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 食堂を後にした名前は、自室で薬を飲んだ後、行き場をなくしてしまった。
 結界の強化をするための役割を担ってはいるが、今の自分がそのためにできることと言えば、体調回復に努めること。つまり、休息をしなければならない。
 しかし、この世界での休息の取り方がわからない。前にいた場所と同じように、ごろごろしたり、ゆっくり眠ったり、好きなことをするのが一番なのだろうが、生憎環境が変わってしまった今それをするのは難しかった。ごろごろすることはできるけれど、同じ建物の中にたくさんの人がいて、それぞれ忙しくしている中、一人だけぼうっとしていたりゴロゴロいていたりすることは忍びなかった。
 ゆっくり眠ることは体調次第だが、眠るまでに時間を要するだろうし、ぐっすり眠れる保証もない。好きなことをするといっても、ここは電波が存在しないからスマホを使うことは難しいし、本を読もうとしても字が違うため読書はできない。
 つまり、部屋に引きこもっていても、何もやることがない。何もやることがないと、思考はどんどんマイナスの方向に向かってしまうような気がした。
「……散策でもしようかな」
 悩んだ末、意を決して名前は再び扉を開けた。行き先は考えていなかったが、せめてこの魔法舎の敷地内を探検することは許されるだろう。というか、そう信じたかった。もしかしたら、カナリアやネロに会えるかもしれない。昨日話していない魔法使いたちにも出会ってしまうかもしれないが、そのときはそのときだった。
 名前は自分に今後起こりうることをあまり細かく想像することをしなかった。できなかったというのが正しいのかもしれない。他の魔法使いたちがどのような人々なのか知らないまま、出会った時のことを想像することは難しかった。
「お庭出られるのかな……」
 廊下の窓から見下ろすと、中庭のような場所が広がっている。大きな噴水がキラキラと水を噴射していた。名前は誘われるように、足を進めた。

 中庭は広い造りになっており、開放的な空間だった。中央には大きな噴水が設置されており、キラキラと水しぶきが光っている。木々や花々は絵画のように美しい色で風に揺れており、木漏れ日が眩しくて目を細めた。
 名前はゆったりと噴水を目指す。大きな公園でしか見ないような噴水に、名前は目を奪われる。昨日は外に出ることはなかったため、陽の光の暖かさが懐かしく感じた。
「季節とかあったりする……?」
 この世界には春夏秋冬があるのだろうか。北が寒くて南が暖かい摂理がこの世界でも通用するのならば、もしかしたら北の国は寒くて、南の国は暖かいのかもしれない。そうなると、この中央の国は過ごしやすい平均的な気温なのだろうか。
 陽射しは春のように穏やかで、吹き込む穏やかな風は五月のようだった。深く息を吸い込んでみると、草花の匂いが肺の中を彩っていく。まるで森林浴に来た気分だ。
 名前は噴水の縁に腰を下ろした。時折飛んでくる水しぶきが冷たく感じる。噴水に溢れる水を触りたくなったが、触ってはいけないものだった場合のことを考えて手を引っ込めた。
――今頃、先生たちと晶さんは会議中か。
 朝食後、談話室に集合している各国の先生役の魔法使いたちと晶は、フィガロから名前の体調についての話を受けている。彼らにどう思われるのだろうか。不安はあったものの、名前の体調が悪いという現状は変わらないため、受け入れてもらうしかなかった。名前がこの世界についてを受け入れたように。
――晶さんは、何を思うのだろう。
 偏見を持たない人だということは、話していたらすぐに伝わってきた。優しくて思いやりもあって、いつも誰かのことを考えている。そんな彼女が否定的なことを考えるとは思いたくないし、想像もつかないけれど、もしも万が一そうだったらと考えると、名前の身体はぶるりと震えてしまう。仲良くなれるかもと思った矢先に、距離を置かれてしまったらどうしよう。そんな憶測が頭の中を駆け巡る。
――かかわりをつなぎ止めておく方法ってあるのかな。
