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 名前はルチルと中庭で過ごすことになった。噴水の縁に腰掛けても良かったが、せっかくだからとルチルは魔法でレジャーシートのような大きな布を出して、木陰の下に敷いた。そして少し待っていてと言われ、名前が一人になって少しすると、ティーセットとお菓子を持ってルチルは帰ってきた。
 レノックスと羊は部屋に戻ってしまったため緊張していたが、ルチルの気遣いに、名前はいつの間にか緊張を解していた。
 ルチルが魔法で容れてくれた紅茶は、カモミールの良い香りがした。容れたてを振る舞われたので、名前は少し冷ましてから口に運んだ。口いっぱいに感じる香りと、味のしない液体は複雑な気持ちにさせたが、ルチルが自分のために容れてくれたのだと思うと、ちぐはぐな口の中でも自然と美味しく感じた。
「名前さんと賢者様の世界には、魔法科学のような、魔法じゃない技術がたくさんあるって聞きました」
「……えっと、そうですね。この世界の魔法……が、どのような位置にあるかわからないですが、魔法のような便利なもの、という括りにするのなら、魔法に代わる技術はたくさんあります」
「すごい……! 賢者様からは、この前『かめら』というものについて教えてもらいました。そのあと時間がなくて、名前だけしか聞いていないのですが……『かめら』とはどういったものなんですか? 賢者様は『ここに、かめらがあったらいいのに』って言っていました」
 ルチルの話を聞きながら、名前は晶の様子を想像した。電力がなさそうなこの世界では、充電できないためスマホは使えない。一人だけ使うこともどこか忍びなく、いつしか静かにバッテリーが切れてしまったのかもしれない。
 スマホの便利さをしみじみと感じてしまう。ネット回線がなくても、カメラ機能はそのままだから、普段使いできれば綺麗な風景や楽しげな魔法使いも撮れたのかもしれない。想像しただけで、それはとても楽しそうだった。
「そうだったんですね。……カメラは、見た風景や光景をそのまま画像にして、保存することができるんです」
 名前は両手を使ってフレームの形をつくる。親指と人差し指を伸ばして長方形の形にして、噴水に掲げた。
「こういう感じで……」
 伝わるかどうかわからないが、カメラと言えばこれだと、名前は手を構えて見せながら話を続ける。
「カメラにはレンズと呼ばれる、風景を映し出す機能があって、そのレンズで切り取りたい風景を、フレームと呼ばれるところに映し出すんです。これは、よくカメラを取ろうとする時にやる、フレームに見立てたポーズです。それで、シャッターと呼ばれるボタンを押すと、風景がその瞬間切り取られて、保存できるようになります」
「へえ……! すごいですね! 風景をそのまま切り取れるだなんて素敵! 絵とはまた違った楽しさがあるんですね」
「私の世界にも、絵を描く人はたくさんいます。賞をもらったり、個展を開いたり、自分の描いた絵を売ってお金にしている人も。それと同じように、カメラで撮ったもの……写真と呼んでいるんですけど、写真を撮って、同じように活躍したり、生計を立てたりしている人はたくさんいます」
「まあ、すごい! カメラの話を聞いたときに、私、少し思ったんです。絵描きの人たちは、どうしているんだろうって。カメラみたいに優れたものがあるのなら、絵描きや絵を描く文化は衰退しているんじゃないかって」
 ルチルの話していることは、名前にもよくわかる事だった。より優れたものが世の中に出回った時に、自分はもう用済みだと思われてしまうような感覚。古いものは新しいものに淘汰されてしまうかもという不安感。
