精一杯のことだった。
 ルッスーリアが知っているということは、あの夜同じく部屋にいた他の幹部も周知の事実ということになる。彼らは知っていて、私だけが知らなかった発言。だめだ、もうどんな顔をして皆に会えばいいのかわからない。
「……シチリア海に埋まりたい」 
「なに物騒なこと言ってんのよ。……それで、いつになったら教えてくれるわけ?」
「なにが?」
「ボスとの馴れ初めよ! ボスしかいないと思ったきっかけ! 愛の始まり! んもぅ、しらばっくれちゃって。全然教えてくれないじゃない」
「あー、それは……だって恥ずかしいし……」
「なにとってつけたように言ってんのよ! だったらもうちょっとその棒読みを何とかしなさい! 全然恥ずかしそうじゃないわよ!
 指輪争奪戦の時は、攫われてきて突然ボスに抱いてくれだなんて頼んでて、とんでもない子を攫ってきたと思ったのに」
「それは忘れて……」
 当時は必死だった。自分がどうしたら綱吉の役に立てるのか。綱吉が十代目最有力候補というのは、裏社会に瞬く間に広まり、何度か暗殺者が並盛にやってきたことがある。綱吉の姉という立場もあり、自身も狙われて攫われてしまう確率も非常に高かった。現に、綱吉同様になまえもマフィアから暗殺されかけたこともある。
 そこでなまえは考えた。もしも自分がこの先、綱吉のきょうだいという理由で攫われ、拷問のようなことを受けてしまった時になにができるか。それは隙を狙って逃げ出したり、言葉巧みに情報を聞き出したり、相手を翻弄したりすることだった。しかし、当時なまえは未経験だった。まずは誰かで経験し、そして、相手が”その手の人“ならば、上手くいけば対処法も身につけられるかもしれない。
 そう踏んだ矢先に、なまえは、指輪争奪戦に巻き込まれ、ヴァリアーの人質にされてしまった。その状況をタイミングが良いと考えたなまえは、XANXUSに抱いてくれと頼み込んだ。完全に勢いから出た言葉だった。
 当時の自分は、現在よりも綱吉のためにという想いが強く、弟のためならなんだってできると信じていたのだ。
「でも結局、指輪争奪戦の時は未遂だったんでしょ? ”あんな乳臭えガキなんざ勃つか”って、ボス言ってたわよ」
「乳臭い……」
「で? いい加減、教えてくれてもいいんじゃない?」
「うーん……」
「ケチねえー」
「……だって、教えたらきっと『たったそれだけのことで?』って言われちゃうもん」
  ドラマや映画の世界のように、運命の出会いや恋愛の駆け引きといったことが、自分とXANXUSの間に起こったわけではない。
「それくらいのことなの」
 しかしそれでもなまえにとって、ルッスーリアの言う“きっかけ”めいたことは、忘れられない出来事だった。

(つづく)