 相手がそれを望んでいるのなら、無理にかかわりを繋いでおくことはできない。コミュニケーションや関係性というものは、相互の理解があって初めて成り立つものだから。もしも晶や、他の魔法使いたちが、今回の件が原因で名前と距離を取るようになるのならば、名前はそれを黙って受け入れるしかないだろう。
――なんか、悲しいな。
 憶測の段階でしかないのに、急に気分は落ち込み始めた。もしものことだなんて、現実に起きない可能性もある。しかし、起きたときのことを考えておかないと、心はきっと耐えきれない。そうやって名前はずっと、起こすかもしれない最悪の『もしも』を考えては、一人気分を落としていた。しかしその方が、現実で起きたときのダメージは幾分か少ないはずなのだ。
「――メェ」
「え……?」
 名前は突然飛び込んできた鳴き声に首を傾げる。鳴き声は羊のようだった。周囲を見渡してみるが、羊らしきものはいない。
「メェ、メェ」
「羊……? でも、小さい……」
 足下に触れるふわふわとした感触に気づき視線を下ろす。そこにはぬいぐるみサイズの小さな羊が立っていた。犬のように前足を名前の足に掛けて、まるで話しかけているようだった。
「どこから来たの?」
 名前は羊に声を掛ける。すり寄ってくる羊に、名前は手を伸ばして頭を撫でた。嫌がったときはすぐに手を引っ込めようと思っていたが、羊は頭をすり寄せるように身体を動かす。
「ふふっ、可愛い。お名前はなんていうの?」
 まるで子犬のようだ。羊と触れ合ったことはないが、これほど人に友好的なのだろうか。それとも、人慣れしている羊なのだろうか。ここにいるということは、魔法舎に住んでいる誰かが飼っているのかもしれない。まさか、食用ということはないはずだ。
「どうしたの? お散歩かな。いま一人なの?」
 名前はゆっくりと羊の頭を撫でながら話しかける。返事は返ってこないとわかっていたものの、話しかけずにはいられなかった。この羊と仲良くなれたら、いま自分の抱えている落ち込みが拭い去れたら。そんな願いも込めてしまった。
――やっぱり、ネロさんのところにいないと、寂しいのかも。
 胸にぽっかりと穴が空いているような感覚。その穴から、落ち込みや悲観的な気持ちが溢れてくる。ネロと話しているときは穴が塞がれたように、そんなことなかったのに。
――だめだな。こんなの、依存的になっちゃう。
 人に依存してはいけない。ましてや、相互的な理解が成り立っていない者同士の依存は、どちらも破滅して悲しい末路を辿るだけである。
「だめだな……」
 また気分が落ち込みそうになる。このまま落ち込んでいけば自己嫌悪も混ざってきて、最終的には部屋から出られなくなってしまいそうだ。
 名前は羊の頭を撫でることに集中して、なんとか気分が落ちないよう踏ん張ろうとしていた。
 風が大きく吹き抜けていく。乱れる髪を片手で押さえつけながら、もう片手は羊が飛ばされないよう自分の身体に押さえつけるように抱き込んだ。ガサガサッと草を掻き分ける音が風の隙間から聞こえてきて、名前は辺りに視線を向けた。
「あ……すまない」
「えっと……」
 木々の間から出てきたのは、背の高い男性だった。黒髪で眼鏡を掛けていて、赤いショルダーバッグを持っていた。低い声はゆったりと風がそよぐようで、名前は一瞬高まった緊張が和らいでいく。
「その羊を探していたんだ。いなくなってしまって」
「あ、そうだったんですか。すみません、私と話してたから……」
「いいや、引き止めておいてくれて助かった」
 名前は羊を両手で抱きかかえると、男性に向けて渡そうと立ち上がった。長い脚でゆったりと近づいてくる男性は、目の前までやってくるととても大きく見えた。名前の目の前は顔や首ではなく、胸板である。
「メェ」
「お迎えが来たよ」
 羊を男性に渡すと、慣れた手つきで大きな手の平が羊を抱えていった。
「自己紹介もなしに、失礼した。レノックスだ。こいつを捕まえておいてくれて、ありがとう」
「あ、えっと、苗字名前といいます。名前が、名前です」
 確かスノウとホワイトが『苗字と名前どちらが名前か?』と話していたことを思い出して、名前は付け加えた。
 レノックスはゆったりと吹きつける風に揺れる草原のような人だった。ここにいるということは、彼も魔法使いといいことだろう。
「メェメェ」
「ん? 撫でてほしいのか?」
