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晶との話が終わった後、二人をして涙を拭いあった。改めて仲が深まったような、本格的に友人になれたような気がして、名前は自然と笑みを浮かべることが多かった。つられたように晶もにこにことしていて、少し前まで二人で涙を流していたとは思えないような雰囲気になる。
「そういえば、さっきルチルさんとクロエさんとお話ししたんです」
「本当ですか!」
晶は嬉しそうに両手を合わせる。晶の反応に名前は笑みを深めた。
「二人とも、とっても優しくしてくださいました。ルチルさんとはカメラの話をしたりして」
「カメラですか?」
晶が首を傾げる。肩からさらりと茶髪の毛の房がするりと胸に落ちてくる。名前は目を細めた。
「以前、晶さんが話していたカメラについて気になっていたそうです。カメラはどういう構造なのかなどをお伝えしました。私は代わりに、この世界の国々についてと、魔法使いや魔法について教わりました」
ルチルの説明は、職業が教師というのもあってか、それとも彼自身の言葉の選び方からなのか、とてもわかりやすく名前が持つこの世界についての解析度を高くさせた。まだ初歩の初歩といった知識しか有していないものの、昨日の自分よりもこの世界が見えやすくなったような気がして、名前は目に映るものが鮮やかに見えるように感じていた。
「そうなんですね。カメラについては私が伝えられなかったので、名前さんから伝えてもらってルチルも嬉しかったと思います!」
晶は合わせていた手の指を絡めて両手を握った。自分のことではないのに嬉しそうに微笑む晶に、名前は胸の内があたたかくなったようだった。
「五つの国についてもまだ名前さんにお伝えできていなかったので、ルチルに教わってもらってよかったです」
「地続きで国が隣同士にあるというのは、なんだか不思議な感じですね」
「確かに。日本は島国でしたもんね」
「はい。それに、国によってやはり特色が違うのも驚きました。晶さんは、この国……中央の国以外の国にも行ったことがあるんですか?」
「はい。任務依頼などで、魔法使いの皆さんと一緒に訪れたことがあります」
「全部の国、ですか?」
「はい」
「すごい……!」
つまり、晶はすべての国を見て回っているということである。名前は目を輝かせた。魔法ですら不思議な存在であるのに、他国にも行き来しているとなると、様々な異国情緒を感じているのだろう。任務の依頼で訪れているということから、決して遊びで訪れるのではないだろうが、様々な国を巡って様々な景色を見られるのは素敵なことだと感じた。
名前が感動していると、コンコンコンと軽快なノックが響く。
「はい」
名前が首を傾げながら扉を開けると、そこにはルチルとクロエが立っていた。
「賢者様もここにいたんだ!」
「ちょうどよかったです!」
「どうしたんですか?」
晶が部屋の奥から歩いてやってくる。名前は自分の部屋に晶以外の人が来ていることがなんだか実感がなく、ふわふわとした気持ちになる。
「あ、名前。ファウストには会えた?」
「あ、はい! 教えてくださりありがとうございます。無事、会えました」
「名前さん、ファウストに用事があったんですか?」
「はい、ちょっと伝えたいことがあって……。あ、ルチルさんとクロエさん、さっきはありがとうございました。途中でお開きにしちゃってすみません」
「気にしないでください。ファウストさんと会えたのならよかったです」
ファウストを探していたこと、そして話をしたことは、晶にはまだ伝えていなかった。晶から特に詳しく質問を受けなかったことに、名前は少しだけほっとする。ファウストに話した内容を伝えたら、この和やかな空気が変わってしまうのではないかと、一抹の不安を抱えていたのだ。
「それで、ルチルとクロエはどうしたんですか?」
「そう! 俺たち名前を誘いに来たんだ!」
「そうしたら、賢者様もいたので、せっかくなので賢者様も一緒にどうかと思って!」
「誘い……?」
晶と顔を見合わせ首を傾げる。どのような誘いなのか見当がつかず、二人してそのままルチルとクロエを見上げた。
「ほら、さっきお開きにになっちゃったじゃない? せっかくだから、お昼を食べながら続きをしないかなってルチルと話したんだ!」
「それで、一緒にお昼はどうかなとお誘いに来たんです。よろしければ賢者様も一緒にどうですか?」
