ネイルをする3
建人が背中と脚を怪我してから、数日が経過した。ダークブラウンはすっかり見慣れてしまい、日常風景に落ち着いている。着替える時、入浴する時、就寝前と起床後など、建人の視界に入るたびにそれは愛着すら湧いてきていた。一方、なまえは、建人が何気ない時に爪先の色を眺めているのを目撃しては、心臓が鷲掴みにされたようだった。
「そろそろ別の色も試していいかな……」
なまえの手の中には、ダークブラウンを購入する前に使用していた、ネイルポリッシュが入っている。ブルーグレーのそれは、発色こそ夏らしくて涼し気だ。しかし、相性が悪いのかただ単に塗り方が下手くそなのか、上手く塗れた試しがなかった。ダークブラウンよりも回数を重ねて練習をしたものの、結果は変わらずお蔵入りしてしまったのである。
「でも泥より浮いちゃうよね」
自分の爪先を見つめる。建人や硝子が褒めてくれたが、やはりなまえとしては、悟と同じように『泥』としか思えない色だった。そのため、つい口に出てしまう色名も『泥』である。
建人の足を見る人間は限られている。主に本人となまえ自身の二人だと自負していた。その他に、先日のように足に怪我を負ってしまった時に、硝子が目撃するくらいだろう。それ以外は今のところ思いつかない。
「あ……任務先とかで迫られちゃって……?」
そうだ、我が推しである七海建人は、最強レベルで容姿が美しい。西洋の遺伝子を受け継いでいることもあり、日本ではあまり見ない屈強な身体つきをしている。スラッとした高身長にバランスのとれた筋肉、身につけるものは高級品で身だしなみにも気を遣っている。板についている敬語は、心地の良い低い声で発せられる。仕事は効率的かつ容量が良く、後輩の面倒見もいい。女性のみならず男性ですら心惹かれてしまう魅力を持っているのだ。
「求められて乱交に発展しちゃう……!」
「なにを口走っているのですか?」
「んぁっ、なな、七海さん!」
「聞き捨てならない単語をいくつか耳にしたのですが」
「えっ、聴こえて……!?」
「誰が任務で迫られて、誰が求められて乱交に発展するんですか?」
「え、あー……えっと……その、七海さんが」
「は?」
おそらく予想していた人物名ではなく、自分の名前が出たことへの意味不明な気持ちが、そのまま一文字に乗せられていた。まるで『なにを言っているんだ』と伝えたそうな顔でじっと見つめられて、なまえは乾いた笑みを浮かべる。
「なぜ私が?」
「えっと……尊いの天才すぎて?」
「はぁー……」
建人は、わかりやすく片手で額を抑えて項垂れた。こういうところは、意外と感情表現がわかりやすい。普段はどうか知らないけれど。容姿も相まって、海外ドラマの住人になった気分になる。
「七海さんのね、爪の色見る人、限られてるなあって考えて」
「ええ……まあ、そうでしょうね」
「七海さんと、私と、あとこの前みたいに、怪我した時に家入さんの三人くらいかなって思ったんだけど……」
親指から順番に指を立てながら話していく。その後の話は、少しはばかれるような気がして口を閉じる。しかし建人が気になるのは、その続きの話だろう。そこで話を終わらせることを、許してくれるはずもなかった。
「けど?」
「……七海さん、かっこよすぎるから、任務先とかで迫られて求められて、大変なことになっちゃう時に、爪を見られちゃうなって」
「妄想上の私はどうなっているんですか……」
「呪術界のマッツ・ミケルセン」
「………… 」
建人は眉間の皺を指でぐにぐにとほぐしている。それだけで絵になってしまうかっこよさに悶えてしまう。瞬時にスマートフォンを取り出して写真に収めようとしたが、気づいた建人は佇まいを直してしまった。
「なんで!? なんで! 撮りたかったのに……!」
「……訂正しますが、私は任務先で迫られたり求められたりはしていません」
「うそ! 家入さんや五条さんが、七海さんはめちゃくちゃモテて言い寄られてるって言ってました!
