1-2-2
風呂から上がった名前は、晶と一旦別れて部屋に戻った。
晶との話は尽きず、着替えや髪を乾かし終わっても、話に花を咲かせてしまった。その中でも驚いたのが、浴場前に掲示してあったピクトグラムのような目印は、晶のために貼り付けられたのだという。曰く、この世界に来てまだ不慣れな時に、どちらが女湯かわからずにいたのを見つかり、貼ってもらったのだという。わかりやすいデザインは、晶の案が採用されたのだとか。通りで見た事のあるような掲示物だと、名前は話を聞いて納得してしまった。
自室に戻った名前は、鏡の前で軽く化粧を施していく。
――あれ?
名前は手を止めて、手のひらを見つめた。自分の手が普段よりも軽いことに気づいた。
化粧なんて億劫で、化粧をすることがマナーだと話す男性たちに納得がいかず、胸の内でふつふつと何かが沸き立つのを感じたことがある。そのマナーに従うことしか出来ず、重たい手を動かして化粧をしていた毎日を過ごしていたというのに。
少しだけ、先の未来が楽しみなような、楽しみに思ってもいいのかなというワクワク感が、化粧をする手を動かしていた。
――楽しみ、だけど、ちょっと怖いな。
自分は今、浮き足立っているのだろう。新たな世界で、環境が変わって、それでも優しくしてもらえて。調子に乗ってるとも言えるのかもしれない。
「……気をつけないと」
具体的に何をと聞かれたら、すべてと答えるかもしれない。ワクワクして、足元がふわふわしている状態で、なにか失礼をしてしまわないようにしないと。こういう時が、一番なにか起きてしまう、起こしてしまうのだ。
名前は両手拳を握りしめる。昨日も同じように、気を引き締めた気がする。こうやって一日一日、決意を固めて臨むくらいが、臆病な自分にはちょうどいい。
名前は片付けをして立ち上がる。朝食の時間だ。晶と食堂前で待ち合わせをしているのだ。
「……行ってきます」
ここは大きな『家』になるのだろうけど、自室は小さな『自宅』だった。名前は口の中で唱えるように挨拶をする。
以前居たところでは、一人で暮らしていて挨拶などする気持ちすら起きなかった。けれど、ここではそういった小さなことも、大事にしていきたいと感じていた。
晶と食堂前で合流した名前は、食堂の中へ進んでいく。席は決まっていないようだったが、昨日と同じ席に名前たちは腰を下ろした。
「……あの、食事の時って、自分で取りに行くんですか?」
名前は今までで一番気軽に質問をすることができた気がする。昨日一日過ごしてみて、基本的にはネロが配膳してくれている様子だった。しかし、名前は少量しか食べられないため、配膳前にネロが知っていた方が盛り付けはスムーズだろう。やはり、食堂に立ち寄る前に、厨房に顔を出した方がいいのではないか。
「そうですね、基本的にはネロが運んできてくれます。他の人のご飯を運んでくれている時に、食堂に来た人をチェックして、そのあと持ってきてくれる感じですかね」
「なるほど……」
ここで暮らしているのは二十数名。その人数が一気に食堂に集まることがあるかはわからないが、数十人の配膳を続けて行うこともあるだろう。
『東の国では、料理屋をしてた』
そういえば、お店で働いていたと言っていた。きっと職業柄、周囲をよく見ることや気を配ることに関して、呼吸をするように出来るのかもしれない。
「すごいですね」
「はい。ネロはよく周りのことを見ていたり、気づいてくれるんです」
名前の考えていたことは当たりだった。晶は少し誇らしげに、大事な友人を紹介するようにネロについて語る。
――晶さんも、よく見てるんだろうな。
すっとその可能性が名前の頭をよぎる。きっとこれも、当たりだろうという確信もあった。
「おはよ、賢者さん。名前も」
「っ! おはようございます」
「……!」
