ネイルをする2



 都内にある解体予定の廃ビルにて任務中、呪霊をすべて祓除したと思いきや、息を潜めていた一級相当の呪霊に隙をつかれてしまった。脚を切りつけられてしまい、動きが鈍くなる。背中も火傷のように熱くなる中、定時を過ぎたことを確認し、ネクタイを拳に巻いた。一撃で片をつける決意をして奮った攻撃は難なく命中し、その日の任務は幕を閉じた。
 補助監督に身体を支えられながら入室した医務室は、先に連絡をもらっていたであろう硝子が治療の準備をしていた。

 足首から甲に掛けての切り傷はすっかり傷跡すらなく完治していた。スラックスの裾は血痕が付着し、靴下は出血を含んでもはや履けるものではない。呪霊の攻撃は、革靴すらパックリと切り裂いてしまうものだった。ここまで高専内を歩き、医務室にたどりつくまでの痛みと歩きにくさは、相当なものだった。
 硝子は瞬く間にすべての傷に反転術式を施し、治療を終わらせた。溜息をついて、ピンと張りつめた冬のような静けさを吹き消している。目元の泣きぼくろが浮かび上がるように目元を和らげた。治療中とは一転して、春の陽射しを思わせる柔らかさである。
「お前、随分とめかしこんでるじゃないか」
 マスクを外した口元は、目元と同じように緩やかな弧を描いていた。楽しそうな様子は、酒の席を共にした以来、久しく見ていない。瞬時に何に対して言われているのかを理解して、建人は唇に力を入れる。引き締めたそこから盛れたのは、無難な感謝の言葉だった。
「……治療、ありがとうございます」
 余計なことは話さない。伝えてしまえば最後、玩具のように扱われて、格好の餌食となるだけだ。彼女は悟の同期でもある。当時最強を名乗っていた男子二人と比べれば大人しかったものの、あの二人の同期ともあれば、類は友を呼ぶのだ。
「可愛いよ。発色も綺麗だ。自分で塗ったのか?」
「いえ」
「だろうな。じゃあ、あの子に塗られた?」
「……ええ、まあ」
「へぇー」
 まるで新しい玩具を見つけた子どもだ。硝子はにやにやと笑いながら、ポケットから取り出した煙草に火をつける。紫煙をくゆらせながらも、視線はずっと建人の指先を見つめていた。建人の足の爪は、 ダークブラウンに彩られている。
 視線が煩わしくて、建人は黙々と身なりを整えようとする。しかし、着替えがない以上、何もすることが出ず、ワイシャツを羽織ろうとした手は、だらんと膝の上に落ちた。
「お前は自分色に染める派かと思ってたよ」
「何のことです?」
「そのままの意味だよ。呪術師の中では一等優良物件だと思ってるが、独占力も嫉妬心もそれなりにありそうだからな。それなのに、けっこう染められてるじゃないか」
「塗りたいと、お願いされたので」
「へえ、仲がよろしいことで」
 笑いつつ、硝子は口から大きく息を吐き出した。天井に向かって登っていく紫煙は、ゆらゆらと立ち込めて空間を支配している。それは幾度となく見上げた、遠くへ旅立った人の証に似ていた。綿雲に紛れて消えかかる光景が瞼の裏に焼き付いている。
 建人は視線を落とし、足先の爪を見つめた。もしも今、指が切り落とされてしまっても、この爪ならば誰が見ても持ち主を直ぐに当ててくれるだろう。
「お疲れサマンサー! 七海ィ、お前しくじったんだってぇ!」
「……お疲れ様です」
 浸っていた感傷は、扉をぶち破るようにして入室した悟によって消え去った。これでもかと言うほど眉間に皺を寄せて、言葉だけの挨拶をする。
「なーんだ、わりとピンピンしてんじゃん。写真撮って悠仁に見せてやろうと思ったのに」
「何しに来たんですか」
「ん? 可愛い可愛い後輩が怪我したって聞いて、この優しさの塊である僕がお見舞いに来てあげたってワケ」
「貴方のどこが優しさの塊なんですか。バファリンの方が優しさが詰まってます」
「ハァ? 僕あんな錠剤に負けないから。あれ飲んだってなまえの腹痛治った試しないから」
「ちょっと待ってください。なぜその話を知っているんです」
「僕は『優しさの塊じゃない』らしいから? 教える義理はありませーん! ハイ残念!」
 苛立ちを抑えるため、長く息を吐く。六秒以上吐き続けると、次第にふつふつとした腹立たしさはしぼんでいった。
「それにしても七海、足の指、泥ついてんじゃん。なにこれウケる。いつオシャレに目覚めたの?」
 泥。表現の仕方が彼女と全く一緒だった。足の爪に塗ってくれた後、彼女がぽろっと『自分の爪に塗ったら泥みたいで虚しくなった』と話していたことを思い出す。
