副船長と処女3



 ガキみたいな告白をした。ベックマンは自室で一人酒を煽りながら後悔していた。なんだあの告白は。若輩でもあるまいし、それなりに経験しているのだからもっと違う言葉での伝え方があったはずだ。ベックマンは片手で頭を搔く。
 なまえが相手だと、浮ついた言葉の一つ吐けやしない。そりゃそうだろう。ほかの女と違ってなまえへの想いは大切に育んできて、少しずつ大きくさせていったのだ。突発的な出会いからなし崩しに夜に溺れる相手とは訳が違う。いいや、それにしてもあの告白は無いだろう。ベックマンはぐるぐると頭の中で同じことを繰り返し考える。
 なまえの返事を貰わなかったのは、単に返事を聞くのが怖かっただけだ。告白する予定すらなかったのに、口について出た言葉に驚きつつも本心を伝えた。なまえの反応から、同じ気持ちを抱いていないことは知っていた。ダメ元でイヤリングを毎日つけてほしいと願ったくらいだ。
「……情けねぇな」
 ベックマンは髪をかきあげた後、酒を煽った。氷の塊がガランとグラスに当たって音を立てる。強い音は、まるでベックマンの心拍を表しているみたいだ。
 嫌われてしまっただろうか。歳の差と秘めていた想いに引かれただろうか。これから距離を取られてしまうだろうか。酒の勢いとは裏腹に、不安はベックマンを弱気へと招待していく。ティーンでもあるまいし、考えたところで結果はわからない。そう理解はしているのに、ベックマンの心には不安が広がっていった。酒でも拭えぬそれは、別の何か強烈な行動を取らない限りは、一時忘れることさえ不可能である。
「いや……無理だな」
 一番に思いついた女を買って抱くという方法。普段から行っているそれを、今実践する気にはなれない。なまえ以外の女を抱くだなんて、想いを打ち明けてしまった手前無理だった。ただでさえほかの女を抱く時に、なまえだったらどんな反応をするのか考えてしまうのだ。もう彼女以外の女に触れる気はない。
 しかし、欲を発散しなければ身体は正直で調子を崩す。なんて面倒なんだろう。ここ数年、いや、この船に乗ってからは特に、一人で処理したことは無かった。
 ベックマンは自身の右手を広げじっと見つめる。デカくて分厚い手のひらに、節くれだった長い指先。何にも性的な魅力は感じないが、見つめていても思い浮かべてしまうのは、なまえの細く女性らしい手のひらだ。
 ベックマンは右手で顔を覆う。脳裏に浮かび上がる想像は、ベッドの上のなまえの姿。まるで花嫁の純潔を垣間見てしまったような背徳感に、大きく溜め息が零れる。
「ックソ……」
 始まってしまった妄想はどんどんヒートアップしていき、存在しない記憶であるのに妙にリアリティが増していく。ベックマンは主張し始める息子に、仕方なく手を掛けた。

