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晶たちから図書室とシャイロックのバーの場所を教わった名前は、まず図書室に行くことにした。昼食後そのまま三人と行ければよかったのだが、三人とも用事が控えているらしく、名前は再び一人での冒険をすることになる。
図書室に到着する。扉の造りは他の部屋と少しだけ違う気がした。重厚な扉を開くと、壁一面、天井まで本がずらりと並んでいる。名前は開いた口が塞がらなかった。
――すごい! かっこいい……!
まるで外国の有名な図書館のようだった。ここにある本は言語が違うため読めないが、名前の胸を熱くさせるには十分だった。
埃が立つのを控えるように、慎重に足を運びながら、棚一つひとつをじっくり見て回る。ここにあるのは魔法に関わる本なのだろうか。そう考えただけで、これまでの人生で出会ってきた魔法を題材にした創作物を思い出し、わくわくしてくる。
背表紙は細い線が入り組んでいるデザインのものや、本のタイトルらしき言葉のみが書かれているもの、どちらも筆記体のような美しい筆跡で記されている。
しばらく本を眺めていると、小さな物音がした。それは背中側から聞こえた気がする。振り返ってみると、そこには美しい男の子が立っていた。
「あ……すみません。お邪魔でしたよね?」
名前は棚の前から退いた。何冊か本を抱えている青年は、見るからに本棚に用事があるように見える。
「……いえ、すみません。俺の方こそ」
目をそらして小さな声でぼそぼそ話す。この感じ、初めてネロと話したときに似ている。あまり話したくないような、会話するのが苦手な感じ。
――あまり話しかけない方がいいかな。でも初対面だから挨拶はした方がいいだろうし……。
青年は棚をじっと見つめて本を探していた。横顔は気品が溢れており、切なげな様子が美術品のように美しかった。
――綺麗な顔だな。
まだ挨拶をしたことがないので、相手の名前がわからない。やっぱり礼儀として挨拶をするべきだろうか。
悩んでいると、コツコツと足音が近づいてきた。
「おいヒース、あったか」
棚の向こうから現れたのは、黒髪に赤い目をした少年だった。
「まだ見つけてるところだよ」
「ふーん。お前……ああ、媒介か」
「! は、初めまして」
予想していたよりも低い声、それに話しかけられたことに驚きつつ、名前はようやく挨拶をする。
「こんなところで何してるんだ。……まさか、ヒースになにかしようと企んでるんじゃ――」
「やめろシノ! そんなことするわけないだろ!」
「わからないだろ。賢者と同じ世界から来たといっても得体が知れないんだ」
「彼女はただここで本を見ていただけだ! 俺がそこにやって来ただけだよ……!」
「……本当か?」
シノと呼ばれた少年の赤い目が名前を射貫く。今まで見たことのない色の瞳にドキリとしつつ、名前は自分が緊張していることを感じながら返事をした。
「はい……お邪魔しちゃってすみません」
「……悪かったな」
罰の悪そうにそっぽを向く姿に、名前は少しだけほっとした。急に威嚇のようなことをするのには、理由があったのだ。おそらく、この金髪の青年を守るために行ったこと。二人は相当仲が良いことがうかがえる。
「えっと、じゃあ……その、失礼しました」
名前は軽く頭を下げてその場を去ろうと決める。顔を上げたときに二人の顔を見るのはやめた。警戒しているような、距離を置きたいような様子の人を、じろじろ見るのは良くないと考えたからだ。
名前は早歩きで二人の視界から消えて、棚の間を練り歩き、図書室をでる。バタンと扉が閉まる音がして、名前は扉に背中を預けた。
「緊張した……」
二十数人生活しているのだから、様々な人がいて当然である。まるでファウストと話したときのようなピリピリとした空気感が、彼らとの間にはあった。
「もしかして……東の国の魔法使い?」
自己紹介をしていないので憶測であるが、まとっている空気感が、ファウストやネロに似ていた。魔法使いは国や土地柄によって似たり寄ったりというらしいから、もしかしたらそうなのかもしれない。
「そういうことか……」
