1-2-8
シャイロックのバーで名前はシャイロックやムルと打ち解けた後、他の場所も探索してみると話してバーを出た。西の国の魔法使いは悪戯好きとクロエが話していたが、ムルは確かに悪戯が好きなようで、名前に魔法を使って小さな悪戯をしかけてきた。名前はその悪戯一つひとつを思い出しながら、自然と頬が緩む。おしゃべりも沢山したし、沢山笑わせてもらった。新鮮な気持ちで踏み出した一歩は、まだ行き先を決めていなかったが、少しだけ前向きな気持ちになれたような気がする。
「どこに行こうかな……」
残されたおすすめの場所は、ラスティカの演奏を聴くことだった。しかし、ラスティカとは食堂で会ったきりであり、今どこにいるのかわからなかった。彼を探し出して『演奏を聴かせてほしい』と頼むのも、図々しい気がしてしまう。ラスティカならば「喜んで」と答えてくれそうだが、名前の心持ちがあまりよくなかった。叶うのなら、ラスティカが演奏しているところに出くわして、彼の演奏を堪能したい。
ラスティカとはまだあまり話せていない。西の国の魔法使いということだから、寛容な振る舞いをしてくれると想像つくけれど、まだお願いをする段階まで信頼関係は築けていなかった。
名前は考えつつ廊下を歩いていると、ふと目の前に人の気配を感じて立ち止まる。顔を上げると、そこには食堂で一瞬見かけた、薄い金髪の少年が佇んでいた。
「あなた、媒介様ですよね?」
両手を胸の前で組み、お祈りしているようなポーズをする少年は、見た目のイメージとは少し違って固い声で名前に話しかける。名前は途端に緊張感が走り、肩に力が入ってしまった。
「えっ、あ、はい……」
「お話したいことがあるのですが、かまいませんか?」
名前の恐る恐る返事をした様子に目もくれず、少年は要件をはっきりと伝えてくる。言葉や空気感の圧が重く、名前は頷くしか選択肢が見当たらなかった。
「は、はい……」
名前はこれから自分がどうなってしまうのか全く見当がつかず、少年のあとについていくことになった。
少年が「どうぞ」と話して入室したのは、おそらく彼の自室だった。どちらかというと殺風景に近い印象を持つような室内は、限られた物しか置かれていなかった。ベッドと机、椅子に低いチェスト、そして真っ白な絨毯。机の上にはランタンが置かれており、壁には魔方陣のようなものが描かれた紙が貼られている。丁寧に使い込まれている家具は、一見汚れや傷のようなものがなく、彼の服装からまるで修道女の部屋のような印象を得た。
「座ってください」
先に絨毯に座った少年に、名前は続くように座ろうとするが、動きを止めてしまう。外靴のまま絨毯に座ってしまったら、汚れてしまうのではないかと不安になる。この世界は欧米のように外靴のまま過ごす文化だったが、名前は未だ染みついた習慣である靴の着脱から切り替えができないでいた。
「? どうかしましたか?」
「えっと、このまま座っても大丈夫ですか? 絨毯が汚れたりとかは……」
「大丈夫です。上手な洗濯の方法も知っていますし、魔法でも綺麗にできます」
きっぱりと言いのけた少年は、少しだけ誇らしげだった。
――もしかして可愛らしい人なのかも……?