「私はカメラが出始めた頃の時代をよく知らないので、詳細に伝えることは難しいですが、きっとカメラが出始めたときは、絵描きの人たちも同じようなことを考えたんだと思います。でも、お互いにできるところ、良いところを認め合って、共存してるみたいに過ごしてますよ」
「素晴らしいですね……」
 ルチルは感心したように呟いた。この世界にカメラがないのなら、便利な道具なのかもしれない。その瞬間を切り取ることができるだなんて、考えつかない代物だろう。
「似たような職についていても、お互いの良いところを認め合って、共存していく……まるで、南の国の魔法使いと人みたい」
「南の国の……?」
 名前は首を傾げる。この世界の、ではないのだろうか。南の国のみ限定された言い方に、名前は不思議に思った。
「はい。南の国は、自然の中を開拓された国で、まだ大自然が残っている場所も多いんです。不便なことは多いですが、魔法使いと人が手を取り合って生活しているんです」
「そうなんですか……素敵な場所ですね」
「はい、とっても! いつか名前さんにも来て頂きたいです」
 ルチルは嬉しそうに笑った。故郷がとても好きなのだろう。自分の国に誇りを持って愛せる感覚を、名前は持ち合わせていなかったため、とても新鮮な気持ちになった。
「この世界にある他の国も、南の国のようなところなんですか?」
 この世界について知っていきたい、知らなければいけない。名前は五つの国が隣合って存在していることについてずっと聞いてみたかった。日本は島国であるため、他国が地続きで存在している感覚をよく知らなかった。
「いいえ、その国々で土地柄や人柄も違います。魔法使いも、その土地の影響をよく受けているので、好みや性格がバラバラなんです」
「なるほど……」
「中央の国は、グランウェル城を中心に、公益がとても盛んで発展した国ですね。私も、賢者の魔法使いになって初めて中央の国に来たときは、都会に来たような気分になりました」
「都会なんですか?」
「とっても! 着ているものも売っているものも、建物や道の造りから何から何まで、南の国とは大違いです! 中央の国の端……他国と隣接している地区は、もっと他国寄りの土地柄だったりするんでしょうけど」
「土地柄の違い、面白いですね……」
 ルチルはその後も他の国について教えてくれた。
 西の国は欲望と愛が渦巻いているのが特徴だと。魔法科学は西の国で盛んに使われていると言うこと。また、西の国の魔法使いは悪戯好きだということ。
 北の国は一面を覆い尽くすような雪でまみれており、強い者だけが生き残るといった風潮があるということ。強さと己の矜持を大事にしているため、北の魔法使いは強い者が多く、かっこいいらしい。
 東の国は、法典が数多くあり、生活の仕方や人との関わりにまで細かにルールが決められている。国の特徴を東の魔法使いもよく捉えており、真面目だったり自他に厳しいこともあるが、その分他者を思いやる気持ちは強いという。
――ネロさんは確か……東の魔法使い。東の国で料理屋さんをしていたって言っていた。
 自己紹介してくれたときに、東の国と話していたから、たぶん、東の国の魔法使いなのだろう。真面目で自他に厳しい。確かに似たような空気感もある。けれど、それよりも他者を思いやる気持ちの強さの方が、ネロにはぴったりだと感じた。そうでなければ、名前を思って朝食のメニューをわざわざおじやにしてくれるはずがない。食事の適量の話や、食べられないものの話などを熱心に聞いてくれたのだ。
――ネロさんが優しいのは土地柄もあって……?