土地柄で似ているということを目の当たりにして、名前はようやくルチルの話していたことを理解することができた。
次に二人に会ったときは自己紹介がし合えるような、そんな関係に発展していると良いと願いながら、名前は廊下を進んでいく。
図書室を後にした名前は、次はどこに行こうかと悩んでいた。クロエに教わったおすすめのところは、ラスティカの演奏。これはラスティカに会って演奏してほしいと頼まなければ難しい。
「じゃあ、シャイロックさんのバーかな……」
教わった部屋の場所を思い出しながら、名前は歩き出す。
バーということは、シャイロックは酒を作ることが上手なのだろうか。バーには行ったことがないため、酒を飲む場所という印象しかなかった。生憎、名前は体調の関係でアルコールを摂取することはできないから、縁のない場所である。
「……それでも行っていいのか――わっ」
前を向かずに歩いていたため、名前は角を曲がったところでぶつかってしまった。大きく身体がよろけた名前は、そのまま後ろに倒れそうになってしまう。ぎゅっと目を瞑ると、ぐっと腕が引っ張られた。たたらを踏みながら引っ張られた方向へ身体は倒れぶつかっていく。
「悪い! 大丈夫か?」
頬に相手の髪がかかっていることに気づいた名前は、すかさず体制を整えて距離を取る。
「すみません! 前を見ていなかったばっかりに!」
身体を離して相手を見ると、まるで騎士のような格好をして青年が立っていた。
「俺も考え事をしていたんだ。怪我はないか?」
「大丈夫です。あなたは……?」
「俺は大丈夫。鍛えているからな」
誇らしげに自分の胸を叩く姿は、少しだけ少年の顔つきになっていた。名前は挨拶をするのならば今だと察し、自己紹介をする。
「えっと、初めまして。苗字名前といいます。名前が名前です」
「名前か! よろしくな! 俺は中央の国の魔法使いカインだ!」
ひまわりが咲くように明るく笑うカインに、名前は眩しくなって目を細めそうになってしまった。
「名前は晶と同じ世界からやってきたんだろ? 今度いろいろ教えてくれ」
「は、はい……」
眩しい。太陽のように眩しい。名前はルチルの話を思い出す。中央の国は都会だと話していたから、カインは生粋の都会っ子ということになるのだろうか。
――都会っ子というより、陽キャ……。
明るすぎる性格や振る舞いは、名前には縁のないものだった。例えるのならば、大学でキラキラと輝いている人気者の学生である。または若手俳優のように自分の魅力を熟知しているような感じ。
「名前はここで何をしていたんだ?」
「えっと、魔法舎の中を見て回っていて。さっきは図書室に行ってたんですが、今度はシャイロックさんのバーに行ってみようかと」
「そうか! 探検中だったのか!」
この歳で探検というワードを使われてしまうと恥ずかしさがでてしまうが、事実だった。
「シャイロックのバーの場所はわかるか?」
「はい。ルチルさんたちに教わって」
「もうルチルと仲良くなったのか! 早いな!」
「っ……」
カインはなんでも肯定的に返答をしてくれる。それが眩しくてキラキラしていて、名前は思わず胸を押さえてしまう。
「どうした? 胸が苦しいのか?」
「あ、いえ、大丈夫です。すみません……」
優しさのような、紳士のような振る舞いは、名前がこれまで受けたことのないもので、戸惑ってしまう。なにか裏があるのではないかと勘ぐってしまうが、裏がないということは一目瞭然だった。
「そっか。なにかあったら、いつでも呼んでくれ。あんたの力になるよ」
「えっ、あ、ありがとうございます……」
「あ、あと、俺は手に触れてもらわないと相手が見えないんだ。だから、俺を見かけたらハイタッチしてくれ」
「? は、はい、わかりました」
「じゃ、またな」
カインは風のように去っていく。名前はカインの姿が見えなくなったのを確認して、よろよろと壁に手をついて体重をかけた。
「なんか、すごかった……」
――今どきの若い子はあんな感じなんだ。
ルチルやクロエの明るさも眩しかったが、カインの明るさは二人の非ではなかった。もはやジャンルが違っていた。
――中央の国、恐ろしい……。
名前はよろよろと踏ん張りながら、シャイロックのバーを目指して足を進めた。
