可愛いすがた



 一日の業務が終了した。バタバタしていてずっと行けなかった手洗いを済ませ、一息つくためにスマートフォンを起動させる。通知欄にメッセージアプリのアイコンがあり、アプリを起動させずにメッセージだけ確認した。
「っ!」
――七海さんだ……!
 通知欄の名前に表示された『七海建人』の文字に、疲れが一気に吹っ飛んでいく。通知をタップして、アプリを開いてすぐにメッセージを確認した。
『お疲れ様です。もしこのあと、時間に余裕がありましたら、退勤後に会えませんか? 明日の仕事もあったら、無理はせずに。また後日、日時を相談させてください。』
「〜〜!」
 叫び声をあげないよう、片手でとっさに口を押える。しかし間に合わず、喉の奥で小さく叫んでしまった。
――好きすぎる!!
 会いたいと言ってくれたことが嬉しすぎてまず叫びたくなる。その後の文章にて、こちらの生活を伺うような優しさにまた叫びたくなる。今日会えなくても、また後日会える日を相談させてほしいという伝え方に、好きが溢れてしまう。
 なまえはよろよろと壁に身体を預けてスマートフォンを額にすりつけた。 
「むり……」
 メッセージが送信されたのは、建人が退勤したであろう十八時すぎである。今はあと十五分ほどで二十時になるところ。なまえの退勤時間は迫っている。
 明日の準備を進める職員には申し訳ないが、少し長めのトイレだと偽ってメッセージの返信に取り掛かった。
『お疲れ様です! 時間大丈夫なので、私もぜひ会いたいです!! 明日はお休みです!!』
 勢いでビックリマークを増やしてしまう。入力後、即座にメッセージを送信した。返信はあとで確認しようとスマートフォンをポケットにしまう。
「あ……」
 明日は休みだなんて伝えたら、まるで期待しているようではないか。
 なまえは一人で気まずくなり、顔が火照ってしまう。熱を覚ましてから、事務所に戻った。

   *

 退勤後、快速電車に乗り換える駅で、乗り換えをせずにそのまま改札を通る。建人にメッセージを送ってから、すでに三十分ほど経過していた。建人からの返信にて、車で近くまで迎えに来てくれるらしい。厚意に甘えて、なまえは職場の最寄り駅の隣である駅を指定した。
 キョロキョロ当たりを見回していると、長身のブロンドが視界に入る。広告が設置されている柱に背中を預けて立っていた。一度帰宅したのか、建人は普段のスーツではなく、ポロシャツに、恐らく夏用の薄手ジャケット、そしてチノパンと革靴を合わせている。サングラスではなく、眼鏡をかけていた。
「春原さ――」
 周囲がガヤガヤと騒がしくても、建人の声をしっかりと聞き取ることが出来た。軽く手を挙げた建人に、なまえは駆け寄った。
「七海さん……!」
 人にぶつからないよう気をつけながら、真っ直ぐと走っていく。改札から少し距離があったが、すぐに建人の元にたどり着いた。
「七海さん、こんばんは! お疲れ様です」
「こんばんは。お疲れ様です」
「すみません、明日の準備長引いちゃって。待ちました?」
「……いえ」
「暑いから、どこかに入って待っていても大丈夫だったのに」
「ええ、まあ」
「? 七海さん……?」
 口数の少ない建人に首を傾げる。何か変なものでもついているのか、それとも変なところがあるのか、視線を落として首から下を確認した。しかし、特に目立ったところはなく、再び彼を見上げた。
「なにか変ですか……?」
「いえ。……いつも、通勤時はその格好ですか?」
「え? え、そうですけど……」
 建人はよく、フォーマルな格好やしっかりキッチリとした格好をしている。一方、なまえは、身体を動かしやすいストレッチ素材のズボンに、大手作業服メーカーの通販で購入した長袖姿である。釣り合わないにもほどがある。
「ご、ごめんなさい、もっとちゃんとした服着ていればよかったです。突然だったけど、会えるの嬉しくて、それで……」
 突然の連絡だったのだから、服は用意できない。しかし、そういう可能性も踏まえた上で、朝に服を選んでいれば避けられた事態だ。黙りこくっている建人が気まずくて、視線を落とす。
「いえ、違います。服はとても似合ってます。あなたが機能性に優れたものを着るということも知っている。職業柄、その方がいいことも」
 そっと大きな手に右手を包まれる。恐る恐る顔を上げると、眼鏡の奥の翡翠がすっと細められた。
「上着は持ってますか?」
「今日は持ってないです……?」
「では、これを」
 建人の手が離れる。温もりが去っていったことに少しだけ寂しく感じてしまう。
 建人は着ていたジャケットを脱ぎ、渡してきた。
「え、どうして? 寒くないですよ? むしろ暑い」
「いいから。私の家に行ったらお話します。……今は早急にここから離れますよ」
 早く着るように急かされた挙句、背負っているリュックサックの肩紐を下ろされてしまった。リュックが落ちそうになって慌ててしまうが、建人が持ってくれた。腕から抜けていった肩紐と、無くなった背中の重みにぽかんとしてしまう。
「持っていますので、着てください」
 建人がリュックを背負う。押しつけられたジャケットに、着る以外の選択肢がないことを悟った。そっと腕を通して着ると、指先が隠れそうなほど大きい。ほのかに感じる建人の香りと体温に頬が緩んでしまう。
「では、行きましょう」
 建人は袖に隠れた指先を探し出し、器用に指を絡めて繋いできた。リュックサックを返してもらおうと顔を上げると、建人は得意げに唇を歪ませて歩き出した。