 東の国の話を聞いたときに、正反対のものがバランスを取って成り立っているような印象を受けた。実際に東の国に行ったことはまだないし、東の国の人はネロとしか話したことがなかったが、これまでの人生における様々なものを抱えた上で振る舞っているのかもしれない。
――だとしたら、ネロさんの優しさは、土地柄と関係ないのかも。
 誰しも人に言えない過去や事情を抱えている。土地柄、つまり環境に左右されることももちろんある。そして、元々の基質が影響することもだ。
 ルチルは国ごとに特徴があると話していたが、環境が違えば考え方に影響することはあるはずだ。しかし、名前はあまり出身地で人を見分けたくはなかった。それはあくまでカテゴライズするときに必要なものであり、ここではきっと人をカテゴライズすることは、しなくてもいいはずだ。
――偏見なく、一人ひとりと関わるって、きっと難しいんだろうな。
 人の優しさを見落とさないようにしたい。そのためには相手のことをよく知っていないといけない。けれど、あまり親しくない相手に対しては、『こうであろう』という予想と憶測がつきまとう。そうなると、相手の本当の気持ちを勘違いしたり、見過ごしてしまいがちになる。
――難しいな、人とかかわるのって。
 名前はルチルの容れてくれた紅茶を飲みながら考え耽る。正解はわかっていても、正解を導くための方法は無限大で、しかしそれは名前が一つずつ探していかなければならないものだった。
――はてしないな。
 途方に暮れてしまいそうだった。元いた場所では改まって気にしたことはなかったが、こうして考えてみると、人とのかかわりというのは難しく終わりがないように感じた。年齢差や男女差、生まれ育った地域差でも異なる考え方感じ方があり、苦労するというのに、この世界の人間と魔法使いの間には、どれほどの溝があるというのだろう。
「……名前さん?」
「あ、すみません。いろいろ考えてしまって……」
 名前がずっと無言でいたことに、ルチルは気に掛けてくれていた。こんなところにも、小さな優しさがある。名前は、見落とさずに拾い上げることができた。
「ありがとうございます。いろいろ教えてくださって。知りたかったことだったので、教えてもらって嬉しかったです」
「本当ですか? それはよかったです」
 ルチルはにこにこしながら持ってきたクッキーを頬張った。中央の市場で見つけたものらしい。名前も一つ頂くことにする。
 クッキーを半分ほど囓ると、サクリと香ばしい音と香りがした。味はわからないため『美味しい』とはいえなかったが、名前は言葉を探して感想を伝えることにする。
「サクサクですね」
「そうなんです! クッキーって、少し時間が経つとすぐにほろほろしちゃうじゃないですか。このクッキーは時間が経ってもサクサクなんです! ……どうしてなんだろう。ネロさんに聞けばわかるのかな?」
「っ……」
 突然出てきたネロの名前に、名前は驚いてしまった。一緒に生活をしているのだから、他者からネロの名前が出るのは当たり前のことなのに。
「あ、ネロさんのお菓子、とっても美味しいんですよ! よく若い魔法使いのために作ってくれるんです!」 
 ルチルは解説するように教えてくれる。ごはんもデザートも美味しそうなものを作れるのだ。お菓子作りもできるネロは、容易に想像できた。
「すごい、なんでも作れちゃうんですね」
「そうなんです! 南の郷土料理が食べたくなったときも、話の流れでネロさんにそれを話したら、次の食事にはその料理を出してくれたりして!」
「……優しいんですね、ネロさん」
「ええ、とっても! ネロさん、お料理には魔法を使わない主義らしくて、それもすごくネロさんらしくて素敵ですよね」
 ネロの優しさはこうやって他者に伝わっていくのだと、名前は改めて知った。
――やっぱり優しい人なんだな、ネロさん。
 ネロの優しさを、彼本人がいないところで思い知るというのは、少し恥ずかしくもあり、誇らしくもあった。
「ん……? 魔法は料理も作れてしまうんですか?」
 名前はふと疑問に思ったことをルチルに尋ねる。魔法はなんでもできてしまうイメージはあったが、詳細に何ができて何ができないかは知らなかった。
「はい。料理も魔法を使うと、パッと作れちゃいます。でも、心のこもったものが手作りというのは、とても嬉しいです」
「……確かに、そうですね」
 魔法を使うと、おそらく一瞬で料理が作れてしまう。けれどそれをしないで、時間と手間を掛けて作る。なんとなくだけれど、手間を掛けたくなる気持ちはわかるような気がした。
「魔法は心でつかうものですから、魔法使いは、心がこもっているものは嬉しくなっちゃいます」
「こころで……?」
 爽やかな風が、自分とルチルの髪を揺らしている。
 魔法は心でつかうもの。名前は心の中で復唱した。その言葉自体が、まるで魔法のような響きを持っている。
「魔法は心と自然を繋げてつかうんです。つまり、心次第でつかえる魔法も精度も変わってきます」
「自然とつなげて……」