シャイロックのバーに到着する。おしゃれな扉の造りに、名前は緊張が募ってしまう。どういう作法で入るのかもわからずオロオロしてしまいそうになったが、とりあえずノックを数回してから入ることにした。
「どうぞ。お入りになって」
中からシャイロックの声が聞こえて、名前は背筋を伸ばして入室する。
「こんにちは……」
「珍しいお客様ですね。やっと来てくださいました」
シャイロックはバーカウンターの中にいた。カウンター後ろの壁には一面に酒のボトルが並べられている。バーの中は広い空間となっており、カウンター席の他にソファ席が設けられていた。談話室にあったような、ふかふかのソファに似ている。丸テーブルがいくつかあるのと、大きなビリヤード台が置かれていた。
シャイロックはパイプを吹かしながら美しく微笑んだ。
「あの、私、バーって初めてで、なにもかもわからないんですけど……大丈夫ですか?」
「おや、嬉しい。あなたの初めてを私にくださるのなんて。光栄ですね」
「えっ……」
言い方がなんとも言えずに固まってしまうと、シャイロックは楽しそうに笑った。
「ふふっ、可愛らしい人。こちらへおいでになって」
導かれるように名前はバーの中を進んでいく。シャイロックの目の前の席を視線で通されて、椅子に座った。
「今日はどうしてこちらに?」
「魔法舎の中をいろいろ見ていて、ルチルが『シャイロックさんのバーはおすすめ』って教えてくれたんです」
「へえ、ルチルが。それは嬉しいですね」
「あの、でも、私、バーの作法をよく知らなくて……それにお酒も飲めなくて」
「そうでしたか。大丈夫ですよ。作法などあってないようなものです。それに、ノンアルコールもありますから」
「本当ですか?」
「さて、何になさいます?」
「あっ……お代とかって……?」
「ふふっ、今日はサービスですよ。あなたの初めてをいただけるのなら」
「あ、え、ありがとうございます……」
シャイロックは優雅な手つきでドリンクを作り始める。
瓶に入った夜明けのような紫色の飲み物と、いくつかのフルーツを取り出し、シャイロックは魔法をかけるような手つきで作っていく。
「ノンアルコールのドリンクは『モクテル』とも呼ばれます」
「モクテル?」
「モク……正式にはモックと言いますが、これは『真似る』という意味です」
「真似るカクテル……ってことてすか?」
「正解です」
にっこりと笑うシャイロックは絵画に出てくる美丈夫のようで、見惚れてしまいそうになる。
「さあ、どうぞ。ノンアルコールのサングリアです」
「わあ……ありがとうございます……!」
数種類のフルーツがグラスに入ると、夜明け色の飲み物は朝焼け色に変わっていた。底に向かって少しだけ広がっている楕円形のようなグラスに、たっぷりとフルーツが入っている。
名前は片手をグラスに触れて、もう片方の手でストローを摘んだ。ゆっくりと口をつけて飲み込む。口の中が一気に爽やかになる。けれど、それだけではなくて、まるで恋焦がれるような、もっと味わいたいような気持ちにさせてくれた。味は分からないけれど、きっととても美味しいだろう。
「綺麗です、全部飲むのがもったいないくらい」
フルーツも一緒に頂いてもいいのだろうか。ストローを持ち上げると、先端がスプーンになっており、名前は恐る恐るスプーンでフルーツを掬い、口に運ぶ。一気に口の中が瑞々しくなり、名前は目を見開いた。ごくりと飲み込み、名前はまじまじとサングリアを見つめる。まるで魔法の水でも飲んだかのように、口の中いっぱいにサングリアが広がっている気がする。
「無理して感想を伝えなくてもいいんですよ」
「……え?」
名前はシャイロックの言葉が一瞬理解出来ず、瞬いた。シャイロックはパイプを吹かしながら綺麗に微笑む。
「言ったでしょう。作法なんてあってないようなものだと。西の国の魔法使いは欲望やめちゃくちゃなことが好みなんですよ」
「えっと……」
「感じたままに、思うがままに、心のままに振る舞えばいいんです」
「…………」
シャイロックの言葉は雫のように名前の心に染み渡る。パイプの煙がふわりと名前の周りに漂った気がする。そうやって音もなく静かに、けれど優雅に、シャイロックの言葉は名前の心に刻まれた。
