Commuovere


 あれは確か、綱吉が二〇歳の誕生日を迎えた日の夜のことである。初めて酒の味を知り、周囲の勢いに押されて様々な種類のものを飲み比べ、半分酔ったような状態の弟は皆に可愛がられた後、向かいの席に座ってきて語りだした。
「俺のもとに、羽根のない天使が舞い降りたんだ」
 それは、リボーンが現れたときの話だった。
 綱吉の読書の対象はほぼ漫画だ。小説や自己啓発本、または論文などは、リボーンに強制的に読めと言われない限り、滅多に手をつけない。特に小説は、漫画の方が読みやすいしわかりやすいからとあまり手を伸ばさず、稀に読んでいても漫画のノベライズ版だった。リボーンは教養のためだと言い、文豪の作品から話題の受賞作品まで、様々な小説を綱吉に読ませていた。
 教育の賜物だろうか、綱吉は年齢を重ねるごとに、詩的な抽象的表現を日常会話に含ませていった。
「羽根のない天使が舞い降りた」
 家庭教師相手にこのような表現をするのは、世界中どこを探しても綱吉だけだろう。
 綱吉はそう言ったものの、なまえからしてみると、リボーンは違った様に見えていた。
「私にとってリボーンは、羽根のある天使かな」
――だってリボーンは、私を何処にでも連れていってくれる。

   * * *

 さざ波の音が遠くから潮の匂いを運んでくる。歩けばすぐに白い砂浜と澄んだ海が広がっている。
 イタリアから約一万三千キロも離れている、ハワイ・オアフ島。観光スポットとしても名高く、ビーチをはじめ、レストランやショッピング、広大な自然と様々な魅力であふれている。
 オアフ島に数あるビーチの一つ、カイルアビーチから一ブロックの閑静な住宅地に、その邸宅は建っていた。二階建てでプライベートプール付き、ベットルームは三部屋あり、バスルームも二つという豪勢な造りである。
 なまえは、その一室にあるキングサイズのベッドで目を覚ました。
「んぅ……」
 瞼を上げる。視界に映ったのは、すっかり見慣れてしまった天井と、アロハシャツを着たリボーン。どうやらリボーンはベッドに腰掛けているらしい。意地らしく笑いながら頭を撫でられた。
「目が覚めたか?」
「うん……おはよう、リボーン」
 撫でられる感触が気持ちよくて、大きな手に頭を擦りつける。頭上でクツクツと喉の奥で笑うような声が聞こえた。
「もう昼だぞ」
「ほんとに……? んー、まだ眠い」
 ごろんとうつ伏せになり、枕に顔を埋める。半分眠りの波にたゆたいながら、頭の中でゆっくりと今日の予定を確認した。今日はボランティアで訪れている小学校に行く日でもないし、交流のある近所の奥さん達との女子会は来週である。そうすると、今日やることといえば、翻訳の仕事くらいだった。
「なんだ、今日は特に予定がないから一日寝てるか?」
「……んー」
「おい、なまえ」
「なぁに?」
 頭をポンポン軽く叩かれて眠りから呼び覚まされる。枕から顔を上げてリボーンを見上げた。
「着替えて顔を洗ってから降りて来いよ。俺様特製フレンチトーストが待ってるぞ」
「フレンチトースト……おいしそう」
 頭のてっぺんに可愛らしい音が降ってくる。
「さっさと降りて来い」
 キスを落としていったリボーンはにやりと笑って退室した。
 なまえがこのオアフ島に住むようになってから、既に四カ月が経とうとしている。二カ月前、なまえは突然現れたリボーンに『出掛けるぞ。四十秒で支度しろ』とだけ言われ、必需品だけをキャリーケースに放り込まれて、ボンゴレ本部を飛び出したのだ。
「着替えなきゃ……」
 ベッドの上で大きく腕を伸ばす。溜め息とともに腕を下ろし、ベッドから抜け出した。
 寝巻にしていたシャツを脱いで下着をつける。クローゼットを開けて、手前に掛かっていたワンピースを取り出し着込んだ。
「リボーンのとお揃いになっちゃった」