名前に少しだけ希望が湧いてくる。未だに名前も知らない相手だったが、魔法使いであるだろうけれど、どこか人間味あふれる一面を垣間見れて、緊張が解れていくようだった。
「えっと、初めまして。名前といいます」
名前は絨毯に座りお辞儀をしながら自己紹介をする。数名ここで暮らしている魔法使いと自己紹介したが、誰も名字らしき名は名乗っていなかったため、名前も名乗るのを省略していた。その方が、『名前は名前のほう』と伝えなくて済む。
「中央の魔法使い、リケです」
他の魔法使いたちよりも幼い顔立ちに、高校生くらいだろうかと年齢を当てはめている。すらりとした身体に、少し細めの足が妙に生々しく目に映り、食が細いのか勘ぐってしまった。
「えっと……それで、リケさんは私になにかご用で……?」
名前は自分の方が年上という自覚もあり、話を進めていく。リケは話しかけられて大きな目を丸くしたのちに、視線を落としてしばらく考え込んでから口を開いた。
「あなたは、悪い方なのですか? それとも良い方なのですか?」
「……え?」
名前はぽかんとしてしまう。リケの質問があまりにも漠然としていた、名前は面食らってしまった。
――悪い? 良い? いったい何をもってして……?
苗字名前という人間は、悪い人なのか、それとも良い人なのか。名前は数瞬間考えてはみたもののまったく答えが思い浮かばずに、降参といった様子でリケに質問した。
「どうして、その質問をするのか理由を伺っても……?」
名前が問いかけると、リケは再び下を向いてしまう。何か言いにくいことでもあるのだろうか。名前はリケの言葉を待ってみることにする。
「ミチルが……」
「ミチルさん……?」
しばらくすると、リケがぽつりと呟いた。ミチルというのは、確か南の国の魔法使いで、食堂に入らず逃げてしまった少年である。まだ話したことはないけれど、ルチルの話からすると真面目で勉強熱心な人という印象を受けた。
「あなたは、賢者様と同じ世界からやってきたけど……賢者様はお優しい方だけれど、あなたは違うかもしれない、と……」
「……なるほど」
リケの言葉に相づちを打ちつつ、名前はなんとなく、リケとミチルが言いたいことを推測した。
――良いか悪いかで、関わるかどうかを決めたい……ってことかな。
いい人であれば、これから交流し、悪い人であれば交流を断ち、避け続ける。そうやって関わる相手を選別して、交流方法を変えて過ごしていく。まっとうな考え方だった。誰しも害のある人とは一緒にいたくないし、もし自分に危害を加えられてしまうのなら、自分の身を守りたいと思う。それは正当な防衛本能だ。
――でも……。
名前は考え続ける。だとしたとしても、リケの質問について、どう答えればいいのだろうか。悪い人か、良い人か。これはとても難しい質問であり、正解はあるだろうけれど、それは無数にあって、自分で導き出すしかない。
名前は伝わってほしいことを願いながら、言葉を選びつつ口を開いた。
「えっと……すごくお答えしにくいんですが……」
「はい。なんでも言ってください」
真っ直ぐに見つめられて眩しく感じてしまう。純真というか、汚れをあまり知らないようなリケの姿は、まるでこの真っ白な絨毯のようだった。
「それは、『誰にとっての』悪い人で、良い人、という意味ですか?」
「……え?」
リケは目をまん丸くする。予想していない質問だったのだろう。リケは顎に手を当てて、明後日の方向を向いて考え出す。
「誰にとっての……それは……僕の? いえ、僕だけじゃなくて……」
リケはうんうん言いながら考えている。しかし答えが出ない様子で、明確な質問の答えは返ってこない。名前は助け船を出す気持ちで付け加えた。
「この魔法舎で暮らしている人ですか? それとも、魔法使いの人? それとも人間?」
名前は自分から優しい声が出ていることに気づく。明らかに年下である少年に、まるで諭すように話を続ける。
