隠しごと



 セントラルの老舗紅茶店で販売されているダージリンは、非常に繊細で香り高い紅茶である。東部の紅茶店に置かれている同じ種類のものとは、比べ物にならないほど高価であり、ここぞという時に容れるのだと以前誰かが話していた。
「ごめん、中尉。せっかく休みの日だったのに、朝から押しかけて」
「いいのよ。せっかくエドワードくんが来てくれたんだもの。たまには良いものを飲みましょう」
 リザは頬を緩ませ、エドワードの前で紅茶を容れていく。
 一方エドワードは、品のある紅茶の香りそっちのけで、固唾を呑んで鎮座していた。椅子に浅く腰かけて、膝の上に拳を握る。ギシリと鎧が軋む音は聞こえなくなってた。
 リザの部屋を訪れたのは二度目である。女性の部屋に足を踏み入れるなど、幼馴染を除けば、エドワードはこれまで片手で数えるほどしか経験がなかった。密かに想いを寄せている彼女の部屋も、機会に恵まれなかったり、男として認められるまでは部屋に招かれたくない意地が出てしまったりして、数回しか訪れていない。
「それで? 私に訊きたいことって何かしら」
 リザがエドワードの向かいに座り、にこりと微笑む。もうエドワードの逃げ場は失われたに等しかった。
 エドワードが前回、リザの元へ話を聞きに来た際は、歴史の裏に隠された真実を教えてもらうためだった。今回、人の生死がかかわっている重い話題ではないけれど、エドワード自身の命運がかかっていることに違いはなかった。
「……なあ、中尉。お、お……おおお、女の子って! プレゼント、なに贈られたら嬉しいの!?」
 リザの長い睫毛がパチリとした瞬きに合わせて揺れる。しかし、すぐに閃いたように表情を明るくさせた。
「女の子って……もしかして、あの子に?」
「っ……そーだよ」
 さすがは中尉。隠しごとなどできないと踏んでいたが、こうも呆気なくバレてしまうと、想いをひた隠している自信がなくなってくる。
 東方司令部の人々を介して知り合った彼女は、錬金術師でも軍部の人間でもない、一般市民だった。彼女は図書館の近くにあるカフェで働いており、食事をすることを口実にして、エドワードは通いつめた。
 客と店員から顔見知りへ、そして友人へと、少しずつ関係を深めていった。彼女との距離が近づくたび、浮き足立ってしまいながらも、大股で詰め寄らないよう気をつけた自分を、エドワードは誇らしく感じている。
 大切な人を失うことは、もう二度としたくない。しかし、いつ不運に見舞われるかもわからない。だからこそ、大切にしていきたい日々がある。エドワードは数々の経験を経て、それを胸の奥深くにしっかりと刻んでいた。
 彼女は一般人で、こちらは軍部にも顔を出す錬金術師。同じ景色を見ることができないとわかっていても、冒険譚に耳を傾けるようにエドワードの話を楽しそうに聞く彼女の姿に、いつか同じ景色を眺めたいと願うようになっていた。
「そっか、もうすぐ誕生日だものね。……それで? 彼女とはどこまで進んだの?」
 頬杖をつき楽しげに目を細めるリザに、エドワードは視線を逸らした。
――絶対に来ると思ったんだ、その質問。
