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長い夢を見ていた気がする。テレビのチャンネルを変え続けるように、いろいろな場面に遭遇していたよう。断片的にしか夢の内容を覚えていないけど、目が覚める前か、その少し前かに見ていた夢だけ覚えている。
名前は瞼をゆっくりと上げた。数回瞬きをして焦点を合わせる。いつの間にか眠ってしまっていた。しかし、ベッドには入っていて、自宅の布団よりもふわふわな感触に驚いた記憶がある。
目が覚めたら元の場所に戻っていた。だなんて、そんなことは起きることなく、名前は魔法のある世界にやってきて二日目の朝を迎えた。
昨日は出勤時に突然光に包まれて、目を開けたら魔法のある世界に移動していた。話を聞くと、結界を強化するための媒介として召喚されたようだった。しかし、媒介としての力はあまりなく、その原因が体調不良からくるものであり、回復すれば結果は想定通りの力で強化されるということが判明する。これにより、持病の回復が名前の当面の目標となり、名前はこの世界での医療を受けることとなったのだった。
名前は仰向けになり、手の甲で視界を塞ぐ。
――きらきらで、ふわふわで、あたたかいところにいた気がする。
目をつむって夢を鮮明に思い出そうとしてみても、浮かんでくるのは微かな記憶だけ。けれど、出てきた人のことだけは、くっきりと瞼の裏に焼き付いていた。
「ネロさん、でてきた……」
名前を呼ぶだけで恥ずかしく感じる。名前は両手で両頬を押さえる。
ネロというのは、この魔法舎と呼ばれる場所で生活している、魔法使いたちの食事を担当してくれている東の国の魔法使い。名前は食事をきっかけに、ネロに小食なことと、体調が悪いこと、そして味覚を感じられない状態であることを話した。ネロと話していく中で、名前は初めて『寂しい』という気持ちと、ネロと一緒にいると、胸にぽっかりと空いた穴が埋まり『寂しさ』がなくなっていくことを知った。
夢にネロがでてきたのは、きっと昨夜話したからだろう。少しだけしか関わっていないはずなのに、夢の中に出てきたネロは、どこまでもネロのままで、やさしくて眩しかった。
「引っ張り上げてくれた気がする……」
手を伸ばされたことを覚えている。その手を掴んだことも。蹲っていた自分を引っ張り上げて立たせてくれた。そのあとは確か――。
『―― 』
「なんて言ってたんだっけ……」
ネロは何かを話しかけてくれた。それは、なにか大事なことを言っていたような。いいや、大事と言うよりも、大切と言うべきか。とてもあたたかくて、嬉しくて、ワクワクするような言葉だった気がする。
「……何で思い出せないのぉ」
名前は両手で顔を覆った。思い出したいのに思い出せないときのムズムズする感じ。大事なことばかり忘れていってしまうような感覚。名前はこの瞬間がいつも苦手だった。
「せっかく、夢でもお話しできたのに……」
手のひらのせいでくぐもった声が室内に響く。線で描いたらゆらゆら歪な声だろう。
「なに言ってんだろ……」
自分で話して恥ずかしくなってきた。名前はバッと起き上がり、その勢いで立ち上がってカーテンを開ける。薄暗い空には大きな月――〈大いなる厄災〉が絶えず輝いている。
この世界は〈大いなる厄災〉という大きな月が昼でも空に浮かんでいる。〈大いなる厄災〉とは、年に一度厄災を起こすものであり、〈大いなる厄災〉を迎撃するために異世界から召喚された賢者と、賢者の魔法使いと呼ばれる魔法使いたちがこの魔法舎と呼ばれる建物で共同生活をしている。今は〈大いなる厄災〉に備えている期間らしい。
「……いま何時だろう」
〈大いなる厄災〉を見ていると、胸がざわざわしてくる。名前は早々に視線を外し、机に置いていたスマートフォンで時刻を確認する。表示された時刻は五時過ぎ。ベッドに入った時間から逆算すると、眠れた方なのではないか。
「顔は洗ってから寝たけど……お風呂入れなかったな」
昨夜は遅くにネロから食事を貰い、話をして、そのまま部屋に戻って寝支度をして寝てしまった。まるで胸いっぱいになった気持ちのまま眠りにつきたかったみたいで、名前は再び恥ずかしくなってしまう。
――ネロさん、優しかったな。
昨日は、昼過ぎと、寝る前。たったの二回だけだけど、話をすることができた。彼は優しいだけじゃない。頼りになるし、話していると安心する。優しいの一言では言い表せない。