「人の印象やレッテルというのは、見た人の立場によって違います。魔法使いと人間の間に溝があり、互いに良くないことを思っているのと同じように、リケさんの立場から見た私と、例えば晶さんの立場から見た私は、たぶん少し違うところがあると思います」
「どうしてそのようなことがわかるんですか」
名前は理解しやすいようなるべくゆっくりと話していく。リケは最後の言葉が気に入らなかったのか、少しムッとした表情を浮かべていた。その様子に名前は微笑ましくなってしまう。面と向かって真正面からぶつかってきてくれる様子が、可愛らしくて応援すらしたくなってくる。
「晶さんと、昨日今日、お話ししたんです。そこで、お互いの気持ちを伝え合い、聞き合いました」
「賢者様と……?」
ムッとした表情とは裏腹にぽかんとするリケに、名前は頷いた。
「例えばリケさんが、私のことを『異世界から来た怪しい人』だと思っているとします。晶さんと同じ世界から来ているけれど、それでも得体が知れなくて、なにをするのかわからないから、用心しておこうと」
リケは静かに聞いている。名前は真剣に聞いてくれている表情を確認し、言葉を続けた。
「これが、晶さんの立場だと見方が変わってきます。晶さんにとっては『自分と同じ世界からやってきた、この世界で唯一の故郷が同じ人間』。同じ文化、似たようなものの考え方や感じ方をする場所からやってきた、いわゆる『話が合いやすい』人間です。……この違いはわかりますか?」
「はい……」
少し不安そうに胸の前で手を組みそうになっているリケに、名前は微笑みだけ返して話を進めた。
「晶さんは話してくれました。突然私が異世界から来たことに、本当は一緒に悲しまなければならないのに、同じ世界から来てくれたことが、しかも同性が来てくれたというのが嬉しいと。似たような見方や感じ方をするからこそ、これから色んな物を一緒に見て、体験していきたいと」
名前は晶と話したことを思い出す。つい数時間前のことなのに、ひどく懐かしく感じてしまう。きっとあの瞬間二人で話したことは、この先名前がこの世界で過ごしていっても、いつまでも永遠に色褪せないで、名前の心の中に残り続けるのだ。
「ここで話は戻ります。私が良い人なのか、それとも悪い人なのかという話です。晶さんからすると、同じ故郷からきた人間というのもあって、私のことは『良い人』に分類されると思います。でもリケさんからすると、私はまだ得体の知れない、もしかしたら魔法使いに嫌なことを言ったりしたりするかもしれない、『良い悪いかの判断も難しい人間』に分類されるのではないかと思います。……このように、見方や立場、物の感じ方、考え方で、良い人か悪い人なのかの判断は、変わります」
「なるほど……」
リケは考え込むように、しかし納得している様子で相づちを打った。ここまで理解できたのならば、話早かった。
苗字名前という人間が悪い人か良い人なのかについては、名前自身に決める決定権は持ち合わせていない。それは相手が判断するべき物ではあり、判断する人によって結果は異なってくる。
「なので、私から、私という人間は良い人か悪い人なのかは、お伝えできません。それはリケさんが私を知っていって決めることだと思うので」
リケが決めるしかない。それは、最初から決まっていた返答だった。人というのは無意識でも他者へ良い人であるとアピールしたい気持ちや、自分は悪い人ではないというのを伝えたがる。しかし、自己評価と他者評価が同じと言うことは限らないのだ。
「……でも、私の思いを言うのだとしたら」
それでも、名前の中にも小さな希望は存在していた。今朝、入浴後に誓ったこと。ネロに背中を押してもらえたこと。まだこの世界に来て二日目だけれど、この先時間をかけてもいい、叶えていきたいことがある。
「もしよければ、私はこの魔法舎にいる人たちと、仲良くなっていきたいです。もちろん、あなたとも」
「っ!」
リケははっとしたような表情を浮かべる。すると見る見るうちに不安そうな表情になり、顎に指先を添えながら呟いた。
