夢じゃない



 街路樹は黄色の葉に着飾り、道路や歩道のコンクリートを絨毯に変えていた。冷たい風が耳飾りを揺らしている。見上げた空は橙色と藍色に染まっており、澄み切った空気が冬の訪れを感じさせた。
 並盛町から二駅離れたころで下車し、五分足らずで目的地に到着する。久々に並盛町に寄りたかったが、奇跡に近いほどの再会を夢見ていたなまえにとって、寄り道はハードルが高かった。
 今日のために用意したパーティードレスやアクセサリー、数日前から丁寧に肌の調子を整えて施した化粧。何もかもに力をいれてしまい、予定していた時間よりも、大幅に遅れて自宅を飛び出した。
 久々に履いたヒールが脚に馴染み始めた頃、目の前にホテルが迫っていた。ホテル内の宴会場に、なまえはこれから赴くのである。
 コンクリートから石畳へ、石畳からつやつやと光沢のある階段を登る。ふかふかのカーペットを踏んで、なまえはホテルに入った。

   * * *

『なまえ! 同窓会、なんで来ないの!?』
 約二カ月前、なまえはメッセージアプリにて、同窓会グループに招待された。しかし、迷わず参加を拒否したのだ。その際、すぐに気づいた友人に引き止められたのである。
 なまえの業務は、日々変則的なシフトが組まれている。さらには肉体労働と事務作業が混在した労働、それに加えて、ホスピタリティの精神も持ち合わせなければならない。
 休日は、可能ならば何もしない日にしたい。疲弊した心を癒してくれるものは、趣味と呼ぶには生きがいにしているほどの、推しの存在である。心身を安らげてくれるのは、休日と推しの存在。休日は、趣味に費やしていたい。それ以外のことをしたくない。ましてや、十年も会っていない同級生に会うだなんて、まっぴらごめんだ。来月分のシフトを組む際に希望休は出さなければいならないし、最悪の場合、有給を使うことになりかねない。
 当日は、数時間前から聞か去る準備をして、電車に揺られる。会場につき、顔と名前が朧げである相手に対して記憶を遡りながら愛想笑いを浮かべる。相手が推しならば、なにもかも意欲的に取り組む。しかし、推しではないのならば、やはりまっぴらごめんだった。
 メッセージを送ってきた友人は、すでに同窓会グループに参加しているのだろう。繰り返し勧誘をしてくる友人に、なまえは休日の価値を語る気も失せてしまい、一言だけメッセージを送った。
『仕事だよぉ』
『休んで!!』
 速攻既読とともにメッセージが送られてくる。なまえは同じ文面を送ろうと、フリック入力で『し』を選択し、予想変換にでた先ほどとまったく同じ言葉をタップした。
 その時だった。
『山本くんも来るって!!!』
 次の瞬間、送られてきた友人からの同窓会グループの招待。なまえは迷わず『参加』の文字に、親指で触れたのだ。

 なまえが山本武を目で追うようになったのは、並盛中学校に入学してすぐのことだった。体育の授業で活躍する武が目に留まり、明るい笑顔にいつの間にか惹かれていった。結局、一年生の時に会話をしたのは挨拶くらいだった。しかし、二年生に進級するとになると、ある出来事をきっかけに武との距離が縮まっていく。
 通称、『屋上ダイヴ』事件。怪我を負った武が野球を諦め、学校の屋上から飛び降り自殺を図ろうとした。結果は未遂に終わったが、あの日から数日間、武は同級生から生ぬるい視線を送られたり、腫れ物に触られたりするような接し方が続いた。
 なまえには、クラスメイトがなぜそのような接し方をするのか、理解できなかった。調子の悪い時だって、死にたくなってしまうほど絶望したくなる時だって、誰しもあるだろう。未遂に終わったことは喜ばしいことなのだ。
 今ならば、武に対してどのように接したら良いのかが、周囲がわからなくなってしまっただけなのだと理解できる。しかし当時は、今ほど物わかりが良くなかったから、ただただ苛立ってしまった。