――もしかして……。
名前はひとつの可能性を導き出す。そうだ、シャイロックは西の国の魔法使いの先生役だ。それならば、フィガロから名前の体調についての話を聞いているだろう。その事実と、シャイロックからの言葉に、名前は無意識のうちに込めていた肩の力が抜けるようだった。
無理に感想をこれまで伝えてきたつもりはなかった。しかし、料理を提供されている以上、なにか感想を感謝とともに伝えた方がいいのではないかと考えていた。それが、料理を受け取っている身として、居候の身として当然だとも捉えていた。
感想を伝えなくても良いと伝えられると、それでは何をすればいいのかと悩んでしまう。名前はグラスの縁をなぞった。
「私、無理に言おうとしてた……んですかね」
「さて、どうでしょう」
明確なことを言わないシャイロックの言葉は、ふわふわと漂う煙のようだった。掴もうとしても掴めない、高いところにいそうだけれど、同じ視点まで降りてきてくれるような人。シャイロックは上品さを身にまとった蝶々のようにも名前の目に映る。
「――これでも、私は少し、あなたに怒っているんですよ」
「え……」
ひゅっと息を呑んだ。時間が止まった気がした。心臓が掴まれたようにグッと痛みを感じる。
「あなた、自分が患者の立場だからと、フィガロ様にすべてを託したでしょう。あの人は洗いざらい話しましたよ、私たちの前で」
シャイロックの手が伸びてくる。名前はびくりと肩を震わせて目を瞑った。すると、顎の下に指先が触れて肌がそばだってしまう。そっと瞼をあげると、麗しい顔が迫っていた。
「太古より、真名を教えるのは魂を差し出すと言われています。あなたがあの人にしたことは、それと同じこと。自分の身をさらけ出し、あの人に自分の命運を委ねたのです。出会ったばかりの相手に」
指先がくいっと顎を持ち上げる。名前は魔法に掛けられたように顔が上がる。シャイロックの顔は目の前にあった。
「なぜ?」
「なぜって……でも……フィガロさんは医者で、私は患者ですから……」
その関係がすべてと言っていい。医者は患者の情報を取り扱う者である。フィガロが行ったことは、結界の強化にかかわる重要な情報交換であり、共有すべき事項であったはずだ。
「あなたは……自分が被害者だという意識はおありで?」
「え……?」
「突然この壊れかけの世界に召喚され、了解もしていないのに役目を担わされた」
モルガナイトを赤ワインに浸したような瞳が、怪しい光を携えて名前を射抜く。
「あなたは、搾取されるだけの人間ですか?」
「っ……」
まるで、怒ってもいいのだと言ってくれているようだった。勝手に連れてこられ、勝手に役目を担わされて、勝手に生活を変えられて。了承というよりも従わせる形をとっているようなやり方に、怒りを感じてもいいのだと。自由に振舞ってもいいのだと。
シャイロックが代わりに怒ってくれているようで、名前は鼻の奥がツンとした。
「っ……それでも、私は、こうするしか道がありません」
小さな声は、シャイロックの唇を一瞬だけ震わせた。
「役目を担うしか、体調を治すしか、私には方法がありません。この世界で生きていくには、従うしかないです」
――ダメだ。ここで口を閉じないと。
しかし、名前の口は思いとは裏腹に勝手に動いていく。言いたくなかった黒々しい腹の底に溜まっていたものが、言葉となって漏れていく。
「でも、不都合があるのはきっと、私の方じゃなくて、ここの皆さんなんです。せっかく召喚した媒介が使い物にならなくて、しなくてもいい治療をしなきゃいけなくて、気を遣わなきゃならない」
面倒事を背負っているのは、この魔法舎にいる人々の方だ。じわじわと黒々しいものが体の中を駆け巡り、胸を通って、最終的に脳を支配する。ああほら、また、胸にぽっかりと穴が空いているような感覚がする。
「……厄介者の世話だなんて、誰だって迷惑なはずです」
ぽつりと呟いた言葉は、シャイロックに向けたものなのか、はたまた自分に向けた言葉なのか。
これは症状の自責が関係している思考からくる言葉なのだろうか。いいや、そんなことは無いはずだ。これは紛れもない事実で、誰から見ても変わらない真実で、受け入れるべき現実である。
