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 名前は早足で魔法舎の中を移動していた。目的は、ファウストに会うためである。ルチルとクロエから、ファウストの特徴を聞いた名前は、いてもたってもいられなくなり、ルチルたちとのお話をお開きにしてもらってファウストを探索することにした。
 建物の中といっても二十数名が共同生活をしている大所帯である。舎内には様々な部屋もあり、名前がまだ行ったことのない部屋、話したことのない魔法使いの部屋であふれている。その中からファウストの場所を探すのは困難を極めていた。
『私たちも一緒にファウストさんを探しましょうか?』
『そうだよ、会ったことないのなら、なおさら協力するよ!』
 ルチルとクロエは驚くほどに協力的だったが、名前は丁重に断った。協力してくれることはとても嬉しいことだし助かることだったが、会話の内容はあまり聞かれたくなかった。たぶん楽しい話にはならないし、ファウストの反応も好感度が高いものではないだろうから。
――黒い服に帽子、サングラスの、巻き毛の人。
 名前は教わったファウストの特徴を思い浮かべながら足を進めていく。今向かっているのは談話室だった。もう会議は終わってしまった可能性が高いが、万が一そこにとどまってくれていたらという可能性にかけていた。
 このようなときに限って、人ひとり廊下ですれ違うことはない。もし誰かに会えたのなら、ファウストのいる場所を訊くことができるのに。いいや、初対面の相手に仲間の居場所を訊かれるだなんて、不信感を募らせるだろうか。
 名前は悶々と考えながらも、談話室の前に到着する。重厚な扉は耳を澄ましても中の声は聞こえなかった。もしかしたらもういないかもしれない。ノックを三回すると、返ってくるのは静寂だった。名前は「失礼します」と小さな声で呟き、扉を開けた。
「やっぱりいないや……」
 談話室はすでに誰もいなくなっていた。廊下で誰にもすれ違わなかったということは、会議が終わってからすでにしばらく時間が経過していることになる。
――次はどこを探すべきかな……。
 名前は腕を組んで考える。会議が終わって行く場所、喉が渇いたために厨房とかだろうか。いいや、魔法使いの皆さんは魔法で飲み物を出すことができるから、厨房に行かなくても自分でなんとかできてしまうだろう。
「……やっぱり、お部屋かな」
 そこしか思いつかなかった。訓練室と呼ばれる魔法使いの人たちが勉強をする場所があるらしいが、ルチルとクロエによると、東の国の魔法使いたちが今日訓練室を使う予定は聞いていないという。なら、行く場所があるとするならば、自室に戻る、である。
「ファウストさんの部屋は……確か、四階」
 名前は歩き出した。静かに談話室の扉を閉めて、赤い絨毯の上を歩きながら四階を目指す。歩くたびに心臓が飛び出しそうだった。努めて大きく息を吸い吐きながら、逸る心臓を抑えようとする。
 階段を登り、段数の果てしなさに途中足を止めて息を整えながら、登り続ける。ここでも誰にも会わなかった。しかし今は誰かに自分の情けない姿を見られないことにほっとしていた。きっとこんな姿を見られたら笑われてしまうだろう。
「四階、ついた……」
 登りきった達成感と疲労感、そしてファウストに会う緊張感で、バクバクと忙しなく名前の心臓は動いている。せっかく休み休みで階段を登ったというのに、あまり意味のない小休止となってしまったようだった。
「お部屋は……っ!」
 ファウストの部屋は階段から数えて何番目の扉だっただろうか。ルチルとクロエから聞いた数を思い出しながら、名前は廊下に出る。
 しかし、名前は足を止めてしまった。その場から動けなくなってしまう。数メートル先には、人がいたからだ。それも二人。それは名前がずっと探していた、特徴がすべて一致する人と、よく知る人だった。
――ファウストさん、と、ネロさん。
 名前は息が止まりそうになった。ここでファウストを見つけることができて、努力が実ったようで嬉しかった。けれど、こうも唐突に探していた人に出会うことができた瞬間が到来して、名前は心の準備が完全にできていない状態であることに気づいた。
 そして、まさかネロまでそこにいるだなんて。名前は別の意味で緊張してきてしまう。厨房や食堂以外で出会う可能性を完全に予想できていなかった。厨房や食堂に行かなければ会えないイメージが、がらりと変わった瞬間だった。
 名前はその場で固まってしまう。二人はなにやら話をしていた。ファウストはドアノブに手を掛けているから、部屋に入ろうとしているところを、ネロが話しかけに来たのだろうか。
――出直した方がいいかな。
 話をしているのならば、ここでずっと待っていても迷惑かもしれない。二人が気づく前に、階段に隠れるなり自室に戻ったりした方がいいのかも。
――でも、それでまたここに来て、行き違いになったら?