目尻を擦りながら、名前は昨夜を思い出していく。ネロに話すのは躊躇したけれど、話の流れから体調のことも話してしまった。他者の込み入った話を聞くだなんて面倒事であるはずのに、ネロは受け入れてくれて、あまつさえ協力してくれると話してくれた。
――いいのかな。
こんなに優しさを受け取ってしまって。賢者の晶や給仕をしているカナリア、魔法使いのスノウとホワイト、フィガロに、そしてネロ。自分は役目のためにこの世界に連れてこられたのに、ただ役目を果たせとだけ伝えても良かったはずなのに、皆は名前を一人の人として扱ってくれる。
これが元の場所だったらどうだろう。場所にもよるだろうけれど、人権を踏みにじる行為なんて簡単にできてしまうし、他者を支配下に置くことすら容易だ。
「私は……返せるかな」
返せるだろうか、彼らに。優しさともう一欠片、感謝が形になったようなものを、渡せるだろうか。
優しさを返すためには、この世界のことをもっと知らなければならない。彼ら一人ひとりのことを知って、交流を重ねて知っていく必要がある。
「がんばろ。……がんばれるかな」
この世界で生きていく自信はまだなかった。解決しなければならない体調の問題もあるし、この世界に馴染めるかどうかもまだわからない。小さな不安が小石のように転がっている。それを一つずつ拾い上げて、綺麗にしていかなければならない。
「とりあえず、お風呂入らないと」
名前は、カナリアが昼間に置いていってくれた籠から着替えを取り出す。ワイシャツとスラックス、そして靴下と下着。下着は名前の慣れ親しんだものだった。
「これ……サイズ大丈夫かな」
畳んであるそれを広げて掲げてみる。上の下着はブラトップだった。ブラジャーだったらサイズが合わなかった時に少し苦労するため、ブラトップの方が幾分マシである。
「サイズ合わなかったらどうしよう……」
着てみなければ合うかどうかはわからない。合わなかったときは、とりあえずカナリアに相談だろうか。用意してくれたのに申し訳ない。
「まあ、着てみてから考えよう……」
名前は着替え一式とを籠に入れて立ち上がる。通勤リュックからとりあえず化粧ポーチを取り出して籠に入れた。目指すは浴室だ。
「お風呂って……どこ?」
歩き出そうとして立ち止まり、首をかしげる。名前は早朝から、魔法舎の中をさ迷うことになる。
浴場は階段を数階下った廊下の奥に存在していた。一階ずつ部屋をくまなく見て歩いたかいがあった。たどり着いたときはうっすらと汗をかいてしまっていた。
浴場は男湯と女湯に分かれているようで、分かりやすく赤と青でシルエットのマークがつけられている。
「トイレのマークみたい……」
元の場所で慣れ親しんだピクトグラムに似ている。わかりやすくてかなり助かるけれど、魔法舎の内装デザインとは合っていないように見える。
「とりあえず入ろう」
名前は扉を開けた。中は予想よりも広く、清潔感の溢れる造りだった。木製のロッカーや、大理石のような石でできた洗面台や、光沢のある鏡台。まるでホテルのような空間が広がっていた。
「でか……すご……」
名前は呆気に取られてしまう。ホテルや旅館に泊まった経験は学校行事くらいしかない。勝手があまりわからないながらも、名前はロッカーに進む。籠をロッカーの上に置いて、靴を脱ぐ。流れで着ているものを脱ごうとした。
「……待って」
名前は服を脱ごうとした手を止める。重大なことに気づいてしまった。
――シャンプーもコンディショナーもボディーソープも、スキンケア用品も持ってない。
名前は雷に打たれたような衝撃を受ける。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
「どうしよ……」
これでは風呂に入れない。それは困る。一人暮らしだったのなら百歩譲ってまだしも、ここは二十数名が共同生活をしている。清潔感を保たねばならない。
「せめてシャンプーとかは備え付けあるよね……?」
名前は浴場へと足を進めようとした。中に入って、確認して、それから服を脱げばいい。
すべすべの床で滑らないよう気をつけながら足を運んでいると、ガチャリと出入口の扉が開いた。
「ひっ」
「あっ、名前さん! おはようございます!」
「あっ、あ、晶さん……おはようございます」
入ってきたのは晶だった。賢者という役目を担った、名前と同じ世界から召喚された日本人の女の子である。疲れていそうな様子だったが、名前と目が合った瞬間、パッと明るくなる。