「そうだよ!」
「っ!?」
紫色が視界の端に飛び込んできた。顎を指に絡めとられているため、名前は視線のみずらして確認する。突然現れたのはムルだった。
「自分のことを厄介者扱いするだなんてイカれてるね! イカれてるって最高!」
「ムル、下品ですよ」
シャイロックの指先が顎から離れていく。シャイロックは綺麗に背筋を伸ばした。
「え、あ、いや。いいんです、別に」
名前も同じように姿勢を直す。自分とシャイロックの間にサングリアがまだ残っていることを忘れていた。グラスには結露した露がいくつか滴っている。
「自分がイカれてるのは……まあ、自覚してます。そのことについて、シャイロックさんがフィガロさんから話を聞いたことは知ってますし、他の方にそれを話したり話さなかったりも自由ですし……もしかしたら話されなくても気づいている方も多いと思いますから」
ムルの瞳を見つめ返すことは出来なかった。爛々としている双眸にまるで追いかけられているようで、この場から逃げ出したくなってしまいそうだった。
「へえ! 自分の立場を理解してるんだ! それはどうして?」
「えっ……どうして、と言われても」
「突然役目を伝えられて、でも全うする能力がなければ、人はきっと混乱する! 受け入れるのに時間がかかるはずだよ! でも、その様子だと時間はかからなかったみたい! どうして? 受け入れるメリットでもあるの?」
「メリット……」
名前は視線を落として思考する。媒介の話をされて、混乱したし、受け入れるのだって苦労した。しかし、時間がかからなかったと言えば事実なのかもしれない。まだこの世界に来て二日目だけれど、媒介のことを受け入れている自分がいる。
――メリット。
しかし結局は、それが事実だからとしか言いようがなかった。自分が媒介という事実、体調が回復しなければ、媒介として機能しないことが事実。媒介だからこそこの魔法舎に置いてもらっている事実。
「――自分がひとりじゃないって、思いたいからじゃない?」
「っ……」
ムルの楽しげな声に、名前は息が詰まったかのようだった。
「役目を全うするために努力する姿勢を見せれば、みんなは優しくしてくれる! ひとりじゃないって思える!」
「ムル」
「なーに? シャイロック。今ちょうど面白い話をしているんだ!」
ムルが顔を覗き込んでくる。名前は少しだけ体を引いた。しかし、ムルはそれに気づいているのかいないのか、さらに距離を縮めてくる。
「ひとりってどんな気持ち? 突然異世界にやってきて、帰れない気持ちはどんな? ひとりじゃないように努力するって、自分が孤独だっていうのを思い知ることにならない?」
「…………」
名前はすぐに言葉を探せなかった。
――ムルさんの言う通りなのかもしれない。
媒介としての役目を受け入れることが運命なのだとしたら、運命を受け入れることで、自分は居場所を得ることができた。媒介だからここの人々と関われている。ただの人間ならば、関われていないだろう。右も左もわからない世界で、騙され踏み躙られ生きていくしかない。
「ひとり、は……」
『ひとり』とは何か。今までの人生で『ひとり』だと感じたことはあったか。名前はこれまでの出来事を振り返って考えてみる。ムルとシャイロックの視線を受けとめながら、名前は考えてみたものの、答えはすぐに見つけ出せた。
「『ひとり』は……わからない、です」
「へえ?」
ムルが面白そうに眉を上げる。まるで『続けて』と言っているようで、名前は話を続けた。
「わからないことが、『ひとり』ってことなのかなって、思うんです。昔、体調が悪くなったとき、何が何だかわからなくて、病院の先生から説明されたことも理解できなくて、見通しがつかないし、希望も見えなくて……何もわからない状態の時に、『ひとり』だって思いました」
発症、そして診断が下った時は、真っ暗闇の中に一人取り残されてしまったかのようだった。病気の原因や概要もわからないまま、ただ薬を飲んで、眠りについて、起き上がれない日々が続く。何も変化がないのに、ただ息をして過ごしているかのような生活の繰り返し。身体も心も重くて、身体も心も痛くて、この真っ暗闇からの抜け出し方を見いだせない中、希望なんて抱くことも出来なかった。
