世界で一番美味しい味



なまえは貴族の一人娘である。なまえの父は、代々所有している広大な土地を一般市民に明け渡し、流通を活性化させて一躍街の名手になった。商いが活発に行われれば、街も人々も、そして巡り巡ってこの家も滅びることはない。それがなまえの父の口癖である。
 貴族にしては羽振りの良いなまえの父は、毎週、週末になると自慢の屋敷でパーティーを開いた。参加者はもっぱら貴族であったが、そこでは商人たちが自身の取扱商品をプレゼンテーションプレゼンテーションする機会が設けられており、毎週入れ替わり立ち替わり、商人らが様々なものを貴族にアピールし、後ろ盾を得ようとしていた。なまえの父は、商人がより活躍できるように配慮していたのだ。
 そのパーティーも、今夜は特別なものである。今日はなまえの記念すべき二〇歳の誕生日だった。商人と貴族を繋ぐ架け橋的なパーティーも、今夜だけはなまえただ一人のためだけに開かれる。
 なまえは人柄も容姿も良く、幼い頃はよく街に出て市民と交流を図っていた。そして十を超えた時、遊びに行った街のケーキ屋でパティシエから菓子作りの才を見出される。今では菓子作りは趣味の範囲を超えて、彼女の作ったスイーツを食べた人々は口を揃えて「店が構えられるのではないか」というくらいにまで腕を上げていた。自分の作ったお菓子を食べてくれた人々の笑顔を見る度、なまえは将来パティシエールとして店を構えたいと考えるようになっていた。
 しかし、なまえは貴族の娘である。そして、父は口には出さないものの、娘が自分の跡を継いで街のために働くことを望んでいる。やりたいことと、やらなければならないこと。なまえは現在、これらに板挟み状態になっていた。
 そんな時にやってきた、二〇歳の誕生日。なまえは今日、なにか決心を迫らるのではないかと予感していた。

   *

 デコルテや胸元、背中にレースがふんだんにあしらわれた、淡いピンク色のプリンセスラインのドレス。髪は後ろで緩くまとめて、ドレスとお揃いであるピンク色の大きなハートの髪飾りで留めてある。
 なまえは自室で全身をくまなく確認しながら、つめていた息を吐き出した。
――今日はあの人、来てくれるかしら。
 なまえの脳裏に浮かぶのは、父に我儘を言って作らせてもらった祝賀会の参加者に振る舞われるケーキでも、催し事になるといつも傍らに立ち鼻の下を伸ばす男たちから護ってくれる義兄シュウイチでもない。
 毎週週末になると、必ず現れる銀色の頭髪をなびかせている男性。服装からして、毎回気品のあるものを着用しているから、どこかの貴族だとなまえは推測していた。しかし、本人に尋ねてみても苗字は頑なに教えてくれない。一度強引に聞き出そうと「教えてくれないのなら帰してあげないわ」と抱きついてみたけれど、相手の方が一枚も二枚も上手だった。
『俺のことはジンと呼べ――そう教えただろう?』
 ビターチョコレートみたいな声で頬を撫でられれば、身体が沸騰したみたいに熱くなり抱き付いていられなかった。
 それからというものの、彼の苗字について訊くことは憚られた。今思えば、その時は上手く誤魔化されたのだということがわかる。左目の下にある古い傷痕が、月夜に照らされる度にぞくりとしてしまう。ジンは不思議な男だった。
 今日のドレスは自分で選んだものだ。毎年、父や義兄が選んでくれていたが、今年は自分で選びたい気分だった。だって――。
『お前は、ピンク色がよく似合う』
 以前、ピンク色のパーティードレスを着ていた時、ジンに掛けられた言葉である。それが、初めてジンに褒められた内容だった。
 なまえは、人の目を引く美しさと愛らしさを兼ね備えた容姿であったため、普段から褒め言葉は散々、それこそ浴びるように聞いてきた。しかし、心に響くほどの言葉は、ジンが初めてだったのである。