「……ミチルが、『あなたが怖い人だったらどうしよう』って。兄であるルチルのことを『守らなきゃ』って言うんです。だから……」
名前はピンときた。なぜリケがこのような集いをすると決めたのか。それは素朴で、友達のために力になりたいという、素直な気持ちが原動力だった。
「ミチルさんの代わりに、私がどういう人間なのか、確かめに来てくれたんですか?」
「……はい」
――優しい子だ。
名前は素直にそう感じた。友達のために行動できる人。きっと、誰かの先頭に立って皆を引っ張っていける人。それほどミチルのことが大切なのだろう。
『あなたは被害者なのですよ』
ふと先ほどシャイロックに言われた言葉を思い出す。見方によっては、今リケに質問をされたことも、自分は巻き込まれたという形での被害者になるのかもしれない。しかし、互いに大切なこと、守りたいものがあって、それに尽力しているだけなのだ。被害者も加害者もなく、本当はもっと違ったところに答えがあって、それを探せないだけなのかもしれない。
「あなたに言われた通り、僕はまだ、あなたのことをまだ何も知りません。知らないのに良いか悪いかは判断が難しいです。だから、その……」
リケは言葉が詰まってしまう。なんと言ったらいいのかわからないような、言葉を探しているような様子に、もしかしたらと希望が湧いてくる。
「あの……」
名前は話しかける。リケと目が合った。もしも同じ気持ちでいるのなら、この希望が当たっているのだとしたら。名前は少しの勇気を振り絞って話を続けた。
「もし、リケさんがよかったらなんですが、今夜、一緒に夕ご飯を食べませんか?」
「えっ……?」
首を傾げるリケに、名前は頬が緩むのを感じた。
「ネロさんが、私がここの人たちと仲良くなった記念に、素敵なお料理を作ってくださるらしいんです。一人で食べるよりも、たくさんの人と食べられたらなって思ったんです。もしよかったら、リケさんも一緒に食べませんか? そこで、リケさんと色んな話をして、お互いのことを知っていけたら嬉しいです」
「ネロが……? 僕も一緒に、いいんですか?」
「はい。ぜひ、一緒に食べられたら嬉しいです」
他者と食べるご飯時の楽しさを、名前は大切にしていきたかった。もしもこの先、食事時に誰かと一緒に過ごせるのだとしたら、誰かと一緒にネロの料理を食べられるのだとしたら、こんなに楽しいことはないだろう。
「……それは、ミチルも誘っても、大丈夫ですか?」
「もちろん! ミチルさんにもぜひご挨拶したいです」
「わ……! ありがとうございます!」
リケはようやく満面の笑みを浮かべた。年相応らしい屈託のない笑みに、名前は心があたたかくなった気がした。
その後、リケは早速ミチルに話に行くと言い、二人でリケの部屋を後にする。風のように去っていくリケの後ろ姿を見えなくなるまで眺めながら、名前は考え込んだ。
――私、偉そうだったよね……。
こうして一人になった途端に始まる、一人反省会。まるで諭すようにお説教するように話す自分の姿は、傍から見たらきっと偉そうだったに違いない。リケが優しかったから追求されなかったものの、これが他の相手であれば不快に思ったかもしれない。
「……気をつけよう」
「何がだい?」
「っ!?」
一人でいたはずなのに、後ろから突然声をかけられて、名前は飛び上がった。急いで振り返ると、そこにはフィガロが立っていた。
「フィ、フィガロさん……!」
「やあ、随分考え込んでたみたいだね。フィガロ先生に気づかないくらいに」
「すみません……」
さらっと言い放つところがフィガロっぽいなと感じながら、名前は謝った。しかし、どうしてここに居るのだろう。確か、南の国に行くのではなかっただろうか。
「あ、今どうしてここに? て思ったでしょう。気づいてないだろうけど、俺の部屋はすぐそこだよ」
「えっ、あっ! 本当だ……!」
フィガロの指さした扉は、リケの部屋からひとつ扉を跨いだ向こう側にあった。昨日フィガロの部屋を訪問したばかりなのに、名前はまったく気づかなかった。