 探す手間もかかるし、なによりファウストが忙しいタイミングと被ってしまったら、どんどん伝えられるのは遅くなってしまう。もしかしたら今も忙しい可能性もあるけれど、少なくともネロと話しているということは、まだ時間に余裕があるかもしれない。
――どうしよう、話しかけられるほど仲良くないし……。
 これが晶相手だったら話しかけられるかもしれないが、相手はネロと、はじめましてのファウストである。
 名前がその場で悩んでいると、ふいに声が掛けられた。
「――名前?」
「あっ……」
――ネロさん……!
 名前はネロに名前を呼ばれて心臓が口から飛び出しそうだった。気づいてもらえた嬉しさと、名前を呼ばれた高揚感、そして目が合ってしまった恥ずかしさで、名前は一気に顔が熱くなりそうだった。
「こ、こんにちは……」
 名前は挨拶をして頭を下げて視線のそらす。靴の足の指がきゅっと丸まった。
「ああ。どうした? こんなところで」
 ネロは優しく問いかけてくれる。名前は顔を上げた。首を傾げるネロの隣で、ファウストがしかめっ面をしている気がする。サングラスをかけているため、表情はあまりよく見えなかった。
「えっと……その、ファウストさんに、少しお話があって……」
「先生に? ご指名だよ、せんせ」
「からかうな、ネロ」
 名前からでてきた名前に、ネロは眉を上げていた。しかしすぐに茶化すようにファウストへ声を掛ける。ファウストは邪険に扱うように返事をしていた。太いというよりも、芯のある声だった。
――意思が強そうな人。
 東の国の魔法使いは自他に厳しく真面目だが優しい。ルチルはそう語っていたが、確かにそういう印象も感じられそうだった。
 名前は手のひらにかいた汗に知らんぷりをして、身体の前で組んだ。震えそうになる手をぎゅっと握った。
「あの、ファウストさん……で、お間違えなかったでしょうか……」
「……そうだけど」
「初めまして、苗字名前といいます。名前が、名前です」
「……ファウストだ」
 ちゃんと自己紹介を返してくれるんだ、優しい人だ。名前は少しだけ胸を撫で下ろす。無視されることも予想していたが、どうやら話に聞くよう真面目な人のようだ。
「あの……フィガロさんから、お話があったと思うんですけど」
「……何?」
 ファウストの声に苛立ちが混じっていたような気がする。聞かれたくない話だっただろうか。それとも、こちらが内容を知っていることに関して嫌悪を抱いているか。そもそも話が長引くのが嫌か。様々な憶測は考えられたものの、嫌そうにしているのならばあまり話を長引かせないことがいいと名前は判断した。
「わっ、私のことは…… その、大丈夫ですから」
「は?」
 サングラスの向こうで目をまん丸くした。今までの剣幕が嘘のように、眉間の皺がとれている。隣のネロの反応が気になりつつと、早く話を終わらせようと、名前は口を開く。
「ファウストさんのお手を煩わせないように、します。フィガロさんが南の国に行っている間、体調が悪くならないように気をつけます。もし体調が悪くなっても……自分で対処します。慣れていますから。……だから、大丈夫です」
 言い切ってしまった。名前は肩で息をしながら握っていた手から力を抜く。ファウストとネロの顔は見られなかった。なんだかとてつもなく恥ずかしいことをしてしまった気がした。
「ファウストさんに、ご迷惑はかけません。だから……」
 名前は言葉を切る。続く言葉が見当たらない。『放っておいて』は違う気がするし、『気にしないで』もなんだかしっくりこない。
「……あの、その、それだけ、です。失礼しました……!」
 結局、名前はうまく言い表せる言葉を見つけられずに終わった。恥ずかしい気持ちから、二人の視線から逃げ出したくて、踵を返す。
「あ、おい!」