ルチルとクロエからわくわくした表情を向けられ、名前は晶と顔を見合わせた後、二つ返事で応じた。少しずつ、誰かと一緒に大切な食事をともにできることが、嬉しくて胸がいっぱいになっていた。
食堂に他の魔法使いもいたらどうしよう。名前は少しだけ緊張しつつも、目が合ったら会釈くらいしようとしていた。しかし、他の魔法使いは誰もいなくて心配は希有に終わる。
「なんだ、今日は大所帯だな」
ネロは少しだけ茶化しながら現れた。厨房の前を通ったときに話し声を聞いていたのだろう。昼食をワゴンの上に乗せてやってきたネロは、美しい所作で名前たちの前に皿を置いていく。
「わあ! お昼はエッグベネディクトなんですね!」
「ココットも! 美味しそう!」
「ネロ、ありがとうございます!」
ルチルとクロエ、そして晶が感嘆するなか、名前は興味深く並べられた料理を眺めていた。
――ベネディクト……。
名前の好きな俳優の一人と同じ名前である。英国出身の俳優で、数々のドラマや映画に出演していた。この世界にやってくる前は、ほとんど映画など見られていなかったので、久しぶりに見たくなってきてしまう。
そんな彼と同じ名前がついている料理は、イングリッシュマフィンのようなパンの上に、大きな卵が乗せられている。卵の中心はナイフで切れ目が入れられており、中からは黄金色のように綺麗な黄身がとろとろと流れていた。横には新鮮なレタスやトマトなどのサラダが盛り付けられている。
クロエがココットと呼んでいた料理は、陶器の器に入っていた。
「グラタン……?」
ココットという名前に聞き覚えがなかった名前は小さく呟いた。
「まあ、似たようなもんかな。厳密に言うとちょっと違うんだけど」
名前の呟きを、ネロは掬い上げる。聞かれていたことへの羞恥と驚きに、思わず顔を上げてネロを見てしまう。ネロは目を細めて口を開いた。
「ココットっつーのは、この容器の名前でもあるんだよ。円形とか楕円形をしてる、耐熱性のある器のことを意味しててさ。まあ材質にもよってどの温度まで耐えられるかは変わってくるんだけど、その器は結構高い温度まで耐えられるんだよ」
「そうなんですね……知らなかったんです。こんなに小さな器なのに……頑張り屋さんなんですね」
名前はネロの説明に少し感動してしまう。知らない世界に優しく導いてくれた説明は、名前に料理の奥深さを知らしめる。
――器のことなんて、考えたことなかったかも。
料理は食材や調味料だけにこだわるのではなく、器にも意識を向ける。器も料理の一部であり、華やかさや親しみを演出する役目を担っているのだ。
――これからは器やお皿もよく見よう。
名前が関心していると、ネロは口元を押さえてくすくすと笑っていた。
「器のことを頑張り屋さんだなんて……初めて聞いたな」
「えっ! あ、変なこと言って、すみません……!」
「いや、別に変なじゃないさ。耐熱性のことをそうやって言うやつが初めてだっただけ」
「でも、確かに高温に耐えられるこの器は、名前さんの言う通り、頑張り屋さんなのかもしれないですね」
「器によってできることが違うというのは、面白いですね」
「俺、これからお皿のこともよく知っていきたいな!」
名前が慌てたように謝ると、ネロはやんわりと否定する。それに続くようにルチルと晶、そしてクロエが肯定的に話をしてくれて、名前は一瞬失態を犯したと焦ってしまった心が落ち着いていく。自分の変わった発言が相手に不快感を与えずに、肯定的に受け取ってくれることは、何度体験しても息をいっぱい吸い込みたくなるような、その瞬間の相手の言葉や表情を忘れたくないようなそんな気持ちにさせる。
ココットは見た目はグラタンのようであるが、一番上に卵の黄身が二つ綺麗に並んでおり、マカロニのようにらせん状の形をした野菜が添えられていた。一瞬ほうれん草のように見えたが、どうやら別物のようだった。
「マカロニみたい……?」
「それ、マカロニ菜っていうんだよ」
「ココットに入っていると、ほうれん草っぽく見えませんか? 私は最初ほうれん草かと思いました」
「そうですよね……? マカロニ菜っていうんだ……」
晶の話に同意しつつ、マカロニ菜の名前を復唱する。名前の通りといった野菜だった。やはり世界が違うと野菜も違う物が多いのかもしれない。
「ま、冷めないうちに食えよ。おかわりはあるからさ」
「やった! ありがとうございます!