「全然気づきませんでした……」
「そのようだね。どう? 昨日よりは慣れたかい?」
「はい、皆さんお優しくて……」
「それはよかった」
会うたびにフィガロは気に掛けてくれる。医者という立場からかもしれないが、フィガロのそのさりげない優しさが、名前にはありがたかった。
「あの、ありがとうございます」
「ん?」
「今朝、先生たちと晶さんに、私の体調について話してくださって」
「ああ、そのこと」
フィガロはきょとんとした後に合点がいったのか納得した表情を浮かべる。腕を組み、口を開いた。
「先生役の魔法使いたちは薄々勘づいていただろうから、ほとんど賢者様に向けて話しちゃったけど」
「そうなんですね」
「それと、ファウストにも話しておいたから」
それは、フィガロが薬を作るために南の国に行っている間、病状が悪くなったときはファウストを頼るようにということ。ファウストの方も、名前を気に掛けるよう伝えたと言うことだろう。
「……そのこと、なんですけど」
「ん?」
ぽかんとするフィガロに言いにくさが募ってくる。しかし、すでに行動してしまったのだから後戻りはできない。名前は両手をぎゅっと握り、腹を括った。
「私から、ファウストさんにお断りしました」
「へえ、それはどうして?」
フィガロは面白い物を見つけたときのような顔をする。言いにくさは拭いきれなかったが、話し出してしまった手前話題を逸らすこともできず、話を続けた。
「フィガロさんが、もしもの時のためを考えて行動してくださったこと、すごく嬉しかったです。これは本当です。でも、ファウストさんに申し訳ないといいますか、まだ会って自己紹介もまともにしてないのに、そういうことを頼むのは気が引けるといいますか……」
「それで、ファウストを探して言いに行ったって?」
「……はい、すみません」
フィガロは想像がついた様子で、名前の行動まで当ててしまった。申し訳なくて謝ることしかできなかったが、次の瞬間、フィガロは口元を押さえて笑い出した。
「っふ、くくっ……」
「え……」
突然笑い出したフィガロに名前はぽかんとしてしまう。フィガロは笑いを噛み殺した。
「いや、名前ならやると思ったよ。こんなにも綺麗に予想が当たるだなんてね」
「えっ……! 想像がついてたってことですか……!?」
「うん」
予想されていたと言うこと、予想通りの行動をしてしまったということに名前は愕然としてしまう。
フィガロはようやく笑いを抑えると、風が吹いたように爽やかに微笑む。
「君は、自分のことで相手が迷惑を被るのはゴメンだろう?」
「は、はい……」
「ファウスト、どんな顔してた?」
「えっと……サングラスでよく表情は見えませんでしたが……たぶん、驚かれていたかと」
「ふふっ、だよね」
フィガロはまたクスクスと笑い出してしまう。やはり二人は仲が良いのかもしれないと名前がこっそり考えていると、フィガロは笑いを収めた。
「ま、ファウストを断るのは別に構わないよ。その様子だとこの魔法舎で話せる相手は増えたようだし、君に何かあったら先生役の魔法使いも気づくだろうから。ファウストに声をかけておいたのは念の為ってだけだからね」
「そ、うですか……」
何もかもお見通しといった様子だった。これが先生役といわれる所以なのかもしれないと名前は考える。
「あ……」
「ん? どうしたの?」
「あの、これから南の国に行かれる……んですよね?」
「そうだよ。ルチルから聞いた?」
「はい……その、それで、魔法の授業が自習になったと」
「まあ、みんな真面目だからしっかり自習してくれると思うよ」
「その……」
「申し訳ないって思ってる?」
「えっと、はい……」
やはり言いたいことは全てお見通しのようだった。そのおかげか、名前は安心して話を切り出すことができる。
「その、ちゃんと話は聞いていないんですが、ミチルさん? は、授業に熱心な様子で、それが無くなったこと残念がると聞いて……」
