がんばりました



 星座による性格占いによると、蟹座の恋愛傾向の一つに、奉仕があるという。好きな相手のためなら、どんなことでもしてあげたいと考え、それが愛し方へと変化していくのだとか。
 ネット記事に掲載されていた特集を思い出しながら、なまえは想い人のことを考えてみる。確かに、七海建人という男は、甘やかしてくれる人間だった。それも、かなりの筋金入りである。甘やかし選手権なるものが存在していたら、もはや殿堂入りすらもできるだろう。
 もともとなまえは甘えたい気質である。建人のためになにかしてあげたいという気持ちも存在する。しかし、それ以上に建人に甘やかしてほしいと考えてしまう。
 大きな手のひらで頭を撫でてほしいし、「いい子」だの「頑張りましたね」だのと囁いてほしい。大きな身体ですっぽりと抱きしめてもらいたい。何気ない一日の出来事を聞いてほしいし、落ち着き払ったその声で相槌を打ってほしい。
 それもあってか、建人との関係は良好な方だと考えている。
 甘えたがりなため、もしかしたら建人は無理をして甘やかしてくれているのではないか。一抹の不安を覚えたことは何回もある。
 勇気を出して本人に訊いたことがある。しかし、あまりにも情熱的な言葉が返ってきて、何も言えなくなってしまった。
「私がやりたくて、甘やかしているんです。外ではしっかり者のあなたが、家に帰ってくると私なしでは何も出来ないくらいの状態になっているのは、恋人として非常に気分がいい。なまえには、私がいないと生きていけないほどになってほしい……というのが本音ですが」
 あまりの衝撃的な言葉は、録音していなくても一言一句間違えることなく脳内に保存された。いつでも再生できる。
 建人の言葉を素直に受け取ったなまえは、それからというもの躊躇なく、建人に甘えてしまっている。
 後ろから建人の大きな背中に抱きついてみたり、隣に座っている建人の手に断りなく触れてみたり、腕にすり寄ってみたり。その度に建人はイライラしたりすることなく、「どうしました?」と微笑んで訊いてくれる。その瞬間が、なまえはたまらなく好きだった。