 なまえは事件後も、何事も無かったかのように、変わらず武に接していた。事件の戸惑いがまだ隠せずにいるクラスメイトしかいない中、なまえの行動は明らかにクラスで浮いていた。しかし、その行動こそ、武とクラスメイトが再び日常に戻るきっかけとなったのである。
『ありがとうな』
 清掃時間、武とゴミ捨てに出たなまえは、唐突に感謝の言葉を投げかけられる。何に対して感謝をされているのか検討もつかず、首を傾げながらも返事をする。
 武はぽかんとした後、笑いを吹き出し、腹を抱えて笑った。
『俺、お前がいてくれてよかった』
 たっぷりと気持ちのこもった心からの言葉に、なまえの心臓は、かつてないほどの高鳴りを覚えた。

   *

 なまえの瞳が武を他者ではなく『特別』に映したのは、きっとその瞬間だった。それ以降、武と目が合い言葉を交わすたび、嬉しさと切なさ、小さな幸せが、恋の欠片となってなまえの心に降り積もっていく。
 思い返せば、恋に恋をしていたのかもしれない。昔読んだ少女漫画にありがちな展開だ。しかし、武の笑顔が見たいと思った気持ちや、武が笑ったときに弾んだ心は、変え難い事実だった。そして、武を『特別』に想う気持ちは、十年が経った今でも色褪せず、なまえの心の奥底で生き続けている。
 ホテルの天井には数々のシャンデリアが輝いている。一つ一つの光が競い合うようにキラキラとしており、周囲が真っ暗ならば天の川に見えるだろう。なまえは頭の中に輝きが残る前に、シャンデリアを見上げることをやめた。
――十年ぶりに会って早々、どうにかなるとかはないと思うけど……。
 ドラマのような急展開を望んではいない。再会して互いに惹かれていたことが発覚してそのまま、だなんてものは、物語だから美しく描かれているのであって、現実と比べれば夢物語だ。
 なまえは爪先をそっと見下ろす。ネイビーのレースに覆われたオープントゥのパンプスは、お気に入りの一つだった。足首のストラップ部分にはスワロフスキーが揺れていて、爪先部分はリボンに覆われている。
 ちらりと覗くワインレッドのペディキュアは、少しだけ失敗してしまっていた。慣れないことをするものではないな。自分の浮かれ具合に失笑してしまう。パンプスを履いていると見えない部分だから、不幸中の幸いだ。なまえは足指をぎゅっと丸めた。
 浮かれていることを自覚して、また心臓がソワソワしてしまう。お腹の中はぎゅっとひねり潰されるようで、くらりとしそうになるのを、なまえは足指を伸ばしてしっかりと地に足をつけた。
 何かしら武とかかわることができればと願わずにはいられなかった。
「なまえー! 久しぶり!」
「久しぶりー!」
 元クラスメイトの声に、なまえの思考が現実に引き戻される。次々と記憶の中よりも成長したクラスメイトと再会し、なまえは会話を楽しんだ。
 ホテル内の宴会場に入って数十分すると、同窓会は始まった。途端に会場内は、久々に再会しては昔話と現在の近況が混ざり合い、会場は大きなタイムカプセルと化す。卒業以来会っていなかった担任は少し老け込んでいて、嫌でも時の流れを感じてしまった。引っ張りだこになっている担任に、タイミングを見計らって挨拶を済ませると、なまえは食事にありついた。
 食事はビュッフェスタイルで、銀のトレーに入った数々の料理がシャンデリアに照らされている。今日は好きなものをたらふく食べてやろう。なまえは友達とともに料理を皿によそりながら、近況報告に花を咲かせた。
 同窓会が始まって、一時間半。未だに武は現れていない。武が来ると教えてくれた友人も、気まずそうな視線を送ってくる。
 なまえはどっと疲れが押し寄せて、会場の隅にあるテーブル席に腰を落ち着かせた。同窓会グループのメッセージを開く。遅刻連絡が入っていないか確かめようとしたが、未読のメッセージは表示されていなかった。