「国には精霊と呼ばれる者たちがいて、精霊の力を借りるような形で、魔法が使えるんです。精霊は国ごとに性格のようなものが違うので、例えば私みたいに南の国出身の魔法使いが、北の国で魔法を使うときは、北の国の精霊に気に入ってもらえないと、うまく魔法が使えないんです」
「えっ……魔法って自由に使えるのだと思っていたんですが、そうではないんですね」
「はい。やっぱり自国に戻れば魔法は使いやすいですし、他国で魔法を使うには気を引き締めなきゃいけないことがありますね」
 魔法は何にも縛られずに自由自在という印象があったが、どうやら違うらしい。精霊という存在を初めて耳にしたが、魔法が存在するのなら精霊も存在するのだろうと、妙に納得してしまった。
「魔法は、基本的に何でもできてしまうんですか?」
「そうですね……できないことも、もちろんあります。死者を蘇らせるとか、時間を巻き戻すとか……あと、無から有を生み出すといったことはできないですね」
 元いた場所で見てきたような、創作物の魔法のファンタジーと似ているようだった。魔法でできることは無限ではない。制約はあり、それを破ってはならない。
 ルチルの話を聞いて、名前は魔法のイメージが次第に輪郭を帯びてきたようだった。全く知らないときよりも、魔法のことを知った今の方が、少しだけ親しく愛おしく感じる。
「あの……変なことを聞いてもいいですか?」
「はい?」 
 魔法の話になったところで、名前はドキドキしながら質問をする。ルチルは頭の上にはてなマークでもつけているかのような表情で首を傾げた。
 きっと今からする質問は、魔法が使える人にとっては当たり前の話かもしれない。名前は胸の前で手を握りしめる。若干の恥ずかしさを感じながらも、言葉を待っていてくれているルチルに向けて口を開いた。
「あの……魔法って、空を飛べたりするんですか……?」
 ドキドキと心臓は高鳴っていた。名前にとって、魔法と言えば空を飛ぶことである。幼少期からずっと憧れを抱いてきたその正体を、名前はついに自分の言葉で暴いてみることにしたのだ。
「ええ、もちろん! 箒を使って飛んだり、強い魔法使いだとそのまま宙に浮くことができますよ!」
「そうなんですか……! すごい!」
 結論、魔法で空は飛べる。しかも、箒を使って飛ぶことができる。幼い頃から思い描いていた通りの飛び方に、名前は胸が熱くなった。
「せっかくですから――あら? クロエ?」
「え……?」
 ルチルが何かに気づいて声を掛ける。彼の視線を追って顔を向けると、そこには木に隠れている様子で、こっちを見つめている赤髪の青年がいた。
「クロエ、どうしたの?」
「えっ!? あっ、ええと、その……」
 クロエと呼ばれた青年は、慌てて木から飛び出すと、身体の前で手を組んで指をそわそわと動かしていた。視線はこちらに向けたり下を向いたりと、かなり困っている様子である。
――もしかして、私がいたら邪魔かな?
 クロエの視線は、自分自身に向けられているように思えた。それが過敏に反応しているのか、それとも事実なのかは名前にはわからなかったが、この場で異質な存在と言えば自分自身である。もしかしたら、クロエは大事な話をルチルにするのかもしれない。
「あの、私そろそろ――」
「――あっ、待って!」
 名前は部屋に戻ろうと腰を上げようとすると、クロエは大きな声で名前の言葉をかき消した。
「え……」
「クロエ?」
「あっ、えっと、あの、その……」
 クロエは顔を真っ赤にして下を向いてしまう。名前は浮かしかけた腰を元の位置に戻してしまう。
「クロエも、こっちに来てお話ししない?」
 ルチルは穏やかに言ってのけた。いいのだろうか、自分がここにいても。名前は困惑してルチルを見つめるが、ルチルはにこにこしてクロエを眺めていた。
「う、うん……いい、かな……?」
 クロエにおずおずと見つめられて、名前はなぜだか背筋を伸ばしてしまった。ルチルではなく、自分に話しかけられていることがわかると、なんだかこちらまで頬が熱くなった気がした。
「はい……私は、お邪魔じゃないですか?」
「まっ、まさか! お、俺っ、君に話しかけたくてここに来たのに!」
「え?」
 名前の質問に、クロエは焦ったように言葉を返す。名前が首を傾げていると、ルチルはクロエを手招きして呼んでいた。クロエは早足でやってきて、ルチルと名前の目の前に腰を下ろす。
「ご、ごめん、なんか驚かせちゃったよね……?」
「あ、いえ……」
「クロエも、ずっと名前さんと話したかったんだよね」
「えっ」
 ルチルの言葉に驚いてクロエに顔を向けると、さらに顔を赤くしてしまった。緊張しているのだろうか。少しだけ微笑ましくなり、名前は緊張を収めつつもクロエに挨拶をすることにする。
「えっと……初めまして。苗字名前といいます。名前が、名前です」
「あ……クロエ、俺は西の国の魔法使いのクロエ……!」
 名前が自己紹介をすると、クロエはすぐに顔を上げてくれて話を聞いてくれた。そして続くように自分の自己紹介をしてくれる。名前はカナリアとの話を思い出した。
――そうだ、クロエさんって、お洋服を作っている人……!