「ありがとう、ネロ! いただきます!」
「いただきます!」
ネロの声に一気に食べ始めるルチルたちは少し可愛らしく思えて、名前は頬を緩めた。
「腹減ってなかったか?」
未だ食べ始めない名前にネロが声を掛ける。名前はなんて話したら良いか迷いつつ、口を開いた。
「その……なんだか、食べるのがもったいないと言いますか。もうちょっと、食べる前のこの綺麗な状態のお料理を見ていたいといいますか……」
話しているうちに自分がまた変なことを言っているような気がして、名前は変に心臓が高鳴ってしまう。ネロの言葉を待つ前に、彼が直前に言った言葉を思い出した。
――そうだ、料理人に人はきっと、あたたかい出来たてを食べてほしいに決まっている。
「あっ、食べないと冷めちゃいますよね! すみません、食べます。いただきます」
少し名残惜しい気持ちがありながらも、名前はエッグベネディクトから食べようとナイフとフォークを手に取る。ネロの顔は、恥ずかしくて見られなかった。
「美味しいです、ネロさん!」
「本当! 俺、ココットおかわりしようかな」
「どちらも本当に美味し――っ」
「ん? 賢者さん?」
名前が食べ始めようとすると、先に食べていた三人は思い思いの感想をネロに伝える。晶も同じように伝えようとしていたところで、ふと言葉が切れた。おろおろと視線を惑わせている晶に、名前は勘でしかなかったが、ある気づきを得る。
――もしかして、遠慮したりしてる……?
名前が味覚を感じられないことを思い出したのか、負い目に感じているのか、申し訳ないと思っているのか。それかはわからないけれど、普段「美味しい」と楽しそうに食事をする晶が感想の言う言葉を止めるだなんて、名前のことを考えているとしか考えられない。
「晶さん」
「は、はい……?」
名前は持っていたナイフとフォークを置く。カチャリと少しだけ音を鳴らしてしまった。
「いいんですよ。晶さんは、晶さんの思うとおりに話してください」
「で、でも……」
言いよどむ晶に、ルチルとクロエが首を傾げている。ネロは静かに話を聞いていた。
今ここにいる人の中で、名前が味をわからないと知っているのは、ネロと晶だけである。もしかしたら、ネロは晶の考えていることがわかるのかもしれない。そうだとしたら、黙って聞いてくれているのも、彼の優しさのように感じた。
「晶さんが美味しそうに食べる姿、私、好きなんです」
名前は自分の頬が緩んでいることに気づいていた。晶が美味しそうに食べる姿を羨ましく思ったことがある。味を感じられて、たくさん食べられることを『健康体質』なのだと憧れたときもある。しかし、何を思ったところで、自分の体質と症状は変わらない。受け入れて、回復するようにしていくしかないのだ。
「だから、気にしないでください」
私のことは、だなんて、そんな大それた言葉は付け加えられなかった。周りの目もあるし、何よりそう伝えるとなおさら晶が気にしてしまいそうだと感じた。
「……ありがとうございます、名前さん。……ネロ、これ、すごく美味しいです」
「……そっか。よかったよ」
晶の感想に、ネロはしっとりと頷いた。ルチルとクロエは詳しいことを知らないようだが、晶が美味しいと伝えられたことににこにことしながら食べるのを再開してる。
