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 名前はフィガロからの言いつけを守るため、自室に戻ってシュガーを食べる。触り心地も口に入れた食感も金平糖のようで、噛み砕いていると、自然とシュガーは溶けて消えていった。しばらくするとなんだか身体が軽いような、疲れが軽減しているような、頭がすっきりするような感覚になる。
 名前は効果に驚きつつも、もう一粒口に入れてみる。同じように咀嚼して飲み込む。するとやはり、疲労軽減が自然となされたように、身体の調子が良くなった。
「すごい……!」
 これが、魔法の力。魔法使いしか作れないとフィガロは話していたから、おそらく魔法を使って作っているのだろう。手のひらにころんと転がる位の小さな一粒のシュガーが、二つ食べただけでこんなにも疲労回復するような力があるだなんて。
――魔法って、本当に何でもできるんだ。
 シュガーがあるのならば、もしかして薬を新しく用意してもらわなくてもいいのではないか。そんなことを頭の片隅で考えてみたものの、すぐに頭を振ってその考えを消し去った。
 症状は疲労とは異なる物だ。確かに疲労やストレスを強く感じていたりすると症状は悪化するものだが、きっとこれは対症療法でしかないのだろう。そもそも病気に対する薬物療法の考え方は対症療法的なところがあるが、このシュガーはもっと別の、軽い対症療法のようなもの。根本に作用するような効能までは持ち合わせていない。
 それでも、疲れを感じたときにこれを食べれば良いというのは、とても心強かった。不眠気味であまり眠れなかった、寝た気分にならなかったときも、これを食べたらすっきりするのではないだろうか。少しだけ気分が上がるような、未来が明るくなったように思えてくる。
「フィガロさんにまた会ったら、ちゃんとお礼を言おう」
 次にフィガロに会うとしたら、きっと彼が魔法舎に帰って来たときだろう。それが何日後になるのかはわからないが、それまでの間、食べ過ぎないよう調節して、上手にシュガーを活用していきたい。
「ふあ……」
 名前は欠伸をかみしめる。今日は朝から様々な人たちと交流して、少し疲れてしまった。
 シュガーの瓶を机に置き、名前はベッドに座って身体を横たえる。目を瞑ると今日話ができた人々の顔が浮かんでくる。
「晶さん、レノックスさん、ルチルさん、クロエさん、ラスティカさん、カインさん、シャイロックさん、ムルさん、リケさん、フィガロさん……ネロさん」
 一人ずつ名前を挙げていくと、こんなにも多くの人々と話したのかと驚いてしまう。自己紹介をまだできていない、ヒースとシノと呼ばれていた二人の少年と、ミチルにも、いつか挨拶ができたらいいと思う。
「なんか、友達が増えた気分……」
 この魔法舎で、まだ友達と呼べる人は片手で数えるほどである。けれど時間を掛けてそうなれたのなら、仲良くなれたのなら、これ以上に嬉しいことはなかった。
「できるかな……」
『まだこっちに来たばかりだろ? 少しずつでもいいんじゃねえの?』
 昼食時、弱音を吐いてしまったときに話してくれた、ネロの言葉を思い出す。
 そうだ、まだ二日目なのだから。いつ帰れるのかはわからないけれど、それでもすぐに帰れないことだけはわかる。ここで生活していくしかないのだ。少しずつ、無理をしない範囲で、かかわっていければいい。
「……がんばろ」
 名前は目を閉じる。そのまま静かに身体がベッドに沈んでいく。全身の力が抜けて、瞼が重くなっていく。脳裏には、晶たちと過ごした昼間の光景が、鮮やかに映し出されていた。

 名前が次に瞼を開けたとき、すでに窓の向こうは暗くなっていた。〈大いなる厄災〉が迫っているように浮かんでいる空は、二日目になっても慣れずにいた。名前は視界からそれを外す。
――また眠っちゃったのか。
 よろよろと立ち上がり、カーテンを閉める。机に置いてあるスマホを確認すると、すでに夕飯時だった。手櫛で髪を梳かして、鏡を確認する。顔にも髪にも寝癖はついてなくて、ほっと胸をなで下ろした。少し皺になってしまったワイシャツに触れる。
