ぬくもり



 温もりに飢えている。そのことに気づいたのは、勤続十日目を迎えた夜のことである。
 地方への呪物回収から始まった出張は、蓋を開けてみたら呪詛師捕縛の必要性があり、数日をかけてようやく任務遂行した矢先、近場での緊急一級呪霊複数体の祓除依頼。ビジネスホテルの冷たいシーツは疲労困憊の身体を受け止めるが、心にはぽっかりと穴が空いているようだった。
 明日はようやく帰路につける。しかし、高専に待機する日であるため、再び緊急の祓除依頼が訪れる可能性は高い。不規則な勤務体制に加え、時間外労働は当たり前な勤務時間は、活動による疲労以外の何かを身体にのしかからせていた。どっと重苦しい疲労に瞼は落ちかけるが、脳は眠りにつく前ではないように、フル回転で思考をめぐらせている。
 今回受け持った任務のこと、報告書の内容、明日のスケジュールについて、高専でやるべきこと。そこまで考えると、脳は腹立たしい特級呪術師の声を再生する。幻聴であるはずのそれは苛立ちを呼び覚ます。片手で両目を覆い、無理やり思考をシャットダウンした。
「……つかれた」
 ため息混じりに零れた言葉は、しんとした室内に消えていく。受け止めてくれるのは備え付けの冷蔵庫の起動音のみで、それが余計に疲労を助長した。
 世界から切り離された静寂のなかで、シーツに触れている部分から、何かがじわじわと襲いかかってくる。社会生活から逸脱した、ほんのひと握りの人間しか知らない職業、仕事内容。社会を支えているだとか、非術師を守るために存在するだとか、理想をつめこんだ言葉を吐いていた人が過去にいた。しかし、これも実際は死と隣り合わせで、続けていてもどこに行き着くのかもわからない。呆気ないほど簡単に命は散ってしまうし、吐き溜めを煮詰めたような人間の汚い部分に、これでもかというほど向き合わなければならない。
 それでも、一旦離れたのに再びこの世界に足を踏み入れたのは、社会で生きるよりも適性があると感じたからだ。自分の選択に後悔はしていない。他者からもらった感謝の気持ちに支えられている。たったそれだけで、新たな任務につくことができる。
 だが不定期にやってくる、心の中を襲う嵐。疲労が蓄積した時に、それはよく現れる。何もかも投げ出したくて、まったく違う世界で生きたくて、この世からひっそりと隠れて、いなくなりたい。
 両目を覆っていた片手で前髪を掻き上げる。大きく息を吸って長く息を吐くと、身体の力は抜けてギジリとベッドが軋んだ。
「……なまえは、悲しんでくれるだろうか」
 脳裏に浮かぶのは、心を通わせている女の子の姿だった。
 他者との未来を見据えた交際や、ましてや結婚だなんて、呪術界に身を置きながら考えられることもなく、人生の選択肢から外していた。自分は遺す側で、なまえは間違いなく遺される側だ。唐突な別れがいつ起こるか定かではない不安定な人生において、誰かの傍にいたいだなんて、我儘がすぎる。
 それでも、我儘を言いたくなってしまった。非術師であるなまえの隣は穏やかで、手放したくなくて、愛おしさが込み上げて仕方がない。そんな存在に一度出逢ってしまえば、想いを募らせてしまえば、いつ終わるかもわからない残りの人生をなまえの傍で過ごしたいと欲がでる。
 密かに死への恐怖を抱いているなまえにとって、呪術師という職業は不安でしかないだろう。かすり傷ひとつ作っているだけで、青白い顔をして両手を握られる。
 遺されるなまえの立場を考えると心苦しい。しかし、最期に行き着く場所を選べるのならば、なまえの隣がいい。




short 望楼