名前もナイフとフォークを持ち直して、エッグベネディクトを一口大に切り、そっと口に入れた。卵の黄身のとろとろと、イングリッシュマフィンのふわふわとした食感が口の中で混ざり合う。舌触りがやさしくて、けれど味は未だにわからなくて、不思議な感覚だった。
名前はもう一口続けてエッグベネディクトを切り、フォークで口に運んだ。本当だったら、どんな味がするのだろうか。塩っぱいのか、それともほどよく甘いのか。イングリッシュマフィンに味はついているのか、それとも卵の味だけなのか。サラダにはドレッシングが少しだけかかっていたから、一緒に食べるとまた違った味になるのかもしれない。
名前はスプーンに持ち替えて、ココットにスプーンをさした。こちらも卵が使われている。きっととろとろなのかもしれない。スプーンに綺麗にマカロニ菜と卵を乗せて、口に放る。マカロニ菜は火が通っているためシャキシャキとはあまりしなかったが、草物特有の噛み応えがある。卵はやはりとろとろだった。
――グラタンの味はどんなだったっけ。
グラタンに似ているのならば、グラタンの味を思い出せば、味を感じられた気持ちになれるかもしれない。
――だめだ、思い出せないや。
思い出してほしいときばかり、大切な記憶は蘇ってこない。思い出したくないときばかり、嫌な記憶は呼び覚まされるというのに。
――はやく、味がわかるようにならないかな。
いつになったら回復するのだろうか。少なくとも、フィガロがつくってくれたこの世界での薬を服薬してからのことになるだろうが、もし身体と合わない薬の場合、治療はさらに長く続くことが予想される。身体に合う薬を見つけることは難しい。
――回復って、どうやったらなるんだっけ。
方法論は熟知している。規則正しい生活リズムに、充分すぎるほどの睡眠と休息。バランスのとれた食事に、ストレスのない生活。それらは時間を掛けて手に入れるものだけれど、手に入れたからと言っても病態はすぐに回復の兆しにのらないのだ。急速に体調は悪化するのに、回復して寛解するまでには膨大な時間を要する。
名前は自分が回復した姿や、味がわかるようになるイメージがつかなかった。それは自分の病態があまり良くないことを指している。回復したときのイメージが持てないのは、そもそも頭が上手に働いていないために、イメージがつかないことを意味している。
――前途多難ってやつだ。
これ以上、状態が悪くならないように気をつけることしか、今の名前にできることはなかった。しかし、薬が切れるのは近いし、生活環境が変わった影響はもう少ししたら症状に現れてくるかもしれない。そうしたら、もしかしたらこうやって食堂でご飯を食べることさえも難しくなる可能性がでてくる。
――しっかり、食べないと。
味わって食べることは、今の自分にはできないけれど、味がわからなくても、見た目の美しさや温かさ、食感を感じ取ることはできる。それに……。
――それに、美味しいのは、みんなの様子を見てるだけでわかる。
名前は顔を上げた。晶やルチル、クロエはにこにこしながら料理を口に運び、時に談笑している。あたたかな食卓。元の場所ではあの孤独の部屋で、一人きりの味気ない作業的な食事しかしてこなかった。それを考えたら、今の食事風景は、まるで夢のような空間だった。
「……食べ終えたら、皿は置いといていいからな」
ネロは静かに告げると、そっとワゴンを押して踵を返す。名前ははっとしてスプーンを置いた。
――まだ、伝えられてない……!