『――仲良し記念に、今夜は美味くて腹一杯になるもん作ってやるよ』
 ネロの言葉を思い出し、名前は片手でそっと胸を押さえる。ネロの言葉は、いつも名前の胸を騒がせる。時間がたった今も少しだけ心臓が暴れてしまう。
「こんなの、変だよ……」
 どうしてネロだけそうなるのか。それはたぶん、ネロが『寂しい』の向こう側の世界を教えてくれたから。寂しくない淡い色にまみれた世界は、とても優しくてあたたかくて、ずっとそこに浸っていたくなってしまう。
 理由がはっきりしたところで、ネロに対して特別な何かを感じていることは、終わりにできることなどできなかった。きっとこの先も、彼は名前にとって特別で、唯一無二の人で、淡い光のような人であり続けるのだ。
「なんか、こういうの、だめな気がする……」
 今更何を話しているのだと、どこかの誰かに言われてしまいそうだ。しかし、自制しないと、もっと先を求めてしまいそうだった。それはきっと、ネロには失礼で申し訳ないことである。
「……しっかりしなきゃ」
 寄りかからないように、淡い世界を見つめすぎないように。喋りすぎて変なことを言わないように。
「いってきます」
 名前は気を取り直して、夕食を摂るべく自室を出た。

 食堂に到着すると、すでに数名魔法使いが食事を取っていた。名前が昼食を食べた席には、すでに晶やルチル、クロエにリケ、カインとミチルが座っていた。
「すみません、お待たせしてしまった」
「いいえ、待つ時間も楽しかったですから!」
「名前がいつ来るかゲームとかもしながら待ってたんだよね! ルチルが正解だった!」
「やりました! 大正解です!」
 晶とクロエ、ルチルが快く受け入れてくれる。名前は他三人にも目を向けた。
「えっと、カインさんも一緒に食べてくださるんですか……?」
「ああ! 俺も名前と仲良くなりたいからな! 迷惑ではなかったか?」
「いいえ、とっても嬉しいです……! ありがとうございます。リケさんも、ありがとうございます」
「今夜のネロのごはんも楽しみです。ね、ミチル」
 リケの言葉に、ミチルは一瞬肩を揺らした。ルチルたちがミチルを見守る中、名前はミチルの言葉を待つことにする。
「初めまして。南の国の魔法使いの、ミチルといいます……」
 恥ずかしそうにぼそぼそと話すミチルに、名前は自然と頬を緩ませた。
「初めまして、名前といいます」
「あの、ボク……」
 ミチルは言葉を言い淀む。名前はリケの話を思い出していた。自分たちに名前の存在が害ではないのかを、ミチルは考えていたのだ。それは、立派な防衛の術である。
「ミチルさんにご挨拶できて嬉しいです。よろしくお願いします」
 名前はお辞儀をした。挨拶ができて嬉しいことも事実だし、こうして食事の場に、リケに誘われてきてくれたことも嬉しかった。
「よろしくお願いします……」
 ミチルはまだ不安そうだったが、挨拶を返してくれる。名前は微笑んだ。周囲の人々も嬉しそうに頬を緩めている。ルチルがミチルを褒めている言葉を聞いていると、ネロが食事を運んできた。
「お待ちどおさん。お、皆揃ったみたいだな」
「沢山ですね! すごい!」
「どれも美味しそう!」
 晶とリケが真っ先に料理に反応する。ネロは笑いながら料理を並べていった。
「パエリア、ロリトデポロ、チーズフォンデュ、デザートにスイートポテト……! ご馳走ですね!」
 名前はルチルの視線を追いながら、料理の名前を聞いた。見たことのある料理からない料理まで、様々だった。
 パエリアは大きなエビや貝など様々な海鮮が乗っていて、とても華やかだった。ロリトデポロと呼ばれていた料理は、中心に野菜があり、周りを肉でぐるっと海苔巻きのように巻いてある料理だった。チーズフォンデュは大きな鍋の中にたっぷりとチーズが入っており、チーズをつけれるものはサイコロ状の肉、カボチャやソーセージ、トマトなどが木でできたトレーに並べられている。スイートポテトはケーキ屋で売られているような、モンブランのようにクリームがらせん状に乗っているものだった。
「すごい……! こんなに豪華な料理初めてです……!」
「食べれる分だけ取って食べなよ」
「っ……!」
――もしかして、食べる量に配慮してくれた?