 ネロの声が廊下に響いた。本当は振り返るべきだったけど、今はどうしても難しかった。伝えたことについて質問されても、上手く答えられる勇気はなかった。

   *

 名前が廊下から姿を消したあと、ぽつりと二人の魔法使いが佇んでいる。夕食のリクエストを聞きつつ、まだ未完成の宿題の提出先延ばし交渉をしに来ていたネロは、思わぬところで名前を見つけてしまった。
 名前はファウストに用があり、話をしていた。話の内容を完全にネロは理解できなかったものの、流れ的に『自分は大丈夫だから気にするな』といったことを名前は伝えたかったのだろう。フィガロの名前や体調の話題が出たため、ネロは徹して二人の会話の邪魔をしないよう心がけていた。
 名前がいなくなり、ようやくネロは口を開いた。
「……先生、なんかしたの?」
「僕じゃない……」
 ネロの発言に、ファウストは腕組むようにして、指先で眉間のシワに触れる。
「まったく……フィガロも面倒事を押し付けてくれたな」
 ため息混じりにぼそりと呟いたファウストの言葉に、ネロは食い気味に反応した。
「それって、名前のこと?」
 言い終えてネロ自身も内心驚いていた。普段ならばこんなに食い下がることはないだろう。空気を読んで、相手の意図を考えて、予想した上で無難な発言を選ぶはずなのに。
「……君は、随分と彼女と仲が良いんだな」
 ファウストから向けられた視線に、ネロはピクりと心臓が跳ねたようだった。
「いや、まあ、昨日話した程度だよ。賢者さんは仲良さそうだったけど」
 ネロは衝撃をひた隠して、返事をする。普段市場で値切り交渉をするよりも不自然な一言になってしまった気がした。
「……ふぅん」
「なんだその、ふぅんって」
「いや? 別に?」
「絶対何かあるだろ、先生」
 ファウストが妙に興味を示す様子に、ネロはポケットに手を入れながら指摘する。
「宿題提出していないの、君だけだからな。忘れないように」
 ファウストはそれだけ話して自室に入ってしまった。パタンと扉が閉められて、ネロは一瞬忘れていた、やっていなかった宿題の存在を思い出して額に手をやった。
 前髪をくしゃりと掴む。ファウストが話した面倒事が名前のことなら、少しだけ納得ができない自分がいた。

   *

 ファウストと一方的に別れた名前は、行き場をなくしてしまった。走って逃げるように話を終わらせてしまった。
――すっごい失礼なことしちゃった……。
 言いたいことだけ伝えて逃げるだなんて。社会人でももっと別のやり方をするはずなのに。何年社会人をやっていたんだと自分を責めそうになりながら、名前はとぼとぼと階段を上がっていた。行く当てもなく、食事時間でもない、そして、食事時だとしてもファウストと会ってしまったら気まずくなりその場にいられなさそうである。
――おとなしく部屋にいよう。することもないけど。
 自室にはまだ娯楽がなかった。あるとすればスマホだったが、充電ができないため、なるべくバッテリーを保たせておきたかった。
 階段を登りきり、五階に到着する。胸に手を当てて息を整えた。建物が大きい分、階段の段数も多くて、名前は毎回階段を使うたびに息が乱れてしまう。
「体力、つけなきゃ……」
 体力ってどうつけるんだろう。階段を使っているうちに慣れてくる物なのだろうか。名前は息を整えつつ考えてみる。しかし、階段を使ったところで体力や筋力や向上するようには思えなかった。
「筋トレ、しなきゃ、だめかな……」
 自分とは一番縁のない言葉である。腹筋はできて十回ほど。スクワットなんてやったら腰を痛める自信しかなかった。
 名前はようやく呼吸の乱れが治まり、自室へと歩き出した。まだこの世界に来て二日目だけれど少しだけ歩き慣れ始めた廊下に嬉しくなる。
「あっ、名前さん……!」
「晶さん……?」
 廊下を曲がって自室に向かおうとすると、自室の扉の隣には晶がいた。壁に背を預けて立っており、まるで名前を待っていたかのようだった。
