真夜中、路地裏にて



 スカートを短くして、髪も明るい色に染めて、授業をさぼり、制服やジャージ姿で商業施設を同年代の同じような子と練り歩く。たまに学校に寄り付けば、叱っても効果がみられないということを理解している生徒指導の教員が、のんびりと話をする。話をしながら、その子を理解しようと努めるのだ。
 理想の自分と現実の自分。その間を行き来しながら、本当の自分を探して、自分の魅せ方に試行錯誤する。化粧をして、爪の上にも色を乗せて、決まり事から逸れたことをする。そうすれば、誰かしら自分を見てくれるから。
 今の自分はきっとそうなのだろう。アルコールに酔わされている頭でも、それだけは理解できた。
 高校を卒業して直ぐにイタリアに留学し、進学した。下宿先は、十代目ボス候補である綱吉の姉という立場もあり、ボンゴレファミリーの息がかかる場所、そしてさらには命の危険に晒されても無事でいられる場所が選ばれた。それがヴァリアー本部である。下宿条件として、よく消息不明になる世話係の代わりをなまえは担っていた。
 広すぎる一人部屋を借りているとはいえ、屋根の下には大勢の人間が過ごしている。たった一人になって、誰も自分のことを知らない世界に足を踏み入れたくなる。
 ぐらつく精神状態で、なまえは普段身につけない肌が広く露出するワンピースに身を包む。首元と耳朶、そして指の付け根に輝きを通し、目元と唇に煌めきを置いた。手足の爪先を少しだけ大人の色に染める。細いヒールはふかふかの絨毯を踏んでも音はしない。なまえはヴァリアー本部を飛び出して、夜の街へ忍び込んだ。
 二店ほど店に顔を出したなまえは、周囲の雰囲気に溶け込むようにアルコールを煽った。
 一店目は大音量で曲が流れ、若者が踊り狂っていた。素面ならば楽しさを見いだせないが、アルコールに占領された脳みそは認知を変えていく。
 なまえは差し伸べられた大きな手に、持ち主の顔も見ず手を重ねて踊り回った。相手が変わったことは、鼻につくアルコールの香りで理解していた。
 身体が密着して、腰を焦れったく撫で回された。大きな手に自分のそれを重ね、微笑みを返す。触れられたことに嫌な気持ちはなかった。けれど、嫌な気持ちを抱かない自分に、吐き気がした。
 近寄ってくる唇をくるりと踊るように交わして、なまえは財布から札を取り出してカウンターに置き、店を後にした。
 夜風に身を震わせながら入った二店目は、打って変わって静かな店だった。落ち着いたピアノ曲が流れ、酒を飲むことと出会いを目的とした場所のようだった。
 入口に近いカウンター席に腰を下ろす。酔って踊ったことにより頭痛がして、酒は飲めそうになかった。トニックウォーターを頼むと、バーテンダーはすべて理解したような顔で数分後にはテーブルにそれを置いてくれる。
 喉を潤すと、予想よりも火照った頬に気づく。手の甲で触れてみると熱い頬は、いまだに先ほどまでの熱気を抱えていた。
 二口目を飲んで落ち着かせようとすると、隣に男が座ってくる。顔を寄せて耳元で語りかけ、テーブルに置いた手に触れて指を絡めてくる。頭の奥は冷静で、早く逃げなければこの後痛い目を見ることになると判断できるのに、霞がかったように頭の中が思考速度を遅くしている。
 スカートに隠れた内腿に鳥肌が立ち、息を吐くと震えたような吐息が唇から出ていく。それでも身体はすぐに男の愚行を拒否できなかった。
 腰に手が回される。動けない自分に嫌気がさす。しかし、求められるのなら、“わたし”を見てくれるのなら、誰でもいいのではという安直な考えが生まれてきた。
 男が顔を覗き込んでくる。なまえはそこで初めて男の顔を見た。青い瞳は熱に帯びていて、逃がさないとでも言うようにギラギラしている。男が首を傾けて顔を近づけてきた。腰に触れた手がぐっと動かないように押さえつけてくる。顔を逸らすことができない。逃げられない。
 もういいや。なまえは投げやりに瞼を閉じる。
 唇にアルコール臭い吐息がかかった、その時だった。
「う゛お゛ぉ゛お゛い!」