「名前さんも今からお風呂ですか?」
「はい、昨日は寝落ちてしまって」
「そうなんですね……私もなんです」
「お仕事……任務? とかですか……?」
名前は晶と書記官というクックロビンの会話を思い出しながら問いかける。どうやら予想は正解だったみたいだった。晶は苦笑いをして返事をした。
「そうなんです。各地で異変が起きているようで、どの案件にどの魔法使いに行ってもらおうかを考えていたら、いつの間にか寝ちゃって、朝になってました」
やってしまったと言わんばかりの笑みに、名前は賢者という役目の忙しさを目の当たりにした。賢者はどうやら魔法使いを束ねる役割をしているようで、忙しい日々を送っているようだった。
「お疲れ様です」
「いえ、そんな! 名前さんもお疲れ様です!」
労るつもりが労り返されてしまった。職場で聞くような形式上の『お疲れ様』ではなく、気持ちのこもったその言葉に、名前は嬉しいようなくすぐったい気持ちになってしまう。
「えっと……晶さんが来てくれて良かったです」
「え?」
「実は、お風呂の使い方がまだよくわかってなくて」
「! そうですよね!? まだ入っていなかったらわからないですよね……!」
「すみません……あ、いやっ! みなさんが悪いわけでは……!」
晶の衝撃を受けている様子に、名前は申し訳なく思ってしまう。これでは『案内してくれなかったからわからなかった』と言っているようなものでは無いか。とっさに謝ったが、先に気づくべきだった。
「私でよければお教えします、なんでも聞いてください!」
「晶さん……!」
晶はどんと胸を叩きながら宣言してくれた。晶の頼もしさに、名前は思わず胸の前で手を組んで見つめてしまう。少し誇らしげな晶の表情が可愛らしくて、頬がゆるんだ。
「昨日も少しお話したんですけど、私もこの世界に来て生活が板につくまで大変だったので、名前さんにはなるべくそういった思いはしてほしくないんです」
「……ありがとうございます」
どこまでも優しい人。そして、希望を与えてくれる人。晶の優しさは、身体がぽかぽかとあたたかくなるような、そんなあたたかさがある。孤独に寄り添ってくれるような、背中を押してくれるような優しさ。
――きっと、そうされて育ったのだろうな。
彼女の周りにいる大人も、きっと同じようにあたたかくて、優しかった。それを受けて、彼女も同じように優しさを与えられる人になった。
――素敵な人。
晶が晶だったから、賢者に選ばれ、役目を担ったいる。魔法使いと関係を結び、互いに思いやれるようになった。
――じゃあ、私は?
媒介に適している要素は、いったい何なのだろう。生命エネルギーが結界の強化に関係している点で、すでに名前はマイナス要素である。それ以外に、なにが決め手となって媒介として召喚されたのだろうか。
――今考えることじゃないか。
考えたところで答えは出ない。答えの出ない問いについてぐるぐる考え続けると、身体に障る。
――やめよう、今はお風呂だ。
こうして思考を切り替えられるのは、調子が良い証である。調子が悪い時は、永遠と思考の渦に巻き込まれて帰ってこれなくなる。自分でブレーキをかけられて、かつ止めることができるのは、稀である。
「では、お風呂に行きましょうか」
「はい」
名前は考えを巡らせながらも、淡々と服を脱いでいっていた。バスタオルを体に巻きつけて、同じ格好の晶の後を追う。
晶が扉を開けて、浴場に進んでいく。名前も続いて扉を超えた。中は脱衣室と同じように広い造りになっており、あたたかそうな湯気がもくとくと漂っている。
「シャンプーとコンディショナー、ボディーソープは備え付けのものがあるんです」
「本当ですか……! よかった」
「ボディタオルも新しいものが置いてあるので、それを使っていただいて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます……!」
晶が腰掛けた隣のシャワー前に名前も腰を下ろす。ボトルの印字を確認しようと手を伸ばすと、見たことない字がそこに書かれていた。
「え……? 読めない……」
「あっ、この世界、字が違うんです……!」
晶は慌てたように「先にお伝えするべきでした……!」と続ける。書かれていた字は、元の場所でも見たことの無い外国語で書かれていた。筆記体のアルファベットに近いけれど、形が歪なそれは、どんなに見つめてみても解読することが出来なかった。
「えっと、黄緑色のボトルがシャンプーで、緑色がコンディショナーです。この薄黄色のボトルがボディーソープです」