「……来ないのかな」
 会場のざわめきが一気に遠のいていったようだった。酔っぱらった男子の笑い声や、女子通しの赤裸々な恋人に関する会話声が、見えないガラスの向こう側で繰り広げられている。あの中に自分も入りたいとは、今の気分では到底思えなかった。
 少しだけ足を伸ばし、一人掛けのソファーに背中をもたれさせる。オープントゥの爪先を見下ろすと、ホテルに着いた時のような輝きは失われている気がした。
 武が来なくて少しだけほっとしている自分がいる。気合を入れた姿を見られたくなかった。武の視界に入った瞬間、ずっと閉まっていた想いがすべて溢れ出てしまいそうで、怖かった。でも、武に会えないことも、なまえの胸を締めつける。
 なまえが再び溜め息をついた時、会場の入り口がわっと色めきたった。何があったのかと視線を上げて入り口を見やる。
 扉には数人人だかりができており、すぐに状況を理解することはできなかった。なまえは座ったまま背を伸ばし、首を動かして見えないか試してみる。すると、懐かしい姿が目に飛び込んできて、心臓が飛び上がりそうになった。
「えっ、ツナ!? めっちゃ久しぶり!」
「獄寺、悔しいくらいかっこいいな!」
 会場に入ってきたのは、綱吉と隼人だった。二人とも、スーツの乱れを直しながら、クラスメイトに挨拶していた。
「ごめん遅れて! 急な仕事が入っちゃって!」
 綱吉は幹事に申し訳なさそうに謝っている。二人とも、身にまとっているスーツが他の男子よりも高級品のように見えた。何回も謝っている綱吉は、昔のような弱々しい雰囲気はあまり感じられず、背筋は伸びていてシャキッとしている。隼人の方は、ハリウッドスターかと思うほど輝きが増している。
――山本くん、来ないのかな。
 綱吉と隼人、そして武の三人は、中学校時代、いつも一緒にいた。高校進学後、なまえはまったく三人とかかわっていないが、風の噂で三人は今同じ職場だと聞いたことがある。
 急な仕事が入ったってことは、武もそうなのだろうか。仕事が片付いた綱吉と隼人はここに来れたけれど、武は来れないのだろうか。
 二人の姿を見た時、一瞬期待してしまった気持ちがするすると萎んでいく。
「あっ!」
 遠くで綱吉が大きな声を上げる。何事かと思い顔を上げると、綱吉が大股でこちらに近づいてきた。
「なまえ……ちゃん、だよね?」
「うん。久しぶり、ツナ」
「久しぶり! えーと、その……ごめん!」
「え?」
 綱吉に謝罪に、なまえはぽかんとしてしまう。綱吉の髪がシャンデリアに照らされて、小麦色に輝いた。遠目で見た時よりも上品なスーツは、見るからに高級品であり、ネクタイや革靴、腕時計も綱吉のために存在しているようだった。ほのかにいい香りもする。『ダメツナ』と呼ばれていた面影は、まったく感じられなかった。
「山本が遅れてるの、俺のせいなんだ!」
「は?」
 素っ頓狂な声をあげた後に、失礼な返答だったと自覚する。謝ろうと口を開くと、いつの間にか綱吉の後ろに立っていた隼人がすかさず彼に話しかけた。
「十代目のせいじゃないですって!」
 なまえは目がチカチカとしてしまった。隼人も綱吉同様に、すべて高級品を身にまとっている。中学生の頃から美形だと言われていたが、ハタチをとうに超えた現在、色気の塊に変貌していた。
「本当に! もう、ほんとごめん! 俺のせいなんだ!」
「いや、あの、別に私は何も……」
 綱吉はどうして謝るのだろう。謝られる理由はなにもない。同じ職場らしいから、もしかしたら綱吉のミスを武がカバーするということが起こり、同窓会が遅れることになったのかもしれない。そうだとしても、どうして綱吉は謝ってくるのか。
――もしかしてツナ、私の気持ちに気づいてる……?