後ろから声がかかり、名前は声を上げそうになるのを必死に堪えた。早口で挨拶をしてしまったが、振り返った先にいたネロは穏やかな表情を浮かべていた。
「ん? 賢者さん、どうした?」
ネロの視線を追うように名前が顔を向けると、晶は片手で口元を抑えていた。
「晶さん……?」
「すみません、なんでもないです。おはようございます、ネロ」
名前が首を傾げていると、晶はハッと気づいたように我に返る。急に具合が悪くなったとかと思ったら、そうでもない様子のため、名前は勘繰るのをやめた。
「今日は早起きだな」
「そうなんです! 今日は名前さんと一緒に、さっきお風呂を頂いたんです!」
「えっ……そ、そう。そりゃあ、よかったな」
「はい、楽しかったです」
「はい。とっても」
少しだけ驚いているネロを不思議に思ったものの、晶から『楽しかった』と言われ、名前の頬は自然と緩んでしまう。
晶と顔を合わせて笑っていると、朝食が目の前に置かれた。名前の皿は晶に比べて小さく、分量も少なめである。
「これ……」
「今日はおじやですか!」
晶がパッと明るくなる。名前が抱いた既視感は間違っていなかった。ネロが持ってきてくれた朝食は、おじやたった。
おじやを知っているのか、と聞こうと思いネロを見上げると、バチりと視線が合う。
「食べ慣れたもののほうが、気は楽だろう?」
「えっ……」
名前は脳内でネロの言葉を繰り返す。食べ慣れたもののほうが、と話していた。つまり、名前が元いた場所でおじやが食べられていること。おそらく名前も食べたことがあるだろうということ。その上で、慣れていないよりも、慣れているものを食べた方が気が楽だということ。それらを、ネロは朝のうちに考えて作ったということになる。
――ネロさん、配慮してくれたの……?
顔が熱くなっていく。指先まで小さな電流が流れたみたいにビリビリする。
「あ、ありがとう、ございます……!」
――うそ、こんなことですぐに顔にでてしまってたっけ?
名前は頬を抑えることも出来ず、感謝を伝えるとすぐに俯いてしまう。恥ずかしい、顔が熱いのがバレてないといい。けれど、人を見ることに長けているネロはきっと、見逃さないのだろう。
――うれしい。
ネロが自分のことを考えてくれたこと。考えて、料理を作ってくれたこと。思いやってくれたこと。ネロの心の中に、少しでも自分の存在があるということ。
――たった料理ひとつで、こんなに嬉しくなるもの?
名前は膝の上で指を絡める。そわそわ動いてしまう指同士は、絡まれると動きが止まる。
「冷めないうちに食べろよ」
ネロはそれを最後に厨房に戻っていく。ささやかな優しさだけがその場に残された。
「いただきましょうか」
「はい。……いただきます」
「いただきます」
晶の言葉に頷いて挨拶をする。心を込めて言葉を紡いだ。この声はネロに聞こえていないだろうけど、それでも伝わればいいと考えてしまった。
スプーンで掬って、少しだけ米粒の大きさや形が見慣れないものだと気づいた。食べ慣れている白米がこの世界にも存在するというのは嬉しい。しかし世界が違うからか、少しだけ米粒にも違いが見られる。
夕焼けを照らした湖みたいな色の光沢を持つ汁から、あたたかい湯気が出ている。卵やネギに煮た野菜も入っており、昔、風邪を引くといつもおじやを作ってもらっていたことを思い出す。
数回息を吹きかけておじやを冷まし、少し香ばしいようなほっとする匂いを感じながら、口に入れた。
――やっぱり、わかんないよね。
味がわかるかもだなんて、ほんの少しだけ期待している自分がいた。体調が良くなったわけではないのだから、そんなこと起こるはずがないのに。
少し期待して、けれど現実は違って、落胆して。期待することは、最終的に傷つくことが多いから、やめた方がいいと気づいているのに。