「……来てくれないと、泣いちゃうわよ」
 どこにいるのかもわからない、どこの誰かもいまだに謎であるジンに向けて言葉を吹いてみる。
 普段のパーティーでは出していない特製のケーキも、父の許しを得て今日のために研究し、参加者に食べてもらうのだ。名目上は、いつもお世話になっている人々のため。しかし本音は、ジンに食べてほしいからである。
 ジンはいつもシャンパンを引っかける程度で帰ってしまう。何をしに来ているのかはなまえの考えでは到底思い浮かばないが、必ず自分を言葉を交わす時間は設けてくれることに、毎度胸を高鳴らせていた。ジンと話すうちに、いま抱えている悩み――将来についてをポロっと零してしまったことがある。
 ジンは相槌も打たずに聞き役に徹し、アドバイスもくれなかったが、最後にぽつりと呟いたのだ。
『なまえの作る菓子か……興味がある』
 今でも鮮明にその時のことは思い出せる。酒で少し火照っていた頬が火を噴くように熱くなり、隣にいるジンに心臓の音が聴こえてしまうのではないかというほど、煩く高鳴った。
 そして想像してしまった。自分の作ったケーキを食べる、ジンの姿を。あの長くて赤い舌が、クリームを舐めて唇をなぞる様子。優しく時に暴くようになまえを奪う唇が、ケーキに齧りつく姿。やわらかいスポンジにかぶりつく様子に思いを馳せれば、ベッドの上で自分の柔肌に貪りつくジンの姿を妄想してしまう。
 ジンはまだ、キスの仕方と味しか教えてくれていない。それなのになまえは、いつかきてほしい未来を、自分の初めてをすべてジンに捧げてしまうことを思い描いてしまう。
 ジンの手によって女にされる夢を見るたび、自分はこんなに、はしたない女の子だったのかなと目覚めて恥じる朝を迎えた。ジンがなまえのケーキを食べてくれる夢を見るたび、嬉しくて心がいっぱいになって目を覚ました。
 もし本当に、自分の作ったケーキをジンが食べてくれたのなら、あの鋭い眼差しを和らげて、少しだけ口角を緩ませ上げられたのなら。将来店を構えることができずとも、大好きな人に食べてもらえただけで、これ以上嬉しいことはないだろう。
 なまえはその日から研究を重ねて、自分のもつ力を最大限発揮してケーキを作ったのである。
 鏡に映る自分は、最高に可愛かった。それもそのはず、愛しい男に似合うと言われた色をまとっているのだから。
「……だから絶対、食べてもらわなきゃ困るんだからね」
「誰にです?」
「きゃっ! バーボン! 入ってくるならノックして!」
「しましたよ? それでも反応がなかったのでこうして見にきたんじゃないですか」
 突然鏡に映った使用人であるバーボンに、なまえは飛び上がり身を守るように自身を腕で抱きしめた。
「私が着替え中だったらどうするつもりだったのよ」
「そうですね……息を殺してじっくり堪能しようかと」
「もう! 義兄様に言いつけるわよ!」
「それはご勘弁を。あなたがだぁい好きなお義兄様に、僕は睨まれているんでね」
「なにかしたの?」
「……さあ? 見覚えないんですけどねぇ」
 深みのある返し方にさらに聞きたくなってしまう。じっとバーボンを見上げていると、ニコリと笑いかけられた。
「ほらほら、主役がいつまでたっても現れないんじゃ、みんな困って帰っちゃいますよ!」
 バーボンに背中を押されて自室を後にする。
「裾につっかかって転ばないでくださいね? もうハタチなんですから」
「もう! しないわよ! 今日はいつにも増して意地悪ね!」

   *

 会場に着いたなまえは割れんばかりの拍手と祝いの言葉を浴びた。