 名前が少食であることについて、この場にいる者で知らない者も多い。クロエとルチルは特に明言していなかったため、あまり気にならないのかもしれないが、大勢で一斉に食事をすると、一人だけ小さな皿で料理を出されれば、嫌でも目立ってしまう。
「ありがとうございます、いただきます……!」
 名前はネロにお礼を言って両手を合わせる。挨拶をしてから、まずパエリアを小皿に移し、口に入れた。味はもちろんわからなかったが、海鮮や香ばしい香りは口いっぱいに広がっていく。
 パエリアを食べたのは確か一度しかなかったと記憶を遡る。味を思い出して味わうこともできなかったが、晶たちの「美味しい」という言葉で、胸が満たされていく。
 ネロが静かに厨房に戻っていく背中を眺めながら、名前はロリトデポロを一つ自分の皿に取って、口に運んだ。
「名前さんはどれか食べたことの無いものってありますか?」
「ん……えっと、パエリアとスイートポテト以外、ですかね……」
「まあ! そのロリトデポロはとても美味しいですよ、南の国の料理なんです! 今日は食べ放題ですね!」
「沢山食べよ! 俺、チーズフォンデュ久々に食べるかも!」
「はい……!」
 晶の質問に答えると、ルチルとクロエが花のように笑う。名前はつられて大きく頷いた。
「このパエリア、めちゃくちゃ美味いな!」
「はい! カインはいつ、名前と会ったんですか?」
「ん? 今日廊下でぶつかってな。そこで少し話をしたんだ。そういうリケは?」
「僕も今日お話しました。自分の部屋に招いたんです」
「おお? 随分と仲良くなってるじゃないか! 俺も負けてられないな!」
 名前の隣の席で、カインとリケが向かい合いながら食べつつ話をしている。
――眩しい。
 カインと並ぶと、リケの真っ直ぐな言葉も眩しく感じてしまう。そうだ、二人は確か、中央の国の魔法使いだった。
――もしかして中央の国の魔法使いは、みんな眩しい感じなの……?
「お二人は中央の国の魔法使い……なんですよね?」
「はい」
「ああ、そうだ! 中央の魔法使いはあと二人いるんだ」
 リケとカインは快く質問に答えてくれる。どうやら中央の国の魔法使いは全員で四人いるようだった。
「オズと、アーサー様です」
「オズさんと、アーサー、様?」
「オズは中央の国の魔法使いの先生役でもある。魔力も強くて、強い魔法が使えるんだ」
「でも、話すのが遅いです」
「なるほど……?」
 先生役ということは、昨日談話室での話し合いにいただろうか。いいや、あの場にいたのは極わずかだった。もしかしたらまだ話したことのない人かもしれない。
「アーサーも公務が忙しくなければ、今夜来れたかもしれないんだがな……」
「公務?」
「ああ。アーサーはグランヴェル城の王子なんだ」
「えっ」
 城の話はカナリアから聞いていたが、賢者の魔法使いの中に王子様がいるとは想像していなかった。いや、昨日カナリアがそのような話をしてくれた気がする。王子まで賢者の魔法使いに選ばれるということは、無作為に選ばれているのだろうか。
「アーサー様はお城とこの魔法舎を行き来しているんです」
「大変ですね……」
「機会があれば、名前もアーサーに会えるさ! その時は紹介するよ」
「ありがとうございます」
 王子と聞いて、名前は昨日のことを思い出す。召喚されたロビーで、王子っぽい格好と雰囲気の少年がいた気がする。さらさらの銀髪で、青いマントのようなものを肩に掛けている男の子だ。もしかしたら、彼がアーサーなのかもしれない。
「ミチル、ちゃんと食べてる? これも美味しいよ!」
「た、食べてます! もう、子どもじゃないんだから、自分で分けられますよ!」
「そう? 兄様ついやっちゃうんだ、ごめんね」
「えっ、兄様……?」
 名前はルチルとミチルの会話に耳を傾けていると、兄様という言葉に手を止める。もしかしてと、じっと二人の顔を見比べる。確かに、どことなく顔の造りや雰囲気が似ていた。
「お二人は、兄弟なのですか?」
「はい! ミチルは弟です」
「南の国のフローレス兄弟はちょっと有名なんですよ」
「えっ、有名人……?」
 ミチルは少し自慢げに話をする。まだ目は合わせてくれなかったが、それでも話をしてくれたことは少しだけ距離が縮まったように感じた。