 白い花柄の黒いノースリーブワンピース。リボーンはワンピースではなかったけど、この柄はついさっき見たものだった。
 数年前にアルコバレーノの呪いが解けたリボーンは、今ではもうすっかり成人の姿である。呪いが解けた後、少しずつ本来の成人した姿に成長していった。少しずつとはいったものの、通常の発達スピードとは比べ物にならないペースで彼は呪いに掛けられた日の姿に戻った。
 大人になった本来の姿は、女性を虜にするほどの美しさと逞しさを兼ね備えていた。さらに、銃の腕は赤ん坊の姿だった頃と同じかそれ以上であり、最強のヒットマンと謳われている意味を実感した。
「アロハ柄にも慣れたなぁ……」
 この四ヶ月のうちに、非日常は日常に変化し、反対に、これまで日常だった生活が非日常になってしまった。翻訳の仕事はどこでもできるため続けられている。だが、ボンゴレから離れている今、綱吉の手伝いを一切していないため、マフィア関係のことには全く触れていなかった。
 綱吉のボンゴレ十代目ボス襲名後、なまえはこれまで通り翻訳の仕事続けつつ、力になれる時は綱吉の仕事を手伝っていた。とはいえ、戦闘や力仕事は不向きなため、綱吉が苦手とする事務仕事等の手伝いである。
 一方、最強のヒットマンであり、最強の家庭教師はというと、名目上『家庭教師』から『サポート役』となり、弟の傍らに居続けた。そして十代目ファミリーが軌道に乗ってくると、お目付け役としての立ち回りが増えていった。
 一年半ほどそれを続けると、次第にリボーンは、度々ボンゴレ本部を空けるようになった。どこで何をしているのか、誰も知らなかった。ふらっと帰ってきては「土産だ」と言って、なまえは様々な国の特産品や伝統工芸品等を贈られる。またヒットマンとしての仕事を始めたのかとなまえは考えたが、リボーンに訊いてみても答えは教えてくれなかった。
 リボーンからの土産で自室が染まってきた頃、なまえはリボーンに連れ出された。これまでに短期旅行という名目で訪れた国は、イギリスやドイツ、フランスやスペイン等、ヨーロッパ中心である。
 当時はまだ、一旦ボンゴレ本部に戻って、しばらく日数を開けてから再び出発といった流れで、一回の旅行日数は、長くて二週間。しかし、今回は違う。二週間どころか、二ヶ月も滞在している。
 リボーンがなぜ自分を旅行に連れ出すのかも、どうして今回は二ヶ月もの間滞在しているのかも、なまえは見当がつかなかった。
――新婚旅行ですらないのに。それどころか私たち、恋人ではないし。 
 触れ合ったりはするが、恋人らしいスキンシップはあまりしない。頬にキスとかはするし、抱きしめあったりもする。しかし、唇や肌を重ねたことは一度もなければ、真剣に愛を囁かれたこともない。囁かれたとしても、それはまるでイタリア語を習得するために行っていた『恋人ごっこ』の延長線のように、冗談で言っているような言葉だった。
 リボーンの旅行に付き添うことになってから、なまえは彼との間柄について度々頭を悩ませた。けれど考えたところで、リボーンの自分に対する気持ちや、旅行の真意でさえ掴めずにいる。本人にこの悩みを打ち明けてみようとしても、どう伝えたらいいのかわからず、いつも口を閉ざしてしまう。
――それに加えてこの旅行も……。
「なまえ! 冷めちまってもいいのか?」
「はーい! 今行く!」
 急いで髪を結って部屋を後にする。
 リボーンとの関係も気になるが、このハワイ旅行にも、なにか考えがあってのことではないのかとなまえは考えていた。

   *

 フレンチトーストを食べ終え満腹になったなまえは、リボーンの淹れた珈琲を味わっていた。この珈琲は、リボーン自ら焙煎したものである。
「美味しい」
「俺が煎れた珈琲だからな」