 羊はレノックスの腕から抜け出そうと身体を動かしていた。レノックスが羊を撫でてもそれは変わらず、むしろ嫌そうに身体をよじっている。
「撫でてやってくれないか?」
「え、いいんですか?」
「俺ではだめらしい」
 名前がゆっくりと手を伸ばして羊の頭を撫でると、急に羊はおとなしくなる。目を細めて気持ちよさそうにしていた。
「かわいい……」
「あなたに撫でられたかったんだろう」
「っ、そう、ですかね……」
 レノックスの言葉に、名前は肩を跳ね上がらせた。取り繕ったつもりだが、果たして効果はあるだろうか。
 目を細める羊に、名前の気分は次第に落ち着いてくる。たった撫でるという行動だけなのに、羊に求められていることが嬉しくて、名前は少しだけ強く羊の頭を撫でた。
「その……この羊は、赤ちゃんなんですか?」
「ん? いや、魔法で小さくしている。南の国から連れてくるためには、こうした方が何かと都合が良くてな」
「魔法で……!? すごい……!」
 レノックスの回答に、名前は胸を躍らせた。魔法によって、ティーカップに紅茶を注ぐことも、部屋の模様替えをすることも、羊を小さくすることもできる。
――そうしたら、魔法で空も飛べることができるのかな。
 魔法と聞いて一番の憧れである、空を飛ぶこと。様々なことに魔法を使えるのならば、アニメや映画のように、きっと空も飛べるはずだ。
「あ、ごめんなさい。私、この子が寄ってきたときに、勝手に触っちゃいました」
 名前は手を引っ込めた。名前が詫びたのは、噴水に腰掛けているときの話である。レノックスの飼っている羊ならば、レノックス本人の了承がない限り、触れることは失礼にあたるはずだ。
「いや、こいつも撫でられて嬉しそうだったから」
「そう、ですか……?」
「メェ」
「そうじゃないなら、こんなに懐きはしないよ」
 レノックスが羊の顔を覗き込むと、羊は応えるように鳴いた。名前が手を引っ込めた後も、撫でられたいのか、羊はレノックスの腕を抜け出そうとしている。
「メェメェ」 
「ふふっ……嬉しい。優しいね、きみは」
 名前の頬は緩んでいた。自然と気持ちがほころんでいった瞬間だった。羊の頭を撫でながら、名前は落ち込みが少しだけ回復していることに気づく。
「……ありがとうね」
 名前は小さな声で羊にお礼を伝える。言葉を理解できているかはわからないが、羊はにこにこ笑うように、上機嫌に身体を揺らしていた。もしかしたら言っていることが伝わったかもしれない。名前はつられて、赤ん坊を抱っこしているように少しだけ身体を揺らした。
「レノさーん!」
「ルチル」
 ルチルの名前を聞きハッとする。今朝、晶が話していた名前である。名前は顔を上げて、声が聞こえる方に視線を向けた。ルチルと呼ばれた青年は、駆け足でこちらに向かってくる。
「こんなところにいたんですね。探しました!」
「すまない、羊を散歩させていて」
「なるほど……あら?」
「っ」
 ルチルの目が自分に向けられる。名前はドキリと心臓が跳ねた。若草色の瞳がキラキラと輝いて見えた。
「あなた……もしかして、媒介様ですか?」
「あ、えっと、はい……」
 名前は少し肩身が狭くなる。『媒介様』だなんて呼ばれるほど、自分は何も役目を果たしていない。
「はじめまして! 南の国の魔法使いのルチルと申します!」
「はじめまして、名前です。苗字、名前」
「名前さんというのですね、よろしくお願いします!」
 握手を求められ、名前は恐る恐る手を伸ばす。触れたルチルの手のひらは見た目の印象よりもがっしりとしていて、男の人といった印象だった。優しく握られ、少しだけ上下に手を動かされる。名前はされるがままに揺られていた。
「私、ずっと名前さんとお話ししてみたかったんです!」
「え……」
 ルチルは繋いだ手にもう片方の手を重ね、名前を包み込んだ。名前が驚いて声を漏らすと、ルチルはにっこりと微笑む。
「賢者様と同じ世界からやって来たんですよね? 私、いろいろお話を伺いたいなあって思っていたんです」
「そ、うなんですね」
 先ほどのレノックスとの会話とは比べものにならないほどのスピードで、言葉が行き交っていく。名前は目まぐるしいほどのルチルの勢いと明るさに、呆気にとられてしまった。
――なにか、話さないと。そうだ……!