「クロエさんって、お洋服を作るのが得意な方、でしたよね?」
「えっ! どうして知ってるの!?」
 クロエは驚いてルチルの顔を見るが、ルチルは首を横に振った。ルチルから聞いた話ではないからだ。
「昨日カナリアさんと話しているときに、クロエさんのことを教えてくれたんです。魔法使いさん皆のお洋服を作っている、お裁縫が上手な人がいるって」
「わっ、ほ、本当!? 嬉しいな……!」
 クロエは両頬を手で押さえていた。立っていたらぴょんぴょん跳ねてしまいそうだった。感情の起伏が綺麗な人だと名前は感じていた。
「……お、俺、女の人はちょっと苦手、なんだけど」
「あ……私、離れます?」
「あ、いや! そういう意味じゃなくて……!」
 クロエの突然の告白に驚きつつも距離を開けようとして立ち上がろうとすると、クロエは必死になって止めてきた。渋々元の位置に座ると、クロエは膝の上でぎゅっと手を握る。
「苦手、なんだけど……アンタって、突然この世界にやってきただろう?」
「っ、はい」
 アンタと呼ばれたのは初めてで目を見張ったが、クロエのその伝え方はなんだかクロエらしくて彼に馴染んでいた。
「……俺も、実は昔、ひとりだったことがあって。それで、ひとりの時のことを思い出したら、ラスティカみたいに世界を広げて教えてくれる人がいたら……って考えたんだ」
「ラスティカ、さん?」
「ラスティカは、俺のお師匠なんだけど、ひとりだった俺を引っ張って、いろんな世界を見せてくれたんだ。それを思い出したら、その……」
 クロエは視線を落とした。両手を組みぐっと力を入れると、意を決したように顔を上げる。
「俺も、アンタに……名前に、そうしてあげたいなって、思った」
「っ!」
 名前は息を飲んだ。時が止まってしまったかのようだった。クロエの言葉が耳の奥で繰り返されている。
 大きな風がざわめいて、木の葉を揺らしている。耳障りではなく、むしろ心地の良い音だった。
 今、自分はとても大切なことを話してもらっている。名前はそれを肌で感じでいた。
「……って、自分勝手すぎるよね。アンタの気持ちも知らないで、勝手にこんな――」
「いえ、いいえ……!」
 名前はクロエの言葉に首を振る。急ぎすぎてうまく言葉が続かなかった。胸の奥から込み上げてくるものが、熱くて瑞々しくて、上手く話せそうになかったけれど、今この瞬間に気持ちを伝えたいと強く願っていた。
 クロエの瞳が一瞬つるんと光ったような気がした。
「すごく、すごく、嬉しいです……! 私のことを、気にかけて、考えてくださって、行動してくださって……こうして、名前を教えてくれて、一緒にお話ししてくれて……!」
 名前は身を乗り出しながら伝えていった。クロエが自分を思いやってくれたことが、赤の他人である自分の境遇や気持ちを想像してくれたことが、どれだけ名前を元気づけてくれたか。クロエは『そうしてあげたかった』と話していたが、クロエはこの瞬間、充分に名前を引っ張りあげてくれた。ひとりではないことを、クロエは証明してくれたのだ。
「ありがとうございます……!」
「っ……! うん!」
 名前は込められるだけの気持ちを込めて、クロエに感謝を伝えた。
 魔法は心でつかうもの、という言葉を思い出す。それは言葉もきっと同じだ。込める気持ちによって、言葉の意味も力も変わってくる。言葉も、心でつかうものだ。
「よかったね、クロエ」
「うん……! ルチルも、ありがとう!」
「ふふっ、はい」
 嬉しそうに笑い合うクロエとルチルに、名前は同じように頬を緩ませていた。