もしかしてこの場にとどまってくれていたのは、様子を見ていてくれたから? と憶測が名前の中に生まれる。
ネロとはまだ出会ったばかりだし、物の見方や考え方もわからない。しかし、名前が食事をするときは、しっとりと降り注ぐ雨のように寄り添ってくれていた気がする。
「? 名前さん?」
「あ、あの、ちょっと、行ってきます……!」
晶の呼びかけに、名前は立ち上がりながら答えた。その間にもどんどんネロは遠くなっていく。すでに食堂から出ようとしているところだった。名前は駆け足で追いかけた。
「ネロさん……!」
「ん?」
廊下に出たところで、ネロを呼び止める。ネロはワゴンを止めて振り返った。
「ネロさん、あのっ……」
「どうした? 食い切れなかったか?」
ネロは片手をエプロンのポケットに突っ込み首を傾げた。まるでモデルみたいな立ち姿に、心臓が高鳴りそうになりつつも、名前は両の手を腹の前で組んで意を決して息を吸う。
「お料理、とっても綺麗で、素敵で、それに、お腹いっぱいになりました。その、エッグベネディクトもココットも、また食べたいって思いました。だから、その……」
言いたいことが上手く整理できていなくて、ひたすら感想を羅列するようになってしまった。まだ食事の準備があるところを、わざわざ足を止めてくれたのに。もっとちゃんとした、綺麗な食レポみたいな感想が言えたらいいのに。
歯がゆさを感じながらも、それでも名前は言葉を続ける。伝えたいことが少しでも伝わるように。味がわからなくても、どれほどネロの食事がこの世界で生きていく上で支えになっているのか。他者との交流の場にしてくれているのか。元いた場所での孤独を、忘れさせてくれているのか。
「ありがとうございます。ネロさんのお料理を食べられて、みんなとも食べることができて、すごく嬉しくて、楽しかったです……!」
恥ずかしいけれど、ネロの顔を見て、綺麗な瞳を見つめて、ちゃんと最後まで伝えたかった。手のひらと指の間には汗をかいていて、バレないようにぎゅっと手を握った。
「……ほんと、アンタはさ」
「っ、え?」
ネロがぼそりと何かを呟いた。名前は聞き取ることができずに首を傾げる。なにか大事なことを話していたとしたら、申し訳なかった。
「いや……ありがとうな。よかったよ、腹一杯になってくれて。『とびっきりの』、作ったかいがあったよ」
ネロの微笑みに、名前は心臓の後ろから太鼓が打たれたように大きく胸を高鳴らせた。自分の言葉で、ネロが表情を和らげてくれた。それが嬉しくて、にやけてしまいそうで、どうすることもできず名前ははにかんでしまう。
「あのさ……」
「? はい?」
ネロはポケットに入れていない手を、首の裏に触れさせた。視線を惑わせてなにかを言いたいような、言えないような様子だった。
名前は静かにネロが言葉を探すのを待つことにした。このポーズをするネロを、名前は見たことがある。昨日、言いにくそうにしているときのネロは、この姿勢をしていた。
「……いや、なんでもない」
「? そうですか……?」
「……それより、よかったな」
「え?」
「ルチルとクロエ、それに賢者さんも。仲良くなったんだろ?」
ネロは首の裏から手を離し、ワゴンの取っ手部分に触れる。
――仲良くなった。
ネロの言葉を噛みしめて、名前は爪を食い込ませるほど手を握る。
「ほ、ほんとうに……本当に、そう、見えますか……?」
名前はネロを見上げた。顎を引いて、視線だけで見上げる。不安が入り交じった視線に、ネロは密かに目を見開いた。
本当に、仲良くなれているのだろか。自分がそう思っているだけで、相手はそうとは限らない。この世界の人は皆優しいから、気遣ってくれているだけなのかもしれない。
名前はこの世界の誰かと過ごすたびに、そういった不安を抱えていた。言葉にするのは相手に失礼で、自分の中に閉じ込めておくには重すぎる不安。まだこの世界に来て二日目で、信頼関係を構築する最初の段階だから、そう考えてしまうのかもしれない。けれど、そうではなかったら。ずっとこの不安と戦っていかなければならないのだとしたら。喜びたいときも、悲しいときも、自分の感情を取り繕っていかなければならないのか。