 せっかく興味を持ってもらえたのだ。言葉を繋がないと、会話を続けないと。名前は悩んだ末に、晶との会話を思い出し、口を開いた。
「私も、ルチルさんのお話を伺っていました」
「え! 本当ですか!」
「晶さんと話していて、ルチルさんの話がでて……」
「嬉しい!」
 ルチルは手を離し、自分の胸の前で手を組んだ。音符が飛び出してきそうなほど上機嫌で、名前は少しだけ口角を上げる。ルチルが触れてくれた手は、あたたかかった。
「レノさんと名前さんはお話ししていたんですか?」
「ああ。羊が一匹、名前に懐いてな」
「まあ、かわいいですね!」
「……はい、とっても可愛いです」
 羊は自分が話題に上がっているのを知っているのか、名前の方へ身体を伸ばすように動かす。名前は応えるように羊を撫でながら返事をした。
 ルチルの朗らかさと明るさは、髪色に似た、木漏れ日のようで目がチカチカとした。あたたかな陽射しのような、水面の輝きのような青年だと感じた。
「そういえば、ルチルはどうして俺を探していたんだ?」
「あ、そうでした! フィガロ先生から、授業はしばらくお休みするって伝えてと、言づてされました」
「そうか……珍しいな」
「なんでも、南の国に行く急用ができたみたいです」
「……!」
――それは私の用事だ……。
 名前は羊を撫でる手をピタリと止める。話を隣で聞いてしまっていて申し訳なかったが、フィガロの急用は、今朝彼から話を受けていた。
 フィガロだけでなく、南の国の魔法使いにまで迷惑をかけてしまっている。名前は申し訳なさで身体を縮ませる。羊がすりすりと身体を寄せてくる。名前はざわざわした心を落ち着かせるように、羊を撫でた。
「そうか。では、しばらくは自習だな」
「そうですね。ミチルが少しだけ落ち込んじゃうかも」
 ミチルというのは誰だろうか。まだ会ったことのない人の名前だが、話の流れから察するに、きっと南の国の魔法使いなのだろう。
「名前さん、今日のご予定はもう決まってらっしゃいますか?」
「え? ……私、ですか?」
――レノックスさんではなく、私?
 名前はぽかんとしてルチルを見上げてしまう。レノックスに訊くならともかく、なぜ自分に訊くのだろうか。今の話の流れで、自分に話が振られるとは思ってもみなかった。疑問は絶えなかったが、ルチルを待たせてもいけないと口を開いた。
「いえ、特には……なにも」
「本当ですか! それなら、お時間を頂いてもよろしいですか?」
「え?」
「名前さんがよければ、名前さんの世界のお話を聞かせて頂きたいです!」
「え……」
――私の世界の、話?
