副船長と処女4



――副船長とキスをしてしまった。
 なまえは思い出すたびに頬が熱くなる。まるで時が止まったかのような感覚、ベックマンの唇の柔らかさと優しさ、熱い眼差し。そういったものがすべてなまえをおかしくさせる。初めてのキスの後、抱擁を受けながら「もう少し、いいか?」と掠れた声で言われてしまえば、首を横に振ることだなんてできなかった。
 なまえは唇に触れながら、あの早朝のことを思い出す。胸はドキドキしていて、顔は熱くなって、どうにかなってしまいそうだ。
 副船長ベックマンと恋人関係になってしまった。想像もつかない状況に、あれは夢では無いのかと毎回考え、そして毎回唇の感触が夢ではないと否定してくる。まさか一回り以上歳の離れた、それも副船長と恋仲になってしまうだなんて。好きになってしまいそうと曖昧な返事にも関わらず、ベックマンはキスをしてきながら「もっと惚れて貰えるよう、頑張んなきゃな」と笑っていた。
――だめ、かっこよすぎる。
 なまえは両手で顔を覆った。どうしてだろう。今までベックマンのことをかっこいいと考えたことはあるが、こんなに胸がドキドキするものでは無かった。恋仲になった瞬間から、こんなに胸が高鳴ってしまうだなんて。知らないことはまだまだ多すぎる。なまえは初めての恋人をもち、浮かれるよりも恐れ多い気持ちの方が募っていた。何せ相手はあのプレイボーイのベックマンである。
――初めてって伝えてるけど、飽きられたらどうしよう。
 ベックマンからすれば、初めて――生娘――の相手だなんてめんどくさいことこの上ないのではないか。そんな不安が日々なまえのなかで渦巻いている。ベックマンが直接なにか言ってきたのではなく、あくまでなまえの妄想ではあるが、慣れない相手に歩調を合わせるのは、疲れるのではないかと考えてしまう。
「頑張らないと……」
 なまえはポツリと呟く。そうだ、頑張るのだ。ベックマンの隣に立っても違和感ない女になるために。ベックマンに飽きられてしまわないように。何を頑張るのかも明確でないなまえであったが、気合いは人一倍持ち合わせていた。