「ボクたちは、大魔女チレッタの息子なんです!」
 胸を張るミチルはとても誇らしげだった。大魔女という言葉からして、とても有名な方なのかと考えていると、ルチルが補足をしてくれた。
「母様は、魔女のなかでもとても強かったみたいなんです。父様は人間なんですけど、二人は愛し合って結婚したんですよ」
「なるほど……素敵ですね」
 魔法使いでも、人間と永遠を誓い合う人はいるのか。同じように、人間も魔法使いに恋をする。両者の間には溝があると聞いていたから、もしかしたら非常に珍しいのかもしれない。
「それでは、ルチルさんとミチルさんは、人間と魔法使いどちらの良いところも知っているんですね」
 同じように、きっと言いにくいような側面も知っているはずだ。名前は昼間のルチルの言葉を思い出す。
『お互いの良いところを認め合って、共存していく……まるで、南の国の魔法使いと人みたい』
 ルチルとミチルの父母は、きっとそれが出来ていたのだろう。だから愛し合って、二人が生まれた。
 なんだが壮大なドキュメンタリーを視聴してしまったかのように、心が揺さぶられる。
「そう言ってもらえて、嬉しいです。ね、ミチル」
「……はい」
 ミチルは恥ずかしそうに顔を背けた。まだミチルと二人で話すのは難しそうだったが、少しずつ緊張や不安がほぐれて会話ができるようになれると良いと、名前は感じた。

 楽しい時間はあっという間のような、しかしゆったりと流れていき、夕食会は皆が満腹になった頃に自然とお開きになった。
 名前は食べるよりも沢山話をしたように振り返る。食べ物の話や皆の好きなものの話、元いた世界の話など、沢山の話題が飛び交い、晶たちのおかげで、名前は話の中心にいることが多かった。普段なら複数人と話しているといつも聞き役に徹してしまう癖があったが、彼らは名前が話をしやすいように言葉を投げかけてくれて、話す機会を作ってくれた。もしかしたらそれは意図しているものではなく、ごく自然にやり遂げていたのかもしれないが、その自然な優しさで、名前はまたお腹いっぱいになっていた。
 沢山用意された料理は全員で綺麗に平らげた。名前はこの世界にやってきて、一番多く量を食べた自覚があった。味はわからないけれど、きっと美味しい料理を、叶うことならいつもより沢山食べたい気持ちが勝ってしまった。
――楽しかったな……お腹もいっぱいになった。
 こんなに楽しくていいのだろうか。元の世界にいた時の生活よりも、充実している気がする。人と繋がることに、勇気がいるために敬遠していた時もあったのに、ここでは勇気を出したくなって、繋がりを求めても良いのかと考えてしまう。
 もしかしたら相手を不快にさせるかもしれない、迷惑をかけてしまうかもしれない。それでも、一緒にいてくれる人がいるから、友人になりたいと言ってくれた人がいたから。その言葉と想いが、名前を人の輪に迎え入れてくれる。人との繋がりを保ち続けてくれた。
 後ろ向きに考えてしまう思考の問題すら忘れてしまうほど、名前は彼らと楽しい時間を過ごせてしまったことに、食事が終わって解散の流れとなった今、気づいてしまった。
――なんだが、『健康な人』みたいな一日を送っちゃった。
 他者と関わって、対話をして、自分が決めたことを成し遂げて、食事を楽しむ。病気になるまで当たり前にできていたこと、病気になってから実行するのも時に難しかったことを、今日成し遂げてしまった。
――今なら、言えるかな。
 名前は残っていた皿を重ねていく。食後にネロがわざわざやって来て、「まとめて後で運ぶから。お子ちゃまは早く風呂入れよ」と言いに来たのだ。彼らはネロの言う通りにするようで、晶も残りの書類があるからと食堂を出て行った。
 ネロと話せるタイミングは、食後しか無かった。夕食時は忙しくしているようで、朝食時のようにしばらくテーブルの近くにネロがいることはなかった。むしろ、朝食時の方が珍しかったのかもしれない。二十数名の食事を預かるのだから、忙しいのは当然だ。
 後片付けの、一瞬だけ。話しかけるチャンスがほしい。
 名前は、ネロが片付けると言っていた食器の中で、持っていけそうなものを選別し、重ねて持ち上げた。落とさないよう、音が立たないよう慎重に運ぶ。厨房が近づいてくると、次第に心臓は大きな音を立て始める。