「え、あ……別に、構いません、けど……?」
「やったあ! 決まりですね!」
 予定は何もなかったため、この瞬間このあとの予定が決まったことに喜ぶべきなのかもしれない。元いた世界の話を聞きたいという可愛らしい提案に、名前は緊張しながら了承をした。
 ルチルの嬉しそうな笑みに、名前は戸惑ってしまう。自分のせいで授業の予定がなくなってしまったのに、迷惑を掛けてしまっているはずなのに。それでもルチルは楽しそうで、名前は気持ちの整理が追いつかないでいた。
 
   *

 朝食後、各国の先生役の魔法使いたちと晶は、談話室に集合していた。早起きをあまりしない魔法使いもいるため、全員揃うまでには時間がかかった。しかし、そこは魔法使いである。談話室にて各々時間を過ごし、全員が揃うのを待ち構えていた。
「やあ、集まってくれて感謝するよ」
 この集いはフィガロが始めたものである。そのため、司会進行もフィガロが行う。晶は、他ならぬフィガロからの集合のお願いに少し緊張していた。なにか大切なことが話される。それは空気でなんとなく察していた。そういうとき、フィガロの笑みは濃くなるのだ。
「まあ、薄々気づいてるだろうけど、一応今後の方針が決まったから話をしておくよ」
「あなたが集合をかけるだなんて珍しいこともありますね」
「まあ、俺が主治医でもあるからね」
「……主治医?」
 晶は首を傾げる。フィガロが医者と言うことは知っているが、主治医という言葉は初めて聞いた気がする。
 晶は周囲を見渡した。オズやファウストはフィガロの言葉の続きを脚を組んで待っている。スノウとホワイト、シャイロックはにこりと微笑みながら待ち構えている。
――もしかして、何を言われるのか見当がついていないのは私だけ?
 晶は膝の上でぎゅっと手を握る。緊張が増したようだった。
「今から話すのは、結界の媒介のことだ」 
「媒介……名前さんのこと、ですか?」
「そう」
 媒介とわざわざ名前を出さなかったのは、どうしてなのだろう。名前には立派な綺麗な名前があるというのに。
 フィガロの美しい瞳がじっと見つめてくる。ぞくりと背中に何かが走ったようだった。フィガロはそれすらもお見通しなのか、安心させるように笑みを浮かべる。
「さっきも言ったとおり、気づいているだろうけど。念のため話しておくよ。ちなみに、本人からは包み隠さず話してくれて構わないと言われている。だから、もし生徒たちに聞かれたときは、話してもいいし、話さなくてもいい。君たちに判断は任せるよ」
 晶は肩に力が入る。今からフィガロが話すことは、とても大事な話なんだということが理解出来た。
「うむ、頼むぞ、フィガロよ」
「頼むぞ、フィガロや」
 スノウとホワイトが話を後押しする。普段の楽しげな様子とは打って変わり、静かな海のように穏やかな声音だった。
「媒介が召喚されたけど、結界が強化されてない。綻びはなくなったけど、その程度。それはここにいる皆が気づいていることだ。賢者様も、ミスラから聞いたよね」
「はい……」
「ミスラが話していたのか」
「はい。ちょうど、名前さんといる時に……」
 驚くファウストに、晶がミスラから聞いた時の状況を説明する。
「……ミスラが」
「そ。それを聞いた名前が、その後スノウ様とホワイト様に訊いて、俺のところにやってきたってわけ」
 スノウやホワイトのところに訊きに行くのは、なんとなく予想しやすかった。しかし、その後フィガロのところに行くのはどうしてなのだろう。先ほどフィガロが話していた『主治医』というのが関係しているのだろうか。
「勿体ぶってないで話せ」
「まあまあ、ファウスト。ここには賢者様もいるんだから、丁寧に説明した方がいいだろう? ね、賢者様」
「えっ、あ、ありがとうございます……?」
 少し剣幕な表情を浮かべるファウストとは正反対の表情をするフィガロが、晶に振り返る。晶はなんと言っていいかわからず戸惑ってしまった。