「大丈夫! これでも僕はいま流行りの多様な生き方に全く興味ないから! どんどんやりたいように、好きにやっちゃって!」
「用が済んだなら出ていってください」
 今度は真っ赤にしちゃいなよ! と意気揚々と語り続ける双眸は、アイマスクの下できっと先ほどの硝子と同じように弧を描いているのだろう。悟は面白そうに、建人の足元をパシャパシャとシャッター音を鳴らして写真を撮っている。
「いいのかなー、七海、僕にそんな口聞いちゃって。このGLGである僕の優しさに泣くことになるのは七海だよ?」
「は? 具体的かつ詳細に話してください」
「ふふん、そろそろ来るんじゃない?」
 悟が得意げに唇を歪ませる。すると、医務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
「開いてるよー」
 硝子と悟が続けて返事をする。二人してにやにやした笑みを浮かべていた。建人は嫌な予感がして肩が強ばった。
「失礼します……七海さん!」
「なまえ……!? なぜここに……!」
「家入さんと五条さんから連絡をもらって、怪我したって! 大丈夫ですか!?」
 嫌な予感は的中した。入室したなまえは、建人が座るベッドに駆け寄ってくる。ワンピースにサンダル姿で、夏仕様な姿が心に清々しい風を吹かせる。サンダルから覗いた爪先の色が普段と違い、胸が高鳴った。
「え、ええ。治療してもらったので傷痕もなくこの通りです」
「背中と足首から甲にかけてパックリとイッてたんだよ」
「えっそんなに!? 痛いじゃないですか!」
「ですから今はもう治していただいたのでなにも――」
「なまえ、頼んだもの持ってきた?」
「あ、持ってきました! 七海さん一式にまとめてくれてるから、それをそのまま!」
 肩にかけていたガーメントバッグは、クローゼットの端に置いてあるものだ。負傷した際や泊まりがけの地方任務の際に、時間をかけずに持ち運べるようにと準備しているもの。
「なぜ……」
「家入さんから怪我したって連絡もらって、その後に五条さんから『きっと着替え持ってないだろうから、持ってきてあげて』って。それで、タクシー呼んでくれてて、急いでバッグ持ってきました」
「ありがとうございます。いつまでも持っていては重いでしょう。受け取りますよ」
 ベッドから立ち上がり、裸足のまま歩み寄る。なまえはぽかんと口を開けて見上げたまま固まってしまった。
「なまえ? どうかしました?」
「あ、ぅ……な、なんで、上、は、はだっ、はだか……」
 どもったような言葉の意味は、辛うじて推測できた。見上げていた視線は、いつの間にか落ちてしまい、キョロキョロと惑わせている。耳まで真っ赤にしており、胸の奥から優越感に似た何かで満たされていく。
「着られる状態ではないので」
「これ! あの、早く、着てください……!」
 ガーメントバッグを押しつけられる。バッグが邪魔をして彼女の様子が見えにくくなり、少しだけ眉間に皺が寄った。お礼を言って受け取る。『悶えタイム』に入ってしまったなまえは、両手で顔を覆っている。
「え、なに。まだ抱いてないの? 七海いつからインポなの?」
「引っぱたきますよ。それにインポじゃありません」
 なまえがこの場にいるというのに、悟の俗物的な言い方に舌打ちしそうになるのを必死に抑える。
 ガーメントバッグをベッドに置いてチャックを開ける。詰めてあったのは、仕事着のベージュのスーツではなく、ネイビーのスーツだった。仕事着にしているものと比べてラフなそれを見て、瞬時にこの後の予定を頭の中で組み立てながら、着替えを始めた。
「七海のデカチン暴走してない? 抑えてられるの? あれでしょ、紳士と見せかけて下は暴れん坊将軍なんでしょ?」
「そんなに引っぱたかれたいんですか」
「お前は奥手そうに見えて、私も手が早いと思ってたよ。てっきりペロリと食べてるもんだと」
「大事にしたいので」
 ワイシャツとスラックスを身につける。ベルトを巻きながら答えた途端、なまえの叫び声が上がった。
「あぁぁあああ」
「ウケる。なんで叫んでんの、この子」
「『悶えタイム』です」
「悶えタイム」
「相当に惚れ込まれてるな」
「光栄なことに 」
「むりむりむりむり、泣きそう」
「うわ、本当に涙流してる。面白すぎでしょ」
 悟はなまえの手首を掴み、顔を上げさせて涙目の顔を覗き込んでいた。鼻先がくっつきそうである。