 その反応が当たり前だとでもいうようにリボーンは鼻を鳴らす。赤ん坊の姿の頃は、中身は成人だと知っていても、その得意げに姿を愛らしく見えた。しかし、元の姿に戻ったリボーンは、同じ反応でも全く印象が異なる。
「リボーンはなんでもできるね」
「伊達に長生きしてねえぞ」
「リボーンが言うと、なんだか貫禄がある」
「本当のことだからな」
 確かにそうなのだけど。実年齢はわからないが、きっと容姿がそれに伴っていないだろう。数年の付き合いであるから、リボーンだからと一言で済ませてしまうけれど、ちぐはぐになる時はある。
 リボーンは、自慢のもみあげをくるくる弄りながら、笑みを深めている。おそらく今こちらが考えていることを、手に取るように読み取っているのだろう。
 リボーンはアルコバレーノの呪いにより、赤ん坊化して長いこと不老状態にあった。実年齢は非公開だが、ユニの祖母と交流があったことを考慮すると、かなり歳上だと予想がつく。
「結局、リボーンは何歳なの?」
「歳を聞くのは野暮ってもんだぞ」
 毎度のごとくはぐらかされてしまい、なまえは頬を膨らませた。リボーンは口角を上げる。本来の姿に戻り、容姿や声の高さが変わっても、笑い方は赤んぼの頃となにも変わりはしなかった。
「あと二、三年したら、リボーンに会って十年になるんだね」
 十年。漢字で表せばたったの二文字であるのに、声に出すと重みが付きまとう。
「……リボーンがやって来た時のこと、今でもハッキリ覚えてる」
 なまえの口からポツリと呟かれた言葉に、リボーンはぴくりと眉を反応させる。しかし、珈琲を見つめるなまえは彼の様子に気づくことはなかった。それどころか、自身の声が悲壮感を漂わせた響きになっており、しばしば目を丸くした。
「“前世”のことを思い出してから……綱吉が生まれてからは、それ以上に、私……リボーンがやって来るのを、ずっとずっと待ち望んでいた」
 言葉が堰を切ったように唇から零れていく。
 リボーンは、誰にも言えなかった苦悩を打ち明けた初めての人。そして、“前世”のことを含めて、“私”を肯定してくれた相手である。しかし、彼にはどこまで聞いてもらっただろう。真実を打ち明けたあの夜、リボーンに聞かせたのは、すべてではなかったように思う。
「思い返すとね……つっくんだけは、私を裏切らないでいてくれる。そんな思いが、心のどこかにあったのかもしれない。……そんなこと、あるはずないのに」
 リボーンがやってくるまで、なまえはなるべく綱吉の傍にいるようにした。綱吉の面倒をみる延長線上にあったことだから、苦ではなかったのだ。むしろ、綱吉が自分を追いかけてきて、まっすぐな眼差しで見つめてくれることに、喜びを感じていた。
 どんなにダメツナと称されるような弟だとしても、困難に立ち向かうたびに綱吉らしく成長する未来がくると知っていた。だから、リボーンが来るまでの間、綱吉の自己肯定感を育めるよう、どんなに小さなことでも褒めて自信に繋げられるようにした。遊ぶ時も宿題をする時も、常に傍で見守った。
 しかしそれも、リボーンが家庭教師として沢田家に居候することになると、終わりを告げた。
「リボーンが来た時、“ああ、私の役目はこれまでだ”って思ったの。リボーンに任せておけば大丈夫。きっと、つっくんは今まで以上に楽しく過ごせる未来が訪れるって。私がいなくても大丈夫って」
 これから綱吉が様々な人と関わると踏んでい。だから、少しずつ弟との時間を減らしていこう。弟は少しずつ友人と過ごす時間を増やし、人を思いやる心を養っていくはずだ。そこには、私はいなくても成り立つ世界がある。自分の存在が邪魔になる時だって訪れるかもしれない。
「だから、つっくんとは距離を置いて、見守っていこうって思った」
 手始めに、アルバイトを始めた。母は二つの返事で了承してくれた。