 他人の色恋に首を突っ込むのが女にとって生業の一つである。幼馴染は機械にまっしぐらだったため、エドワードがそれを知ったのは、アルフォンスと旅に出てからだった。
「……まだだよ」
「え?」
「……だーかーらー! まだ告白すらしてないんだって!」
「は……」
 目玉が零れ落ちそうなほど見開いたリザは、数秒後に口元に手を当てて身を引いた。
「エドワードくん、あなた……本気で言ってるの……?」
「本気も何も、事実だっつーの」
「嘘でしょ……てっきりもう付き合っているのだとばっかり……」
「さっきの言い方だとそうだろうな」
 あんぐりと開けた口を見せないようにする仕草は、さすがは仕事のできる女性というところだった。しかし、若干身体を引いた動きと言い、信じられないと語る瞳と言い、言葉とは裏腹に衝撃を受けていることがダダ漏れである。
「ごめんなさいね。身体を元に戻してからもうだいぶ時間が経っているから……」
「……そうトントン事が運べば、俺だって悩んでないよ」
 二人して項垂れてため息をついてしまう。きっとアルフォンスがこの場にいたのなら、「ふみません中尉、兄さんこう見えて、かなりチキンなんです」とか火に油を注ぐことを言ってきそうだ。
 身体を取り戻す前ならば、なにも考えずに突っ走っていただろうけれど、取り戻してあの頃よりも視線が高くなった今、『大人』へと近づいている歳で同じことは出来なかった。
「――それなら、いっその事、告白しちゃえばいいんじゃない?」
「……ハアッ!?」
 エドワードはリザの言葉に勢いよく立ち上がった。テーブルが揺れ、ガチャンとティーカップが音を立てる。
 エドワードが口をパクパクと開きながら言葉にできない感情を伝えていると、リザに真っ直ぐと射抜かれる。戦闘とはほとんど無縁の生活を送る今、久々に戦地で見られるリザの眼差しに、ビクリと肩が震えた。
「いいこと、エドワードくん。彼女はいつまでも独り身だっていう保証はないのよ」
 リザの言葉はビシリとエドワードに突き刺さる。わかっている。そんなことは自分が一番わかっているのだ。そう伝えようとしても、喉に言葉が引っかかり、エドワードは眉をしかめた。
「これから先、彼女が誰かに添い遂げるかもしれないし、逆にエドワードくんが別の人を好きになるか――」
「それはない。俺はアイツしか好きにならない」
「……即答するほどの元気がいるのなら、さっさとケーキでも用意して、想いを伝えてきなさい。今日、あの子の誕生日なんでしょう?」
 溜息をつき、リザはティーカップに手を伸ばす。
 エドワードは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて再び席に着いた。それができれば苦労してないんだって。伝えられるもんなら、とっくの昔に伝えてるんだ。
「怖いの?」
 リザの言葉に、指先が電流が走ったように痺れた。
――そうだよ、逃げ出したいくらい怖いんだ。
 もし、断られたら。その後、関係が崩れたら。花が咲くように笑いかけてくれることが、気まづそうに視線を逸らしてしまうことになったら。
「大丈夫よ」
 リザがどうして胸を張るように慰めてくれるのか、エドワードにはまだわからなかった。

