苦手克服



 天使の女の子のマークが描かれた有名珈琲チェーン店は、異世界そのものである。その看板が現れている場所は、空気が違うのだ。周囲の内装とは別格の雰囲気に、遠目であっても圧倒されてしまう。足を運んで近くに寄ると、店員をはじめ来店している客層がキラキラしているように見える。店にいる人間全員がファッション雑誌からでてきたような、都会のトップに君臨しているような雰囲気を醸し出している。そのような世界は身近には存在しない。
「いや……一人いる」
 一人だけ異世界人のような、日常を送っていて絶対に出会いそうにない人がいた。

 休日と建人の午後休が被った日、出かけたい場所はと訊かれた際、珈琲チェーン店の名前を上げた。
「スタバ……? 構いませんが、あなた、あまり行かないのでは?」
「……そうです」
「何か気になる飲み物でも?」
「これ……」
 スマホ画面に映し出したのは、季節限定のドリンクの写真。建人は画面を覗き込んだ途端に、理由を察したらしい。
「なるほど。しかし、これは随分前から発売していたものですよね。確か、乗り換えの駅構内に店舗がありませんでした?」
「うっ……」
「私と行くよりも手軽に寄れるのでは?」
 画面を覗き込んできた屈んだ姿勢のまま、建人は顔を覗き込んでくる。美しい顏と正論にも似た真実を突きつけられて、息が止まりかけた。いつも見下ろしてくるのに、こういう時に上目遣い気味になるのはずるい。きっと無自覚である。破壊力無限大だ。
「なにか、特別な理由でも?」
 真っ直ぐに疑問をぶつけてくる姿は、なんとも精々しい。「私と行きたかったんですか?」と甘い声にならないあたり、真面目や実直だなあとしみじみ思ってしまう。ちょっと言われてみたい気持ちもあるけれど、伝えられてしまったら最期である。
「一人で行くのが……怖い、ので」
「は……?」
 ぽかんと口を開けたまま首を傾げる建人は最高に可愛らしい。サンリオキャラクター並に可愛さを誇っていた。建人の頭の上には、クエスチョンマークがいくつか浮かんで見えそうだ。
「……怖くないですか? スタバ」
「いえ、まったく」
「ええー……」
 質問してみたら、すでに建人はシャキッとしていた。予想通りの返答に、交渉は決裂したと確信する。
「スタバは異世界です」
「はぁ」
 建人の溜息に近い相槌は、ゴングの音のようだった。まさに今、闘いが始まったのである。
「まずあの店構えの雰囲気! めちゃくちゃオシャレな人しか受け付けないって感じのオーラ! 店員もお客も、みんなオシャレに見えてしまう魔法! 長ったらしい商品名を言えないと注文出来なさそうな感じ! スタバは治外法権が働いてます!」
 一人で入店して注文する様子をイメージしただけで震えてしまいそうだ。やはりあそこは異世界。一流の選ばれた国民しか入店できない場所。一般人が気安く訪れていい場所ではないのだ。
 これだけ熱弁しても、建人はいまいち理解出来ていなさそうだった。話している途中、眉間に眉を寄せて、唇を少しだけもごもご動かしているのが見えた。それは言おうと思ったけど言葉を飲み込んでいる時の彼の仕草だ。きっと、こちらの真っ向勝負に正面から挑もうとしたが、すんでのところで止まったのだろう。
「……七海さんはかっこいいしオシャレだから、何も感じずあの店に入れそうですけど、田舎者の私には怖くて無理です」
 一人で入店したら最後、この世界に帰って来れる気がしない。まるで建人が仕事で相手にしている、恐ろしい呪霊とかいうものと同じではないか。
「きっとスタバは呪霊の中でもレベルマックスですよ!」
「スタバはそもそも呪霊ではありません」
「例えばの話! 私にとってはそれほどのヤバさです!」
 きっと、何気なく建人を誘えばついてきてくれるだろう。それを、「スタバこわい」だなんて言い始めてしまったから、変な目で見られてしまっている。建人に変な目で見られるのは大変心が痛いため、早くこの状況から脱却したい。なまえはなんとか建人を説得して、スタバに行くことを決定づけた。

 スタバは目と鼻の先である。しかし、店のマークが視界に入るだけで、なまえは意識してしまい、足が竦みかけた。
「むり、だめ、やっぱり怖い」
 隣にある建人の腕をぎゅっと掴む。これ以上は近づいてはならない。
「呪霊と違って、スタバはあなたを取って食おうとしてるわけじゃないんですから」
「食われます! 人権と尊厳が!」
「……はあ」
「七海さん……お願いしてもいいですか」
「一応確認しますが、それは私ひとりで行ってこいとのことですか 」
「そう。無理、絶対入れない」
「ここまで来て何をしり込みしてるんです」
「無理です、こわい、異世界すぎる! ほら、明らかにオーラが違いますよ!」
 なまえの恐れと恐怖、しり込み具合に、建人は若干引いている。しかしそれを本人に悟らせないのがなんとも紳士的だった。しかし、早くしなければ周囲の目が痛い。なんだあのカップルと思われていることは間違いなかった。
「七海さん、一人で行ってきて!」
 結局、建人はなまえから、無理やり送り出してしまった。建人は心に決める。絶対になまえのスタバ恐怖症を克服させてみると。
 建人はなまえが飲みたいものと、自分はエスプレッソを注文する。ちらりとなまえのいる方向を見ると、じっとりとした自然と絡み合う。
 一方なまえは、一人でスタバの前で待っていることすら、恐怖と緊張でそわそわしてしまっていた。早く終わらないかな。一人でいるの心細い。なまえは建人を見つめつつ、早く終わるよう念じていた。
「……えっ」
 念じていた思いが通じたのか何なのか、なまえは建人から手招きされる。キョロキョロしていると、口パクで「なまえ、来て」とゆっくりと唇を動かしている。
――うう、近づきたくないのに、怖いのに。
 なまえはドキドキしながら建人に近づいていく。なんで建人は手招きしたんだろう。たしかに注文して欲しいものは伝えたはず……。
――そうだ、お代渡してなかった!
 お金を渡していなかったことに気づいたなまえは早足で建人の元に駆け寄った。
「七海さん、お代――」
「ケーキ、どれがいいですか?」
「へ?」
 建人を見上げると、真剣な眼差しでケーキを選んでいる。
「あなたが食べたそうなのは、、こっちかこれかと思いますが」
 指さされたケーキを見ると、確かに数種類ある中で気になるものだった。
「えっと、あの、七海さん?」
 なんでケーキなんだろう。首を傾げて見上げると、建人はふっと笑って首を傾げてきた。可愛い。目の保養。イケメン大爆発である。
「ここまで頑張ってやって来れた、なまえへのご褒美ですよ」
 七海建人という男は、非常に飴と鞭の使い方が上手い男だった。




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