 それまで全く遊ばなかったクラスメイトとも、一緒に出掛けるようになった。弟を馬鹿にすることさえあった男子とも、話すようになった。そうしていくうちに、徐々に沢田家で過ごす時間は減っていったのである。
 一日を終える度、うまくいくだろうと思っていた。思い込んでいた。しかし、長いこと染みついた習慣のようなものは、すぐに自分から抜け落ちることなどなかった。
「……全然、楽しくなくて。クラスメイトと仲良くなってみても、誘われて男の子と遊びに行っても、何一つ楽しくないの」
 クラスメイトと話していても、青春と流行を闊歩する女子と自分は相容れないのだと、なまえはすぐに気づく。流れに任せて、クラスの男子とお付き合いをしたことだってあった。
「でも、その時に気づけたの。私はずっと、『綱吉のため』って言いながら――結局は、私自身のために、綱吉と一緒にいたんだって」
 綱吉が生まれた時に走った衝撃と感動の中に、自身が『沢田綱吉』にならずに済んだ未来が訪れたことへの、安堵が混ざっていた。そのことに、なまえはずっと無意識のうちに気づかないふりをしていた。
 これから壮絶な人生を送ることになる綱吉に、そのような想いを抱いていたなんて、口が裂けても言えるはずなかった。だって、これではまるで、わが身の可愛さに弟を生贄にするようなものだ。綱吉は、十代目ボスになるまでの間、様々な困難にぶつかり、苦悩することになるのだ。
「私がいなかったら、綱吉は、もっと自由に生きられたんじゃないかって……正直、思わない日はなかった」
 勉強はできる方であった。けれど、成績が良いことが周囲に伝わると、「姉と弟でデキが違い過ぎる」と、綱吉は後ろ指をさされ嘲笑われることがあった。それ以降、なまえは授業や試験は手を抜くようになる。一度そのことを恭弥に指摘されたことがあるが、特に希望している志望校はなかったため、素知らぬ顔をして貫き通した。
 また、高校進学において、徒歩圏内であった並盛高校に進むことを諦めた。並盛高校は、並盛中学校からの進学者が最多である。つまり、綱吉のことをバカツナだと揶揄したり、それを知っている同級生が進学する可能性が高かった。
 並盛高校と並盛中学校は年に数回、交流行事が設けられることもある。その際、綱吉が恥をかかされることだって考えられた。そのためなまえは、同級生があまり志望校にしていない高校へと進学したのだ。だが、細心の注意を払ったとしても、風の噂で沢田姉弟の話を知った高校のクラスメイトは存在した。
「もし、“前世”のように、綱吉が一人っ子で……」
 きょうだいの有無、きょうだい関係は、個人の人格を左右する。遠い記憶の彼方にいる“前世”の綱吉は、果たして今と同じような彼だっただろうか。異分子に他ならない姉という存在がいる沢田綱吉は、彼らしく生きてこれたのだろうか。もう“前世”で見聞きした綱吉のことは、霞がかっていて思い出すことができない。
「私が、存在していなかったら――ッ」
「いい加減にしろ」
「っ!」
 ずっと黙っていたリボーンは、テーブルに身を乗り出して、なまえの顎に手を伸ばす。
 リボーンにより顎を挟むように掴まれたなまえは、声を出すことさえ叶わなかった。
「俺が慈しんでいる女を悪く言うヤツは、それが本人であっても許さねえぞ」
「っ、り……ぼーん」
 顎から指が離れていく。しかしなまえはリボーンから目を逸らすことができなかった。
――どうして、リボーンがそんな顔をするの。
 静かな怒りを孕んだ先ほどの言葉とは裏腹に、リボーンは形の良い眉を歪め、唇を引き締めていた。彼の瞳は、いつも太陽のようにキラキラと輝いているのに、今は陰っていて雨が降ってきそうだった。
 リボーンの指先がそっと左頬を撫でていく。リボーンの手つきに、まるで壊れ物になったかのような感覚に陥る。
「お前はなにも悪くない」