」
「チッ」
建人の舌打ちから、それが事実なのだと察する。硝子や悟から聞かなくても、建人がモテるのはなまえの中で至極当然のことであった。むしろ、そうでなければ、全人類見る目がないと断言できる。
「やっぱり! モテるんですね! 経験あるんですね!?」
ずいっと建人に近づくと、器用に大きな身体を逸らして距離を取ろうとされた。視線さえも逸らされてしまい、納得のいかない振る舞いをされて眉間に皺が寄る。
「なんで目逸らすんですか」
「……なぜそこまで追求するんですか」
視線の動きを矢印で表現できるのならば、きっと建人の視線は、うにょうにょと波打ちながら様々なところをさ迷っている。
「追求されたくない?」
「……なまえが嫌な気分になると思って」
嫌な気分。なにを言っているんだ。建人の伝えたいことが理解できなくて、首を傾げてしまう。
「なんで? 嫌にならないよ? むしろ七海さんがモテるのは当然のことだし、そうじゃなきゃ全人類見る目がなさすぎます」
建人はぽかんとした後、ぐぐっとまた眉間に皺を寄せた。
「それは……どうなんですか」
「え?」
「……嫉妬、しないのか」
「嫉妬……?」
建人の言うことがわからずにいると、今日一番の大きく長い溜息が生まれていた。
「だって、七海さんは素敵な人だから、他の人が好きになっちゃうのも頷けるし、むしろ七海さんが好かれてる様子見ると『好きになっちゃうよね!わかる!』って思うし……」
「……私の気持ちはどうなるんです」
「もちろん、七海さんが色んな人から好意を抱かれて、『嫌だな』って思ったらその通りに行動すればいいと思うよ。それに、七海さんはしっかり自分の気持ち伝えられる人だから、絶対に断るだろうなって思ってるし。もし……それで七海さんが別の人のこと好きになって、一緒にいたいなって思うんだったら、そういうことなのかなって」
「――は?」
あまり聞いたことのない、ドスの利いた地を這うような声が響いてぶるりと身体が震えた。恐る恐る見上げると、ギラギラした瞳に一心に射抜かれてしまう。気に触ったことを口走ったのは一目瞭然だった。しかしここで言葉だけの謝罪をしても、どの言葉が彼の琴線に触れたのか理解しないから、彼には何も伝わらない。
「私がなまえ以外の人間に靡くとでも?」
「っ!」
ずいっと伸びてした手に固く瞼を瞑る。衝撃は予想していたよりも遥かに優しいものだった。頬にそっと触れられた指の背は、風を撫でるように頬の上を滑る。
「自分のテリトリーに入れて、生活まで共にして、身体も好きなようにさせる相手は、これまでもこれからも、なまえしかいない。なまえ以外、どんな女も、ましてや男ですら考えられない」
「ぅ、え、あの……」
「なまえは嫉妬しないようですが、私があなたの立場なら、嫉妬で狂いそうだ」
頬を撫でていた指先は首の後ろに周り、くんっと上を向かされて引き寄せられる。近くなった距離に驚いて、手の中にあったネイルポリッシュを落としてしまった。ガタンッと床に叩きつけられたネイルポリッシュのその後が、どうなったかわからない。魔法にかけられたように、建人から目が離せなかった。
「忘れないで。なまえの最初で最後の男になるのは、私しかいないということを」
いつの間にか腰に回された太い腕が、隙間を作らせてくれないほど抱き寄せてくる。厚い胸板にぴったりとくっついた自分の胸から、心臓の高鳴りが伝わってしまいそうだった。瞳の奥が熱くなって、じんわりと涙が浮かんでくる。
「誰にも渡してなんかやらない」
痛切な呟きが耳元で囁かれる。
――どうして、七海さんがそんなに苦しそうなの。
建人が心配しても、なまえはどこにもいく気持ちはなかった。建人以外の人は考えられないし、考えたくもない。叶うのならば、建人の最後の人でありたいと思うし、もしも互いの願いが形になるのなら、婚約をして正式な関係を結びたいとも考えることがあった。なんとなく、私はこの人と結婚して、一生を終えるだろう。そんな気がしながら、彼との生活を送っている。
しかし、心の奥底に隠した本音は、正反対であった。なぜ建人のような素晴らしい人が、自分を選んでくれたのか。いくら考えても答えは出なかった。自分よりも可愛らしく美しく、可憐で強くて彼が隣に立っていたいと考えそうな、たくさんの魅力を持っている人は大勢いる。
「……私で、いいの」
「なまえじゃなきゃ無理だ」
建人にぎゅうっと抱き締められる。心臓も同じくらいの強さで締めつけられたようだった。浮かんでいた涙は、目尻からぽろぽろ零れていく。
「っ、ごめん、ごめんなさい」
「謝ること、何かありました? 私は言いたいことを言っただけです」
あやすように背中を撫でられ、余計に胸が締めつけられる。鼻がツンとしてどんどん涙は流れていく。一度ぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと開いて建人を見上げた。
「だって……七海さん、苦しそう」