「これがシャンプー、コンディショナー、こっちがボディーソープ……」
晶が指差しで教えてくれた内容をそのまま名前は繰り返す。指差し確認もしながらしっかりと頭に叩き込んだ。
――まさか文字まで違うだなんて。
魔法が使える人がいる時点でその可能性も考えておくべきだった。予想外のことを知ったとき、衝撃が大きいと心に負荷がかかる。なるべく最悪のことまで考えておいた方がましだというのに。
名前はボトルに書かれた文章をじっと見つめる。これは黄緑色のボトルだから、おそらくは『シャンプー』と書かれているはず。
「……読めない」
「私もいまだに不慣れなことが多くて……簡単な文しか読めなくて」
肩を落としていると、隣で晶も同じように困った表情を浮かべる。
「晶さんは、文字の勉強もしているんですか?」
「役目柄、書類や書物に目を通さなければならないことが多いので、必然的に」
「……大変ですね」
書類となると、このシャンプーと書かれた文よりもさらに多くの言葉を読まなければならないはずだ。まるで外国語の文章と格闘しなければならないのは、骨が折れるだろう。
名前がボトルを元の位置に戻すと、晶が手を伸ばして手のひらにシャンプーを出す。名前も続いてシャンプーを出して、髪を洗い始めた。
「でも、ルチルをはじめ、皆に教わって少しずつ読めるようになってきました」
「ルチル……さん?」
「あっ、まだ会っていないですか? ルチルは南の国の魔法使いで、南の国では教師をしていたので、教えてくれることがとてもわかりやすいんです」
頭の上が泡まみれになりながら、晶は楽しそうに笑う。南の国での先生役はフィガロ、それとは別に教師をしていたのがルチルという人。前者は役目としての先生で、後者は職業としての先生だろう。
「そうなんですね」
「ルチルは名前さんと話したそうにしていましたよ!」
「えっ、そうなんですか?」
「はい、私にも『あの媒介の方とはいつお話しできるんでしょうか』ってわくわくしながら話していました」
「!」
――もしかして、召喚されたときにフィガロさんに話しかけていた人?
名前の脳裏に、木漏れ日を受けたかのような綺麗な金髪の青年が浮かび上がる。確かそのときは、名前が疑問に思っていることを代わりに聞いてくれたような様子だった。
「そうなんだ……私も会ってみたいです」
「! ではこのあと、朝食の時に会いましょう。きっと会えますよ」
晶はにっこりとして髪についた泡を洗い流す。名前も少しだけ緊張しながらシャワーを弄り、泡を洗い流した。続けてコンディショナーを手のひらに乗せて軽く伸ばし、髪になじませていく。
「名前さんの髪は綺麗ですね」
「えっ、そ、うですかね……」
「この世界に来て黒髪って日本にいたときより多く見ないので、懐かしくなります」
「晶さんは、地毛、ですか?」
「そうなんです。なので昔から黒髪に憧れてました」
晶と名前はコンディショナーを洗い流すため、会話が一時途切れた。温かい湯を浴びて、頭がさっぱりして軽くなったように感じる。
「私も、茶髪に憧れていました。綺麗だなって」
髪に水気を絞っていた晶の手が止まる。名前は髪を後ろに撫でつけて、一つ結びをするように毛先の水気を絞った。
「やっぱり、憧れちゃいますよね、自分にはないもの」
「はい」
互いに互いのものが羨ましく感じる。そこに疎ましさなどなく、自分を下に見ることもない。純粋な憧れという気持ち。それは、幼い頃に憧れた、妖精の粉で空を飛べる子どもたちや、魔法の力で悪者をやっつける少女たちに抱いたものと同じだった。
「……きれいですね」
名前はぽつりと呟いた。晶の気持ちには、不純なものが混ざっていないような、透明な水のような綺麗なものが入っている。
「え!?」
晶は身体を洗おうとしていた手を止めて大きな声を出した。浴場にいるからではないような顔の赤らみに、名前ははてと首を傾げる。
「あっ……」
――もしかして変なタイミングで声かけちゃった!?
晶が身体を洗おうと、身体に巻いていたバスタオルを外した瞬間に声をかけてしまったのだとしたら。想像しただけで名前も同じように顔が熱くなってしまう。
――やっちゃった……!
晶の反応は、きっと名前が想像した通りのタイミングだったに違いない。
――破廉恥なこと言っちゃった……!
謝る? 謝った方がいいよね? いやでもそれは『あなたの身体は綺麗じゃないです』って言っているようなもの?