   *

 昼食を済ませたエドワードは、ケーキの入った箱を大事そうに抱え、重たい足を引きずって彼女の部屋を目指していた。
「あの子の好きなケーキはフルーツがたくさん乗ったタルトよ。オススメはこの店」
 リザは親切に店の名前と簡単な地図を書いてくれた。好きな女の子に関する悩みを打ち明けて縋れる場所は、『お父様』との闘い以前からリザだけだった。
 エドワードはメモを握りしめてケーキ屋へ向かい、店員に誕生日プレートを添えるよう注文した。プレートに記載する名前を訊かれ、震える唇で答えると、店員はにっこりとリザのように微笑んだ。
 彼女が住むアパートメントは目前だった。エドワードは足を止めて深呼吸を五回ほど繰り返し、痺れて潰れそうな心臓の痛みに耐えながら足を進める。
――もしかしたら、いないかもしれない。
 会う約束を交わしてはいなかった。そもそも、彼女と会ったのは一週間前で、久しぶりに訪れたカフェにて「来週、誕生日なの」と聞かされて、大事な日を思い出したのだ。
 ゆっくりと階段を上がり、二階の一番奥の部屋。そこが彼女の部屋である。
 ノックをしようと手を掲げるも、弱々しい握られた拳では来訪を告げる音を出すことはできなかった。
「っ〜! だめだ!」
 エドワードは小声で叫びながら扉の前に蹲る。傍らにケーキの箱を置き、頭を掻きむしった。
「――……ッ」
「……ん?」
 なにかが小さく唸るような、小魚が湖から飛び跳ねるような音を、エドワードは拾う。
 目を閉じてよく耳を澄ませてみると、それは確かに聞こえてきた。
「っん……ぁ……」
「やっぱり、なにか聞こえる」
 エドワードは音の出どころを探した。一番考えられたのは、扉の向こう。つまり、彼女の部屋からだ。
 エドワードは廊下を見渡して、誰もいないことを確認すると、そっと扉に耳をつけた。
「っ、ぅ……ン……」
「……!」
 扉の向こうからは、彼女の声が聞こえてくる。声を潜めていながらも、小さく唸るようなそれは、我慢しつつも漏れてしまうようだった。
「は、ぁ……」
――まさか、何かあったんじゃないか?
 熱に浮かされているのだろうか。それとも、怪我をして必死に痛みに耐えているのだろうか。
「っ……」
 エドワードは立ち上がりドアノブに手を掛けた。この際、ケーキは二の次だ。ここに置いておく。彼女の身に何かあったのなら、そちらが最優先なのだ。
 エドワードが意を決してドアノブを捻ると、簡単に扉は開いてしまった。
「は……? 鍵かけてないの?」
 まさか本当に開いているとは思っておらず、エドワードは扉をぶち破る覚悟すらしていた。
 呆気に取られつつ、エドワードは部屋に足を踏み入れた。緊急を要するかもしれないところだったが、彼女の部屋に入室したという事実が、エドワードの心臓を暴れさせる。
 思わず足音を潜めて、息を殺して廊下を進んだ。間取りはバッチリ記憶している。キッチンを通り越して、到着したリビングの隣が彼女の自室だった。
 リビングに到着し、自室に続く扉の前で立ち止まる。逸る心に動かされて駆けつけてしまえばいいのに、エドワードはそれができないでいた。約束もなしに部屋を訪れたこと、来訪も告げずに入室してしまったことが、いけないことをしている気持ちにさせる。
 エドワードは努めて気配を殺して、扉に向き合う。彼女の苦しそうな吐息が、心臓を掻き立てていく。
 扉はほんの少しだけ開かれており、エドワードは片眼を瞑って隙間から盗み見た。
「――ッ!?」
 声が漏れる前に、エドワードはすかさず口元を手で覆う。カーテンが閉められた薄暗い室内に、彼女はいた。
「っ、んぅ……ぁ……」
 部屋着姿の彼女は、ベッドの上で背中を丸めて寝転び、ショートパンツの中に手を突っ込んで、時折ビクビクと震えていたのだ。
――はあ!?
 エドワードは叫びたい気持ちをぐっと堪えつつ、光景から目を離せないでいた。
 これは怪我をしたのでも、具合が悪いのでもなく、むしろその逆だ。
――自慰、してんの……。
 普段は穏やかであたたかくて、どこか抜けているけれど憎めなくて、頑張り屋の彼女。清潔感があり、色事については縁もゆかりも無いといったような清廉潔白で純新無垢な彼女が、自宅で自身を慰めている。
――やばい……。
 エドワードは下半身に熱が籠っていくことに気づいてしまった。エドワードとて、男性である。思春期に伴った身体の変化には順応しており、一人で処理をすることだって経験があった。未だに女性と肌を重ねることは未経験だが、その本番において気をつけることや女性を労り快楽に溺れさせる方法を、知識として心得ている。
「は、ぁ、ンっ……」
「っ……」
「……ぁ、やっ、え、えど」
「ッ!?」
 甘い声で名前を呼ばれ、ビクリと身体が震える。覗いていることが見つかったのかと肝が冷えたが、どうやら違うようだった。彼女はそれからも時々エドワードの名前を呟きながら、声を荒らげた。
 吐息が荒々しくなり、喉の奥で押し殺されて
、頭のてっぺんから漏れたような声が大きくなっていく。
 エドワードは腰がズンと重くなるのを感じた。身体の中心には熱が集まり、昂った狂気はエドワードの『親しい友人』という皮を剥き、ただの男にしてしまう。
「ぇ、ど、えど、っぁ、あぁっ、ッ――!」
 彼女が絶頂を迎えたとき、エドワードは気配を殺しつつ部屋を抜け出した。玄関の扉を閉めて、廊下をかけ出すと、置き忘れていたタルトの箱を蹴飛ばしてしまう。エドワードは盛大に舌打ちしつつ、潰れた箱を回収し、腹に抱えて走り出す。
 向かう先は、一つしかなかった。