「どうしたんですか? こんなところで」
 名前は早足で駆け寄る。どうかしたのだろうか。心なしか、朝よりも浮かない顔をしている。もしかしてどこか体調が悪いのかもしれない。
「大丈夫ですか? 私の部屋で休んでいきますか?」
 名前は俯いている晶の顔をのぞき込む。苗字のような明るさを持つ彼女からは考えられないほど、暗い顔色に、名前はどうしようかと頭を悩ませる。
「……すみません、私、名前さんにお話があって」
「あっ、そうだったんですね。すみません、もしかして、探させてしまいましたか?」
「あ、いえ、私が待ちたくて待っていたといいますか。ここにいれば、名前さんに会えるかもと思って……」
 少しだけ歯切れの悪い晶に首を傾げつつ、名前は扉を開けて部屋へと案内する。
「どうぞ。すみません、お茶菓子とかそういうの、なくって」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
 名前は晶をソファーに座らせ、自分は隣に座った。椅子に座ってしまうと、遠すぎると感じてしまった。スノウとホワイトとの話の時は、その距離が適切だと感じたのに、晶が相手だとうまく話ができないような気がしていた。拳三つ分離れた距離は少し気恥ずかしかったものの、このくらいの距離がしっくりきていた。
「それで、私に話とは……」
 珍しく名前から口火を切る。普段の自分だったら、この世界の人たちに対して自分から話しかけることには勇気が必要だったが、晶にはそれが少しだけで済んでいた。
 晶は膝の上で拳を握りしめており、唇をもごもごとさせていた。言いにくいことなのだろうか。名前は考える。晶が自分に対して言いにくい話題とはなんだろうか。
 思わず腕を組みそうになってしまうが、そうすると晶が驚いてしまうかもしれないから、名前は耐えていた。晶が話すこと、晶に何かしてしまったか、晶が名前に関して言いたいこと……。
――あ、もしかして。
 名前の心にすとんと落ちてきた答え。それは、午前中行われていた、会議のことだった。
――もしかして、媒介としての話? それか体調の話?
 考えられることは二つだった。結界の強化のための媒介に関することについて。もう一つは、名前自身の体調について。しかし、それらのことを晶が知ったからといって、名前に話をすることがあるだろうか。名前は考えてみるが、特に何も浮かばなかった。晶のことだから、名前を非難するようなことをわざわざこうして言いに来ることはないだろう。それならば、何なのか。
――言ってくれるまで待とうかな。
 晶はどうやら言葉を探している様子。いま名前が無理に聞いたとしてもうまく話すことは難しいだろう。それならば、晶のペースに合わせて話を聞き、応答するだけだ。
 名前はゆっくりと静かにソファーに背中を預けた。晶がぴくりと動いたような気がしたが、とくに名前からは何も言わなかった。
 静寂が流れていく。お茶菓子もなく、ただこうして成人女性が二人並んで座っている様子は、誰かが見たらきっと首を傾げることだろう。
「あの、名前さん……」
「はい?」
 晶からようやく言葉がでてきた。名前は背中をソファーに預けるのをやめて、晶の顔が見える位置に姿勢を動かす。
「さっき、先生の魔法使いたちと会議があったんです。……そこで、名前さんの話を聞きました」
「そうなんですね」
 無難な返ししかできなかった。こちらが了承してフィガロに話してもらったのだ。いわば、名前は何もかも知っている状態だった。
「すみません、私……何も知らなくて」
 晶の謝罪に名前はぽかんとしてしまいそうになった。しかし、表情に出さないよう意識する。
 晶が知らないのは、当然の話だった。
「知らないのは当然ですよ。話してないですから。それに、出会ってまだ二日目ですし」
