星々をなぞって



 終電に乗ることが好きだ。
 乗ってる人は今日一日なにをして過ごし、どんなことを思いながら帰路につくのか。妄想を膨らませながら乗客の様子を眺めることが最近の楽しみだった。
 最終駅に到着するまで名前も知らない乗客たちの今日の様子を考えているだけで、現実に向き合わずに済んだ。楽しいこともつらいことも、悔しいことにも背を向ける時間は必要だ。そうしなければ息苦しさはさらに増していき、心だけでなく体まで苦しめていく。他者にも見せられるような趣味であればよかったものの、自分の趣味はそうではなく、また、誇れるような要素もない。それでも、終電のこの空間が私にとっての精神の憩いの場だった。
 携帯がぶるりと震え、メッセージを受信した。連続で受信されるそれらを既読マークをつけずに通知欄で読み飛ばし、画面を暗くする。せっかく逃避していたのに、そのメッセージで一気に現実へと引きずり戻されてしまった。
 無視をしていても立て続けにメッセージが受信される。送信者欄に表示される名は沖矢昴。あの忌々しい眼鏡の大学院生だけは、私を逃げさせてくれないのだ。
 私は最後の足掻きと勝手に結論づけ無視を決め込み、車窓から闇に包まれた景色を眺めた。

 終着駅につく頃には、乗客は片手におさまる程度の人数だった。
 改札口を出ると、駅前のロータリーに車が停められていた。スバル360。車は可愛らしいのに、それを運転してきた男は可愛いをかけ離れ憎たらしささえ覚える人だった。
「全く君は……」
 深く溜息をついた後、二言目に備えて私は両人差し指で耳の穴を封じた。頭の上に落ちてきたのは、予想していた通り、痴漢されたらどうのこうの、誘拐されたらどうのこうの、つらつらと心配性を装った話題である。
 毎度毎度よく飽きもせずにお節介なことをしてくれると心の中で愚痴を言う。すると、「その言葉、君にお返ししますよ」と雑音をシャットアウトしていた耳のすぐ傍からダイレクトに響いてきた。気づかずに声に出していたらしい。
 再び深いため息をついた男は、家まで送ると告げて腕を掴んできた。ここからどうやって帰る気だとぶつぶつ言いながらも駐車された車まで引っ張られ、半ば無理やり助手席に押し込まれる。
「どちらかと言うとあなたの方が危ない気がする」
 この人が何を考えているかなんて、全くわからない。終電に乗る人たちについて想像するのとはレベルが違う。
 にこにこしている顔の裏では、きっと私が知らないような、難しくて少し危険な香りすら醸し出しそうなことに関わっているんだ。それを表に出さずに上手く日常に溶け込んでいるように過ごしている。しかし、胡散臭い笑みと詩のような言い回しには眉を潜めるしかない。
「そう分かっていても、ホイホイついてきてしまう君も、よっぽどのお馬鹿ちゃんだな」
 車は私の家ではなく、彼が世話になっている大きな邸宅前に到着した。
「さあ、どうする?」
 こうやってこの男は、私が知らないような夜の香りを醸し出す。彼が纏う雰囲気が変わっていく。こっちにおいでと手招きをして起きながら、あくまでこちらに選択権を委ねながら、逃げ道を用意しない。主導権はいつまでもこの男が握っている。出会ってしまえば最後、普段は息を潜めている陰った翡翠色に囚われるのだ。
 生唾を呑みおずおずとシートベルトに手を掛ける私に、男は満足そうに笑った。





short 望楼