これは病気の症状であるのか、それとも名前が生まれたときから持っている考え方なのか、名前自身にその判別はできなかった。けれど、誰かに打ち明けたくて、自分の考えを肯定してもらって、『大丈夫だ』と言われて救われたいだなんて、大それたことを考えてしまっていた。
――なんで言っちゃったんだろう。
しかも、相手はネロに。憧れのような、羨望のような、不思議な気持ちを抱く相手に、こんなこと話してしまうだなんて。
「見えるよ」
「っ! え……」
名前は目を見開いた。声が震えた気がした。ネロの幸福色の双眸が、名前を真っ直ぐに見つめていた。
「同じ飯を食って、同じテーブルについて。そんなの、仲良くなきゃできねえことだ」
「…………」
ネロの周囲が淡い世界で包まれていく。そうしてまた、名前は胸にぽっかりと空いた穴の存在を忘れていく。淡い色が名前の胸の穴に流れ込んできて、ゆったりと穴を塞いでいく。次第に、名前の抱える不安は消えていく。他でもない、ネロの言葉で。
「まだこっちに来たばかりだろ? 少しずつでもいいんじゃねえの?」
まるで『そうだろう?』と言いたげに首を傾げるネロに、名前の頬は熱くなっていく。
――そうだ、焦らなくていいんだ。少しずつ、毎日を繰り返して、そうして仲良くなっていけば。
自分の焦りと不安が、一日のうちに波のように揺らいでしまっていることに、名前はこの時初めて気づかされた。
「あ、ありがとうございます……。すみません、突然こんな話……」
恥ずかしさと申し訳なさで、名前は視線を落とす。手を握る力はもうほとんど抜けていた。
「――仲良し記念に、今夜は美味くて腹一杯になるもん作ってやるよ」
「え……?」
ネロの明るい声音に、名前は弾かれたように顔を上げる。ネロは淡い色をまといながら、優しそうに微笑んでいた。
「そんで、またあいつらと一緒に食えばいい」
「……はい!」
背中を押してくれるような、歩く場所を導いてくれるような、ネロの優しさには光に近いものが込められていた。
ネロとの会話を終えて、名前は食堂に戻った。晶とルチル、クロエはすでに完食しており、名前は残る自分の食事を進めた。三人はまるで名前が食べ終わるのを待っていてくれるかのように談笑しながら待っている。名前は早く食べなければと焦る気持ちの反面、大切に食べ終えたい気持ちもあり、葛藤しながらも食事をしていた。
「――あら? ミチル?」
ルチルの声に、名前は顔を上げる。ミチルという名前は、ルチルと中庭にいたときに、彼とレノックスが話していたときにでてきた名前だった。話の雰囲気から察するに、ミチルと呼ばれていた人も、南の国の魔法使いなのかもしれない。
ルチルの視線を追うように顔を動かすと、食堂の入り口には明るい茶髪の男の子が立っていた。何かを我慢しているかのように腹の前で両手を組み、眉間にしわを寄せつつも困ったように眉を下げている。
「……っ!」
「待ってくださいミチル! どうして逃げるんですか!」
ミチルは両目をぎゅっと握ってその場から去ってしまった。後ろにいた薄い金髪の少年が、ミチルを追いかけていく。
「ミチル、どうしたんでしょう」
「何かあったのかな?」
「……あとでミチルに話を聞いてみますね」
晶とクロエ、ルチルが話をする中、名前はふとある可能性に気づいてしまう。
――もしかして、私がいるからかな。
ミチルと呼ばれた少年と、一瞬だけ視線が合った気がした。そのあとすぐに目を逸らされて、彼は出て行ってしまった。考えすぎかもしれないが、その行動からすると、完全に自分が原因としか思えなかった。
――悪いことしちゃったな。
もしかしたら、晶やクロエ、ルチルと一緒にお昼を食べたかったのかもしれない。南の国の魔法の授業が、フィガロの不在によって延期になって気を落としているところに、拍車を掛けてしまった。
名前は最後の一切れのエッグベネディクトを頬張る。味はしないのに、罪悪感の味が口いっぱいに広がった。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて挨拶を済ませると、三人は楽しそうに話しかけてきた。