 厨房の扉に差し掛かったところで、名前は一旦足を止めた。
「あの……ネロさん」
「なんだ。皿は置いてくれてて良かったのに」
 後片付けを進めながらネロは返事をした。名前は緊張しながら皿を洗い場に運ぶ。足がすくみそうになって、ガチャリと音を立ててしまう。小さく謝りながら、シンクに皿を置いた。
「あの、今日は、ありがとうございました。夕ご飯、綺麗で、楽しくて、みんなと少しずつだけれど、距離が縮まったような気がして……嬉しかったです」
「……そっか。そう言ってもらえて良かったよ」
 ネロが手を止めて振り返る。表情はどこまでも柔らかくて、綺麗な色の瞳に頬が熱くなりそうになる。
――もっと、ちゃんと伝えたい。
 一言で終わりそうにない言葉で。あれだけの料理を準備してくれて、それと同等くらいの言葉と感謝を伝えたい。そうでなければ、割に合わない。
 名前は何を伝えようか深く考えていなかったが、今だけは勢いに乗せて口を開いた。
「シャイロックさんに言われたんです」
「……ん?」
「無理して感想を言わなくてもいいって」
「…………」
「それで、気づいたんです。無理してたつもりはなかったんですけど、もしかしたら無意識のうちにそう感じてやってしまっていたのかもって」
 バーでシャイロックに伝えられた言葉。名前からしてみたら目から鱗が落ちるようだったが、シャイロックの作ったノンアルコールカクテルが喉に染み渡るように、その言葉も名前の心に染み渡っていった。しかし――。
「でも、ネロさんには、伝えたいって心から思うんです。お料理の感想を。……ご迷惑かもしれないんですけど」
 どれほどこちらが伝えたいと思っていても、言葉を受け取る側のネロが拒むのならば、それはしたくなかった。コミュニケーションの難しいところである。キャッチボールが基本のコミュニケーションにおいて、ボールを投げたいから投げ続けるというのはタブーだった。 
「ネロさんが手間隙かけて、熱心に作ってくださった料理を、何も言わずに食べるのだけは嫌で、でも味は分からないから、せめて違う形で伝えられたらなって思って……」
 名前はスラックスを掴み、視線を下げる。どこかに掴まっていないと立っていられなさそうだった。
「こんなこと、毎回やってて、ご迷惑かもしれ――」
「――迷惑なんかじゃないよ」
 名前の言葉をネロが遮った。名前は弾かれたように顔を上げる。強くて、低い声で、芯の通った音だった。
「迷惑じゃない」
 ネロは繰り返した。ネロと視線が絡み合う。ネロの幸福色の双眸が熱くて、名前は身体の奥からその熱さで逆上せてしまいそうになる。
 ずっとネロの瞳を見つめていると、自分が自分でなくなってしまうような、あの〈大いなる厄災〉を見つめているときと同じような感覚になりそうで、名前は慌てて息を吸った。
「ほんとう、ですか……?」
 スラックスを掴んでいる指先が震える。声が震えそうになるのは耐えた。心臓がドキドキと高鳴っている。顔が熱くなっている気がした。
「ああ……」
 何か言いたそうに言葉を切ったネロは、視線を惑わせてしばらくすると、再び口を開く。
「いつか……あんたが味覚戻ったら」
「え……」
 ぼそりと呟かれた言葉を、名前は聞き取った。
――いつか、味覚が戻ったら。
 名前は心の中でネロの言葉を復唱する。確かにネロは、名前のことを話した。
「……今日、ずっと、そんなこと考えてた」
「っ……!」
――うそ。
 心臓がぎゅっと掴まれたような痛みを感じる。苦しくて、でも苦しみの中心には嬉しさがあって、胸が弾けてしまいそうになる。
――私のことを、考えてくれていた? 本当に?
 この大所帯の魔法舎で、魔法が使えて料理人でもあって、他者に優しくあれる人が、自分のことを考えていてくれた。
 名前の視界には、ネロしかいなかった。ネロしか目に映らなかった。視界に広がる、ネロをまとう淡い色合いが、淡い色を保ったまま色濃くなっていく。泣いてしまいそうなほどどこまでも優しい色が、ネロだけでなく名前を包んでいく。色にぬくもりはないのに、あたたかさをまとって名前に触れている。ネロの優しさが色となって、名前の胸に空いていた穴を埋めて、穴から溢れ出してきた。
――どうしよう、嬉しい……!