 リボーンの温もりが触れた肌と聴覚に浸透して、心がふっと軽くなった気がした。なまえは自身の頬を撫でるリボーンの手を縋り付くように握る。
「ねえ、リボーン」
 リボーンの視線を感じる。言葉を返さないのは、きっとこの後に話が続くことを見越しているのだろう。
「私、これからも……綱吉の傍に居て、いいのかな」
 左手から力が抜けて、指先がリボーンの大きな手の武骨な部分をなぞり、下りていく。
 言葉の最後は声にすらならない音だった。誰かに答えを貰わなければならない問いではないのは、重々理解している。これで、「傍にいてはならない」と返されたら、心臓がひしゃげた音を鳴らすところだった。容易に予想がつく。
 自信が持てなかったのだ。これから先、綱吉の傍にいてもいいのか。彼が産まれた時に抱いた、自分が『沢田綱吉にならない未来』への安堵感。償いのように捧げてきた人生。このような後ろめたさを抱えて、十代目ボスとして軌道に乗り始めた弟に、これからも今まで同様に接していいのだろうか。
「なまえ……」
 指先がリボーンの手から離れる直前、彼はくるりと手首を回して、なまえの左手を甲から包み込んだ。鮮やかな手際になまえが目を瞠る。リボーンは彼女の手を口元に持っていき、手のひらに唇を押し当てた。
「りっ、リボーン?」
 伏せていた瞼が上がり、切れ長の双眸が上目でなまえを見つめる。いつになく熱を隠し持ったような視線に、なまえの鼓動は速足となる。
 時間が流れていることを忘れてしまいそうなリボーンの行為は、祈るように響いたリップノイズにて幕を閉じた。リボーンはこれまでの空気を払拭し、何もなかったかのように口を開く。
「なまえ、この旅行中、ボンゴレの誰かと連絡はとってたか?」
「えっ? ううん、してない。忙しいだろうから。翻訳の仕事の方は、やりとりしてるけど……」
「それは、ツナにもか?」 
「うん。それこそ、つっくん忙しいし、邪魔したくないから。……もう一年くらい、ゆっくり話せてないんじゃないかな」
 リボーンの質問に答えながら、なまえは疑問を抱いた。リボーンの言葉により、話の流れは突然変化する。今どうしてそのことを訊かれたのか、なまえは答えが思いつかなかった。
「……弟の方が重症か」
「ん?」
 椅子に座り直してエスプレッソを味わった後、ぼそっと呟かれたリボーンの声は、珈琲の香りにかき消される。なまえの耳に届くことはなかった。首を傾げたままのなまえに、リボーンはニヤリと笑みを浮かべる。
「なまえ。俺がこれまでお前を旅行に連れ立たせたのはな、今回のためだ」
「……どういうこと?」
「ずっと気になってたんだろう? なぜ俺が旅行に連れ出すのか」
「そうだけど……」
「答え合わせをしよう。旅行に連れ出した目的は――お前ら姉弟それぞれに、きょうだい離れさせるためだ」
「……きょうだい、離れ?」
 想像すらしていなかった回答に、なまえは目を丸くした。てっきり、ボンゴレで近々大きな仕事があって、巻き込まないために旅行へ連れ出しているのかと思っていた。そのくらいしか思い浮かばなかったのだ。しかし、なまえの予想は大いに外れる。
「どういうこと?」
「そのままの意味だ。なまえとツナ、二人とも、互いのことを意識しすぎているおかげで、今後に影響が出てくると俺が判断した。ツナがボスになるまでは、どう転ぶか見ていたが、どうにも良い兆しは見えりゃしねえ。だから、今回が最後のチャンスだと考えた」
「意識、しすぎ……? 私はともかく、つっくんも?」
「ああ。なまえがツナを意識しているのとは、また別のモノだがな。それに、さっきの話を聞いて、ツナのほうが重傷だってことがわかった」
 別のもの。それに、重症。なまえは口の中でリボーンの言葉を繰り返す。抽象的すぎるリボーンの言葉は、なまえには暗号のようにしか聞こえない。
――それに、綱吉が私を意識していた? 