 本来は仲良くなって時間を掛けて伝える内容なのだ。それを、短期間、もはや数十時間で行っている。知らないのは当たり前だった。
「でも……私、その、浮かれてて」
「え?」
「名前さんには失礼かもしれないですが、嬉しかったんです。同じ世界から、近い年の、しかも同性の方がやって来てくれて。突然世界を渡って帰る時期もわからない状況が、どれだけつらくて苦しいかも知っているのに……それでも私、名前さんに出会えたことが嬉しくて……」
「…………」
 晶は両手を組んで、身体を縮こめた。丸まった背中にさらさらと髪が流れる。名前が昔憧れた、綺麗なブラウンの髪だった。
「浮かれて、仲良くなりたくて、一緒に過ごしてお話しできることが嬉しくて……名前さんのためにって考えていたのに、結局、あなたを追い詰めてしまった」
「追い詰めるだなんて、何も……」
「名前さんが、食事の時に『美味しい』って言わなかったことを、不思議に思ったんです。ネロのご飯はとっても美味しいのに、皆美味しいって言うのに、名前さんはどうして言わないんだろうって。……オムライスを食べたときのことです」
「あ……」
 それは、名前が初めてこの世界で食事をしたときのことだ。晶は不思議そうにしていた。心配してくれて声を掛けてくれたようだったが、名前はそのとき味がわからないことを伝えられず、どう穏便に乗り切ろうかを考え、苦し紛れの返答をした記憶がある。
「私、名前さんが、味が分からないと知らずに、追い詰めちゃったって……」
「そんな、自分を責めないでください。晶さんは悪くないです。だって私たち、初めて会ったばかりでしたし。味がわからないなんて言って、あなたを困らせたくなかったんです」
 晶はゆっくりと顔を上げる。さらさらの髪の向こう側で、歪ませた表情が見られる。その表情を作り出している原因は自分だと考えると、名前は胸が痛んだ。
「理解されないのは慣れていますし、理解されようとも思いません。想像が難しい症状だという自覚がありますから……というよりも、諦めてる、と言いますか」
 精神症状の理解は、その道の医療関係者か当事者が一番よく理解している。むしろ、それ以外の人間は、想像力をフル活用して実際に精神症状を見て実感しない限りは、理解の促進というのは難しい。風邪や腹痛、感染症と同じように、誰しもがなる可能性のある病気なのに、啓発は未だ道半ばであるし、精神症状に関する情報は自分からアクセスしない限り知る術はないのだ。理解してほしいという気持ちは、とうの昔に捨ててしまった。理解してほしくても、そこには見えない高い壁があって、当事者とその他を隔てるのだ。見えない壁を越えるだなんて努力をする人は少ない。期待したところで叶わないのならば、諦めたほうが、自分の心を守れるのなら。
――それでも充分。
 名前は諦めることに慣れていた。しかし、晶は違った。
「それでも……! 私は、名前さんを理解したいです!」
「っ、え……?」
 振り向いた晶は涙を浮かべていた。眉間にしわを寄せて、必死に涙を堪えているようだった。
「理解するのが難しいのは、わかっています。いえ、私もまだ名前さん自身のことも、名前さんの病気についても知らないです。理解する、というよりも……知っていきたい。名前さんのことを、受け止めたい。名前さんの、力になりたいです」
「どうして……」
 名前は鼻の奥がツンとした。まるで、晶は見えない高い壁を越えようとしてくれているみたいじゃないか。そんなことしてくれる人、今までいなかったのに。病気のせいで友人とも疎遠になってしまったのに。病気について容認してくれているのは、家族だけだったというのに。
「だって、私、あなたと友人になりたいんです」
「っ!」
「名前さんと友人になって、この世界をもっと知っていきたい。似たような場所で育って、似たような感覚を持っている私たちだから、きっと似たように世界を共有できるかもしれない。綺麗とか、素敵とか、そういった魔法の世界をあなたと一緒に見てみたいんです」