 そうだとしたら、すべて綱吉の行動に納得がいく。
――いいや。うそ。そんなこと絶対にない。ありえない!
 一つの可能性が浮上して、なまえはすかさず全力で否定した。
 なまえが綱吉と会うのは久しぶりである。それこそ、中学校卒業以来、今回が初めての再会だ。隼人も、この後遅れてやってくる武もそうだ。だからこそ、知るはずがない。なまえが武へどのような想いを抱いているのか、今回彼と会えることに、どれほど胸を高鳴らせていたのか。
 しかし、なまえがひた隠していることを、綱吉はまるですべて知っているかのように話を続けている。
「ツナ、あの、本当に謝られても困るって言うか……。私は別になにも関係ないから、今のそのこと、幹事の子とかに伝えた方がいいと思うよ」
 もしかして、私の気持ちを知っているの? と訊けたのなら、どれほど楽なのだろう。率直に訊ねてしまえば、きっとすぐに疑問は解決する。けれど、そのようなこと、できるはずもない。行動に移してしまえば、自分が武のことをどう想っているのか、目の前にいる彼の親友二人に筒抜けになってしまう。十年ほど燻らせている想いを、他人に言えるほどの度胸は持ち合わせていなかった。
 綱吉は一瞬だけ目を見開いたのち、ぎゅっと眉間に皺を寄せていた。
「でも! 絶対山本、同窓会行くっていってたから! 遅くなっても行くっていってたから! だから、待っててあげて!?」
 綱吉の有無を言わせぬ迫力に、なまえはただ頷くことくしかできなかった。

   *

 綱吉とのやりとりの後、三十分ほど経過して、同窓会はお開きとなった。既に歩行が怪しい者が数名出ているが、二次会は開催するらしい。教員たちと、明日も仕事があるクラスメイトは帰路についた。
「なまえは二次会、どうする?」
 なまえを同窓会グループに招待してくれた友人がひっそりと訊いてくる。武が来るといった手前、一次会に現れなかったことを引け目に感じているようだった。
「どうしようかな……」
「なんか、ごめんね」
「そんなことないよ。ツナから仕事で遅れるって教えてもらったし。そもそも、仕事ならしかたがないもん」
「……なまえ、大丈夫?」
「大丈夫。平気だよ、へーき」
 うまく笑える自信がない分、声だけは努めて明るくしたつもりだった。しかい、友人の顔色は晴れず、微妙な空気が流れてしまう。
 このまま二次会に参加したら、武はやってくるのだろうか。綱吉と隼人は一次会で解散するらしい。帰り際に綱吉に呼び止められたなまえは、もう一度会場でのやり取りを繰り返した。念を押すように「絶対に来るから!」と言われてしまえば、二次会に参加する選択肢しか残されていない。けれど、今の気分では存分に楽しめるとは考えられない。
「私、帰ろうかな」
 ぽつりと呟かれた言葉を、友人は聞き逃さなかった。
「……そっか。わかった。皆にはうまく伝えておくね」
「うん。ありがとう。いってらっしゃい」
「気をつけて帰るんだよ!」
 友人は足早に二次会グループの元へ駆けていく。気を遣わせてしまったに違いない。メッセージアプリを立ち上げて、彼女に謝ろう。文章を打とうとしたところで、彼女から「山本くん二次会に来たらソッコー連絡するから!寝ないでよ!!」とメッセージが届き、思わず吹き出してしまった。
「寝ないでよって……寝られないじゃん」
 なまえは頬を緩ませながら文章を打ち込み、スタンプを送信する。既読がついたことを確認して、そっとスマートフォンの電源を落とした。
 ホテル内は閑散としている。フロントにはホテルの従業員がいるだけだった。なまえはフロント端のソファーに腰掛けている。従業員はきっと、なまえが誰かと待ち合わせをしているように捉えているだろう。