それでも期待せずにはいられなかった。叶うはずもないのに、現状に合わない希望を抱いてしまう。
――きっと美味しいんだろうな。
前の席に座る晶はにこにこと食べ進めている。その表情だけでも美味しいのだと伝わってくる。
――どんな味なんだろう。
久々に食べたこともあって、おじやの味は思い出せなかった。
舌の上にとろっとしたものが乗って、数回かみ砕き喉に流し込む。その繰り返しだった。
けれど、元の場所で食べていたときよりも、彩りが鮮やかでやさしい雰囲気のなか食べるおじやは、胸が詰まるほど嬉しくて、きっと頬が落ちるほど美味しくて、少しだけ切なさだけが心に残った。
「美味しいですね」
「……はい」
晶の笑顔に、本当のことを話すのは気が引けた。名前は小さく返事をする。
嘘をつきたくはないし、嘘を塗りたくって『美味しい』と話すこともしたくなかった。しかし、穏便に場を納めるために嘘をついてしまったことは、事実だった。まるで逃げられない場所に追い込まれてしまったかのようだ。
味がわからないと言って、晶を困らせてしまうことは避けたかった。せっかく朝、距離が近くなれたのに。その距離がまた離れてしまうようなことは、したくない。
名前は悶々と考えているうちにも、完食した。胃には満腹感が広がっている。ネロは完璧に名前が食べられる分量を見極めていた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした!」
晶が遅れて挨拶をする。晶の方が量が多いのに、名前と同じくらいで完食してしまった。
――元気に食べるんだな、晶さん。
惚れ惚れしてしまうほどの食いっぷりに、名前は目を丸くした。成人女性より幾分か食べる量が多いのかもしれないが、晶の食事はまるで『健康体質』を表しているようで、名前はそっと視線を落とす。
「お、ちゃんと食えたな」
「あ……」
「ネロ、おじや美味しかったです!」
完食を見計らったように、ネロが現れる。彼の視線は名前の食器にも注がれていた。返事をしないとと口を開くが、『美味しかった』と晶のように感想を伝えられず、口をつぐんでしまう。
「まだ食えそう?」
「はい!」
「はは、賢者さんは朝から元気だな」
「ネロのごはんはたくさん食べられますよ」
晶の笑顔が眩しかった。自分の前の席に座っている晶が、遠くにいるように感じる。
――だめだな。人と比べても、苦しいことしかないってわかっているのに。
名前は気分が沈んでいくのを察した。だめだ、これ以上後ろ向きなことを考えたら、這い上がることが難しくなってしまう。しかし、一度沈んだ感情は泥船のように難航する。
「……名前は?」
「え……?」
名前を呼ばれ、名前は腕を掴まれ引き上げられたように顔を向けた。ネロは首を傾げて名前を見つめてくる。つるんと光る幸福色のネロの双眸に自分が写っていることに気づいて、名前は首の裏が熱くなった。
「まだ食べられそうなら、これ」
ネロは名前と晶の前にゼリーを置く。名前はゼリーに釘付けになった。
デザートグラスに鎮座するゼリーはぷるぷると小刻みに震えていた。晶は苺のような赤い色、名前のゼリーは桜のように薄桃色だった。ゼリーの中にはフルーツがたくさん詰まっている。
「きれい……」
「かわいいですね!」
晶の発言に、名前はこくんと頷く。その間もゼリーから目を離せなかった。
「口の中、すっきりするよ」
ネロは話しながら、名前と晶が完食した皿を重ねて片手に乗せる。
「いただきます!」
「いただきます……」
名前はドキドキしながら晶の挨拶に続き、スプーンでゼリーを掬った。ぷるりと震えるゼリーは可愛らしくて、名前はそっと口に入れる。
――爽やかで、五月の風が吹いたみたい。
ネロの言う通り、口の中がすっきりとした。おじやのこってりした食感とは打って変わり、爽やかな食感に、身体の中に風が吹いたように感じる。