 帰宅早々、なまえは建人の挨拶にも返さず、大きな身体に抱きついた。
「んンー……」
「おかえりなさい」
「んぅ」
 建人は食事の準備をしてくれていた。帰る時間を伝えると、ちょうど家に着くタイミングを見計らって夕食を準備してくれる。呪術師としての仕事が忙しい合間を縫って、可能な限り家事をしてくれる建人には頭が上がらない。
 大きな背中に頭をぐりぐりと押しつける。太い腰に巻いた腕に、建人が離れていかないようにぎゅっと力を込めた。
「お疲れ様です」
「んぅー……ななみさん」
「はい」
 腹の前に回した手をぽんぽんと優しく撫でられる。建人の温もりを感じて、なまえは余計にぐりぐりと背中に頭を擦り付けた。
「七海さん。七海さん、ななみさん、ななみん」 
「最後のは聞こえなかったことにします」
「んんー」
 名前を呼ばれるのに合わせて、建人の手がなまえのそれを撫でる。手の甲に触れた指先が恋しくて、腕に込めていた力を緩めた。建人の体との間に隙間ができる。
 ぴったりと彼とくっついていたい気持ちと、大きな手に包まれたい欲がせめぎ合っていた。指先をもぞもぞと動かしていると、建人の指先によって、手のひらが下を向く。背中につけていた額を少しだけ離し、瞼を上げた。
 なまえの手のひらに、滑らせるように建人の手のひらが触れて、すり合わさる。力の抜けた一本いっぽんの指先の間に、節くれだつ指がするりと入り込んだ。硬い指の腹が、手の甲の中心を少し超えたところを撫でる。
「おかえり」
「……ただいま」
「顔は見せてくれないのですか」
「……無理です」
 なまえは再び建人の背中に額を擦りつける。建人のゆったりとした心拍が心地よい。ゆるりと顔の向きを変えて、耳をぴったりと背中につけた。逞しい筋肉の奥で、とくとく心臓が鼓動している。
「私の顔は見たくない?」
「見たいぃぃい」
「ふっ、はは、即答」
「その言い方ずるいです」
 耳を離して頭頂部で建人の背中をぐりぐりとする。抗議の意が伝わっているかと思えば、肩を揺らして面白そうに笑うだけだった。
――そんなこと言われたら、見たくなっちゃうじゃん。ずるいよ。
 建人は自分の容姿がどれほど整っているのか、他者の目に留まりやすいのかを理解している。そして、なまえが建人の容姿が好みだということも自覚済みだ。
 なまえが恥ずかしさや気まずさから、建人の顔を見られない時、決まって建人は伝え方を工夫する。自然となまえが顔を向けてくれるよう、言葉巧みに誘導するのだ。
――でも……。
 建人が指先で手の甲をそっと撫でる。労わるような手つきに、なまえは胸が苦しくなった。眉間に皺を寄せると、自然と建人と絡まっている指先にも力が入る。
「……だって、顔見たら、また泣いちゃう」
 我慢してたのに震えてしまった声。伝え終える前に、視界は涙で揺らいでしまった。肺の奥底から空気の塊が口から漏れてしまいそうで、なまえは必死に唇を噛む。
 手の甲をゆったり撫でていた建人の指先が止まった。
「泣いちゃったんですか?」
「うん」
「それは、いつ?」
「……帰り、電車降りてから」
「なにか嫌なことがあった?」
「嫌なことというか、なんかもう……」
 喉まででかかった言葉を飲み込んだ。言ってもいいのだろうか。伝えてしまえば、なぜだか負けたような、敗北を味わうような、自分が弱いことを認めてしまうような気持ちになる。まるで悲劇のヒロインになったかのように、建人から見えてしまうかも。
――嫌われちゃうかな。
 建人が一時の感情に流されない人であるということは、十二分に理解している。事実に即し、さらには背景を汲み取り、現実を受け入れることができる人だ。頭ではわかっていても、気持ちが優れない今は、ただただ不安でしかなかった。
 ぎゅっと胸がつまるようだ。息が苦しくなって、呼吸が浅くなっていく。腹の底でぐるぐる何かが渦巻いていて、それは胃の方までせり上がり、次第にゆっくりと身体の中をかけ登って喉に引っかかる。味や形がないはずが、喉までくると、苦くてぐちゃぐちゃとしたものに変わっていた。
「っ……」
 頬が濡れた。じんわりと滲んだ涙は、双眸に留まっていられないらしい。
 次々と落ちていく涙は、建人の背中を湿らせた。泣いていることがバレてしまぬように体を離す。ツキンと鋭い痛みが心臓を突き刺して、鼻と目の奥を刺激した。息苦しい。胸が痛い。
 何もかもから目を背けたくなって、なまえは俯いた。すると、温もりが離れていく。建人の足が一歩前に踏み出していた。
 呆れられてしまったのかな。そんなことないと心が叫んでいるけれど、脳は勝手に最悪の展開を組み立て始めている。ぼたぼたと音が立つかのように、涙が床に落ちていく。
「大丈夫」
「……ッ」
 建人の体温を再び感じる。背中に手のひらが当てられて、やさしく抱き寄せられた。片手は一定のリズムで背中をやわらかく叩き、もう片方は頭に乗せられた。ゆっくりと髪が乱れないような手つきで、頭頂部から後頭部を撫でていく。
 苦くて気持ちの悪いものが、すうっと溶けて消えていくのを感じた。胸に突き刺さったナイフに似た痛みは引いていく。
 顔を見合わせようとするとこはなく、頭を撫でつける片手は、なまえの顔を胸に埋めさせた。
「大丈夫。言ってごらん」
 建人の心拍がなまえの身体に染み込んでいく。背中で感じていた時よりも、ほんの少しだけ速い。浅い呼吸を繰り返していたなまえの心拍は、生き急ぐように煩わしかった。建人の心拍を感じるうちに、呼吸はゆったりと出来るようになっていく。
 言ってもいいかな。嫌わないでいてくれるかな。面倒臭くないかな。受け止めてくれるかな。
 二人の心拍が重なり合う。不安や緊張がやわらかい色に染っていくようだった。鼻から息を吸うと、建人の香りが鼻腔をくすぐる。肺の中も、心の中も建人で染まっていった。
 ようやくなまえは口を開く。
「――メンタルが、だめ」
 普段必死にコントロールしている情緒は、何をしても自我を貫き通していた。自分ではもう制御できない。
「……PMS、ですか?」
 なまえは言葉ではなく頷きで返す。その返事が精一杯だった。
 バレてしまった。教えてしまった。知られてしまった。全身から血の気が引いていくのを感じた。
 建人のことだから、薄々気づいていたかもしれない。生理前、生理中を含めた身体の不調。意識をしても、薬を活用しても、コントロールすることが難しいこと。
「だめなの、全部だめ。ちょっとのことでイライラするし、混乱するし、泣きそうになるし。そうなっちゃうから、何も考えたくないのに、考え事は止まらないし」
 話している途中から既に涙はぽろぽろとこぼれ落ちていく。鼻を啜ったり呼吸を乱したりすると、余計に泣いていることを自覚してしまい、涙が溢れて止まらなくなる。そのため、なまえは努めて呼吸に気をつかって話を進めた。
 建人は静かに聞いていてくれた。やさしい人だ。こんなダメダメな状態の人間の相手だなんて、面倒だろうに、こうやってやさしく受け止めてくれる。
 またじわりと涙腺が緩んだ。建人のやさしさが嬉しい。しかし、同時に今の自分には痛くもある。やさしさが痛いだなんて、建人と知り合うまでは知らなかった。本当はこんな思いしたくない、させたくないのに、どうしようもなく今の状況から抜け出せないでいる。
 ぽろぽろと涙が頬を伝うなか、せめて声だけは漏らさないよう必死に唇を噛んだ。
「いいんですよ。だめでも。私にとっては百点満点です」
「っ……なんで?」
「自分がダメだということを、人間は認めたがらない。しかし、なまえはしっかりそれを見極めて、受け入れて、あまつさえ私に素直に伝えている。
普通、人間は強がりたがる。だから生半可な気持ちで人間はそれができません。けれど、あなたは心苦しいだろうに、やってのけた」
「ッ、ぅう……」
 建人はずるい。自分にも他者にも厳しいところがあるのに、こうやって客観的なことを伝えてくる。必死になって抑えていた声が漏れてしまい、とうとう涙はとめどなく流れ始める。
「今日は『甘えデー』です。充分、私に甘えてください。なまえに甘えられるだなんて、私にとっても好都合で、嬉しいできごとだ」
 建人に背中を撫でられる。ゆっくりと顔を上げると、涙の向こうで建人が微笑んでいる気がした。
「今日もたくさん、頑張りましたね。えらいえらい」




short 望楼