   *

 エドワードは身を綺麗にしてから再度タルトを買い直し、三時を回った頃、再び彼女の部屋を訪れていた。
「エド! 急にどうしたの?」
 昼間とは打って変わって、彼女は陽だまりのような笑顔を向けて迎え入れてくれた。
「渡したいもの、あってさ」
 昔は同じくらいの視線だったのに、今では見上げられてしまう。下を向く度に彼女の目が合い、愛らしい眼差しに、エドワードの心はコロコロとくすぐられた。
――これは、脈アリってことでいいのか?
 そうでなければ、先ほどの出来事は説明できないだろう。好きでもない男を、一人で、しかもあんなことをしている時に、名前を紡ぐことはないはずだ。
 エドワードの脳裏に、薄暗い部屋の中心で恋しそうに名前を呼び喘ぐ姿が思い出される。
「っ……」
「どうかした? それに、渡したいものって?」
 リビングに通され、横並びにソファに座ると、首を傾げて見つめられる。エドワードはまじまじと彼女を見つめた。
 白い肌、苺のような唇、細い喉と彫刻のような鎖骨、まろやかな胸部に折れてしまいそうな腰。その先は、本物を想像してしまうから、エドワードは勢いよく首を降り、煩悩を蹴散らした。
「誕生日だろ? おめでとう」
「……! あ、ありがとう! これケーキ? 開けていい?」
 フルーツがふんだんにあしらわれているタルトに、彼女の周囲の空気がぱっと華やいだ。再度ケーキ屋を訪れた際、店員に首を傾げられたことを思いだし、エドワードは申し訳なさが募ってしまう。
「美味しそう! ねえ、エドも一緒に食べよう?」
「待って」
 早速食べようと立ち上がった彼女の腕を、エドワードは掴んで引っ張った。自由をなくした小さな身体は、ぽすんとソファに逆戻りしてしまう。
「エド……?」
「っ、その前にさ、プレゼント渡したいんだけど」
「プレゼント……? 私、てっきりケーキがプレゼントだと思って――んっ」
 エドワードは続く言葉を食らうように、可愛らしい唇に噛みついた。
――もう、我慢の限界だ。
 貪るように口づけると、目を丸くした彼女は次第に身体を擦り寄せてきて、自分から舌を伸ばしてくる。唇の端から漏れる甘い吐息が腰に響くのを感じつつ、エドワードは口を開いて彼女の舌を絡めとった。くちゅくちゅと音を立てて、互いの唾液を混ぜ合わせる。
 エドワードは腰と後頭部に手を回し、隙間が出来ないほど引き寄せて唇を擦り付け味わった。舌先で彼女の口内を蹂躙すると、びくりと腕の中の身体は震える。
 弱々しい衝撃がエドワードの胸に当たる。限界だとでも言うように胸を叩く彼女の目尻には涙が浮かんでいた。名残惜しくなりつつも唇を解放すると、銀色の糸がいやらしく二人を繋いでいく。それを目撃した瞬間、彼女の耳が赤くなった。
「……プレゼントは、俺」
「え……」
「〜〜! だから……! 俺をいくらでもやるってこと!」
 恥ずかしいことを言っている自覚はある。でも、他になんと言ったらいいのだろう。錬金術の説明だったらいくらでも説けるというのに、こういう時、自分の気持ちの伝え方がわからなかった。しかし、リザに見透かされた不安感や恐怖はいつの間にか消え去っている。
「そ、それって……」
 期待の籠った潤んだ瞳に見つめられ、エドワードは小さく舌打ちをした。純情ぶっていた自分が馬鹿みたいだ。彼女は既に、男として見ていてくれたのだった。
「……自分ばっか、好きだと思ってんなよ」
 エドワードは唇に噛みつき、とんっと身体を押す。ソファに押し倒すと、目を細めて恍惚な表情を浮かべた彼女が、首に腕を回してきた。
 エドワードは服の隙間に手を忍ばせて、宝石に振れるように、彼女の素肌に触れていく。

23,11.13




short 望楼