「んー、まあミチルならそうだろうね。でも、名前がそれを申し訳がっても仕方がないんじゃない?」
「え?」
「君は俺の患者で、俺は医者だ。つまり、それぞれの役目を果たしているだけ。患者に必要な薬があるのなら、調達して調合して、君に処方する。診療所では自然な流れだ」
フィガロの言葉が名前の中の申し訳なさを拭い去ってくる。自分の立場が改めて形になって目に見えやすい姿となる。
「君のやることはまず、体調の安定。充分な睡眠を取って、なるべくストレスのない生活をすること。そうでしょ?」
「……はい、そうです」
「なら、今言ったこと、フィガロ先生が戻ってくるでちゃんと守っててね」
「頑張ります」
「頑張ると疲れちゃうから、程々にね」
「は、はい……」
体調に充分気を遣うこと。一言で言うならば、名前の課せられた宿題だった。宿題のような伝え方に名前は身の引き締まる思いだったが、それはやめたほうがいいとフィガロから言われてしまう。病気になってからというものの、程々の具合がいまいち良くわからなくなっているため、フィガロに言われたことは難題に近かった。
「なるべく早く戻ろうと思うけど、南だけじゃなくて北にも行こうと思っているから、もしかしたら戻りが遅いかもしれない」
「北……北の国、ですか?」
南の国としか聞いていなかったため名前は少し驚いてしまう。南の国にも行って、北の国にも行くとなると、大移動である。この世界の地図を見たことはなかったが、国の名前だけ耳にしても、それは間違いなく数日かかる旅路だった。
「そ。北にしか生えてない薬草を使おうと思ってね」
「そうなんですね……ありがとうございます。よろしくお願いします」
「…………」
名前が素直にお礼を言うと、フィガロはじっと名前を見下ろしてきた。不思議に思って首を傾げるとフィガロはふと声を漏らした。
「名前のそれは、国民性とかだったりするの? 」
「え? それとは……?」
「その、敬語で話したり、恭しくしたりするところ。ああ、これは単純な興味だから気にしないで」
「国民性……どうですかね……」
「ほら、賢者様も敬語だったりするじゃない?」
改まって聞かれると、頭を悩ませてしまう。確かに晶も敬語で話しているし、他者に対して丁寧な対応をしている印象だ。日本人だからというのはどこかにあるのかもしれないが、それだけでは説明しきれない不明確なものがある気がした。
「私の場合、どちらかというと、職場の人と話してる気分で皆さんとお話してる感じ……でしょうか」
「へえ。ここは職場に似ているの?」
「いえ……まったく似てないんですけど」
この魔法舎は職場とは大違いである。建物の構造だけでなく、ここにいる人数も人の様子も、全てが職場の雰囲気と違う。ここが職場なら働きやすいのだろうかと考えてみたものの、ここで生活している人のことをまだよく知らないため、それも判断ができなかった。
「それに、年上の方が多いと思うので、礼儀として敬語を使うのは当然かと」
詳しい年齢は聞いていない。見た目の年齢だけであったが、たぶん自分より年下の人は少ない。リケやミチル、ルチルやクロエ、カイン、そして図書室で会った二人の男の子は年下だろうけれど、それ以外はきっと年上であるはずだ。皆綺麗な顔立ちをしているから実年齢がわからないが。
「ふうん……俺もそっちの路線でいってみようかな」
「え……?」
「ああ、いや、こっちの話」
フィガロの謎めいた発言が引っかかる。『そっちの路線』なんて言葉、アイドルが売り出し方を変えるときにしか使わないような言葉だ。
「……まあ、そういうことだから。渡したシュガーちゃんと食べてね」
「はい、食べます。ありがとうございます」
話は済んだのか、フィガロは伝え終えると部屋の方に向かって歩いて行く。名前は眺めているのは忍びないと思い、踵を返して歩き出した。
とりあえず忘れないうちにシュガーを食べに行こうと、名前は自室へ向けて足を進める。
昨日よりも幾分か足取りが軽いことに、名前は気づいていなかった。