 父に促されて壇上に上がり、感謝の言葉と腕を振るったケーキのことを話す。ケーキの話題を出した途端に我先にとケーキに向かう参加者に、余るほど作ったから落ち着いて食べるよう言葉を掛けた。人の流れが緩やかになったのを確認してから壇上から降り、父と少しだけ言葉を交わして会場を自由に巡ることにする。
「なまえ、今日は一段と綺麗だよ。君は本当に俺の妹なのかい? 血が繋がっていなかったら今すぐ掻っ攫って嫁にしたいくらいだ」
 シュウイチとなまえは異母きょうだいである。シュウイチは父の亡くなった前妻の息子で、この家の跡取りとして期待されているが、本人は跡を継ぐ意思はまったく無いらしい。
 シュウイチは普段、文学青年のような恰好をして名をスバルと名乗り、食客という立場でこの家に居座っていた。スバルとシュウイチが同一人物であることは、なまえとなまえの父くらいしか知らない。そのため、使用人や街の人々はシュウイチについて、どこで何をしているのかわからない放蕩息子という認識をしていたり、他国を旅しているだとかギャンブルに走り女を侍らせているとか、好き勝手に噂話を繰り広げていたりする。
 そんなシュウイチは、週末のパーティーになると、その時間帯だけ姿を現す。そのため、貴族や商人の中にはシュウイチ見たさにパーティーへと訪れている者もいるらしい。
 シュウイチは、パーティーでなまえの身体目的に近寄ってくる浅はかな男たちから、彼女を守る役目を果たしていた。シュウイチは睨みを利かせるだけで、一般人を追い払うことができる。
 自分にこれまで彼氏ができなかったのは、シュウイチも原因の一つであると、なまえはこっそり考えていた。
「ありがとう義兄様。義兄様もいつにも増してとってもかっこいいわ」
「それは嬉しいな。君に褒められるとまだ俺もイケるんじゃないかと思えてくるよ」
「そんなこと言って。私知ってるのよ? 屋敷の中でも街に言っても、女の子はみんな義兄様の話題を出してるってこと」
「顔に似合わずシスコン野郎だって?」
「もう、違うったら。”かっこいい“って噂してるの」
「それは光栄なことだ」
「義兄様も、いつまでも私の騎士に徹しなくていいのよ? 私ももうハタチだもの。自分のことくらい自分でできるわ」
「……そうだな。最近徘徊している、野良犬と鼠を追っ払ったら、そろそろ隠居でもしようかと考えているよ」
「野良犬と、鼠……って?」
「…………」
 なまえが質問すると、スバルの時に見せるような笑顔を向けられる。
――今日はなんだか、皆もったいぶって教えてくれないのね。
 なまえは心の中で愚痴をこぼした。シュウイチといい、自室の鏡の前でのバーボンといい、今日はなんだか意地悪が過ぎる。それに、先ほど壇上から降りた時に、父も「あとで重大発表をするから会場から出ないように」と言われた。重大発表について訊いてみても、「あとのお楽しみだよ」と詳しく教えてくれなかった。
――皆がそうやって内緒にするんだったら、私も私で好き勝手やってしまおうかしら。
「義兄様、なにか飲む? 取ってくるわ」
「いや、大丈夫――」
「義兄様はスコッチが好きだったでしょう? 持ってくるわ!」
「おいなまえ! 人の話を――!」
 なまえは裾を踏まないよにドレスをたくし上げて、足早にその場を離れた。酒を持ってくるなんて嘘。本当は、会場に来ているとジンを探すためである。
 人ごみに紛れると、シュウイチの困ったような、怒っているような張り上げた声はすぐに聞こえなくなった。シュウイチが追ってこないことを確認すると、なまえはしてやったと笑みを深め、ジンを探し始める。
「……相変わらずお転婆娘だな、なまえ」
 なまえの行く先を目で追いながらシュウイチは呟く。
「さて、鼠はお前の王子様になるかな?」
 
   *

 銀髪なんて一際目を引くのに、こうも見つけられないなんて。
 なまえはジンを見つけられず焦っていた。早く見つけないと、ジンにケーキを食べてもらえない。それに、パーティーが終わってしまうかもしれない。