「どうしよっかな……」
 ここで少しの間待ってみるか、それとも帰ってしまおうか。帰ってしまえば確実に武とは会えない。武や綱吉、隼人は、メッセージアプリ内の同窓会グループには参加していなかった。どうやら、幹事に個別に連絡を取っていたらしい。当日突然参加できなくなるかもしれない可能性があったからだとか。そのため、メッセージアプリで武や綱吉に連絡を取ることはできなかった。
「スマホがない時代が考えられない……」
 昔の人はよく好きな人に連絡を取れたなと、大それたことを考えてしまう。今やメッセージアプリを介せば四六時中連絡を取ることは可能だ。それすらもできないだなんて、もはや八方塞がりの状態だった。
「ツナもあとどのくらいでくるとか、言ってくれればいいのに……」
 愚痴を言っても仕方がないことはわかっている。しかし、言わずにはいられなかった。腹の中をぐるぐると不満と不安が入り混じり、なまえは一旦気持ちをリセットしようと、化粧室へと向かった。
 淡い期待はまだなまえの中に残っている。化粧室でメイクを直し、自分の浮足立っている様子に恥ずかしくなりつつ、なまえは再びフロントのソファーに落ち着いていた。誰も見ていないだろうと、パンプスのストラップ部分を外し、足に引っ掛けているだけにした。
 やることもなく、時間をつぶすにはちょうど良いとアプリゲームを開き、ひたすらデイリー作業を進めていく。石が溜まっていたのでスカウトを回そうかとも考えたが、これで目当てのキャラクターが出なければイライラしてさらに課金してしまいそうで、そっと戻ってデイリー作業を進めた。
 一通りできることが終わってしまった。時刻は解散してから一時間ほど経過している。さすがに小腹が空いてきた。やはり待てども武は現れない。同窓会グループのトーク画面には、今日会場で撮った写真や、二次会での写真がアルバムに収められていく。ぼうっと眺めては、いるはずのない武を探してしまい、自分のバカバカしさに失笑した。
「……帰ろう」
 もういいや。待ちくたびれた。期待した自分がいけなかったんだ。
 なまえは荷物をまとめ直す。手始めにメッセージアプリを閉じた。電車の時刻を調べて、乗り換えが少なく、かつ早めに地元に着く経路に目星をつける。バッグの中身を整理していると、虚しさが胸に突き刺さる。
 ツナのバカ。来るって言って山本君こなかったじゃん。絶対行くって嘘じゃん。やっぱりツナはダメツナのままだ。
 綱吉に八つ当たりしたところで、現状は変わりっこない。脳内で綱吉が土下座をする勢いで謝っているが、許すことはできなさそうだ。
 なまえが今日一番の大きな溜め息をつくと、ホテルの出入り口から男の焦った声が聞こえた。
「すんません! ここでやってた同窓会って、もう終わっちゃいましたか!?」
 ドキリと心臓が跳ね上がる。なまえは出入り口に視線を向けた。男は大股でフロントに入ってくる。
「ええ。一時間ほど前に……」
 受付カウンターの従業員が申し訳なさそうに返事をした。
「あー、そうですか……。すんません、ご迷惑をおかけしました」
 残念そうな低い男の声。黒いスーツで、ところどころすすけているようだった。背中に竹刀の入っているような袋を背負っている。
 男は踵を返して去ろうとする。
「あ、お客様――」
 従業員が男を呼び止めたのと、なまえがソファーから立ち上がったタイミングは、同時だった。
「えっ……」
「――なまえ?」
 受付カウンターに背中を向けた男の視線が、なまえの心臓を貫く。なまえの身体はたちまち動けなくなり、立ち上がった状態のまま、ただ男を見つめることしかできない。