 風が大きく三人の間を駆けていく。二人の綺麗な髪が揺れて、花びらと木の葉が舞って、青空に彩りを与えていく。ゆったりと時間が流れるなかで、あたたかくて優しくて、大切にしたこの瞬間を、名前は切り取りたいと思った。
――晶さんも、こういうときに思ったのかな。
 ルチルが話していた、以前『カメラがあったら』と話していた晶。きっと晶も、同じようなことを思ったのだ。大切にしたい時間を、一瞬だけ切り取って、永遠に保存して起きたかった。
「……そういえば、さっきファウストと会ったんだど、なんだかすごく機嫌が悪そうでさ」
「っ!」
「まあ、どうしたんでしょう。何かあったんですかね」
――ファウスト、さん。
 魔法使いの先生役で、フィガロに招集を掛けられて話を聞いている人。さっき会ったということは、もう会議は終了したということだろうか。
「あ、あの!」
「ん?」
「はい?」
 名前の突然の言葉に、二人して首を傾げている。綺麗な瞳が木漏れ日に照らされて、つやつやと光っていた。
「ファウストさん、という方は、どういった方なんでしょうか……?」
 名前は少し背中を丸めた。この話の流れで聞くのは少し失礼な気がしたからだ。ルチルとクロエは目をぱちくりさせると、なぜだか嬉しそうに口を開く。
「ファウストさんは、東の国の先生なんです。呪い屋を営んでいるらしくて、呪いや怪異に関してはすごく詳しいんですよ」
「そうそう! 最初は気難しくて怖い人なのかなー? と思ってたんだけど、真面目だし、すっごく優しいんだ!」
「なるほど……」
 名前の頷きに、ルチルとクロエはその後もファウストについて話を進める。魔法の教え方がすごくわかりやすいだとか、実はスタイルが良くてなんでも着こなせるだとか、レノックスと仲が良いことや、実は無類の猫好きであるとか。
 二人のおかげでファウストについての情報がどんどん集まっていった。
「あの……ファウストさんって、普段どちらにいらっしゃいますか?」
「ん? 名前、ファウストに用事でもあるの?」
「えっと、ちょっと、伝えなきゃいけないことがあって……」
「そうですね……基本的にファウストさんは部屋にいることが多いですね」
「それか、東で集まって授業をしているか、だよね」
「今の時間なら、たぶん部屋にいるんじゃないでしょうか」
「なるほど、そっか……ありがとうございます」
 基本的には自室にいる。たぶん、同じ階層ではない気がする。憶測だけれど、名前は直感でそう感じていた。
 そうするとファウストの部屋がどこにあるのかを知っておかないといけない。
 名前は今二人から教わったことと、フィガロから聞いたファウスト像を統合して、ファウストのイメージを作り上げようとした。
 先生で、真面目で優しくて、呪いに詳しい。そして、フィガロと仲が良い。けれど、たぶん今回フィガロが頼んだようなことは、嫌がっている……。
 ファウストに伝えたいことがあるのは事実だったが、そもそも話を聞いて貰えるかどうかが難点だった。フィガロからの頼まれ事を厄介だと感じているのなら、話すら聞いて貰えない可能性だってある。しかし、自分のことが関わっている以上、名前は自身の気持ちを伝えなければと考えていた。
「あっ!」
「え?」
「どうしました?」
 そこまで思考を巡らせたところで、名前は重大なことに気づいてしまう。
「私、肝心の、ファウストさんがどなたかわからないです……」
 名前の絶望的な呟きに、ルチルとクロエが吹き出したのは同じタイミングだった。