「そういうわけで、話を戻すけど。結界が強化されないのは、媒介の生命エネルギーが弱っているためと、お二人が導き出したんだ」
「生命エネルギー?」
 聞いた事のない響きの言葉に、晶は首を傾げた。他の魔法使いに目を向けると、なんだか納得したような表情をしている。彼らはこの一言ですべてを理解したようだった。
「なるほど……説明がつくな」
「だからあなたが『主治医』なのですね」
「そうじゃ、我らからフィガロちゃんに『お願い』したのじゃ」
「可愛く『お願い』したのじゃ」
 キャッキャッとスノウとホワイトは声を揃えた。フィガロはため息をつくと、二人には返事をせずに話を続ける。
「賢者様、生命エネルギーって何のことかわかる?」
「いえ……命にかかわるもの、というイメージしか……」
「生命エネルギーっていうのは、つまり、身体と精神のバランスが取られて生まれるエネルギーってこと。媒介の生命エネルギーによって結界は強化される。つまり――」
「……身体と心が弱っていると、結界が強化されない、ってことですか?」
「その通り。百点満点だよ、賢者様」
 フィガロは綺麗にウインクをした。スノウとホワイトが拍手をしてくれている。
「つまり……名前さんは……」
「賢者様が考えている通りだよ。彼女は今、身体と心が弱っている。言い換えれば、体調不良、闘病中だ」
「闘病、中……?」
 晶はズドンと心に隕石が落ちたような気分になった。同時に脳裏には、ささやかに微笑む名前の姿が思い浮かぶ。一緒に会話を楽しんだ食事時、入浴の時が走馬燈のように思い起こされる。
「名前さんは……病気と、闘っているんですか……?」
 具合が悪い様子なんて、一切わからなかった。見せていなかったのかもしれない。名前は他者に気を遣うのが上手な印象がある。もしかしたら、具合が悪いことが伝わらないようにしていたのかもしれない。
「そう。彼女が言うには、ここに来る前から。不定期で再発するらしい」
「そんな……」
 晶は言葉を失ってしまった。自分がなぜこんなにも衝撃を受けているのかわからなかった。本人の口から伝えてもらえなかったショックからなのか、自分が気づけなかった落ち度からなのか、それとも。
「それで、彼女を治療するために、フィガロ先生が主治医になったってわけ」
「……もう話は済んだか」
「待て、オズ。話はこれからだよ」
 立ち上がりかけたオズを、フィガロが制す。オズは渋々ソファに座り直した。
「名前の症状だけど、これが多岐に渡るんだ。一応、気をつけてほしくてね」
「具体的にはどのような?」
「まず、不眠、疲れの取れなさ、身体が鉛のように重たいといった身体症状。精神症状は、気分の落ち込み、不安、悲観的、自己否定、自責……とまあ上げれば色々なんだけどね。ファウストは昔、こういう症状の人間を見たことあるんじゃない?」
「……わかって言っているだろう」
「まあ、そうなんだけど。体調が酷くなると、起き上がれなくなると名前は言っていたね。あとは、希死念慮がでてくる」
「……きし、ねんりょ?」
 晶は声を漏らした。聞いたことの無い言葉だった。他の魔法使いは疑問に持つ様子はなかったから、きっと知っているのだろう。
「つまり、死にたいって思うことだよ」
「え……」
「希死念慮が強くなると、自殺企図も生まれてくる危険性がある。幸い、彼女はこれまで生きてきて自殺を企てることはなかったと話していたけれど、今後はどうなるかわからない」
「……そんな」
 晶は両手で口元を押さえた。フィガロの話を受け止めるには、時間が必要だった。名前が、あのあたたかくて優しくて、応援したくなるような彼女が、そんな病に侵されていただなんて。
「彼女に死なれたら困る。結界が強化されないからね。だからこうして今、話を聞いてもらってるんだよ」
「っ……」
 フィガロの言葉に晶は眉間に皺を寄せた。こんなにも彼の発言が引っかかるのは、初めてかもしれない。
――結界が強化されないから、名前さんが死んだら困る?