 今日のためにがんばってきたのに、ジンが現れなければそれこそ本末転倒である。
――今日は絶対来てくれると思ってたのに。
 もし甘いものが苦手ならと考えて甘さ控えめに作ったケーキも、ピンク色のドレスを選んだ理由も、泡となって消えてしまうのだろうか。
 なまえの視界が次第に歪んでいく。
 だめ、こんなところで泣いちゃ。化粧が取れかけた顔でジンに会えないわ。
 自分に言い聞かせても、なまえの身体はいうことを聞いてくれず、ポタリポタリと涙は落ちてドレスに滲んでいった。
「っ……ばか……」
 鼻を啜って目尻に浮かんでくる涙を指先で払い落とす。それでも後からとめどなく溢れてきて、そのうち指先がふやけてしまいそうだった。
「――美しいお嬢さん、どうかしましたか?」
 俯いていた視界に黒い靴が現れる。ゆっくりと頭を上げると、モスグリーンのスーツを着込んだ黒髪の男が立っていた。きっと顎鬚が無ければ、もっと幼く見えるであろう。
「ここだと注目の的になってしまうよ」
 男はなまえの背中をやんわりと押しながら窓際まで歩く。上品なレースのカーテンでなまえを隠した後、大きな窓を開け、テラスへと誘った。
「悲しいことでもあったのかい?」
 喧騒から抜け出して、男はテラスに備え付けてあった椅子になまえを座らせた。
 ごちゃごちゃになっていたなまえの頭の中を、夜風が冷静にさせていく。
 男が着ていたジャケットを脱ぎ、なまえの肩に掛けた。
「……ごめんなさい、もう大丈夫。ありがとう」
「その顔で言われても、大丈夫なようには見えないな」
 見逃してもらえるかと思ったが、どうやら男はそうではないらしい。なまえはぎくりとしつつ、話題を逸らしたくて明るめな声を取り繕った。
「あなた見ない顔。もしかして、旅の人とか? この街に来るのは初めて?」
「ああ、まあそんなところかな。この街には仕事で来ていてね。そうしたら、街の名手の娘さんの誕生日だからと盛大なパーティーが開かれるって聞いて、参加自由と聞いたから顔を出してみたんだ。……君だろう? 今日の主役は」
「……ええ」
「やっぱり。君が泣いていた理由、俺でよければ聞くよ」
 なまえは言おうかどうか悩んでしまう。本当は今すぐにでも会場にもどり、ジンを探しに行きたいが、この男はそれを許してくれそうにない。
「約束……しなかった私がいけないの」
 口に出した言葉はちょっとだけ震えていた。
「本当は、一番にこの姿を見てほしくて、ケーキも一番に食べてほしい人がいたんだけど……毎週来てくれているからと慢心しちゃって。約束、しておけばよかったのに……」
 そうだ、約束しておけばよかったのだ。なまえは喋ってから納得する。約束しておけばジンにも会えたし、こんなに悲しい思いも不安も抱かなかったかもしれない。
「そうか……それは残念だったね」
 男はしんみりと返事をする。そしてなまえの前に跪くと、俯いているなまえの視界に入った。
「だが、まだ夜は明けてなければ、パーティーも終わっちゃいない。そう諦めて自分を責めなくてもいいんじゃないか?」
「でも、もし本当に会えなかったら……」
「いいや、保証するよ。君は彼に会える。大丈夫、自信を持つんだ」
「どうしてそんなこと言うの……?」
 なぜそこまでしてこの男は自信ありげに言うのだろう。そんな根拠どこにもないっていうのに。
「だって俺は、彼を見たから」
「えっ⁉」
 衝撃的な男の発言になまえは思わず立ち上がって辺りを見渡した。
「どこ⁉ どこで見たの⁉ というか、あなた、わたしが探している人を知っているの⁉」
「ああ、知っているさ。銀髪で左目の下に傷のある物騒な男だろ?」
「そう!」
――この人は、ジンの知り合いなの?