   *

 結局その夜、ベックマンは熟睡することが出来ず、細切れの睡眠しかとれなかった。普段よりも多く酒を煽ったというのにこの始末。もう寝付けないだろうと踏ん切りをつけたベックマンは、眠気を携えながら体を起こした。空いた酒瓶を捨てる気持ちにも慣れず、ダイニングに水でも飲みに行こうと部屋を出た。
 外は薄暗く、朝陽はまだ登っていない。ベックマンは朝陽に瞼の裏が溶けないことに胸をなで下ろしつつ、人の気配を感じてつま先の方向を変えた。
 甲板に進むと、見慣れたブランケットが目に入る。あれは昨夜、自分が渡したものだ。
「……なまえ?」
 愛おしい女の名がふっと唇から零れる。小さな声は波に流されることなく、相手に届いたようだった。振り返ったなまえと目が合った。
「あ……副船長」
「おはよう。……眠れなかったのか?」
 ベックマンは声を掛けてしまった手前、どこにも行くことが出来ずになまえに近寄る。覗き込んだなまえの目の下には隈ができていた。
「おはようございます。……えっと、はい」
 言いづらそうにするなまえに、ベックマンはその理由がピンと思いつく。
「……俺のせいか」
「っ! いや、あの、えっと……」
 否定しないなまえに素直だなと感じつつ、船に背を預けた。
「俺のせいだな。……悩ませちまったか。悪い」
「ち、ちがっ……! 副船長のせいじゃ、ないです」
 わたわた慌てるなまえの肩からブランケットが滑り落ちそうになる。ベックマンは肩にかけ直してやる。なまえの礼を受けながら、ベックマンは頭の片隅でぼんやりと考えた。華奢な肩なんだろう。服の下は細くて白い肩がまろやかな線を描いていることだろう。ベックマンはすぐに想像できてしまった自分に、眉間に皺を寄せる。
「あの……副船長」
「ん? どうした」
「昨日の、お話なんですけど」
「っ……ああ」
 なまえから話題に出すとは想定していなかったベックマンは息を呑む。心臓がドキリと音を上げた。
 なまえはブランケットを握りしめながら重い口を開いた。
「……私のこと、その……好きって言ってくださって、あの、驚いたんですけど……うれし、かったです」
「っ!」
「わ、私、恥ずかしながら……その、男の人と、付き合ったことがなくて……人に好かれるだなんて、自分に縁がないことだと考えていたので……。副船長から、そう言われて、なんだか実感がないというか、ふわふわしてしまって」
「っ、そうか」
「私、人を好きになったことも無くて……でも副船長から、好き伝えてくださって、ど、ドキドキ、しちゃって」
 ベックマンは息をするのも忘れてしまった。穏やかな波に攫われてしまいそうな小さな声だったが、なまえの声はしっかりとベックマンの耳に届いている。
「ふ、副船長のことは、すごく尊敬してますし、かっ、かっこいいとも、思ってて……。困った時、いつも力になってくださいますし、船のことを一番に考えてくださってて……」
 ベックマンは一言も聞き漏らさないように耳を澄ましている。なまえの言葉一つひとつに胸を高鳴らせてしまい、頬が熱くなるのを実感していた。
「でも、私、恋愛の意味で副船長のことを好きかと訊かれたら、わからなくて……。さっき言ったみたいにドキドキはしたんですけど、副船長のお気持ちに応えられるだけの、私の気持ちが足りない、といいますか……」
 だんだん雲行きが怪しくなるなまえの言い分に、ベックマンは胸を締めつけられる気分だった。これがほかの女ならば、お試しとでも言って無理やり関係をこじつけてしまう。しかし、なまえには無理だ。そんな強引なこと、できるわけがない。
 この可愛い生き物が頑張って答えを出そうとしている姿が、なんとも愛おしく感じつつ、自分の願いはやはり叶わないのだろうと先が見えてくるなまえの言葉に、ベックマンは複雑な気持ちを抱えていた。
「……こんな中途半端な私が、副船長の隣に並ぶだなんて、おこがましいと言いますか」
 萎んでいくなまえの声に、ベックマンは胃がキリキリと痛みだした。これはなにかの拷問だろうか。ハッキリと振るなら振ってほしいと思いつつ、本当にハッキリと振られてしまえば自分はしばらく塞ぎ込んでしまうだろうと言うのは容易に想像ができた。
「……じゃあ、俺ァまだなまえのことを好きでいてもいいのか?」