――美味しいって、言いたい。
味はわからないけれど。でも、食感はわかる。他の人と同じように、硬いとか柔らかいとか、こってりしてるとか、爽やかだとかは、わかるから。
「……あの」
「ん?」
ネロはまだその場にいてくれた。もしかして、見ていてくれたのだろうか。そんな都合のいいことを考えてしまい、頬が熱くなる。そんなことはないと決まっているのに。
名前の胸はドキドキと高鳴っていく。緊張と、勇気を振り絞るときの胸の痛み。そして、これはきっと、ネロの優しさにときめいている。
名前は言葉を探した。『美味しい』に代わる言葉。なにか、いい言葉はないのだろうか。考えてみても、一言でこの感動を伝えられる術を持ち合わせてはいなかった。
「すごく、爽やかで、風が吹いたみたいでした。すっきりしました」
「……そっか、よかった」
ネロの目尻が柔らかい線を描く。その些細な変化にも、名前の胸は音を立てる。「あの……」と名前の口は呟いていた。ネロは首を傾げる。
「あの、よかったら……また、頂いて、みたいです」
「!」
名前は恐る恐る言葉を続けた。おこがましい発言だろうが、このゼリーをまた食べてみたいと素直に思った。味がわからなくても、綺麗でかわいくて、食べたら爽やかなこのゼリーは、沈みかけていた名前の思考を、まるでスプーンで掬うように救ってくれたのだ。
「ああ、また作るよ」
ネロはそう言って背を向けて去って行く。名前はネロの姿が見えなくなるまで、視線で追いかけていた。食堂から完全にネロの姿が見えなくなると、小さく息を吐き出して身体の向きを直す。デザートグラスには、まだゼリーが残っている。
「……?」
ふいに視線を感じた気がして、顔を上げる。すると、晶とバチリと目が合った。
「あっ、すみません……!」
「いえ……?」
気まずそうに謝る晶に、名前は首を傾げることしかできなかった。追求した方がいいのか迷っていると、晶が再び口を開く。
「いえ、あの……ネロといつの間にか仲良くなっていたんだな、と。びっくりしてました」
「仲良く……なんですかね?」
「仲良くなってますよ!」
晶がテーブルに身体を乗り出す。思わず名前は身体をのけぞってしまった。晶は「すみません」と謝って元の体勢に戻る。
「……私も頑張ります!」
「何を……?」
「もちろん、名前さんともっと仲良くなるために、です」
照れくさそうに笑う晶は、ぱくりとゼリーを頬張る。名前はぽかんとした後に、胸が熱くなってはにかんだ。
ゼリーを完食後、名前が食器をどうしようか悩んでいると、ネロがグラスを引き取りにきた。グラスを渡しながら「ごちそうさまでした」と伝えると、ネロは頬を緩めて返事をしてくれる。たったそれだけのことなのに、名前は胸がいっぱいになってしまう。
「あの、ネロさん……」
「ん? どうした?」
「ごはん、ありがとうございました。お腹、いっぱいになりました」
ゼリーを持ってきてくれた時には伝えられなかったこと。『美味しい』の代わりに自分が伝えられること。名前はきちんと感謝をネロに伝えたいと思っていた。緊張で心臓が早い音を立てている。
「よかったよ。昼も美味いモン……いや、腹いっぱい食えるようにしとくからさ」
ネロは言いかけた言葉を飲み込み、別の言葉に言い替えた。それは、名前が味を分からないでいることを考慮してだろう。
どこまでも細やかで、ささやかな優しさに、名前の視界は淡い色に色づいて、ネロを輝かせる。
「……! ありがとうございます」
綺麗な色合いが少しだけ眩しくて、名前は視線を落とした。ネロのつけているエプロンが目に入る。調理をしているネロの姿を想像して、名前は頬を緩めた。
「……たのしみです、お昼ごはん」
「!」
ぽつりと呟いた言葉に、ネロの小さく息を呑む声が聞こえた気がした。
――もしかして、変なこと言っちゃった?