 腹の底からムカムカとしたものが湧き上がってくる。そんなの、あまりにも酷すぎる。名前個人をまるで無視したかのような発言じゃないか。
「フィガロ、撤回してください」
 晶は強い意志を持って声を上げていた。
「ん?」
「名前さんがもし亡くなって困るのは、結界のためだからだなんて、そんな、名前さん自身を軽視するような発言、不謹慎です。撤回してください……!」
 晶は腹の底から声を出した。冷静を取り繕うのは勇気がいることだった。
 フィガロは晶の言葉を受け止めると、目を細めて静かに微笑んだ。それはなんだか弄ばれているような気がして、晶は両手を強く握る。
「うん。やっぱり、名前の言う通りだったね」
「……え?」
「落ち着いて、賢者様。まずは深呼吸」
 フィガロに目線でも促され、晶はその場で深呼吸を繰り返した。繰り返していくうちに、腹の底で沸き立っていたムカムカは静かに萎んでいく。
「名前に聞いたんだ。賢者様に体調のこと話しちゃってもいいのって」
「名前さんに?」
「賢者という役目柄、知っていた方がいいからって言っていたよ。それに、賢者様は偏見を持って人と接する人じゃないからって」
「っ!」
「名前がそう言ったから、君にこの話を聞かせたんだよ、賢者様。まだ一日しか経っていないけど、名前はよく君のことを見ているね」
「名前さん……」
 名前の言葉が純粋に嬉しかった。
 晶はこの世界に来てから、魔法使いと人間の対立を間近で見て、感じ、経験してきた。魔法使いと友人になりたいと心から思ったし、両者の架け橋に自分がなれたらと考えたこともある。
 名前が闘病中という話は、晶にとって衝撃的だった。身体症状だけでなく精神症状がある病気という話にも、言葉が出なかった。病名はわからないが、想像のみでしかないけれど、深刻な病であることがわかる。
 衝撃を受けたとしても、名前と距離を取ることは考えられなかった。せっかく仲良くなれそうなのに、これからもっと仲良くしていきたいのに、病気が原因でそれを無しにするだなんてことは、晶からすればありえない話だった。
「……私に、何ができますか」
「ん?」
「名前さんのために、私ができることは、何かないですか?」
 晶はフィガロを真っ直ぐに見つめた。晶の気持ちは、もう揺るがなかった。友人のためにできることをしたい。魔法使いたちへの気持ちと同じものを、名前にも抱き始めていた。いや、抱いていた気持ちが、さらに強くなっていった。
「一緒に過ごしてあげて」
「え?」
「あ、今、それだけって思ったでしょ?」
「はい……」
「突然異世界に連れてこられて、環境も様変わりした。振る舞いには出していないけど、名前が抱えてる精神的なストレスは今、相当なものだ。今は元の世界から持ってきた薬を飲んでいるけど、それも数日で底を尽きる。つまり、病状が悪化する可能性が出てくる」
「…………」
「そういう時に、一緒に過ごしてくれる相手というのは、大事だよ」
 本当に、そうなのだろうか。病気についてどうしたらいいかほとんど知らないのに、一緒にいるだけでいいだなんて、そんな都合のいいことあるのだろうか。
「賢者様」
「はい……」
「賢者様の言葉が、振る舞いが、彼女をひとりにさせないんだよ」
「ッ!」
――ひとり。
 そうだ。異世界にやってきた時の孤独感を、自分は実感している。今、名前はきっと、その孤独感を抱えている。
 似た境遇だからできることが、きっとあるはずだ。彼女には同じ苦労をしてほしくないと思っていたじゃないか。そうやって、彼女を思いやっていけばいいのかもしれない。
「ありがとうございます、フィガロ」
「いいえ。あっ、言い忘れてたけど、今の名前は胃腸も弱ってたり、味覚を感じられなくなってるから。配慮してあげてね」
「……え?」
 フィガロの言葉に、晶は何も言えなくなってしまった。
――味覚が感じられない……?
 初めて一緒に食事をした時のことが思い出される。ネロのご飯を食べているのに、『美味しい』と一言も言わない名前のことが気になって声を掛けた時のことだ。
『……っ、すみません。……お腹、いっぱいで』
 名前は言いづらそうに、言葉を詰まらせながら、必死に返答していた。
――じゃあ、オムライスを一緒に食べた時……。
 味覚を感じられなくなっているのなら、あの時すでに彼女は、味がわからなかったということ。それを知らず、自分は彼女を急かすように声をかけてしまった。
「っ……そんな……」
――私は、なんてことを話してしまったんだ。
 晶は自分のやってしまったことの重大さを痛感し、目の前が真っ暗になった。