 どうして意識する必要があったのか。目障りだったから? 構いすぎたことがあったから? なまえの頭の中では様々な憶測が飛び交った。
「意識しすぎって、私が、つっくんに構いすぎてるとか? 手を煩わせてるとか、そういうこと?」
「いや、違う。……こればかりは、ツナ本人がどうにかしなきゃなんねぇ課題だ。悪いが、俺からはこれ以上、教えられない」
 “課題”という言い回しに、なまえはピクリと反応した。綱吉の課題がリボーンの言った通りなのだとしたら、この家庭教師は、姉の課題も設定しているに違いない。
「……もしかして、私が今、これまでのことを話すようにしたのも、課題だった?」
「いいや、それは違う。むしろ俺は、ツナがいないところでもなまえがそこまで考えて生活していることに気づかなかった。……気づいていれば、もっと早く、俺も何かできたかもしれねえが」
「ッ、そんなことないよ。これは私の問題であって――」
 自分の力で、どうにかしなければならない問題だった。これは自分と綱吉、つまり姉と弟の間での話である。だから、リボーンは気を揉む必要は無いのだ。
「ああ、そうだな。なまえの問題ってことは否定しない。結局のところ、自分自身で悩み苦しみながら答えを見つけなきゃ、身に染みねぇもんだ。
 だからなまえ。今回お前は、苦しみながら、考え抜いて答えを見つけようとした。しかも、なまえが一番嫌っている、“不確定な未来への不安”と向き合いながらだ」
 なまえは喉の奥が震えたことに気がついた。胸の奥が握りつぶされたかのような錯覚を覚える。
 リボーンに言われた言葉は、心のどこかでずっと求めていた内容だったのかもしれない。『沢田なまえ』として覚醒してからというものの、ずっと一人で運命と闘っているようだった。理解してくれなくてもいい。他人に理解できるわけがない。しかし、せめて今置かれている状況を、身を置いていた境遇を知ってほしかった。認めてほしかった。それだけで、これまでの苦労がすべて報われるとすら考えていた。
 なまえはこの時、人生において初めて救われた気がしたのである。
「なまえ、お前は大切にされてもいいんだぞ」
「っ……!」
 息の仕方を忘れた。まるで時間が止まったようだった。
「……どっ、どうしたのリボーン。急に。私、大切にしてもらってるよ?」
「知ってる。ボンゴレにはお前のことを嫌ってるヤツは一人もいねえ。俺が言いたいのは、“自分自身に”大切にされる権利のことだ」
「自分、自身……?」
「なまえ、お前が抱える呪いにも似たツナへの思いの丈……俺が解放してやるのも一つの手だが、こればっかりは本人の考えが第一にくるべきだろう。
 だから、確認させる。そのために、これまでずっと旅行と称して、ボンゴレから連れ出したんだ。ツナが近くにいちゃあ、終止符を打つにも意識しちまってできないだろうからな」
 リボーンはおもむろに立ち上がる。椅子で床が軋んだ音やリボーンの靴音が、身体の中で心拍を大きく響かせていく。
「なまえは、俺がこれまで出会った中でも片手に入るほどイイ女だが、可哀想な女だとも思った」
 目の前までやって来たリボーンを見上げる。じっと見降ろされて、自然と拳には力が入った。
「他人を思って全力で力になろうとするのに、自分のことは見向きもしねぇ、可哀想な女だと」
 さざ波が遠くで鳴っている。カーテンがゆらゆらとはためき、海風を受け入れていた。
 しばらくの間、二人とも動かずにただ見つめ合っていた。世界から切り離されて、二人だけ時間が止まってしまったようだった。
 リボーンが瞼を閉じる。瞬きよりも長く瞑っていた。数秒間の別れを告げて、再び瞼が上がり、彼の双眸と視線が絡み合う。少しだけ口角を上げたリボーンは、しなやかな身のこなしでその場に跪いた。
「……俺はな、なまえ。お前を幸せにする自信は充分ある」
「リボーン……?」
「俺との関係についてもずっと考えてきたんだろ。俺はこれから先、なまえに添い遂げる覚悟はできてるぞ。お前がこの手を取るだけだ」
 リボーンの手が差し伸べられる。
『私にとってリボーンは、羽根のある天使かな』