「そういえば、名前はもう、魔法舎の中は全部見て回ったの?」
「え……? いいえ、まだ全然です。どこになにがあるのかもわかっていなくて。食堂と厨房と、談話室くらいしかわからないです」
「魔法舎は広いですもんね」
「私も来たとき、部屋を覚えるの苦労した記憶があります」
クロエの質問に答えると、ルチルと晶はしみじみと呟く。よかった、皆似たようなことを感じていた。自分だけではなかった。少しだけ雲間に光が差すような気持ちになる。
「あの……どこか、おすすめの場所とかは、ありますか?」
名前は話してから後悔した。こんな言い方、まるで観光場所に来たみたいな言い方じゃないか。頬が熱くなっていくのを感じて視線を落とす。この場所は観光場所なんてものではなく、共同生活をしている場所だ。いわば大きな家のような、イメージはマンションのような、設備としては大学のようなものである。言葉選びを間違えてしまったがもう遅かった。
「図書室はすごいですよ! 本がたくさんあって、これまでの賢者様が書かれた『賢者の書』もたくさん置いてあるんです」
「そうだなあ……場所じゃないけど、ラスティカの演奏は最高だよ! あ、まだラスティカとは会ってない?」
「シャイロックさんのバーなんてどうでしょう!」
三人は名前の言葉に気にもとめずにそれぞれおすすめの場所や物事について教えてくれる。
「えっと、図書室と、ラスティカさん? の演奏と……シャイロックさんのバー……」
名前が覚えるために復唱していると、コツコツと靴音が近づいてきた。
「おや、クロエ。賢者様とルチルも。昼食はもう済んだのかな?」
「ラスティカ! もー、今まで寝てたんでしょ!」
「ごめんごめん」
名前は顔を上げた。この人が、ラスティカ。高い身長に気品の良さが伝わってくる洋服、そしてなぜかぴょんぴょん跳ねているミルクティー色の髪。
――寝癖……?
クロエが見かねて櫛で梳かしている間、ラスティカは平然としながら空いている席に座った。
「おや、君は……」
「紹介するね。こっちが名前。で、こっちが俺のお師匠のラスティカ。西の国の魔法使いで、有名なチェンバロ奏者なんだ」
「初めまして、名前です」
「初めまして。昨日は演奏を味わってもらえなかったから、今度はぜひ聴いてほしいな」
ラスティカの言葉を聞いて思い出す。そうだ、この世界に来たばかりのとき、演奏の話をしていた人がいた。あの人が、いま目の前にいるラスティカ。
「私も、聞いてみたいです」
チェンバロの演奏は聴いたことがなかった。チェンバロ自体見たことがない。名前は胸の底からわくわくとした気持ちがシャボン玉のように浮かんでくる。
「嬉しいな。ではまたあとでお聴かせしよう。じゃあ僕はお昼を食べてくるよ。ネロにも挨拶しないとね」
ラスティカは立ち上がる。ネロに食事をもらいに行くのだろう。背筋がピンと伸びている歩き方は『紳士』という言葉がぴったりだった。
「もう、ラスティカったら。あんなに寝癖つけて」
「でもラスティカさんも、クロエに整えてもらうの嬉しそうにしてたよ」
「きっと、クロエにやってもらうのが好きなんでしょうね」
「そ、そうかな……」
ルチルと晶の言葉を聞くと、クロエはすぐに嬉しそうに微笑んだ。名前もつられて頬が緩む。クロエはラスティカのことを師匠だと話していたが、ラスティカの世話を焼く様子は正反対のようにも見えた。しかしそれはこれまで二人が構築してきた信頼関係があるからこそなのだろう。
『ラスティカは、俺のお師匠なんだけど、ひとりだった俺を引っ張って、いろんな世界を見せてくれたんだ』
クロエの言葉を思い出す。ひとりだった時に引っ張ってくれて、いろんな世界を見せてくれた。
――まるで、私にとってのネロさんみたい。
淡い世界に連れ出してくれた、導いてくれた。知らない世界を教えてくれた。寂しいということがどういうことなのかを教えてくれた。ネロといると、胸にぽっかりと空いた穴が塞がっていることに気づかせてくれた。
――なんだろ、こういうの……。
嬉しくて、でも恥ずかしくて。それでも『もっと』を望みそうになって、けれど勇気が出なくて。
名前は不思議な感覚に、胸をそっと押さえた。