ネイルをする1



 ストレスと多忙と連勤に打ち勝ち、明日はようやく待ちに待った休日である。翌日が休みであると、決まって寝支度を済ませた後、爪先に色を乗せた。マニキュアを塗ることは、なにかに集中することで、仕事に関する考えを切り替えるのにちょうど良かったのだ。
「……泥じゃん」
 乾いたダークブラウンの爪先は、泥遊びをした後のよう。悲しい呟きが口から消えていった。
 マニキュアを塗るのは上手ではない。初心者向けでもある、塗りやすいハケを使用されているものを使っていても、必ず爪以外のところに色をひっかけてしまう。上手く塗れる時だってある。決して不器用なのではない。
 ダークブラウンのマニキュアは、商品紹介の写真を見た時に、大人っぽくて落ち着いていて、綺麗だと思って購入した色だった。写真では洗練された指先に見えたのに、なぜこんなにも幼稚に見えるのだろう。塗り終わった指先を見つめていると、自然と溜息がこぼれる。
「可愛くない……」
 上手に塗れなかった事実に加えて、落ち着きすぎた色味。普段好んで爪に載せるのはピンク系の明るく可愛らしい色だった。可愛く塗れた爪は、見惚れて胸が高鳴ってしまう。仕事中はできない贅沢を、休みの日は一日中満喫するのだ。
「やっぱり落とそう」
 腕を伸ばして除光液とコットンを引き寄せる。液体を浸したコットンを爪先に乗せる。爪の周りに付着した泥のようなマニキュアも丁寧に拭き取った。
「どうしよう、これ」
 購入したらいいものの、好みと違ったために、このダークブラウンのマニキュアはきっともう爪先を踊らない。しかし、十個の爪にたった一回だけ載せられたマニキュアは、まだたっぷりと残っていた。
「捨てるの勿体ないし……そうだ!」
 マニキュアをひったくるように持ち、足音を鳴らして部屋を出た。
 リビングに行くと、タイミング良く入浴後の建人が天気予報を確認していた。
「七海さん、七海さん」
「まだ起きてたんですか」
「明日休みだから!」
 休みの嬉しさからにんまりしてしまうと、建人も力を抜くように微笑んだ。休みの嬉しさを理解している建人は、自分が翌日休みであっても、自分のことのように喜んでくれる。
「それはよかった」
「それで……あの、お願いしたいことがあって」
「ん? 何ですか?」
 建人は首を傾げる。乾かしたての髪がさらさらと傾げた方向へ流れていった。
「えっと……」
 手のひらの中にあるマニキュアをぎゅっと握る。建人の顔を見上げられず、ゆるゆると視線を落とした。
 足先のコーラルピンクが蛍光灯にあたり、ピカピカ光っている。塗るのが苦手であると知っていて、「良く塗れている、可愛いですね」と建人が褒めてくれた色だった。思い出して足の指先がまるまってしまう。
 もじもじしていると、建人はソファに座って左隣をぽんぽんと叩いた。じっと見つめてくる双眸は、堅苦しい空気はなく、純粋にお願いの内容が気になっている様子だった。
「おいで」
「ン゛ッ……うん」
 片手は拳を握りしめたまま、両手で顔を隠した。言葉の破壊力が強すぎて、受け止めるまでに少しだけ時間がかかった。破顔した顔が戻るようになったころ、建人の隣に座る。
「爪」
「えっ!?」
「塗ったんですね」
「あっ、はい! うん、そう、です」 
「驚くことあります?」
「いや、あの、ないっ、あります」 
「っ、どっちですか」
 建人の低い吐息が空気を揺らす。口から吹き出されたそれは、柔らかく弾んだ。
 右手の中にあるマニキュアを握ると、少しだけつるっと小瓶が滑った。手汗をかくほど握っていたらしい。力を緩めたいけど、緩めた瞬間にするっと小瓶を落としてしまいそうで、できなかった。
「塗った。塗ったんですけど……」
「ん? 上手に塗れていますよ」
「うぇ」
 左手を掬い取られる。爪の色がよく見えるよう、灯りにあてられた。爪先を少しずつ左右に動かしながら、密かに光るラメの様子もじっと見つめている。
「うん、可愛い」
「〜〜! むりぃ……」
「悶えタイムですか?」
「ダメです、その声と顔での可愛いはダメです」
「そうですか? ……可愛いですよ」
「あ゛ぁ゛あ゛……待ってくださいむりむりむり」
「ははっ」
 左手を取られているため顔を隠せず、右手の拳を額に当てる。建人は耳元の近くで、囁くように二度目の可愛いを伝えてきた。完全にこうなるという反応がわかった上での行動だ。確信犯である。
「ははっ、じゃないんですよ……むりぃ」
「それで? 右手は見せてくれないんですか」
「えっ! いや、あの」
「その手の中にある物が、“お願い”?」
「……そうです」
 完全に建人にバレている。お願いの内容自体はまだ知らないだろうけれど、手の中の物がお願いに関係していると気づいている。こうなったら逃れられないことはよく知っている。
「あの、これなんですけど……」
 膝頭を建人に向けて座り直し、右手を前につきだす。ゆっくり開いて中のものを見せた。
「マニキュア?」
「これ、さっきつけてみたんですけど、似合わなくて、好みとも合わなくて」
 建人は話を聞きながら小瓶を持ち上げて中身を眺める。
「確かに、好みではなさそうですね。似合いそうですけど」
「ン゛ッ」
「え、今の言葉のどこに反応するところあります?」
「すべて……」
「はあ」
 建人はよくわからないと肩を竦めて、話を戻した。
「それで、これが“お願い”なんですか?」