 しっとりとした雰囲気をぶち破った叫び声に、なまえはパチリと目を開けた。密着していた男は、現れた黒い手によって腕を捻りあげられている。
「なぁ゛に遊んでやがる、このじゃじゃ馬娘があ゛!」
 突然現れたスクアーロは、なまえがぽかんとしているうちに男を遠ざけ、支払いを済ませ、なまえを抱えて店を後にした。
 しばらくスクアーロの腕に抱えられたなまえは、状況に追いつけないでいた。大通りから外れ、裏路地に入ったとき、なまえはようやく言葉を発することが出来た。
「……おろして、スクアーロ」
 ほとんど吐息に近かったのに、スクアーロは最後までしっかりと聞き取っていた。丁寧に下ろされ、なまえは数時間ぶりに石畳に足をつける。石畳の溝にヒールが挟まりそうになって、よろけた挙句、壁に背を預けて何とか踏ん張った。
 スクアーロは見ているだけで、助けてくれなかった。なまえはスクアーロをぎろっと睨みつける。さっき助けてくれたのだから、
――いまも助けてくれたっていいじゃない。
 スクアーロは向かい合うように壁に背を預け、ライターで煙草に火を灯していた。味わうようにゆったりと吸い込んで、大きな口を狭く開いて煙を吐く。人が三人ほどしか並んで歩けない狭い路地では、煙の逃げ場はあまり見つからない。なまえは煙にまみれてしまった。
「っ、ん、ケホッ……」
  鼻についたアルコールの臭いが、一気にスクアーロの煙草の匂いに塗り替えられていく。数回咳をして息を整えると、自然と舌に言葉は乗っかった。
「なんで?」
 スクアーロは依然として煙草をくゆらせている。どこかで嗅いだことがある匂いに首を傾げつつも、なまえは返事がないことに腹の底がムカムカとした。
 眉間に皺を寄せると、スクアーロの煙草の煙が今度は一直線に向かってくる。ぎゅっと目を瞑って息を止めたが、間に合わなくて少しだけ煙を吸ってしまった。きっと今ので髪もワンピースもすべて煙草臭くなっただろう。なまえは咳を抑えてスクアーロをぐっと睨みつける。
「お前に何かあったら、俺が殺されるだろうがあ゛」
 スクアーロは静かに言い放つと、ポケット灰皿に煙草を入れ込んだ。煙草を消して処理する手つきでさえ、上品さを醸し出している。煙草の煙は臭いけれど、煙草が消されたのは少しだけ虚しさを感じた。まるで線香花火が消えてしまった時のようだ。
「……べつに、いいじゃん」
「ぉ゛お゛い゛!」
 無愛想な言葉にもしっかりと突っ込んでくれる。面倒見のいい一面が垣間見えた。
 街灯が届かない路地裏で、スクアーロの銀髪だけが遠くの月明かりに照らされている。ぼうっと浮かび上がるスクアーロの表情は、彫刻のように何を考えているのか悟ることが出来ない。
――連れ出してくれたのは、面倒見がいいから?
 あのまま男の手に抱かれて乱暴されていたら、いったいどんな未来が待ち受けていたのだろう。痛い目にあっても、男が『わたし』を見てくれたのならば、『わたし』は満たされたのだろうか。
「一人に、してくれないんだ」
「……自分の立場を弁えろ」 
 スクアーロの言葉に唇を噛んで俯いた。一人で夜の街に繰り出したつもりだった。気配を読む練習は、リボーンから教えてもらって取り組んでいた。それでも読めない気配はある。それは強ければ強い相手ほど、気配がわからない。
 スクアーロは、ずっと着いてきたのだ。着飾って浮き足立つ様子も、アルコールの力を借りて無理やり溶け込もうと踊り回った姿も、逃げられず男に捕まっていたのも、何もかも見られていた。
 喉の奥がカッと熱くなった。じわじわと瞳に力が宿るようで、視界が歪んで涙が浮かぶ。頭がキリキリ痛み出して、自分は数秒後には泣き出すのだと自覚できた。
 泣きたくない。奥歯を噛み締める。この男に泣き顔を見られたくない。これ以上、馬鹿な姿を瞳に映してほしくない。
――馬鹿な女だと、思われたくない。
 なまえはスクアーロに突進した。硬い胸に額がぶつかる。突然ぶつかられても、スクアーロはびくともしなかった。大きな背中と壁の間に両腕をすべり込ませ、顔を見られないよう力を込めた。