   *

 建人の家に到着し、手洗いを済ませてリビングに向かう。
「お邪魔します……上着、ありがとうございます。すみません」
「いえ、無理やり私が着るようお願いしたんです。こちらこそすみません」
「でも、あの、どうして……?」
「……なまえ」
「ひぇ」
「ここ、服に響いてるの、わかりますか?」
「っ……」
 人差し指で服の上から胸元に触れられる。ちょうどブラと肌の境目。硬い指が胸の肌を少し押し込みながら下につうっと滑っていく。ブラが服に響いていることが気になってたんだ。
「……わ、かり、ます」
 太い指先が扇情的に伝っていくことに耐えられず、なまえはおずおずと建人を見上げる。しかし、建人が眉間に皺を寄せているのを確認して、すぐさま視線を落とした。
「知っていて、そのままにしていると?」
 声がさらに低くなる。ビリビリと稲妻が走っているような声だった。指先は離れたが、今度は手のひら全体で胸をまあるく撫でられる。
「ひ、ぁ、七海、さん……まって、」
「こんなに下着の形が服に響いていて、そのままに? 周囲の男がどんな眼であなたを見ていたか、知ってますか」
 背中にそっと壁が押しつけられる。
「やっ、え、ななみさ……」
 待って、これ壁ドン。待って、推しの壁ドン。供給過多だよ無理だよ。
「それとも、そういう目で見られたかったんですか?」
 ちがう。そうじゃない。でも、見てほしい気持ちは少しだけある。だって、あなたに見られる姿は、可愛い姿でいたいから。
 そんな思いを込めて、建人の手首を緩く掴んだ。
「……だって、七海さんと会う時は、可愛い下着、つけてたいから」
「っ」
「シンプルなやつじゃなくて、可愛いのつけてるの、七海さんに、見てほしくて……」
 服の裾に手をかけてゆっくりと持ち上げる。鎖骨まで服をめくりあげた。建人が息を飲む音がする。
「ね……可愛いの。見て……?」
 さりげなく腕を寄せて胸を強調させる。谷間ができたことにより、レースの模様が揺れた。建人の瞳に似た、ミントグリーンのブラジャーは大ぶりと小ぶりの花が咲き乱れている。
「せっかくだからね……七海さんの、瞳の色とね、同じにしたの」
 だからもっと見てほしい。この下着のおかげで、今の整った胸の形があるのだ。どうだと言わんばかりに首を傾げる。じっと見上げていると、建人は大きな溜息をついた。
「――はぁー……」
 建人は溜息とともに脱力している。頭を垂れて、なまえと距離をつめてずるずるとその場に跪く。巻き込まれたなまえも、同じように床に座り込んだ。
「七海さん? どうしたの?」
「……すべて計算ですか?」
「計算? なにが?」
「……そうだ、なまえはそういう人でしたね」
「え、なに、どういうこと?」
「………」
 建人の吐息と髪が首筋をくすぐっていく。身をよじって逃げようとすると、腰に腕が回って引き寄せられた。心臓が大きく音を立てる。建人の唇が、耳にぴたりとくっついた。
「誘ってるんですか?」
「さそ……? ッ!?」
 建人の言葉の意味を理解した途端、ぶわっと身体が熱くなる。嫌な汗が背中や額を伝っていく。
「ち、ちがっ、違います!」
「ええ、なまえのことだから、そうだと思ってました」
 誤解を解けてほっと胸を撫で下ろす。しかし、そこで建人は逃がしてくれなかった。胸を伝っていった指先が再び夜の香りをまとい、なまえの胸元をくすぐっていく。
「しかし、知っていてください。男はそんなこと言われたら、勘違いする生き物だということを」
「っ、ぁ……」
 足の間に建人の膝が入り込み、腰に回された腕が強く引き寄せてくる。ぴったりと建人と身体がくっついた。膝が足の付け根に隙間なく触れる。未だ誰と触れたことのない部分さえ触れている。
「無論、私も男だ。例外じゃない」
 あまつさえ、建人はなまえを追い込むように、膝をぐりっと動かしてさらに強く刺激した。なまえはびくりと肩を震わせる。
 こんな建人は知らない。見たことがない。身体も押さえつけられるように動かない。腕の中から逃れることも出来ない。耳に触れる息が熱い。じわりと視界が歪む。
「や、っ……こわい」
「っ!」
 ぼそぼそ呟いた言葉を建人はすぐに拾ってくれた。
「すみません。怖がらせるつもりはなかった」
 身体を離し、今度は柔らかく包み込むように抱き締めてくれる。めくれていたTシャツはしっかりと下げてくれた。赤ん坊をあやすように背中をぽんぽん叩きながら、後頭部に触れて優しく撫でてくれる。
「私も、ごめんなさい。変なことして」
「いいえ。純粋で素直なあなたの気持ち、とても嬉しかったです」
 嬉しかったという言葉。なまえの心に淡い火が灯る。建人はなまえが嫌だと言うことをしない。強引に事を進めることも、なまえの意志を無視して無理やりすさめることもなかった。必ず気持ちを汲んで尊重してくれる。愛されている実感に、心臓が高鳴った。
 建人の胸に顔を埋めると、頭の上で彼の吐息が軽やかに飛んでいく。
「心の準備ができるまで待ちますよ」




short 望楼