 以前、綱吉に伝えた言葉を思い出した。ボンゴレとしての自分の立ち位置、振る舞い方、弟との関係……。それらを自分なりに考えて動いた時、リボーンはなにも言わず見守ってくれた。いつも気にかけてくれて、時には話を聞いてくれた。リボーンは、なまえが立ち止まった時、何処にでも連れていってくれた。
 恋人ごっこをしてイタリア語をマスターできたのも、リボーンのおかげ。綱吉がボスになるまでの家庭教師役だったはずなのに、現在も弟やボンゴレに寄り添っていてくれている。今回のような旅行に連れ出してくれて、いろいろな景色を見せてくれた。知らないことを教えてくれて、身をもって大事なことを教えてくれる。
――私は……。
 ゆっくりと手を伸ばした。彼の肌に触れる寸前で指がピクリと動き、躊躇する。リボーンの顔色を窺うと、変わらず彼は微笑んでいた。
 いつの間にか止まっていた息を静かに唇の隙間から吐き出す。ほんの少し、指先を伸ばす。爪先が彼の手のひらに当たり、次に指の腹が触れた。
 顔がじわじわと熱くなっていくのが、自分でもわかった。指の腹を馴染ませるように、リボーンの手のひらにくっつける。顔の熱が指一本ずつに広がっていくのを実感して、知らないふりをしようと力を込める。
「いいんだな?」
 やわらかい声とは裏腹に、なまえとの隙間を埋めるほど、ぎゅっと手を握られる。リボーンの体温がとても熱く感じる。顔も指先も、身体すべてが熱に侵されてしまったような感覚になまえは陥った。このまま繋いだ手から溶けあってしまいそうで、なまえもぎゅっと力を込める。
「離れたくても、離してやらないからな」
 胸の奥から温かいものがあふれ出してきそうで、なまえはぐっと唇を噛む。しかし、立ち上がったリボーンの、繋がれていない片手が伸びてきて、親指でそれをやんわりと制された。指の腹が右から左に唇を撫でていくと、痛みは絡め取られてしまう。
「……拒むのなら、これで最後だぞ」 
 吐息に近い低い声が、耳朶をなぞっていった。
「リボーンと、一緒にいたい。これから先、ずっと……んぅっ」 
 唇を掠めていった親指が顎にかけられたのと、続く言葉を食べられたのは、ほぼ同時だった。
 初めて一番近くて見たリボーンは、これまで見た彼の中で一番ぼんやりとしているのに、一番美しく、かっこよかった。
 物語に出てくる結婚式での誓のキスは、どんな感じなのだろうか。神聖な儀式のような唇の触れ合いは、柔らかな感触の裏に甘さを残し、そっと離れていく。
「――やっと、俺の元に来てくれた……」
「っ!」
 抱き締められて頭のてっぺんで落とされた小さな呟きは、安堵の息で締めくくられたことに、なまえは気づいてしまう。我慢していた涙が視界を揺らめかせて、瞬きをした途端に零れていき、なまえはリボーンの胸に顔を埋めた。
「……なまえ。ツナの傍にいていいのか、と言ったな。本人に訊くのが手っ取り早いぞ」
「それは、そうだけど……」
 至極真っ当な回答に、返す言葉が見当たらない。ずっとなまえを悩ませている綱吉の関係については、リボーンだからこそ打ち明けられたのだ。
 小さな火花のような痛みが、胸の奥で飛び散る。直接本人に尋ねるには、勇気が足りなかった。
 しっかりしなければと自分を叱責しても、あと一歩を踏み出すことがなまえには難しかった。
「なまえ、お前に客だ」
「……え? どういうこと……」
 首を傾げているうちに、リボーンの言った通り、玄関チャイムが響いた。
「行ってこい」
 背中をそっと押されたなまえは、玄関に向かう。ドアスコープで相手を確認した。
「っ……!」
 なまえは急いで鍵を解除して扉を開く。そこには、汗だくになって、肩で息をする弟が立っていたのだ。 
「つっくん!? どうしたの、こんな……」
「なまえっ! 俺、伝えなきゃ、ならないことがっ……沢山、あるんだ。だからっ……ここに来た。聞いて、くれる……?」
 綱吉の言葉で、なまえはすべてを悟った。羽根のある天使が、この幸福と未来を導き、巡り合わせたのだと。
「――うん。私も、聞いてほしいことがあるの」
 なまえは再び涙が零れそうになった。

19,06.14