味がわからないのに、食事が楽しみだなんて、迷惑だっただろうか。ネロの用意してくれる食事は、味はわからなくても彩りや盛り付けで楽しませてくれるし、匂いや食感でも食事をしている実感がするのだ。
――こんなに大事に食べたいって思うの、生まれて初めてかもしれない。
食事を欠かすことは、体調が悪すぎて食べる気力すら起きなかったことを除いて、あまりなかった。それでも時間がなかったり、なにかをしながら食事をしたりと、いま振り返れば食事という行為自体に真摯に向き合っていなかった気がする。
それが、この世界に来て、食事を分けてもらえて、初めてきちんと味わって、大事に食べているような気がする。大事に食べたいとも思えるようになるだなんて、初めてのことだったのだ。
「――とびっきりの、作るよ」
「っ!」
ネロの低い声が、熱さをまとっているような気がした。名前は弾かれるように顔を上げる。パチリと視線が絡み合う。とても短くて、けれど長い間、ネロと視線が重なっていた気がした。
ネロはその一言を最後に、踵を返した。名前がネロの背中が去っていくのを眺めていると、足音が近づいてくる。
「やあ、おはよう。賢者様、名前」
ネロと入れ替わりでやって来たのは、フィガロだった。少し眠そうな顔をするフィガロに、名前と晶は挨拶を返す。
フィガロは南の国の先生役の魔法使いで、医者だった。名前の体調回復をスノウとホワイトから頼まれ、名前の主治医になったのだった。
「フィガロがこの時間に起きてくるの、珍しいですね」
「うん、ちょっといろいろ用事があってね。久々に早起きしてみたんだ」
フィガロは欠伸を噛み殺した。晶は「忙しいんですね」と言葉を返している。名前はずっとその様子を眺めていたが、ふいにフィガロの視線が向いた。
「……?」
名前はフィガロの意図がわからず首を傾げる。フィガロは笑みを深くすると、晶に向き合った。
「賢者様、ちょっとおつかいを頼まれてくれない?」
「おつかい、ですか?」
「そう。と言っても、買い物じゃない。言づてを頼みたいんだ。各国の先生たちに」
「先生たち……わかりました。何を伝えたらいいですか?」
「話が早くて助かるよ」
フィガロはにこりと笑うと話を続けた。
「先生たちを談話室に集めてくれない? 『朝食後に談話室へ』って。俺はちょっとやることがあってね」
「わかりました」
「あ、賢者様も一緒ね」
「え?」
「賢者様にも話しておくことがあるんだ。だから一緒に」
「……わかりました。伝えてきます」
晶は「名前さん、またあとで」と伝えると、フィガロの言づてを伝えに席を立った。
食堂から出て行くのを見送ると、フィガロが名前の隣の席に腰を下ろす。
「調子はどう?」
「調子、は……昨日と特に変わらないです」
「食事は完食した?」
「はい。量は少なめですけど」
「そう。夜は眠れた?」
「入眠困難と、早期覚醒です」
「そっか」
フィガロは短く返事をすると、一瞬周囲に視線を行き渡らせた。食堂は今、名前とフィガロしかいなかった。元々名前と晶しかいない上に、食事中に他の魔法使いがやってくることもなかった。
「さて、君にも話しておくことがある」
「はい」
フィガロは身体を少し捻って顔を向けてくる。なにか大事な話なのかもしれないと、名前は姿勢を正した。
「聞いていたと思うけど、これから談話室に先生役の魔法使いたちと、賢者様を集合させる。議題は、君についてだ」
「私……?」
先生役と晶に話す、自分のこと。名前は少しの間考えを巡らせ、すぐに正解を導き出した。
「私の体調のこと、ですか」
「正解。それと、結界との関係についてもね」
フィガロは足をテーブルの下で組む。フィガロの足が、名前の足の近くまで伸ばされる。
「結界の強化が上手くいっていないのは、君の生命エネルギーが弱っているから……君が元々体調を崩していることと、体調が改善されれば結界の強化につながること。それらを話すよ。一応了承を得ておこうと思ってね」
「……了承と言わずとも、フィガロさんは私の主治医の立場になるので、情報の開示は行ってもいいのでは?」
フィガロがこれからやろうとしていることは、いわば多職種連携に近いものだろう。それならば、情報共有の権利はフィガロに委ねられていてもおかしくはない。
「うん。まあ、そうなんだけど、一応プライバシーの問題や守秘義務もあるだろうから。特に、賢者様にはあまり知られたくないんじゃない?」
「…………」
――そういうことか。
名前は納得がいった。
先生役の魔法使いで、名前の体調について知っている者は、スノウとホワイト、そしてフィガロである。他の先生役の魔法使いとはまだ話していないにしても、賢者である晶とは、似たような境遇というのもあって何かと縁がある。もしかしたら、フィガロは朝食の光景なども、どこかで見ていたのかもしれない。