「そのときが、一番『ひとり』だと感じたときかもしれないです。この世界にやって来ても『ひとり』だと感じることは、ないわけじゃないんです。でも、皆さんが優しくしてくださるから、もしかしたらそれで紛らわしているのかもしれないです」
部屋から、ベッドから抜け出せなかった日々と比べれば、今は他者と顔を合わせているだけで『ひとり』だと感じることは少なくなった。ムルの言う通り、媒介としての役目を果たすため、媒介だから優しくしてくれている人もいるのかもしれない。それはきっと無意識下で行われている判断のため、心から優しくしたいと思っている人、媒介だからと建前がある人との違いは、一目ではつかなかった。それでも、他者と関われていることは、名前にとっては成長に近いものである。
「一人になると、『ひとり』だと感じると、胸にぽっかり穴があいたような気持ちになって、それは埋まることがほとんどなくて、でも……」
名前は片手を胸に触れさせる。この独特の感覚は、最近正体を知ったものだ。これは『寂しい』気持ちなのだと、教えてくれた人がいた。
「でも、最近……埋まる方法を、見つけて……」
瞼の裏にこびりついている姿、彼のまとっている淡い世界。耳の奥でこだまする優しい低い声。彼が提供してくれる、想いのこもった料理。それら全てが、名前を『寂しい』世界から連れ出して、胸にぽっかりと空いた穴を塞いでくれる。
「どうやったら埋まるの?」
「そっ、それは……」
ムルがわくわくした表情で質問してくる。名前は言い淀んでしまう。
――ネロさんといるとき、だなんて、絶対に恥ずかしくて言えない……!
頬がかっと熱くなった気がして、名前は静かに俯いた。
「ひ、ひみつ、です……」
「えー! つまんない!」
「おや、可愛らしい」
ムルとシャイロックの言葉から逃げるように、名前は残っているサングリアを飲み進める。たくさん話したから、喉が渇いてしまった。喉に通っていくサングリアは爽やかで瑞々しく、残りを全て飲み干してしまった。
『私は少し、あなたに怒っているんですよ』
シャイロックの言葉を思い出す。まだ怒っているのだろうか。名前はチラリと上目でシャイロックを盗み見る。すると、パチリと視線がかみ合ってしまい、美しく微笑まれてしまった。
「っ……」
名前は恥ずかしくなって視線を落とす。誤魔化すように、スプーンでフルーツを掬って口に運んでいく。咀嚼しながら、シャイロックの言葉ももう一度思い出して噛み砕いていく。
怒ってもいい。けれど、怒りが湧いてきたというよりも、名前を襲ったのは混乱と自責の念だった。スノウとホワイトの前で懺悔した時の感情が、この世界にやってきて一番感情が揺さぶられた時かもしれない。
「……怒るにも、エネルギーが必要です」
ぽろりと零れでた言葉は、一回では済まなかった。誰に話しかけるわけでもなく、自分自身の心の整理のために話しているという方が正しいのかもしれない。
「私にはそのエネルギーが足りないから、もしかしたら、そのせいで怒らないだけかもしれない」
怒りのエネルギーは、心身が健康でないと湧き出てこないものだと考えている。弱っている状態の今、怒りを湧き起こすまでのエネルギーを捻出することが、名前にはできなかった。
「でも、怒っていいんだよって、まるで言ってくれてるみたいで、シャイロックさんの言葉、すごく励みになりました。ありがとうございます」
名前はようやく顔を上げる。感謝を伝えると、シャイロックは一瞬だけきょとんとした顔をした後に、にっこりと微笑んだ。
「おかわり、いかがですか?」
「えっと……いただいてもいいですか? あっ、でも、お代が……」
「もちろん。大丈夫ですよ、ムルが奢りますから」
「にゃーん!」
いつの間にか隣の席に座っていたムルが、椅子の上で猫のようにくるんと体を丸めて上半身をテーブルに突っ伏した。奢ってもらうには申し訳なかったが、シャイロックの笑みに何らかの圧を感じてしまい、名前は申し訳なさそうに呟く。
「ムルさん、ごちそうさまです……」
「シャイロック! つけておいて!」
「うちはそのようなサービスしていません」
ムルの元気な一言を、シャイロックはピシャリと跳ね除けた。