 ただこの街に寄っただけの、親切な男だと思っていたのに。
「どうして……」
「――後ろ、見てみな」
「うしろ……?」
 なまえは言われた通りに後ろを振り向いた。テラスの向こう側は庭園が広がっている。外灯がないが設置されていない庭園は闇に包まれており、薄気味悪い雰囲気すら漂っていた。
 なまえは目を凝らす。視界の端で、なにかが動いた気がした。
「物騒とはなんだァ……スコッチ」
「ジンっ!」
 現れたのは、なまえがずっと待ちわびていた人。ジンは真っ黒なタキシードに身を包み、月夜に照らされて輝く銀髪は後ろで一つに結わえていた。
「なまえちゃん待たせすぎ、泣かせすぎ、悲しませすぎ」
「失せろ」
「おまけに酷すぎ〜」
 ジンはなまえのもとへやってくると、彼女の肩に掛けられていたモスグリーンのジャケットを剥ぎ地面に捨てる。スコッチと呼ばれた男は間一髪のところでそれを防ぎ、再び着込んだ。
「ジン、どうして……っ」
 ジンを頭のてっぺんからつま先まで眺めると、所々汚れている。そして顔には、なにかが掠ったような小さな傷がついていた。
「怪我してる!」
「大した傷じゃねェ。んなことより、身体冷やすぞ」
 ジンは懐からストールを取り出すと、なまえの肩に掛けた。
 なまえは礼を言ってストールを前に引き寄せる。よく見るとストールはピンク色で、少し動かすだけでキラキラと輝いた。
「きれい……可愛い」
「やる」
「いいの?」
「誕生日だろ」
「知ってたんだ……」
「これだけ大胆に騒いでちゃ、気づかない輩はいねェだろうよ」
 ジンの低い声が耳に馴染んでくる。なまえは心が満たされていくのを感じていた。
――ジンがいる。ジンが来てくれた。
 その事実だけで、なまえは再び泣いてしまいそうだった。ピンク色を選んだことも、この日のためにと準備を進めて作ったケーキも、なまえのあたためていた気持ちも、すべて無駄にならなかったのである。
「スコッチ、もういい。先に行け」
「わかったよ。ったく、なまえちゃんが男に引っ掛けられなかったの、誰のおかげだと思ってる?」
「気安く名前を呼ぶな」
「あ〜ほんっとにお前はさ……。人に感謝するってことをしないよな〜」
 スコッチは頭をガシガシと掻き、俯いて大きく深呼吸する。そして顔を上げた彼は、スイッチが切り替わったように凛々しい顔つきになっていた。
「ジン。ちゃんとシンデレラ、連れて来いよ」
「さっさと行け」
「じゃあまた後でな、シンデレラ。カボチャの馬車で待ってるぜ」
「あっ、また……」
 なまえの掛けた言葉にスコッチは振り返らずに手を振ると、再び会場に戻っていった。
 結局、スコッチは何者だったんだろうか。男に引っ掛けられなかったのは、と話していたが、スコッチの様子からまるで彼自身が男たちから護っていたかのようだった。しかし、なまえがスコッチと言葉を交わしたのは会場内で泣いてしまったときだし、シュウイチと別れてからそれまで、スコッチらしき人物は見ていない。それに、「また後で」とはいったいどういう意味なのだろう。口ぶりからして、まるでまた会うことになるような雰囲気を醸し出していた。
 ジンとの会話から、二人は仲が良いと窺える。友人関係っぽくはなかったから、仕事仲間になるのだろうか。
 スコッチ、そして突然現れたジンに、なまえの頭の中は疑問だらけである。けれど、考えるのは後にしようと、なまえは軽く頭を振った。
「ジン、来てくれて本当にありがとう」
 なまえはジンに向かい合い、心からの感謝を述べる。今日は壇上や会場内を歩いている時に数え切れないほど感謝の言葉を口に出した。だが、ジンに向けた言葉にはとびきり気持ちがこもっていると、自身も声を聴いてなまえは実感した。