 中学生の時よりも、身長が伸びていた。身体も全体的に逞しくなっている。もともと大きいと感じていた手は、一回りも二回りも大きくて、角ばっている。髪型は中学生の時とあまり変わりない。顎に痛そうな傷痕がある。スーツがよく似合っている。綱吉たちのような高級さはあまり感じない。革靴とスラックスの裾が砂埃や泥で汚れている。
「やまもと、くん」
 吐息に似た小さな声を、武はしっかりと聞き入れた。その証に、なまえが名前を呼ぶと、武は溢れんばかりの笑顔を見せる。
「よかった! まだいてくれた……!」
 武はカウンターに向かうよりも足早に、大股でなまえの元までやってくる。なまえも近寄ろうと足を踏み出した。
「う、あ……!」
「あっ、おい!」
 がくんと視界が揺れる。なまえは失念していたのだ。化粧室から戻った際に、パンプスのストラップを外したことを。ストラップを運悪く踏みつけてしまい、左足首がぐぎりと曲がる。なまえはつんのめって倒れそうになってしまった。
 倒れることを想定し、すかさず手を前に出したなまえは、それでも衝撃の恐怖から目をぎゅっと瞑る。けれど、想定していた痛みではなく、温かくて堅いなにかに受け止められた。
「大丈夫か?」
「ッ!?」
 懐かしい声が頭の上から降り注ぎ、喉の奥がひきつりそうだった。背中と腰に回って手が強く抱き寄せてくる。
 武に抱きしめられている。その事実だけで心臓が口から飛び出しそうだった。なまえの手は武の胸元にある。逞しい胸を押して離れようとするが、緊張からうまく力が入らなかった。
「立てる?」
 耳元で武が話しかけてくる。吐息が熱く感じる。だめだ、これ、めちゃくちゃ近い。頬から耳、首にかけて肌が熱くなるのがわかった。
「難しそう? じゃあ、座ろっか」
「ぇ、ひっ……!」
「悪い、ちょっと我慢な」
 背中に回されていた手のひらが膝裏に回り、そのまま抱き上げられた。パンプスが床に転がり落ちる。急に襲ってきた浮遊感に、なまえは武の身体に縋りつく。腰に回った手のひらにぐっと力が入ったのを感じた。まるで赤ん坊のように抱き上げられたなまえは、武によってすぐにソファーに座らせられた。
「っと……悪い、突然」
「だ、いじょうぶ」
 目の前に跪いた武は、足から転がってしまったパンプスを拾い上げる。なまえは恥ずかしくて見ていられなかった。
 目の前に、待ちわびた武がいる。中学生の頃よりも、想像していた大人の姿よりも、数倍もかっこいい。なまえの背中や腰、膝裏には、未だに武が触れた感触が生きている。
「足首、捻った?」
「え、あ……わかんない」
 どうして跪いてるの。隣に座りなよ。いいや、もはや立ってほしい。これ以上近いともうだめかもしれない。心臓が痛い。
 なまえの脳内は武の供給過多でパニックに陥っていた。武に話しかけられても、うまく返事ができているのかもよくわからない。
「ん……じゃあ、ちょっと見てもいいか?」
「うん……えっ?」
「おっけー。ちょっと触るな」
「え? えっ?」
 なまえの困惑声は武に届かず、ただソファーに吸い込まれて消えていく。武の手が左足のふくらはぎに触れた。持ち上げられそうになった足は、なぜか一旦床に降ろされる。
「あ、悪い。ちょっとこれ、掛けててくんねえ?」
「え、あ、え?」
 武はおもむろにジャケットを脱ぎ、なまえの膝にやさしく掛けた。ほんのりとした温かさが膝に広がり、なまえは抱き上げられた時のことを思い出して頬を染めてしまう。
 なまえの左足は、再び武により床から離されて、踵は武の足の上に乗った。なまえの爪先が武のシャツに触れる。
――待って、待って、本当に待って!