「五条さん、今すぐ離れてください」
 靴下を履こうとしたが悟が距離を詰めるのを防ぐため、立ち上がった。細い肩に手を置いて引き寄せる。まるで虫と遭遇した時のような声を上げた彼女は、さらに小さく縮こまった。
「七海それ逆効果じゃない?」
「貴方に触れられなければ何だっていい」
「必死すぎじゃん」
「手放したくないので」
「まって、待って、ほんと待って、むり」
「七海、そろそろどうにかしてやらないと、その子ぶっ倒れるぞ」
 硝子の言葉に、胸へと押しつけていたなまえの顔を覗き込む。これ以上に真っ赤にならなさそうな、果実のような表情が羞恥で涙に濡れている。胸の奥から再び波のような何かが寄せてきて、満たされていく。
「可愛い」
「ぅ、え」
「追い討ちを掛けてやるなよ、七海」
「可愛いでしょう」
「七海のドヤ顔ウケる」
 気分が落ち着くように後頭部を撫でてやると、さらに身体を縮こませた。今は何をしても彼女を刺激してしまうようだった。建人はそっと離れて再びベッドに近づいた。残りの着替えを済ませるためである。靴下を手に持つと、悟の弾んだ声が医務室に響いた。
「おやおやおやお? もしかしてその爪、七海とお揃い?」
「えっ、あ……」
「本当だ。綺麗に塗れてるじゃない」
「う、うあ」
「もしかして、七海より先に僕が気づいちゃった?」
「いえ、なまえが来た時から私は気づいていました」
「ま、えっ、うそ」
「後で伝えようと思ってたんですが……。好みの色ではないと話していましたが、よく似合っていますよ」
「……しんだ」
「大丈夫、充分生きてるよー」
「しにました……」
 建人の言葉でギリギリの状態で抑制していた心が決壊し、『悶えタイム』で聞かれる最上級の言葉が絞り出された。こうなっては復活に時間がかかる。建人はなまえの様子を眺めながら着替えを進めた。
「好みの色じゃないのに塗ったんだ」
 硝子が首を傾げてなまえに声を掛ける。彼女は『悶えタイム』から片足を抜け出して、落ち着きを取り戻し始めていた。
「足に塗ったら、七海さんとお揃いになれるから……」
 腹の前で指をもぞもぞ動かしながら、なまえは照れくさそうに答えた。ソックスガーターをはめようとした所で爆弾発言をされてしまい、衝撃からガーターをはめそびれてガチャンと音が鳴る。
「っ、はぁー……」
 建人は片手で両目を覆い、天井を見上げた。悟のシャッター音が再度けたたましく鳴っているが、気にする余裕がなかった。
「お前も『悶えタイム』か」
「え、七海さん何に悶えてるの?」
「えっこの子自分の発言わかってないの、やば」
「えっ、私やばいことしちゃいました?」
「七海の建人くんが超心配」
「同じく」
 余計なことを言ってくれるなよ。心の中で二人の先輩に呟いたところで、相手には届かないだろう。しかし空気で感じとっているはずだ。にやけ顔が二人とも復活している。
 建人は気分を無理やり沈めると、手早く着替えを済ませ、バッグのチャックを閉めた。
「ありがとうございます。着替えがなかったので、とても助かりました。五条さんの呼び出しに乗ったことは悔やまれますが」
「はぇ……七海さんかっこいい……」
 口元を両手で押えているが、肝心の心の声が漏れている。忙しない彼女の情緒についつい失笑してしまった。悟が隣で得意げに笑っていても気にならない。
「言っただろう? 僕の優しさに泣くことになるって」
「今日は休みでしたよね? この後なにか予定はありますか?」
「いや、特にないです」
「オイ、七海オイ。無視するなよ」
「それなら、夕食は外で食べませんか?」
「えっ、いいんですか! やった! 行きたいです!」
 反応の良さに頬が緩む。医務室の蛍光灯に当たった爪先のダークブラウンがつるりと光っていた。
「報告書をすぐに書き終えるので、それまで少し待ってもらうことになりますが」
「大丈夫! 待ちます! ……あ、書いてる時は私、いない方がいいですか?」
 ふにゃふにゃとした笑みがすぐにシュンとして、恐る恐る見上げてくる。瞳が不安げに揺れていた。一心に見つめてくる双眸に、自分しか映っていない光景は、身体中に満たされた心地を運んでくる。
 建人はなまえの手を持ち上げる。休みの日だから塗ったであろう、彼女好みの色が光っている。親指の腹で、つるつるとした表面を撫でつけた。
「いえ、隣にいてください。私の傍に」




short 望楼