 名前は気持ちの行き場をなくしてしまい、とうとう両手で顔を覆った。表情が緩んでしまいそうで、涙が出そうで歪んでしまいそうで、きっと変な顔をしてしまっているはずだ。この感情を、どうしたらいいのかわからなかった。
「あっ、悪ぃ……! き、気持ち悪かった、よな……?」
 少し慌てるような声音が、それでもあたたかく感じた。きっと首の裏に触れているのだろうな。まだ出会って二日目であるのに、そんな想像が容易にできてしまう。
 この人は、近すぎず遠すぎず、声が届く距離でずっと見守ってくれている。
「――……ありがとう、ございます」
 くぐもってしまった声は、届いただろうか。少し涙ぐんでいて、言葉は変な音を奏でてしまう。
 何度感謝しても、新しい感謝の気持ちが湧いてきて、一度伝えてももっと伝えたくて、それでも感謝の気持ちを伝える言葉は一つしかなくて。もどかしい気持ちに左右されながらも、名前は毎回同じ言葉でしかネロに感謝を伝えられなかった。もっと、違う言葉で、違う表現を使って、どれほど自分が救われているのかを伝えたいのに。もしかしたらそれも少し煩わしいとか、気まずいとか思われてしまうけれど、伝えないよりかはずっといい。
「ありがとうございます……!」
 名前はもう一度お礼を繰り返した。今の自分では、それしか伝えられなかった。両手を未だに外せないまま、名前は唇を噛みしめる。そうしていないと涙が零れてしまいそうだった。ここで泣くわけにはいかない。泣いてしまったら、多分その後もしばらく涙を流し続けてしまう。そう確信していた。
「……まあ、ここには色んなヤツらがいて、色んなことが起こるけどさ」
 ネロの声に、名前は息が止まりそうになる。ネロから話しかけてくれるだなんて、思ってもみなかった。
「俺で良ければ、話、聞けるから……」
「っ……」
 名前はそっと両手を顔から外す。涙が零れないようにしながら見上げたネロは、少しだけ恥ずかしそうに視線を落としていた。
――話しかけても、いいの? 話してもいいの?
 それはつまり、言葉を言い換えれば『頼ってもいい』ということだった。
――いいの? 本当に? 負担では、面倒ではないの?
 頼られるということは、寄りかかられるということで、つまり相手から期待されてしまうことである。そんなこと、優しい彼はきっと重荷に感じてしまう行為であるというのに。
「っ、わたし……」
 名前は両手を組む。不安げに胸の前まで腕を上げて、まるで祈りのポーズをしながら恐る恐る口を開いた。
「面白いお話とか、できないですよ……?」
「っ! ふ、くくっ……そう返してくるか」
 ネロは笑いをかみ殺す。笑わないようにしようとしていても、唇からは笑いが漏れていた。
「え、あ、だって、あの、本当、つまらない人間なので……!」
 名前は慌てて言葉を返す。ネロと会話をして、有意義な時間を与えられる自信がなかった。
 ネロは笑いを抑えると、両手をポケットに突っ込んで、少し首を傾げて微笑んだ。
「あんたが見る、この世界が気になった……って言ったら、困る?」
「っ! え……」
「まあ、賢者さんも異世界から来て色々な見方や感じ方をするけどさ……」
 名前が衝撃で言葉を失っていると、ネロは一度視線を落として話を続ける。しかし、一度言葉を切ると顔を上げて、名前を見つめ返した。
「名前が見て、感じたものを、教えてよ」
 ネロは綺麗に微笑んだ。
 薄黄色、薄いピンク色、空色、薄橙色に、薄黄緑色。そういった淡い色たちが、波のようにあたたかい風となって名前に吹き付けてくる。やさしくて、あたたかくて、名前の胸にぽっかりと空いた穴は塞がったままで、寂しい気持ちなどどこにもない。
 名前は魔法の世界にやって来て二日目にして、特別な体験をした。
 『ひとり』じゃない。その感覚を、ネロは与えてくれたのだった。