「う゛お゛ぉ゛い゛! この酔っぱら――」
「――これ、煙草だったんだね」
「あ゛?」
「スクアーロの匂いだったんだなって。煙草の匂い。ようやくわかった」
 スクアーロの服にはすでに煙草の匂いがこびりついている。嗅ぎなれた彼の香りと、数十分スクアーロと過ごしただけで嗅ぎなれてしまった匂い。頬を掠める長い銀髪がくすぐったくて、なまえは硬い胸に額を擦りつける。
「う゛ぉ゛お゛い゛」
 肩とワンピースの腰部分を掴まれて、身体にを離そうとしてくる。なまえは両腕にぎゅっと力を込めてさらに抱きついた。胸がスクアーロにぎゅむっと潰される。少し息苦しかった。
「……もう少し、このまま」
 なまえがくぐもった声で呟くと、身体を離そうとしていたスクアーロの手は力が抜けた。ワンピースを掴んでいた手は、露出した背中部分を覆うように触れてくる。肩を掴んでいた手は頭の上にとんっと落ちてきた。
 どのくらい静寂が流れたのか、なまえにはわからない。涙が引っ込んで落ち着くまで、なまえはスクアーロに抱きついていた。スクアーロは何も言わず、時折気まぐれのように頭をとんとんと撫でられる。それが心地よくて、もう一度してほしくて、落ち着いてしばらくは抱きついていたのはバレないでいてと願う。
 なまえはゆっくりとスクアーロの胸から顔を引いた。スクアーロの手が身体から離れていく。なまえは俯いて後退りをして、顔を見られないように後ろを向いた。
「……ごめんなさい。帰ろっか。わざわざ私の子守り、ありがとうね」
 重い足を動かしてなまえは歩き出す。数歩歩いたところで、背中にスクアーロの声がかかった。
「……子守りじゃねえ゛」
「え?」
 石畳に靴音を鳴らして、スクアーロはすぐになまえの隣に追いついた。夜風に震える腰に腕を回される。伸びてきた手が、なまえの髪を耳にかけてきた。
「もっと堪能したいなら、ここから先は子守りじゃなくなるぞお゛?」
 ぴくりと肩が縮こまる。『もっと堪能したいなら』という言葉が、じわじわとなまえを羞恥に染め上げた。スクアーロはとっくに、なまえが温もりを求めて離れたがっていたことに気づいていたのだ。
 アルコールが抜けたと思った頬が、再び熱をおびて火照っていく。見下ろしてくるスクアーロの双眸に焼け焦げてしまいそうだった。
「……どういう、こと?」
 震えた声が路地に染み渡る。子守りじゃなくなった先。それは具体的にどういうことなのか。子守りに当てはまるのは、どこまでの行為なのか。
 ぼんやりとした脳みそでは、なにも導き出せない。けれど、求めてもいいのだろうか。子守り以上の義務でない『なにか』を堪能したら、『わたし』は満たされるのだろうか。
「――俺に抱かれてみるかってことだぁ゛」
 真っ暗闇に浮かび上がるスクアーロの瞳が、野獣のように輝いていた。『なにか』は、なまえが予想していた通りのものだった。二店目で出会った男にされかかったこと。スクアーロが助けに来てくれなければ、今頃きっとあの男の腕の中で抱かれていた。そうしたら、スクアーロに抱かれてみる選択肢さえ、失っていたのだろうか。
「そうしたら……」
 言葉を切って、小さく深呼吸をする。煙草の匂いがなまえの肺を蹂躙した。スクアーロの温もりを思い出す。心臓がドクドクしていて、胸がドキドキした。
 真夜中に飛び出して忍び込んだ世界の『本当の姿』を、なまえはスクアーロに教えられる。言葉と、振る舞いや空気でのやり取りは、店で受けたものがまやかしであるほど、色っぽさを孕んでいた。
「抱いてくれたら……スクアーロは、『わたし』を見てくれる?」
 スクアーロの目が見開かれる。見慣れた彼の表情に、少しだけ笑みがこぼれた。
 たった一人になって、誰も自分のことを知らない世界に、足を踏み入れたくなる。自分すら知らない『本当の真夜中』に、たった一人になった『わたし』を感じてほしい。
 なまえはスクアーロの返事を待たず、踵を上げて彼の唇に近づいた。




short 望楼