もぞもぞ腕を動かして、建人の頬に手を伸ばす。建人のように優しく撫でることは出来ないが、指先で触れた。ぴくりと形のいい眉が動く。指先を上下にゆったりと動かすと、首裏に回っていた手がいなくなり、縋るように手を包み込んできた。建人は自分から頬をすりすり動かして、撫でてもらおうとする。それが大型犬にそっくりである。
「……でもね、嫉妬しないのは、本当なの。だって、七海さんは絶対に、私の元に帰ってきてくれるってわかってるから」
「当たり前です。私の帰る場所はあなただ」
指の隙間に太い彼の指が入ってきて、指の腹に彼の爪がぶつかった。。
「……でも、もし、七海さんが、気になるなって思って、誰かに接していたって知ったら……嫉妬、しちゃうかも」
「!」
「七海さんと接してるその相手に。七海さんに想われていいなって思っちゃう……んっ」
言い終わるか終わらないかのところで、建人の顔が首元に埋まった。唇の隙間から吐き出される熱い吐息がくすぐったい。
「なに、どうしたの……?」
「あなたも嫉妬するんだと思って」
「七海さんに想われてる相手が羨ましいから」
「……私だって、もし自分以外になまえの愛情を受けている人間がいたら、嫉妬で狂いそうだ」
ぐっと腕に力が込められてさらに強く抱き締められる。これ以上されてしまうと、息苦しくなりそうだ。
「じゃあ、愛情の安売りはしない方がいいね」
「そうです。私だけにしてください。正直、なまえが仕事で相手にしている子ども達にも嫉妬してしまいそうだ」
「ええー? それは大変だ」
「ええ、大変なんです。だから、牽制できるのならなんだってしたいと思っています」
建人は体を離すと、床に落ちたネイルポリッシュを拾う。小さく声を漏らすと、くすりと笑われた。
「これだって、なまえにお願いされなければ、絶対にしない」
「ひぇ……」
建人は愛おしそうにネイルポリッシュの瓶へと唇を寄せた。
なにそれ、なんだそれかっこよすぎる。突然のそういう不意打ちなかっこいいところ本当にやめてほしい。
「それで? 今度はこの色ですか?」
「……ふぁい」
「? 息してます?」
「死因は推しによる窒息死……」
「それは大変だ。人工呼吸が必要ですね」
建人は自分が原因だとわかっていながら、さらに拍車をかけようとしてくる。
ネイルポリッシュが近くのテーブルに置かれる。仕事の時とは違い、下ろしている前髪が自分のそれと混ざりあった。吐息が唇にかかり、なまえはすんでのところで片手を互いの唇の間に滑り込ませる。
「待って、待って、まって」
「……いい加減、いつになったら慣れてくれるんですか」
指先に唇をくっつけたまま話すため、声が少しだけくぐもった。ムスッとした建人は、かっこよさよりも可愛さが増している。出会った頃よりもたくさんの表情を近くで見ることができている事実に、なまえの胸は高鳴った。
「一生無理です……」
「私は推しではなく、恋人になりたいのですが」
「七海さんは! 推しであり! こ、こっ、こい、び……大好きな人、です」
だんだん小さな声になってしまったけれど、建人の耳に最後まで届いただろうか。恋人だなんて言葉、小っ恥ずかしくて言えるはず無かった。沸騰したヤカンのように顔が熱い。きっと顔は真っ赤になっている。建人に見られたくなくて俯いた。
建人は一息つくような溜息をつくと、未だに唇をガードしている手を包み込んだ。すっぽりと建人の手に捕まえられ、呆気に取られてるうちに唇が重なりあった。
「んっ……」
建人は唇を離してはくっつけたり、首の角度を変えたりしながら味わうように合わせてくる。触れた部分から熱が一気に全身に伝わり、切なく甘い痛みは心からお腹の深いところまで、ずくんと広がっていった。
「んぅ……ふ、ぁ」
「……ンっ」
建人に包まれた手はいつの間にか指が絡めとられてぎゅっと握られている。もう片方の大きな手に後頭部をぐっと固定されてしまい、建人から逃げられなかった。
合わさった唇や肌から、建人への大好きな気持ちが伝わっていき、建人が愛おしく想ってくれている気持ちが伝わってくるようだ。嬉しくて苦しくて、目尻にじんわり涙が浮かぶ。
息が上手く出来なくて、絡め取られた指にぎゅっと力を入れると、下唇を甘噛みされる。名残おしそうに建人は離れていった。
「は、ぅ……」
「上手に息できましたね」
なまえは肩を動かして呼吸を整える。建人はゆったりとなまえの頬を撫でた。
「可愛い」
「ぁっ……」
焦れったく撫でられた肌は快感を拾い、ぴくりと身体が震える。喉の奥から上擦った声が響き、なまえは身を捩った。
「慣れました?」
「……むりです」
「では、練習が必要ですね」
「待って、もう無理ですだめです、むり」
このままでは建人の調子に乗せられてしまう。全力で首を振って否定すると、建人はなにか閃いた表情を浮かべていた。
「いいアイデアが浮かびました。こうしましょう」
建人はテーブルに置かれているネイルポリッシュに再度手を伸ばす。
「互いに塗り合って、練習したあと……またこちらの練習をしましょう」
ネイルポリッシュを手のひらに乗せてきた建人によって、呆気に取られていた唇に触れるだけのキスを落とした。
short 望楼