名前の思考はぐるぐると巡って迷宮入りしていく。その間も晶は手を止めており、ぴちょんと水滴が落ちる音が浴場内に響き渡る。
「あ、あの――」
名前は恐る恐る晶に声をかけた。しかし話す言葉など決めていなかったため、すぐに口をつぐんでしまう。名前と入れ替わるように、晶が口を開いた。
「――えっと、その、ありがとうございます」
「え?」
「でも! 私よりも、名前さんの方がお綺麗です!」
「……え?」
名前はポカンとしてしまう。晶の反応は、名前が思い描いていたものと正反対のものだった。突然の話題転換に、名前は追いつけないでいた。
「スタイル良すぎます……! 何を食べたらそんなに綺麗な身体になるんですか!?」
「えっ!?」
「こう、出るところは出てきゅっとするところはきゅっとしていて……腕も足も長いし……!」
「え、あ、いや……」
「はっ、すみません、じろじろ見ちゃって! 変態みたいなこと……!」
「あ、いや……私こそ、すみません……?」
晶は慌てて手を振る。名前は自分が蒔いた種である自覚があったが、晶の反応に困惑しながらも謝った。
「……ふ、ふふっ」
「っ、ははっ……!」
名前と晶が笑い出したのは同じタイミングだった。
――なんか、楽しい。
他人といて楽しいと感じたのは、久しぶりだった。元いた場所では最近まったく味わっていなかった。他人といると不安が募るし、迷惑をかけないか気になって仕方がなかった。他人と話した後は、気を悪くすることを言わなかっただろうか、変な言葉を使って話していないか、わかりにくくなかっただろうか、様々なことが気になって頭が重くなる。ずっと心の中では一人反省会をして、また落ち込んで、次は気をつけなければと心に決めても同じことを繰り返してしまう。
――人と話すのって、こんなに楽しいんだ。
一緒にいてあまり不安に感じない。会話がもっと続けばいいと思う。一つ一つのやりとりを両手で包み込んでしまっておきたいくらい、大切に感じる。
――こんなこと、思えるんだ、私。
自分の変化に、名前は驚いていた。他人との交流だなんてストレスでしかなかったはずなのに、この世界での交流は違っていた。体調が良くなったわけではないのに、この考え方の変化はどうしてなのだろう。
「っはは……! 身体、洗っちゃいましょうか」
「そうですね、ふふ……」
晶は目尻に溜まった涙を拭きながら、身体を洗うことを再開する。名前も頷き、ボディータオルにボディーソープをしみこませた。
「あ、あの……嫌じゃなければなんですけど……」
「はい?」
「……その、お胸、触らせてもらってもいいですか?」
晶の緊張した物言いに、名前はぽかんとした後に吹き出してしまった。
久々に、ゆったりと味わうような入浴だった。普段の入浴なんて、絶望感と使命感に板挟みにされて、風呂に入る気持ちを時間をかけてつくるところから始めるというのに。入浴中も手を動かしつつ動けなくなる前に早く上がらなければと考えてしまうのに。
――お風呂、楽しかったな。
風呂が楽しいだなんて、何年ぶりだろうか。もしかしたら、初めてかもしれない。それは紛れもなく晶の存在が大きい。
晶とも、昨日よりたくさん会話ができた気がする。驚かされる発言があったものの、素直で優しくて可愛らしい。誰からも好かれそうな子だなという印象を持った。
――仲良くなれた、らいいな。
いつか、胸を張って仲良しなのだといえる日が来るだろうか。そんな日が来るまでに、日々交流をして互いのことを知っていけるだろうか。彼女のために何かしたいと思えるようになるだろうか。
「……まだ二日目だもんね」
「はい?」
名前のぽつりと落としたつぶやきを、晶は丁寧に拾ってくれた。着替え中であるのに手を止めてまで聞き返してくれるだなんて、やっぱり優しい子だと名前は実感する。
「あ、いえ。まだこれからだな、と思って」
名前は答えられるだけのことを返す。まだ素直にすべてのことを打ち明けるには、勇気が必要だった。
「困ったときはいつでも、なんでも言ってくださいね」
「晶さん……」
晶は名前が勇気を出さなくても、手を差し伸べてくれる。元いた場所では、勇気がないと生きることが難しかったというのに。この世界は勇気を出さなくても一歩を踏み出してもいいのだろうか。
「ありがとう、ございます」
いま名前ができることと言えば、気持ちを込めて感謝を伝えていくこと。相手の言葉を大切にしていくこと。そして、相手に甘えること。
――見逃さないようにしなくちゃ。
相手の優しさを、言葉を、そして機会を。気をつけていないと見逃してしまいそうで、けれど肩肘張って待ち受けるようにしているのは少し違う気がする。
――探さなくちゃ。見逃さない方法。
きっと自分のことで精一杯になって、見逃してしまうことの方が多い。だから少しでも相手に心を向けて対峙できるようにしたい。
気持ちの伝え方も、見逃さない方法も、名前には探しものが多くあった。