わからない



 こんな自分にも、愛しいと想える相手ができた。そして幸運なことに彼女も同じ想いを抱えていることが判明し、紆余曲折を経て恋人同士になれた。
 付き合うに至るまで、今だから言えることだが血の滲むような努力をした。素直でやさしく、自分を包み込んでくれる。そんなひだまりみたいな存在になった彼女は、俺がアプローチをしても冗談だと思い続けた。そんな彼女に自分を意識させることは、例えるならばグラスに注がれた水に一滴のインクを垂らして、水全体がゆっくりとその色に染まっていくのを見届けているようだった。正直なところ、組織での仕事として、情報収集を行う方がよっぽど簡単だったのである。
 付き合うことが出来たのなら、今度こそ順風満帆にことが進められるのだと思っていた。しかし、俺の人生に『順調』だなんて言葉は、やはり縁がないらしい。
 付き合い始めてもう約五ヶ月が経つというのに、未だに彼女とキスできていないのだ。
 付き合いたての頃は、恥ずかしがる姿も可愛いなと胸を高鳴らせた。しかし、いつまで経っても身体的触れ合いが一向にできないと、いくら愛しい相手でも不満は募る。
 キスをしよう顔を近づけると顔を背けて逃げ出そうとする彼女を、何度掴まえて逃げられないよう腕に閉じ込めて無理やり唇を奪おうとしたことだろう。脳内でそんなシュミレーションを繰り返しても、結局その時になってしまうと、彼女の意思を尊重できない自分に腹が立ってしまうため、一度も実行に移したことはない。
 しかし、ここまで頑なにキスをさせてくれない理由は知りたい。恋人だからこそ、理由くらいは彼女の口から直接聞きたいものなのだ。
「いい加減、教えてくれないかい?」
 やんわりと壁際に追いやり、逃げられないよう両腕を彼女の顔を挟むようにして壁につけ、眩しい白い足の間に片足を割り込ませた。
「なっ、なに、なんです、か?」
「しらばっくれる気か?」
 おどおどする彼女にわざとらしく笑みを濃くして退路を経つ。
「四ヶ月と二十日、もうすぐ五ヶ月が経つ」
「ぅん?」
「だから俺と君が付き合い始めてから、もうすぐ五ヶ月」
「お、おお……。さすが、記憶力抜群……」
「いい加減、お預けは寂しいんだけど?」
「お、あずけとは――」
「キス」
 間髪入れずに返答すると、予想していた通り腕の中の体はピシリと固まった。『やばい、逃げたい』と書かれているような顔に自分のそれを近づける。聞こえてきた小さな悲鳴を無視して耳元で囁いた。
「キス、だめ?」
「っひぁ」
 これでもかと言うくらいぎゅっと目を瞑った顔は一気に赤く染まった。
 ああ、可愛いな。このまま唇に貪りついて、骨抜きにして、そのまま彼女の奥深くまで快感を味わいたい。
「なあ、ダメか?」
「っ、ん……ぅ」
 擽ったそうに身を捩り快感から逃げようとする。今度は反対の耳に顔を寄せた。
「なんでダメなんだ? 俺に言えない?」  
「ッ、やだ……言わないっ……」
「…………」
 ああ、駄目だ。優しくしようとしたのに。こうもお預けをくらっては、どうしようもない。
「なあ、こっち向いて」
「っ……やぁ」
「じゃあ、俺のこと見て?」
「それ、どっちも一緒……っン!」
 もう歩み寄るのはやめだ。いい加減にしてほしい。俺は十分すぎるほど待ったのだ。
 赤い果実を前にして、これ以上待てができるほど、できた人間じゃない。
「んン、ふっ……ぁ、ッ……!」
 貪り、口をこじ開け、口内を蹂躙する。力が抜けてしゃがみ込む彼女を追って、唇はくっつけたまま跪き、それでもキスを続けた。
「んぅ……ッ、ふぁ……」
 上顎を舌で擽り、逃げ惑う可愛らしい舌を捕まえる。力が入らずふにゃふにゃな指先が縋るように服を握ってきた。頬に水滴が触れた気がして瞼を上げると、可愛らしく曲線を描いている睫毛が涙に濡れて目尻から落ちていった。
 もう限界か。最後に絡ませていた彼女の舌先を吸って、今度こそ壁に背中を預けた彼女に、お詫びの印として可愛らしいリップ音を聞かせて唇を解放した。
「はぁ……も、やら……だから、やだったのにぃ……! きゅ、に……ばかぁ」
 息も絶え絶えながら訴えた彼女はとうとう泣き出してしまった。
 心臓がグッと握りつぶされる感覚。俺がしたキスによってとろとろになった彼女があまりにも可愛いらしくて、どうにかなってしまいそうだった。
「だから嫌だったって? 詳しく教えてくれないか」
 赤い顔して泣いている彼女を見ていたら、先ほど堪能したばかりなのに、可愛らしい唇が恋しくなってしまった。自分の唇を舐めて恋しさに蓋をするものの、彼女の返答によって、ここはもう一度愛しさを味わうことになるだろう。
「……どうしたらいいのか、わからなくなるから……だから、ちゅう、ヤだったのに」
「――かっ」
 思わず漏れてしまった言葉がこれ以上出ないよう、片手で口を押さえた。
――可愛すぎるだろ……!
 きっと彼女は俯いてるから見られていないだろう。よかった。
 恥ずかしさのあまり体をぷるぷると震わしている彼女を眺めながら、逸る気持ちを抑えて落ち着きを取り戻す。
「どうしたらいいのかわからなくなるって、どういうこと? キスしたらってことか?」
「……恥ずかしいのと、嬉しいので、いっぱいいっぱいになって……。頭の中、ごちゃごちゃになる」
 涙が零れる音と同じくらいの声の大きさは、うるさい心臓を何とか静かにさせてなければ聴き逃してしまいそうだった。
――なんだ、そういうことだったのか。
 恥ずかしいからキスをさせてくれない。これは検討がついていた。しかし、恥ずかしさだけでここまで拒まれるのかとも考えていた。その謎が今ようやく解けたのだ。
 ああ、もう本当に――。
「可愛い」
 俯いている頭に手を置き、優しく撫でる。ピクリと反応した彼女はゆっくりと顔を上げた。相変わらず、美味しそうなくらい赤い顔をしている。
「じゃあ、二人で乗り越えてみるか」
「ふたりで? って、どういう……ンっ」 
 首を傾げる彼女に今度は軽くキスを贈る。ほんの少し触れただけなのに、目尻に残っていた涙がポロッと落ちていった。
「こういうこと」
 これから毎日、彼女とキスの特訓だ。

23,11.13




short 望楼