「っ、え?」
 ベックマンは痛みを抱えつつ、なまえに問いかける。
「なまえ、お前の話をまとめるとこうだ。俺の気持ちは嬉しかった。だが自分は経験がないから分からないことだらけだし、何より自信が無い。……そうだろう?」
「……はい、そうです」
「俺ァもう人生の半分まで生きている。まあ、この生活が続く限り、いつポックリ逝くかもわからなえが」
「そんなこと! 副船長お強いのに」
「海は広い。俺よりも強いやつなんか五万といるさ。……そんな人生だ。おまけに女癖も悪い。お前も知ってるだろう?」
「あ……はい。でもそれは副船長がモテるから……」
「それとこれとは話が別だ。……こんな人生だがな、なまえ、俺はお前と出逢えたことを感謝してるんだ。人生で一番」
「えっ……?」
「こんなにも愛おしく想える存在ができたこと、俺の近くで笑ってくれること、同じ船で生活出来ていること……そして、こうしてなまえが俺の気持ちを受け止めて、本気で考えてくれたことを。すべてに感謝している」
「そんな……私はただ……」
 なまえは清い。清々しいほど純粋で綺麗だ。こんな歳をとった男の告白を真剣に考えて言葉を紡いでくれる。ベックマンは本音をなまえに伝えつつも、その純粋さを逆手にとってしまおうかと勝手に考える脳に、必死に待ったをかけた。
「……なまえ?」
 俯いたなまえを不思議に感じ、ベックマンは甲板に膝をついて顔を覗き込む。なまえはその美しい瞳に涙を溜めていた。零れ落ちそうな涙を、ベックマンは拭おうと手を伸ばすが、彼女に触れてもいいのか一瞬迷い、手を止めた。
「わ、わたし、そんな感謝されるような、存在じゃないです」
「なまえ……」
「感謝するのは私の方です。あの島にいた私を、船長や副船長は気にかけてくださった。おまけに船まで乗せてくれて、仕事を与えてくれた。今の私があるのは、副船長のおかげでもあるんです」
 頬を伝って落ちる涙。勿体ないと思えたのは、きっと涙を流しているのがなまえだからだろう。ベックマンはそっと指先で涙を拭ってやる。しゃくりあげて涙を止めようとするなまえが可愛らしくて仕方がなかった。
「だ、だから……副船長の想いにも、本当は応え、たくて……」
「っ!」
「でも、私、お付き合いのこととか、男の人のこととか、なにも知らないし……。それに、そんな関係になったら、ほかの船員に顔向けできません」
「それは……」
 ベックマンは頭が混乱してきた。
――いま、何を言われた?
 なまえは自信がなくて不安なのだと言った。それでも、なんだ? 想いに応えたい? それは、好かれているととっても良いのだろうか?
「なまえ、お前の本当の気持ちが、聞きたい」
 ベックマンはなまえの震える肩に手を置いた。顔を覗き込むと涙でまだ潤んでいる双眸と絡み合う。なまえの頬は赤く染まっていた。
「副船長……」
「今は、ベックマンと」
「……ベックマンさんのこと、好きになっちゃいそう」
「っ……!」
 ベックマンは心臓が止まりそうだった。名前を呼ばれたこともそうだが、なにより、なまえの本当の気持ちに驚きを隠せなかった。
「なまえ、なまえ。俺は、お前を好きなままでも、いいんだな?」
 ベックマンは早口で問いかける。確認したかった。今ならなまえの返事が聞ける気がした。希望が指したのだ。
「私も……好きになっても、いいですか?」
 顎を引いて見つめてくるなまえに、ベックマンは胸が張り裂けそうなほど喜びを感じる。長い腕を伸ばし、なまえの背中に回して優しく引き寄せた。ベックマンに合わせて甲板に膝をついたなまえは小さく、庇護欲を掻き立てられる。
 朝陽が登り、海を一瞬で一日の始まりに変えさせる。ベックマンは腕の中でまだ涙を拭うなまえを見下ろした。至近距離で視線が絡み合う。自然とベックマンは距離を縮め、額をこつりと触れ合わせた。
「……キスしても?」
 ベックマンの吐息がなまえの唇に降りかかる。なまえは小さく頷いた。
「……初めて、なんです」
 緊張している声に、ベックマンはふっと息を吐いて微笑んだ。
「そりゃあ、光栄なことだ」
 なまえの背中に回していた腕を、頬に触れて撫ぜる。なまえにとって初めての口づけ。ベックマンは胸踊る気分を抑えながら、そっとなまえに唇を寄せた。

22,09.06




short 望楼