 名前はいつの間にか晶の顔が見えなくなってしまっていた。涙で歪んだ視界は、晶の髪色しかうまく写らない。鼻水を啜って、でも強く瞬きをしてしまったら、涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
「だから、その、昨日は……いえ、今までもし、名前さんを困らせるようなことをしてしまったら、すみませんでした。これから、教えてください。名前さんのこと。何が好きで、何が苦手で、してほしくないこととかも」
「そ、んな……私、なにも返せないです」
 晶の優しさが眩しくて、名前はとうとう目を強く瞑った。ぼろぼろと涙が流れていく。手の甲にぽたぽたと落ちた涙は生ぬるかった。
「名前さんが、私とたくさんお話ししてくれて、いつか一緒におでかけとかもしてくれたら、それがお返しです」
「そ、んなこと、で?」
 晶が名前の手の上に自分の手を重ねてくる。晶の手の甲に涙を落とさないようにしようとしても、難しかった。名前は晶の顔を見て尋ねる。だって、そんな簡単なことで、この優しさは返せるわけないじゃないか。存在を認めてもらうことが、受け入れてもらうことがどんなに嬉しかったか。受け入れてくれた上で一緒にいてくれることを、どれほど切望していたか。たくさん、この瞬間でさえたくさんもらってしまったのに、この先もそれが続くのだとしたら、どれほどの感謝を晶に返せばいいのだろう。
「前にも言ったんですけど、私、名前さんが来てくれて本当に嬉しいんです。この世界にいる『一人の異世界人』じゃなくなったから」
 晶の声は、名前の涙を拭うようにあたたかかった。子守歌でも歌うように晶は言葉を紡いでいく。
「私、心の底ではずっと、寂しかったのかもしれないです。魔法使いのみんなと仲良くできて、任務とか試練を乗り越えて、うまくいくこともあって。それでも眠るとき、胸にぽっかりと穴があいたみたいなことがある夜があって。うまくそれが塞がることもなくて、自分で見ないようにしながら生活してました」
 晶によって名前は手を取られる。両手で包み込まれた手を胸の高さまで持ち上げられた。晶の涙が一筋、頬に伝った。
「でも、名前さんが来てくれた日の夜、その胸にあいた穴が、埋まった気がしたんです。今もそうです、名前さんといると、胸の穴が埋まってるんです。寂しく、なくなったんです」
「っ……!」
 寂しくなくなった。それは、名前がネロと過ごして気づいた、知り得た感覚だった。あの、一人じゃないと思えた、淡い世界に身を寄せているような感覚を、晶も感じたと言うことだろうか。
――私で、感じてくれたの? 本当に?
「だから、ありがとうございます。名前さんのおかげです」
 晶は祈りを捧げるように目を瞑り、両手に顔を近づけた。まるで光が天から差し込んだように美しく、名前は息をのんで晶を見つめた。
――綺麗。
 天国みたいな場所があるのだとしたら、きっと晶のように美しい心を持った天使がいて、優しくこうやって両手を包み込んでくれて、自分のために祈ってくれる。そんな気がした。
「わっ、わたしも!」
 名前は声が裏返りながらも声を掛けた。思ったよりも大きな声になってしまったことに、頬が熱くなってしまう。
「私もっ、晶さんと、友達になりたいですっ!」
 晶の大きな瞳が見開かれる。瞳は深い優しさの色をしていて、まるで星が流れるようにキラキラと輝いていた。
「はい!」
 嬉しそうに頷く晶の声に、名前は飛び上がりそうなほど嬉しくなってしまった。包まれている両手を離し、今度は名前から晶の両手を包む。祈るポーズを取りながら、名前と晶は互いに笑い合った。
 晶の言葉があたたかい風となって、名前の心の中に舞い込んでいた。