   *

 頑張らないと。そう決意したものの、なまえにとってベックマンとそういうことをするハードルは、日々の仕事のハードルよりも高い。
 恋仲になってから、二人で居られる時間をつくるように、ベックマンがふとした時に会いに来てくれることがあった。日中の場合、他愛もない会話をするだけだったが、夜にまた会うことを約束されれば話は変わってくる。
 夜に決まって集う場所はベックマンの自室だった。未だ副船長の自室に出入りすることは慣れていないのに、二人で過ごすことも慣れないままで、なまえは気遅れしてしまいそうになる。
 ベックマンはなまえをソファに座らせて、なまえの手を握ったり、肩を抱いたりなどをさりげなくやってのける。なまえはそのたびに心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらいドキドキしてしまって、ベックマンに顔色を伺われてはいつも笑われてしまう。それだけならいい。まだ羞恥に耐えればいいだけだ。しかし、ベックマンは顔を近づけてくることや唇を寄せてくることがある。恋仲なのだから当たり前と思うべきだったが、些細な触れ合いだけで緊張してしまう[FN:名前]にとって、キスはハードルがレッドライン並に高かった。
 ベックマンは今夜も[FN:名前]を困らせている。近距離に顔を近づけたかと思えば、頬や耳を撫でくりまわしている。キスをするのかと身構えたなまえだったが、一向に降り注いでこない唇に、頭の中ははてなマークだらけになってしまった。
「ふく、せんちょう……?」
「……二人きりの時は?」
「あっ……べ、ベックマンさん」
「いい子だな」
 二人きりの時は必ず名前で呼ぶようにお願いされた。しかし元々副船長と平船員の階級の差は遠く離れており、二人きりの逢瀬を重ねても未だに[FN:名前]が彼の名前呼びになれることは無かった。
「ベックマンさん、くすぐったい、です」
「そうか」
「……ん、ぅん〜……!」
 頬を撫ぜる優しい手がくすぐったい。なまえは目を瞑ってその感触に耐えようとしたが難しく、声が漏れてしまう。ぷるぷると震える様子を、ベックマンは喉の奥でくつくつ笑いながら楽しんでいる。
「いじわる……」
「くくっ、かわいい反応するのがいけねぇな」
「うぅ……」
 くすぐったさで涙が込み上げてきそうだ。なまえはとうとう反抗しようと動き出す。顔に添えられたベックマンの大きな手を掴み、引き剥がした。簡単に頬から離れた手は、なまえが掴んでいたのにあっという間に掴まれてしまう。指先ひとつひとつに絡みつくように握られた。唇にちゅっと可愛らしい音を立てられ、ベックマンからのキスを受け取ってしまった。
「っ……! まっ、な、なんで……!」
「言っただろう? かわいい反応をするのがいけない」
 なまえの頬は火がついたように熱くなる。まだ触れ合いにすら慣れていないのに、キスをされてしまったのでは逃げる場所がなくなってしまう。ベックマンはなまえの反応を笑いながら、また唇を寄せてくる。いつの間にか腰に回った太い腕により、距離を取ろうとする作戦はやむなく終わった。ぎゅっと目を瞑り、なまえはベックマンの唇を迎え入れた。
「んぅ……ん、っ……」
「っ、はぁ……」
 唇から漏れるベックマンの熱い吐息を唇で感じるたびに、なまえは身体中が熱くなる気がした。恥ずかしいのに満たされる感覚。もっと満たしてほしいような、まだ物足りない気持ち。身体の奥の方から溢れてくるそれらに、なまえは気づいた瞬間溶けそうになるくらい頬を赤く染め上げた。
 キスはどんどん勢いをましていく。食べられるんじゃないかというほど、ベックマンの唇が追いかけてくる。時折、角度を変えながらベックマンはなまえの唇を味わい尽くす。唇が触れ合うだけでこんなにゾクゾクしてしまうのか。なまえはベックマンの腕の中で震えた。
 ベックマンの唇が触れているところが熱い。でも気持ちいい。もっとこうしていたい。
 なまえは欲に流されそうになったが、いつまでもくっついている唇が呼吸を遮ってくる。なまえは苦しさに耐えられず、とうとう根を上げた。
「ん、ま、ぁ……まって……!」
 まだ掴まっていない空いた手で、ベックマンの逞しい胸を叩く。一番唇と唇がくっつきあったとき、唇の先にベックマンの舌を感じた時、これ以上は無理と根を上げてしまった。名残惜しげに下唇を啄まれて離された唇には、薄らと銀色の架け橋みたいな唾液で繋がっていた。最後のおまけと言わんばかりになまえの唇を、ベックマンの分厚い舌が舐めとっていく。大型犬みたいな仕草なのに、キュンとしてしまった自分になまえはとうとう自分は頭がおかしくなってしまったのかと悟った。
「は、はずかしぃ……」
 なんだか力が抜けてしまい、ぽすんとベックマンの胸になだれ込む。乱れた息を整えていると、恋人繋ぎのように絡まった手は離れていった。それでもどうにかしてなまえにくっついていたいベックマンの手が、彼女の頭を優しく撫で回す。
 いやらしい雰囲気のキスとは裏腹な優しい手つきに、なまえは自分から頭を擦り寄せてしまった。
「まだ慣れねぇか」
 ベックマンは大きく溜息をつきながら問いかける。非難の意味が込められていないと分かっていても、なまえは申し訳なく感じてしまった。
「……すみません」
「いや、いい。これから慣れていけばいい話だ」
 むしろベックマンはここまで慣れないなまえに感嘆し、他の男どもの餌食にされなかったことに感謝していた。しかしあまりにも下心のある考えのため、なまえにそれが伝わることは無かった。
「恥ずかしくなくなる日、きます……?」
 息が整ったなまえはちらりとベックマンを見上げる。そんな日ははたしてくるのだろうか。
「まあ、それすらも考えられなく日が来るさ」
「うぅ……こわい」
 それすらも考えられなく日。それは、もっとすごいことをベックマンとする日なのではないか。なまえの頬はまた赤く染まってしまう。想像したことがバレていたようで、ベックマンからは嬉しそうに笑われて頬をつつかれ撫でられた。

22,09.16




short 望楼