 しかしジンからの返事はなく、なまえはじっと見つめられている。
「……やはりな」
「ん? なあに?」
「やはりなまえは、ピンク色が似合う」
「ッ!」
 ドクンと大きく心臓が鳴った。夜風が会場の光を運び、月明かりに淡く照らされていたジンがハッキリと映る。涙が出てきまいそうなほど、ジンはやさしい表情を浮かべていた。
「俺の見立ては間違っちゃいなかったな」
 ジンの白い手袋に包まれた手が、風によって乱れたなまえの髪をそっと整える。ジンに触れられた部分が熱く感じるのは気のせいではないだろう。
――言うのよ、なまえ。今逃したら、次はいつチャンスがくるかわからないわ。
 それは、今日痛いほど思い知った教訓でもある。いつも来てくれるからといって、本当に会いたい日に会えるかどうかはわからないのだ。もしかしたら最悪、もう二度と会えないということもある。
「っ、ジンが! 前に、ピンク色が似合うって言ってくれたから……! だから今日、このドレスにしたの!」
「ホゥ……」
「それに、私この一ヶ月ずっとケーキの研究してて! ジン、前に言ってたでしょ? 私の作るケーキに興味があるって。だから、今日お父様にお願いして、そのケーキを振舞ってるの! あなたに、食べてほしくって! だからっ……だから……」
 話しながら涙が込み上げてきそうだった。きっと聞いている側からすれば、支離死滅のような、もっと落ち着いて話せばいいのにとすら思えるような話し方だろう。でも、想いが溢れてきてどうしようもない。
 ジンに伝えたいことが、いっぱいある。
「だから私っ、その、ジンのこと――ッ!」
 なまえが言葉を続けようとすると、スっとジンの人差し指がなまえの唇の前に現れた。人差し指を立てる行為は秘密のサインである。
――どういうこと? これは言っちゃいけないの……?
 なまえは胸の奥がキュッと締めつけられたように感じた。唇が震え始める。ジンに悟られないよう、歯を下唇に立てて止めようも口を動かそうとする。しかしそれは、ジンの指先に遮られた。彼の人差し指が、花びらを撫でるように唇へと触れる。
「その先を女に言わせるほど、俺はヤボじゃねェ」
「っジン……」
「一度しか言わねえぞ、なまえ……」
 唇に触れていた指先が離れ、頬を撫でた後に顎を掬いとられる。そして反対の手で腰を抱かれ、ぐっと距離が縮まった。身長差を無くすよう、ジンが身を屈める。鼻先が触れ合いそうだ。
「――俺と、共に来い」 
 ゆっくりと、言い聞かせるような物言い。
 ジンの低い声が身体中を巡っていく。甘く蕩けて溶けてしまいそうな身体を、なまえはなんとか踏ん張り耐えた。
 それは、なまえにとって魔法の呪文だった。
 今日は泣いてばかりだ。でも、ピンク色のドレス姿も、いつもより可愛く見えるように拵えた化粧も、ジンに見てもらえたからもう良いのかもしれない。
 なまえはジンの頬に手を伸ばす。顔に小さくできた掠り傷に触れた。ジンの眉間がピクっと動いたが目につき、後でこの傷の謎を聞かせてもらおうと心に決める。
 何度か頬を撫でると、ジンはやさしい表情に変わった。なまえの胸は高鳴っていく。
 触れた場所から想いが伝わってしまったかな。でも、この気持ちは、返事は、言葉にして伝えたいの。
「ジン、だいすき。……もっと、ずっと一緒にいたいの」
 なまえは涙を流しながら笑った。ジンの唇がなまえの頬に降り注ぎ、涙を拭う。
 触れ合った唇は、世界で一番美しい味がした。




short 望楼