 心の叫びは届くことはない。足首に武の武骨な指が添わされて、具合を確認される。時折、足の甲にも触れて、曲げる用促される。捻っているかどうかの確認であっても、今のなまえには完全に死に追いやる行為だった。
「うう、むりぃ……まって……」
「痛いか!? どこらへん? ここ?」
「しんぞうぅ……」
「心臓!?」
 語彙力はもはやすっからかんである。こんなに語彙力がなくなるのは、スカウト予告で推しの新たなスチルが公開された時と、ピックアップスカウトによって推しを手に入れた時くらいだ。それらと同じくらい、なまえの脳みそは働くなっており、とろけてしまっていた。後先何も考えずに口走った言葉のおかげで、なまえはこの後、今以上の死に目に会う。
「心臓って、呼吸は!? ちゃんとできるか!? いや、それは肺か!?」
「ひぇ」
 武がより一層焦った表情で、なまえの顔を覗き込んだ。なまえの左足に負担を掛けないように、武は距離をつめつつ、なまえの顔色を確認する。少し前に顔を動かせば鼻先が触れてしまいそう。なまえは顔が沸騰しそうだった。
「だ、だい、だいじょうぶだから……!」
 視線を惑わせながらしどろもどろに言葉を返す。武は落ち着きを取り戻していた。しかし、未だに顔を覗き込まれていて、なまえは居ても立っても居られない。
「あの、大丈夫だから、その……ちかい」
「――あっ、悪ぃ!」
 ようやく武が離れていき、なまえは生きた心地を得る。ほっと胸を撫で下ろすが、心臓はバクバクと動いていた。武のことを意識すればするほど胸は高鳴ってしまう。武に気づかれないようにゆっくりと深呼吸をしていると、武にもう一度謝られた。
「悪かったな。ずっと会いたいって思ってた相手が、目の前にいるから、夢じゃねえんだよなって、現実かどうか確かめたくて見つめちまった」
 照れくさそうに話す武に、なまえの呼吸は止まる。
――は、むり。なに? 無理ちょっと待って。今なんて言ったの?
 深呼吸ってどうやってやるんだろう。今、呼吸はちゃんとできているのだろうか。瞬きをする方法も忘れてしまったほど、なまえは武を凝視してしまった。
「それに、中学の時よりもめちゃくちゃ可愛くなってるからさ。可愛いところずっと見ていたくて、俺しか視界に入れてほしくなくて、ついやっちまった」
「ひぇ」
「……あのさ、ずっと……待っててくれたのか?」
 武の瞳がなまえを動けなくする。心はすでに、武のものになってしまったようだった。彼の言葉、仕草、想いに、なまえの心は自由を奪われる。
「え、いや、あの、えっと……」
 武の視線が、熱を孕み始めたことに、なまえは気づかないふりをした。こんな都合のいいこと、あるはずがない。漫画やゲームじゃないんだから。勘違いも甚だしい。武に失礼じゃないか。
 頭は甘やかな可能性を否定しているのに、心はもう武に捧げたくて、貰ってほしくてどうしようもなくなっていた。唇が上手く言葉を乗せられなくて、返事にも満たない声しか生まれてこない。
 なまえは身体が上手く反応できていない歯痒さに、視線を下げる。膝に乗っている武のジャケットは、大きかった。
「あのさ、この後、時間あるか?」
「え……? うん」
「その……埋め合わせ、させてくれないかな」
「埋め合わせ……?」
 武の意図が掴めずに、なまえは首を傾げる。そっと視線だけ武に戻す。キュッと唇を引き締めた武と目が合った。
「そ、埋め合わせ。待たせちまったお詫びと……」
 武はそっとなまえの左足に触れる。もう片方の大きな手で、パンプスを持ち上げてなまえに履かせた。左足を履かせ終えると、次に右足を同じように自分の脚に乗せて、パンプスを履かせてストラップをつける。パチンとストラップがはめ込まれた音が、なまえの耳の奥で弾けたようだった。
「こんなに可愛くしてくれた、お礼」
 低く甘く囁かれた声は、武の指先に乗って、なまえの爪先に触れる。オープントゥになっているため、ペディキュアで色づいた爪が見えていた。愛おしそうに爪の上を撫でる指先に、なまえは顔から火が出そうになる。
「――可愛くしてくれたの、俺のためって、勘違いしてもいい?」
 見上げてくる武に、なまえはとうとう悲鳴をあげた。




short 望楼