「あの、はい、えっと……七海さんが、よかったらなんですけど」
「ええ」
「その……七海さんに、塗りたい、なって……」
「は……?」
「あ、足に! 足なら! 誰にも見えないと思って!」
「足、ですか」
「あー、やっぱり……だめ、ですか……?」
 ずっと建人の顔を見ていられなくて、視線があちこちにいってしまう。しかし、こちらからお願いをするのだ。相手の顔を見なければいけない。恐る恐る建人を見上げると、眉間に皺を寄せている建人と視線が絡みあった。
「……理由を聞いても?」
「塗りたいから……?」
「……自分の爪は」
「もう塗ってるし……?」
「自分の好みの色ではないから、と」
「私より七海さんの方が似合うと思って」
「……私が爪を塗るメリットは」
「メリット……」
 メリット。シャンプーじゃないほうのメリット。建人が爪に塗るとして、プラスになること。
 一番に思い浮かんだのは、爪の補正。けれど、それなら透明のでもいいだろうと、建人は突っぱねそうだ。
「……私だけ、七海さんが足の爪を塗ってること、知ってるっていう……メリット」
「それは……なまえのメリットでは?」
「んんん……でも、塗りたい……」
「どうしても、私でなければ駄目なんですか?」
「うん。七海さん絶対似合うから」
「似合う人なら誰でも良いのでは?」
「ちがう、七海さんだから良いの。七海さんじゃなきゃダメなの」
「……まあ、足だけなら」
「本当!? やったー! ありがとう七海さん! 優しい! 天才!」
「天才は関係ないのでは?」
「優しさの天才!」
 飛び降りるようにソファを降りて、建人の脚の間に座り込む。マニキュアを返してもらおうと手を伸ばすと、建人は片手で口を押えていた。
「え、やっぱりやめます?」
「いえ、大丈夫です。そこに座るのかと思って」
 建人の足をソファに乗せてもらって塗るのもありだったが、塗らせてもらう以上、建人はあまり動かないでもらったほうが楽かと考え、ラグの上に座ったのだった。
「嫌でした? こっちの方が七海さん楽かなって思って」
「いえ、天才です」
「はあ……?」
 よくわからない返事をされて、返す言葉が見当たらない。謎の反応をしている建人はそのままに、さっそくマニキュアを塗ろうと、建人のスリッパを抜き取った。
 建人の脚が長すぎたため、後ずさって場所を調節する。足元に座りすぎてしまった。
「スリッパ取ってもいいですか?」
「もう取ってるじゃないですか」
「へへ、足元失礼しまーす」
「はい、失礼されます」
 建人の足首に触れて持ち上げる素振りをすると、足を上げて動かしやすくしてくれた。座り込んだ自分の足の上に、建人の大きな足を乗せる。あまり重さは感じないため、建人が気を利かせてくれているようだった。爪を塗りやすいように角度を調節して、ネイルポリッシュのキャップを開ける。
「塗ってもらうためとはいえ、なまえに足を乗せるのは気が引けますね」
「そうですか? なんか王様みたいで絵になりますよ」
「なまえは私をなんだと思っているんですか」
「推し」
「…………」
 ハケが暴れて爪以外に色を載せないよう、自分の爪を塗るよりも細心の注意を払いながら、ダークブラウンの液体で桜色の爪を隠した。親指から小指へかけて順番に塗っていき、乾いたら二度目を塗る。そして片足が完成すると、もう片方の足も持ち上げてもらい、丁寧に塗っていく。
 塗っている間、建人はじっと静かに見つめてきていた。視線がくすぐったかったが、下手な塗り方はできないため、手元に集中し続けた。
 十個の爪が塗り終わる。キャップをしっかり閉めて、足をラグの上に乗せてもらう。青い血管が薄らと見える、彫刻のように白いけれど、骨の形がわかるガッシリとした足。爪先に彩られたダークブラウンが、建人の知性と『大人オブ大人』と呼ばれる雰囲気をさらに醸し出していて、最高に似合っていた。
「素敵! 七海さん天才! 似合ってる! やっぱり似合うと思ってた!」
「綺麗に塗ってくれたからですよ」
「自分の爪塗るより頑張った! でも七海さんがかっこいいからです!」
「どうなるのかと思っていましたが、塗ってみると少しだけ景色が変わったように思えますね」
 爪先を眺める建人の表情が柔らかく優しくて、心臓が暴れだしそうになる。ポケットにいれていたスマホを取り出し、カメラを起動させた。
「写真撮っていいですか? だめ? 撮っていい!?」
「事務所を通してください」
「事務所ってどこですか!? 伊地知さん!? それともゴジョーさん!?」
「違います。真に受けないでください」
「誰にも見せないから! 見せる人もいないですけど! 七海さんとの秘密にするんで!」
「……なまえとだけの秘密なら、悪くないですね」
「ん゛っ」
 意味もなく建人の足を連写してしまった。建人には言わずに、アングルを調整して建人の顔も映るように撮った。きっとバレているけれど、何も言ってこないので許してくれたのだろう。上手く撮れた写真にニヤニヤしていると、建人の手が頬に触れた。
「エ゛ッ」
「その声、どこから出たんです?」
「シッ、しんぞう」
 前屈みになった建人は軽く笑うと、そっと頬を撫でてくる。擽ったくて肩を震わせると、頬にかかった髪を耳に掛けられた。
「そろそろ、隣に戻ってきてくれませんか?」
 頬を撫でた手は後頭部に移動して、髪を撫でつける。
「下から見上げられるのもいいですが、やはり隣にいてほしい」




short 望楼