友達に大事なことを自分からではなく、他人から伝えてもいいのか。フィガロの言葉は、そういった意味を持っているような気がした。
「晶さんは、賢者という役目がありますから。知っていた方がいいと思います」
「へえ。じゃあ、賢者様の役目がなければ、伝えたくないってことになるね」
フィガロは頬杖をつく。
確かに、知られることに不安が残るのは事実だった。名前の体調の様子を伝えられたら、もしかしたら晶は病名を知っているかもしれないし、症状も耳にしたことがあるかもしれない。
名前が一番起きてほしくないのは、闘病中だからといって、晶がよそよそしくなったり距離を置いてきたりすることである。しかし、その心配はほとんどなかった。
「……聞いていて、あまり楽しくない話ですから。賢者の役目があろうとなかろうと、正直話すことに気は引けます。でも、晶さんは、偏見などで他者との関わりを変えるような人ではないから」
「…………」
フィガロは何も言わず、一瞬ぽかんとした後、口角を上げた。
フィガロに伝えたことが、名前の考えているすべてであった。ネロにも晶にも、スノウやホワイトですら言いにくいことが、フィガロになら伝えられている気がする。きっとフィガロが主治医ということもあるのだろう。包み隠さず話すことができるのは、少しだけほっと肩の荷を下ろすような感覚を覚えた。
「まあ、名前がいいって言うのなら、このあと話すよ。君のことを包み隠さずね」
「よろしくお願いします」
「あと、これ」
「え?」
フィガロが手のひらの上にパッと出現させたのは、瓶に入った金平糖だった。
「薬ができるまで、これを食べるといいよ。シュガーといって、魔法使いしか作れないものだ。疲労回復の効果がある。そうだな……目安は昼と夕方に一粒ずつかな」
フィガロに手渡され、名前は両手で瓶を受け取った。中にぎっしりと詰まっているシュガーは、一粒に何色もグラデーションのような色で染まっていて、ずっと見ていても飽きないくらい綺麗だった。
「きれい……ステンドグラスみたいです」
「え」
「え?」
フィガロはなぜだか気まずそうに声を漏らす。名前が瓶からフィガロに顔を向けると、やはり眉をひそめていた。
「ごめんなさい、気に障ることを言いました……?」
「いや、そんなことはないよ。あまり聞き慣れないことだから驚いただけ」
――本当に?
なんだか別の意味で驚いているような様子だった。しかし、フィガロが話したくないのならば追求する必要もないだろう。
「ありがとうございます。大事に食べます」
「なくなったら言って。また作るから。まあ、薬が完成するまでの間の保険みたいなものさ」
フィガロは器用にウインクをしてみせた。顔がいいと何をしても似合うんだなと納得してしまうような、綺麗なウインクだった。
「俺はこのあと、賢者様と先生役に話をしたら、南の国に行くから」
「南の国……ですか?」
「君の薬を作るために、材料を揃えにね」
「あっ……」
そうだ。この世界は文化も科学技術も違う。それなら薬の原料なども違う可能性がある。名前は失念していた。一過性のものではなく、長い期間飲み続ける薬である。材料も多いに決まっている。
「お忙しいのに、お手数おかけしてすみません」
「いや、特に問題はないよ。ただ、数日は帰って来れなくなる。フィガロ先生がいない間に、もし体調が悪化したときは、ファウストを頼るといい」
「ファウスト、さん?」
「東の国の魔法使いの先生役さ。まあ、名前の体調についてはこのあと話すから、そのときにファウストにも、君を頼むよって伝えておくよ」
「え、でも、いいんですか……? ファウストさんにご迷惑じゃ……」
名前はファウストと言葉を交わしたことがなかった。確か昨日、談話室でこの世界についてや結界について話を聞いたときも、いなかった人だ。ファウストがどのような人なのか、名前は全く想像がつかない上、ファウストも突然現れた人間を気にかけるなど、面倒に違いない。
「まあファウストはそういうの嫌がるんだけど」
「ですよね……?」
「でも、情には厚い子だし、人の面倒を見たりするのは上手だし好きな方なんだ。じゃなきゃ、東の国の先生役なんてやっていないしね」
フィガロはファウストを信頼しているのだろうか。まるで信じてもいいと言ったような口ぶりに、名前はフィガロがそう言うのならと考え始めていた。
「わかりました……お願いします」
「うん、人見知りで人間嫌いだけど、悪い子じゃないから」
「えっ」
まるで生徒を自慢するように、フィガロはにこにこしていた。もしかしたら二人は仲良しなのかもしれない。
その憶測は、近からず遠からずといった真相だが、名前はまだファウストがどのような人なのか想像すらついていなかった。